9月, 2022年

日本の「夜」を中華系ファンドが「狙い撃ち」

2022-09-18
「日本」を代表する“飲食店街”と言えば「新宿」「六本木」「銀座」の名が挙げる。いま、その新宿・六本木・銀座の飲食店ビルが、秘かに狙われている。誰が狙っているのかといえば、中華系ファンドだ。中国本土のファンドだけでなく、香港のファンドや、台湾のファンドまで、中華系の人々がまるで“示し合わせ”でもしたかのように、日本の代表的な飲食店ビル街を狙っている。要するに“買い漁っている”のだ。これには二つの要因がある。その一つは“コロナ禍”であり、もう一つは“円安”である。この二つが組み合わさったことで、中華系のマネーである「元」から観ると、日本の不動産、中でも“繁華街にある飲食店ビル”は「超バーゲンセール状態」にある。われわれは何となく「コロナはもう終わったのではないか」と考えがちである。けれども日本を代表するような飲食店街においてはそうではない。未だに客足は戻っていないのだ。どうして戻っていないのかといえば、外国人客がその売り上げの何割かを占めていたビルが多いのだ。だから一般の観光客としての外国人客が戻らなければ、本来の売り上げに達しない。そこでどうしてもビル自体の経営も徐々に傾く。そうビル自体の経営はあくまでも徐々に傾いていく。だから“売り出されるビル”“オーナーチェンジのビル”も徐々に増えていく。一気にではないのだ。だから目立ちにくいのだが、徐々にその所有者も変わっていく。いまから15年ほど前に“ハゲタカファンド”と呼ばれる集団が、日本を襲ったことがあった。あの時は“欧米のファンド”だった。今回は欧米ではなく、あくまでも“中華系ファンド”だ。どうしてかというと、いま欧米は自国のことで精一杯で、アジアに目を向ける余裕がない。ところが、これまで徐々に力を蓄えてきた“中華系ファンド”の眼から見れば、窮地に立つ日本の繁華街の飲食店ビルが“宝物”のように視える。なぜなら「円安」が進む日本には必ず近いうちに外国人観光客が戻ってくる。これまでよりも、もっと訪日客が増えていく可能性もある。そうすれば日本の代表的飲食店街に客が戻らないわけがない。日本の商業ビルは、欧米と違って居住者ではなくても税金が日本人所有者と同率である。これも魅力なのだ。昨年に比べて「元」から観る「円」は2割くらい下がっているので、ファンド側から観れば“超お買い得セールが継続中”なのだ。もう少し下がるのではないか、と期待する“買い手”も多い。そのうち、気が付いたら日本を代表する「夜の飲食店街」のビルオーナーは中華系ファンドで占められている、などとなりそうで何となく不安なのだが……。

風水から観た「最良の仏壇」って、どんなの⁉

2022-09-17
日本には相当数の自称「風水師」がいるが、仏壇というものについて何故か沈黙してしまう人達が多い。風水的な観点から言って“どういう仏壇”が良いのか、或いは“どういう神棚”が良いのか、少しく考えてみたい。実は英国の「国葬」を観ていて、あまりにも“古色蒼然”としたやり方を継承していることに、いささか“違和感”を憶えた。もう少し“現代的な部分”を加えても良いような気がしたからだ。物事はすべて“時代とともに”ある。葬式とか仏壇とかだけ、時代とかけ離れていて良いわけがない。仏事とか神事とか呼ばれるものは、どうしても“そのまま継承していく形”が正しいかのよう錯覚しがちである。けれども、あらゆるものが時代とともに“大きく変化している”現代、そういうものだけが“時を止めている”ことが本当に正しいのだろうか。私は現代においては“仏壇”と“神棚”とは、仲良く共存させるべきだと思っている。大昔の“神代の時代”に「国」を作ったのが“神々”、そして、その神代の時代まで遡ることも可能かもしれないのが「血族」で、つまり“先祖”とは“自分に繋がる血”を持つ人々だ。そうだとすれば仏壇と神棚とを“同じ部屋・場所”に置いたとして、何ら、おかしなことではあるまい。一応、神棚の方が「上」で、仏壇の方を「下」に置けば良い。そういうカタチで我が家では“クローゼット型の押入れ”に、その上部に“神棚”を、その中部に“仏壇”を、その下部は“物入”として利用している。もちろん、戸建ての豪邸に住まわれている方は“神棚”と“仏壇(仏間)”とを分ける形の方がより良い。基本的には神棚というのは“朝日の届く位置”にあるのがもっともふさわしい。一方、仏壇というのは子孫である我々が“日頃から接しやすい場所”にあるのがもっともふさわしい。一部に、リビングはふさわしくない、という人が居るが、それは「部屋数がたくさんあるなら…」という話で、部屋数が乏しければ、子孫が傍に居てくれる方が“先祖たち”も居心地が良いに決まっている。そして、朝夕あいさつするとか、手を合わせるとか、供え物を揚げるとか……してもらえたなら、或いはときどき読経してくれたなら、どんなに魂が清められることだろう。どの宗教であるとか、どの宗派であるとか、関係ない。血統としての先祖は無数にいるので、さまざまな先祖が居て当然で、その誰かに伝われば良いのだから、どのような“拝み方”“祈り方”でも形式など関係がない。継続が大切で、年に一度とか二度とかでは“先祖たち”も寂しいだろう。神様たちにしてもそうだが、せっかく自宅に神棚を置くのであれば、毎日のように軽くあいさつするのが礼儀ではないだろうか。その家や家族に馴染んでいるなら、その家の中で“一体化”しているなら、どうしてそれを“怒る”とか“罰する”神や先祖がいるだろうか。友達のように“親しまれる”ことこそ、神々や先祖たちのいちばんの“悦び”なのだ。

