9月, 2022年

年間8万人の「失踪者」が“いる”という現実

2022-09-06
2歳の保育園児の場合であれば、行方不明になれば大勢の人たちが協力して捜してくれる。その結果かどうかわからないが氷見市の沖合で発見された遺体が“不明児童”であったことがDNAから判明した。自宅周辺の用水路から落ちて流された可能性が強い、というのが警察の観方であるらしい。ただ私は遺体が「洋服を身に着けていなかった」と言われている点が気に掛かる。流されていくうち、洋服も剝ぎ取られる形となったのか。それとも、最初から夏で蒸し暑くハダカ同然の姿だったのか。この事件のように「幼い子供」の場合は警察とかマスコミも一緒に捜してくれる。けれども、十代半ば以降の年齢に達している場合は、警察も親戚も近隣の方々も、もちろんマスコミも一緒になって捜してはくれない。その“捜してくれない”行方不明の人たちが日本では年間8万人も居るらしい。そして、そのことをヒントとして出来上がったのが「千夜、一夜」という10月7日公開の映画なのだった。昨日、そのプレミアム上映会と舞台挨拶が監督や出演者によって都内で行われた。ドキュメンタリー出身の久保田直監督が、失踪した夫を30年間も待ち続ける女性などを中心として物語を描いた。私はそれをネット記事として読んだのだが、その記事に対するネット上の反応には、何故か実際に“愛する人”をいろいろな形で失った人たちのコメントであふれていた。しかも、それらの人たちは共通して“その時点”で時は止まっていて、再び歩み始めようとはしていない。或る意味では“後ろ向きのまま”過去を引き摺って生きている哀切の情であふれていた。人間はだれしも、予期しない形で“愛する人”を失うと茫然自失となる。ましてや理由もわからない状態で突然“愛する人”が失踪してしまったなら、動揺するのは当然である。わたしも“長い実占生活”の中で、何回か“失踪者の発見予想”を依頼されたことがある。占いは「透視」ではないので、明確な場所を突き止めるのは難しいが、或る程度の目安があれば、それらの中から特定していくことは出来る。ただ現在は“プライバシー保護”の観点から、あまり突っ込んだ形で捜索することは出来ない。結局、警察も特別な事件に巻き込まれていない限り、本格的な捜査をしてくれない。住所不定となった8万人は、いったいその後どうやって暮らしているのだろうか。

高度成長期の“あだ花”「パチンコ」が消える⁉

2022-09-05
あまり大きなニュースとして騒がれていないが次々とパチンコホールが閉店している。一時期、異常に騒がれた「パチンコ依存症」についても騒がれなくなった。依存症は、たくさんの人たちが“それ”に群がるから発生するのだが、いつの間にか閑散としていって、その“勢い”や“人気”が無くなってしまうと、もはや依存する人達すらも居なくなる。どうして居なくなるのかというと“パチンコ依存症”の場合、パチンコで“大勝ちしている人”を見掛けるから、自分にも「そのチャンスがある」と思って通うのだ。もし誰も“勝っていない”ように視えてしまったら、チャンスそのものが“失われてしまった”のだから、自然と足が遠のく。つまり、実際には「依存症とまでは言えない軽度の依存症」の人たちがたくさん通っていたパチンコ店は、いったんパチンコ人気が低迷し始めると、もはや多くの人が通わなくなる。これは、どのようなギャンブルでもそうで、ブームの時にはたくさんの“勝利者”がいるので、自分にもそのチャンスが廻って来るよう錯覚するのだ。日本の高度成長期には多数のパチンコ店が出現した。それと同時に多数の“新鮮な機種”も登場した。単に“勝利する”だけの機種から、面白さを伴って勝利する機種に変化した。それがファン層を広げたのだ。確かに、数時間を愉しんで何万円にもなれば、これほど“良い趣味はない”ということになる。ところが、それに“引き摺られる”形で依存症の人たちが増え、社会問題化した。その後、どんどん業界に“規制がかかる”ようになっていった。つまり“勝利の出玉数”が抑えられることで、簡単には勝てなくなった。その一方でゲーム機としての機能を加え過ぎたことで、パチンコが難しくなり、頭を休めながら“勝利する”という愉しみまで失われた。“準依存症”の人々が離れたのは当然だった。8月31日をもって東京上野の老舗パチンコホールが2店舗同時に閉店した。それによって昔「パチンコの聖地」と呼ばれ、30件以上あったパチンコ屋は3軒を残すのみとなった。つまり“十分の一”に減ってしまったのだ。日本の高度成長期を支えた“ネオン華やかな世界”だったパチンコホールは、カジノに入れ替わることさえも出来ずに脆くも崩れ去ったのだ。