「運転手」が「研究職」よりも“誇れる”仕事⁉

2022-09-16
どのような仕事でも、最終的には“生活の糧”として成り立っていくことが必要になる。そういう点から現実を踏まえて“好きな仕事を手放す”事例は多い。もっと解かりやすく言えば、どんなにそれが好きでも、仕事として憧れを抱いていても、実際に暮らして行けない収入では“職業として”続けられない。そういう理由から“離職”を決断するケースは多い。けれども、そうなったからと言って、必ずしも、それで人生が終わるわけではない。人生における“敗残者”なのでもない。以外にも、そこから人生が開けていくケースも多い。さまざまな人生を扱った記事の中に、佐藤和俊氏が登場していた。彼は日本で初めて“飛び入学”によって17歳でありながら大学生となった人物の一人である。欧米ではよくあるが“飛び入学”はまだまだ日本では珍しい。別に彼は、大学で挫折を味わったわけではない。順調に大学を卒業し、自分の専門を活かした研究職に就いた。そこまでは順調だったのだ。ただ問題はその研究職の収入が予想以上に低かったことだ。これは決して珍しいことではない。総じて日本の研究職の報酬は低い。だから、特別、彼だけが不遇だったわけではない。けれども、その当時彼は結婚をし、子供が産まれ、車を購入し、経済的にピンチにあった。しかも、それが“続いていきそう”な雲行きだったのだ。そこで彼は決断する。研究者生活にあっさりと別れを告げたのだ。そうして選んだのが“大型トレーラーの運転手”という職業だった。こちらの職業の方が倍以上の収入になる。もう迷いなど全くなかったらしい。素晴らしい決断だ。人は往々にして、そこで迷うものだ。“天才児”と騒がれた過去に縛られ、家族に犠牲を強いるか、暮らし優先と過去を棄て去るか、二つに一つだ。もし学者・研究者として“大金持ち”となった人や“悠々自適”な人物が多ければ、いまは苦しくても……という選択の仕方もある。けれども、少なくとも日本では学者・研究者で“大金持ち”は滅多にいない。そうだとすれば、倍以上の収入が得られる職種を選択するのに“迷い”がなかったのは当然ともいえる。こうして彼は現在、誇りをもって運転手としての仕事を続けている。

新庄監督「自己責任論」はどこまで正しいか⁉

2022-09-15
日ハムの新庄監督が若手選手たちに対して「結果が出せないのは自己責任だから…」と見放したような発言をしたことに対し“賛否”が分かれている。つまり「その通りだ」という支持派と「無責任すぎる」という否定派と、完全に真っ二つに分かれているのだ。こういう場合、たいていはどちらかに傾くものだが、今回に関しては“五分五分”のような分かれ方をしている。監督の“言い分”を解かりやすくまとめるとこうなる。自分は最初から選手たち全員に「チャンスを与える」と断言して、それを実行した。だから実力のある者も、ない者も、平等に1軍でプレー出来た。そのチャンスを“生かせるかどうか”は本人に掛かっている。その結果として“打率220”に達しない者は、1軍のプロ選手としては活躍できない。だから、そういう選手には来季の保証はない。これは別に“奇をてらった発言”ではなく、どの世界であれ“プロの世界”としての能力評価の方法として当然であるような気もする。彼の発言に該当するのは清宮選手や万波選手だが、確かに好不調の波が大きく、評価的に大きく分かれそうなタイプの選手達だ。どちらかと言えば日本は、欧米からすると“実力や才能を数字だけで評価すること”に対して抵抗感を持つ人が多い。一般的なサラリーマン社会でも、実績だけでなく“人柄”であるとか“努力”であるとかを、その評価に加える傾向がみられる。そういう点からすると、新庄氏の発言は“冷たく”感じられないこともない。ただ監督はコーチではない。技術的なことをあれこれ言う監督もいるが、本来は個々の素質や技術や能力にアドバイスを与えて“才能開花”を可能にするのはコーチの役目だ。監督は、そのコーチ陣も含めての総指揮官である。もっとも、その総指揮官が「今年は優勝を目指さない」と言ったら、選手たちの士気が上がるわけがない。本音はそうでも「俺が監督になったのだから優勝のチャンスはある」と言ってあげた方が士気は上がるに違いない。そういう意味では選手にも問題はあるが、監督にも、多少の責任はある。一般企業でも、優秀な指揮官は部下後輩たちを上手く扱い、適材適所で企業を発展させていく。元々が“天才肌”である新庄氏には、みずからの“ふがいなさ”にもがいている選手たちに対して、優しい言葉の一つでも掛け“気分良く”打席に立たせる“魔法の言葉”が少しばかり欠けているかもしれない。

「AI」が活躍する世界と、活躍できない世界

2022-09-14
最近、さまざまな分野で秘かに活躍し始めているのが「AI頭脳」だ。通常は「AIロボット」というのかもしれないが、事実上はまだ「AI頭脳」の段階であるような気がする。先日AI開発を手掛けるラディウス・ファイブが、十数点のイラストを読み取り、その作風を学習して“新たなキャラクター”を作り出す作画AI「mimic」のデータ版を公開した。その注目度は高く、会社側が想定していた10倍以上の利用があったという。この作画AIでは“他人のイラストを使用すること”は禁止しており、あくまでも本人が自分で描いた15枚以上のイラストを学んで、それを基として“新たなキャラクター”を創り出す「お助けマン」としての活躍を意図しているらしい。ところが、実際には“人気作家からの盗用”が行われる可能性も高く、著作権侵害の問題が出て来る可能性が指摘されていてストップがかかった。確かに、イラストやマンガの世界は昔から“盗用疑惑”がはびこっている世界で、作画AIそのものには“倫理”というものが通用しない。したがって法律的な規制は検討しなければならないが、とりあえず今後“大いに活躍する”可能性は秘めた分野であることは間違いがない。一時期、将棋の世界でも“AIの出現”で、それを隠し持っていたのではないかと疑惑が掛けられたプロ棋士が居た。ところが今は、それが“新手を産む”ためのヒントを与えるとして、再注目を浴びている。ただ例えば「占いの世界」では残念ながら、そういう意味での有益なAIが開発されていない。私は昔、ソフト開発業者からの依頼で“占いソフト”の開発に協力したが、正直、良いものは出来なかった。生年月日時を打ち込んで出生時の命式やホロスコープは出来る。そして、個々の星の配置からの解説は組み込める。ところが、それを“個々”ではなく“総合的”に選別して「一つの結論を生み出す」というのが出来ないのだ。だから、良いことも悪いことも同時に出て来る。何が何だかわからないような回答となる。これでは実占回答としては使えない。だから今もってAIを占いに使用して“的確な判断”を下せるような企業も占術家も出現していない。本当はまだまだ諦めるべきではなく、さまざまな角度から実験を繰り返して、人間以上に“正確な予知予言”の出来る「占いAI」が誕生してほしいのだが、少なくとも、私の知る限り、それに本気で挑もうとする占い師はいないのだ。