警察官24人が「警察寮」で“賭博”をしていた

2022-09-04
おそらくどこからの指摘があって、しぶしぶ公表に至った、というのが真相なのだろう。千葉県警が昨年の9月~10月にかけて20歳~24歳の男性巡査24名が、警察寮内において参加者たちが現金を賭けて“大富豪”“ブラックジャック”といった賭博ゲームを行っていたことを認めた。警察寮内であっても何らかの“息抜き”は必要である。だからトランプカードを使ってワイワイ騒ぐこと自体は悪いことではない。けれども、若いとはいえ「警察官たち」である。当然のことながら“法律を守らせる側”の人々である。現金賭博が日本で許されていないことぐらい誰でも知っている。警察官なら余計知っている。それなのに、だれも止めなかった。24人も加わっていたのだ。そこに問題がある。もし、これが例えば外国人労働者の多い自動車組み立ての社員寮で行われていた……というのなら、まだ話として“致し方ない”といえる部分がある。けれども、毎日、法律的な部分で一般人を“取り締まっている側”なのだ。情状酌量の余地がない。一つの“救い”は、まだみんな若くて“焼き直し”が利く年齢であることだ。もし、ほんとうに“賭博”が好きなら公営ギャンブルをするか、警察官は向いていないと辞めるしかない。主犯格の6人だけが減給処分となったようだが、仲間内だからか“やや甘い”感じがしないでもない。そういえば私も昔会社員時代に“野球賭博”をやっていた。“野球賭博”といってもささやかなもので、社員たち20数名ほどが参加して“高校野球の優勝チーム”を予想するという形での賭け事だった。そうすると甲子園で野球が行われている期間、ドキドキしながら野球を楽しむことが出来る。私は昔から比較的“賭け”には強いので、何回か勝つことが出来た。勝つといっても“数千円”くらいだったような気がする。それでもみんなにコーラをおごってあげることが出来て大いに満足だった。会社員時代でもっとも記憶に残っていることの一つだが、そういう意味では今回の警察官たちも数十年経ったとき“懐かしい記憶”として刻まれることがあるのだろうか。それとも“苦々しい記憶”として残るのであろうか。

清張作品の「翳りある成功者」に最適だった

2022-09-03
俗にいう「成功者」には“過去の翳り”を持たない成功者と、そのどこかに“過去の翳り”を漂わせた成功者とがいる。作家・松本清張氏の作品が多くの人に愛されたのは“過去の翳り”を持つ成功者を描いたからである。単なる推理小説ではなく“人間の歪み”を犯罪者の性質に投影していたからである。ただ“そういうもの”というのは文字で表現するのは割合簡単なのだが、ドラマや映画として“映像として表現する”のは、それほど簡単ではない。映像の中では、俳優の“無言の演技”というものが要求されるからだ。そういった場面が多い「松本清張作品」の主演として、もっとも多く出演していたよう記憶しているのが古谷一行氏であった。その古谷一行氏が亡くなった。2011年に肺がんとなり、それ以降は入退院を繰り返すことが多かったらしい。それでも今回の入院は、特に“どこが”というのではなく、みずから志願し入院して、すぐに亡くなった。ハッキリとした原因は不明のようである。古谷一行氏は、俳優としては特別“目立った特徴”があるわけではない。その顔貌も体形も、いってみれば標準に近い。だからこそ「清張作品」にはうってつけだった。清張作品は、そのほとんどの作品において登場するのは“普通の人々”である。だから外貌的に“普通の外貌”を持っている人物でなければならないのだ。その一方で作品中に登場する人物の多くには“翳りある過去”がある。必ずしも“犯罪”とは限らないが、公けにしてはならないような“過去”や“履歴”がある。それを十字架として背負いながら“生きている人物”が多いのだ。そういう人物を映像の中で、しかも無言の表情とか挙動とかによって表現する。これは、ただ単に演技が上手ければ出来るというものではない。その俳優自身の中に“何らかの過去や問題”が存在していなければ表われがたいものなのだ。「古谷一行」という俳優の過去や背後に何があったのか、私は知らない。けれども、ただ単に役者として演じている以上の何かを、その横顔や背中は感じさせていた。もういちど無言で語る「清張作品」としての古谷一行が観たい。