身体を変え、戸籍を変え、12年片想いから婚約

2022-09-13
「美人過ぎるニューハーフ」として“インフルエンサー”として影響力を持っているMei氏が、12年間も“片想い”を続けていた男性とメデタク「婚約した」とSNS上でツーショット報告している。ネット上の“美人過ぎる”という表現が適切かどうかわからないが、確かに美貌だ。その美女が今年3月にはタイで性転換手術を受け、その半年後には戸籍上の名前も「めい」に変更、文字通り、正式に“女性”として生きる身になった。その変化した姿で、12年間片想いし続けてきた男性からプロポーズを受け、正式に婚約をした。しかも、それらを隠すことなく、すべてSNS上で公開している。最近、彼女のように“ちくいち報告型”ともいうべき人たちが多くなっている。最初からすべてを公開していれば、あとになって誤解やトラブルが生じることもない。もっとも、いったんプライベートもすべて公開してしまうと、その後で何が起こっても、都合の悪い部分だけ“沈黙”で通すことは難しい。ただ、或る意味では最初からSNSを“公開日記”とか“公開アルバム”のような形で利用するなら、それはそれで“新しい時代の使い方”として支持する人も多く出て来るだろう。私は大昔、十代後半から二十代半ばくらいにかけて、歴史上の人物や有名人の伝記・半生記・自叙伝・日記・回想記を読んだ。“人間の運命”というものについて知りたくて、個々の人物の“逆境の乗り切り方”についても知りたくて、そういうものをむさぼるように読んだものだ。その結果わかったのは誰もが「挫折している」ということ。幸運ばかりの人生はないということ。逆境に至った時、成功人の多くは“何かを習得”しているということ。つまり「転んでも、ただでは起きない」というのが共通しているように思えた。また簡単に“あきらめない”ことも共通していた。傷ついても、その傷口を舐めながら、昨日のことではなくて、明日のことを考えている……それが多くの成功者に共通して見られた特徴だった。占いによって“成功を得たい”と思う人は多い。そういう人には、もう一つのバイブルとして“伝記類”多数を読むことを奨めたい。

55億円を超える⁉「超高級マンション」の誕生

2022-09-12
世の中、上には上がいて、そう驚くことでもないのかもしれないが、やはりマンション価格で55億円というと、だれもが驚く。ニューヨークではない。わが日本国内なのだ。2017年に完成した「パークマンション檜町公園」の最上階である7階580㎡という“とんでもなく広い部屋”が、そのお値段だったらしい。しかもこのマンション、ほとんど一般広告を出さないまま完売していたという。世にも奇妙な物語は存在しているのだ。このマンションが建つまでは1993年に完成した「ドムス南麻布」という重厚な構えのマンションが最高価格27億円ということで人々を怖れさせていた。ところが、ところが、ここに来て2025年完成予定の超高級マンションがこの12月から販売開始になるらしい。「三田ガーデンヒルズ」という港区に建つマンションで、その周辺にはオーストラリア大使館やイタリア大使館が建つ。その外観予想図によると高級ホテルのようながっしりした建物だが、おそらく9階か10階程度の低層型マンションに属する。虎ノ門ヒルズのような超高層型マンションではない。一部報道によれば、一般分譲は370㎡程度までで30億円を超えないが、一般には公開しない特別分譲の500㎡超の部屋だけは55億を越して“我が国最高峰”のマンション価格になるらしい。まあ戸建てであっても通常500㎡を超える敷地面積というのはなかなか存在しない。だいいち、一つの家としては使い勝手が悪い。仮に家族が4~5人と想定した場合、普通に使いきれる家の広さは300㎡までが限度だと私は思う。欧米流に“ゲストハウス”を加えたとしても、300㎡あれば十分に過ぎる。風水的な観点から言うと、あまりに広すぎる家は孤独に傾きやすい。部屋の広さは適度であれば、人間的な余裕をその人に与えて、財運の豊かさの証明ともなるが、家族数と部屋数とがあまりに不均衡なのは“衰退運”をもたらす。また家族の集まるリビングが広いのは良いが、個々の部屋まで極端に広いのは“寂しさ”の象徴となる。だだっ広い部屋に、一人たたずむ姿は“寂しい”以外の何物でもない。風水は“自然との調和”を重要視するので、不自然なのは何であれ良くないのだ。もっとも、狭い部屋に何人もがぎゅうぎゅう詰めで生活するのも良いとは言えない。心の余裕を失うもので何にしろ「適度であること」が倖せには重要なのだ。