私の予告通り「1ドル→140円時代」やって来た

2022-09-02
昨日、為替レートで1ドルが140円を超えた。私が何か月も前から予告していた通りの展開だ。むしろ、少し遅かったくらいなのだ。一時期、130円台で膠着していた“ドル円相場”だが、ここに来てにわかに動き始めた。おそらく、再びマスコミは“悪い円安”と騒ぐことだろう。確かに急激な“円安の進行”は良くない。けれども、じわじわと動くのであれば“円安”は「日本」にとってプラスに働く。なぜなら外国人観光客を“大幅に受け入れる”態勢を整えた矢先の“円安”は「インバウンド需要」を呼び起こすことは間違いがないからだ。外国人頼みだった観光業、ホテル産業、飲食業にとっては、コロナの終息など待っていられない、というのが本音ではないだろうか。「日本」が外国人を“受け入れる態勢”へと切り替えることで、彼らには久しぶりの活況が戻って来るのだ。彼らだけではない。実は“円安の進行”は、単なる観光だけではなく、バイヤーとしての“海外の富裕層”から観ると、さまざまな“日本の商品・製品・不動産”が「超お買い得品」に視えるのだ。円の価値が下がったことで、あらゆる日本国内の“高額商品”が超安値で売られていると感じることだろう。だから、実際のバイヤー(ハゲタカ軍団とでも呼ぼうか)にとっても魅力的な商品は山ほどある、ということになる。商業ビルや観光型ホテルや住宅・マンションの不動産も例外ではない。また日本には海外へと輸出する“製造業”と呼ばれる業種の企業が山ほどある。これらの企業にとって、円安の進行は“打ち出の小槌”なのだ。もちろん各種食料品などの原材料が値上げラッシュとなっている。これから季節は「冬」に向かうが、そうすると当然ガソリン価格や灯油価格の上昇が徐々に庶民の暮らしを圧迫してくる。それでも輸出企業の多い「日本」にとっては収益面でプラスが多い。国内産業にしても大量に外国人がやってくれば、自然と経済・流通は活発となってプラスへと転じていく。もちろん“コロナの終息”も大事なのだが、先の見通しが利かない状態では、いつまでも「鎖国状態」を続けていても仕方がないのだ。いまや世界各国が“自国の観光”に力を注いでいる。「超円安」というだけで、外国人には「超おいしいものがたくさん食べられ、高価なお土産が安く変える国」として魅力的に映る。われわれが海外に行く場合でもそうだが、通貨の安い国は“買い物天国”になる。黙っていても“観光をしない観光客”がやって来るのだ。

2022年9月の運勢

2022-09-01

スイスは15%、日本は3.5%、インドは0.1%⁉

2022-09-01
ときどき「世界的な統計」というものが公表される。そういうものを見て「日本」や「日本人」について“改めて考えさせられる”ことが多い。今回は「ミリオネア=大金持ち」に関する調査だ。その調査によると“国別のミリオネア”では、アメリカが39%、中国が9%、日本が7%、ドイツが5%、英国とフランスが4%……と続いている。なんと三番目に「日本」が入っている。世界中の“大金持ち”のうち、数として三番目に“多くの大金持ち”が存在しているのが我が日本なのだ。数で言うと366万人もの“大金持ち”がいるのだ。ちょっと信じがたいくらいの多さである。それでは、その“大金持ち”とは、具体的にどの程度の金額の所有者を指すのかといえば、100万米ドル以上の金融資産の持ち主を指すらしい。日本円にすると現在なら1億4000万円以上の所有者だ。なに⁉ あなたは「持っている」って、わけがないだろうって……ナルホド。近年「日本」は“お金”に関しては、あまり景気の良い話を聴いたことがない。日本の平均年収だって、400万円台で下がり続けている。それなのに、あら不思議や不思議、ミリオネアは微妙に増え続けているのだ。つまり、大金持ちは増え続けているのに、世間は“そちらの方”には目を向けないから、何となく「日本」全体が“貧しくなっている”印象を受ける。一つには日本人の“大金持ち”には奥ゆかしい人が多くて「オレは金持ってるんだぜ‼」なんて自慢をしない人が多いのだ。もう一つ、実数として366万人というと“ものすごく多い人数”のように感じるが、日本人全体の人数として比率化すると3.5%の人々ということになる。この“3.5%”という比率は、世界的にみると決して多い数字ではない。もっとも人口比で多いのは「スイス」で何んと比率にして15%の人々がミリオネアなのだ。つまり、人が10人集まれば、必ずその中に1人か2人は“大金持ち”だということになる。スイスに続くのはオーストラリア、アメリカ、香港、オランダ……といった国々だ。中国は人口が多いので、人数的には多いが、比率としては日本よりもはるかに低く、0.5%の比率でしかない。もっと低いのはロシアで0.2%、さらにインドでは0.1%の比率となっている。このような点から考えると、まだまだ日本も捨てたものではなく「お金持ちの多い国だった」ということになる。 Newer Entries »