「カミラ夫人」を誰も「悪く言わない」英国人

2022-09-11
日本人というのは“思い込みの激しい民族”だと私は思う。それに“みんな一緒”が好きだ。だから「カミラ夫人」に対しては、総じて沈黙で応じる。誰も、彼女に関してはコメントしない。もちろん、彼女が主役ではないから、彼女に関していうのもおかしいのだが……。それでいながら、誰もが思っている。エリザベス女王の陰に隠れ忘れかけていたけれど、結局、いまの王妃は「カミラ夫人だったのだ」と。そう紛れもなく彼女は王妃となった。だから本当はチャールズ国王の顔よりも、カミラ王妃の顔を紙幣や硬貨に表すべきなのだ。いや、日本人としては若き日の“ダイアナ妃”の顔と交互に表われてくるような印刷技術を期待する。きっと、そうすれば日本人の“モノ好き”が多数、英国紙幣をコレクションしようとするだろう。とにかく、そう思ってしまうほど、かつてのカミラ夫人に対しては、日本人の多くは否定的だった。別に自分の結婚相手でもないのに「許せない」という雰囲気の人が多かった。それは、どこかに、眞子さまと小室圭氏の“結ばれ方”にも共通する感情のようにも思えた。とにかく日本人は“筋の通っていないこと”を嫌がる。何十年経とうと、決して“それ”を忘れないし、許そうともしない。だから安倍元首相の国葬も、許したがらない人が多いのだ。コレとソレは別、という捉え方が日本人は苦手だ。あれだけいろいろ疑惑がありながら“国葬”なんて許しがたい、と思うのだろう。或いは、そんなことに使うお金があったら「もっと国民のために使ってくれ」と思うのだろう。ごもっともではあるが、日本の紙幣には“眞子さまの顔”は出て来ないのだから良いではないか。ニューヨークの物価高にあえいでいる彼女を、そんなに責めなくても……。ん、話が違う⁉ 確かに。ダイアナ妃は美しかった。紙幣にはやっぱり“美しい顔”を載せたい。その気持ちは解かる。こうして離婚前から“第二婦人”であったカミラ夫人は、正当な王妃となった。メデタシ、メデタシ。

「愛」が孤立し「非婚化志向」が加速していく

2022-09-10
「昭和」の時代、結婚は誰もがするもの、と思っていた。「平成」に入って、結婚のカタチは“複雑化”していった。そして「令和」となって、結婚は徐々に“人生の表舞台”から後退りしつつある。2021年に行われた18歳~34歳の男女に対しての調査で、男性は17.3%、女性は14.6%の人たちが「一生、結婚するつもりはない」という回答をしている。この数字は、もちろん過去最高で1982年時点では、同じ調査で男性2.4%、女性4.1%という数値が出ている。そう、自分から「結婚しない」と言い切れる人なんて、このくらいしかいなかったのだ。なぜなら「結婚→家庭」は“倖せ”を得るための“第一の条件”と考えられていたからだ。それは別に「昭和」に始まったことではなくて「明治」「大正」の時代を通じてそうだった。いや、もっと大昔から“倖せの条件”として、最初に名前の上がるものだった。ところが、ここに来て“そういう考え方”は時代錯誤に変わりつつある。一つには「ひとりでも生きられる」世の中に変わったことである。家電が発達し、男性でも家事に困らなくなり、女性でも自立できる収入を得られるようになり、職場の定年が引き上げられ、年金制度が発達し、家庭における力仕事も不要になった。子どもの教育にはお金がかかり、成長後に親を観てくれる保証もない。離婚をするカップルも多くなり、周りで独身を貫く人も多くなった。経済的な面と健康的な面さえ不安がないなら、一人の方がはるかに気楽で責任や負担を感じなくて済む。誰からも干渉されず生活できる。さまざまな理由が「非婚化志向」を後押ししている。ただ私は思うのだ。「愛」はどこへ行ったのだろうと……。もちろん、結婚しなくても恋愛は出来るのだから「愛」にも「恋」にも困ることはない。むしろ、そういう意味では結婚したら最後、二度と恋愛は出来なくなる。結婚して後、相手側の親戚とのかかわりも煩わしい。そういう「令和」の時代になっても、結婚に“倖せ”を見つけようとする人も多い。仕事を終えて、帰っていくとき、そこに“癒される家庭・家族”を持っていることが、人生における幸福の重要な要素と考える人たちだ。「親」が居て「配偶者」が居て「子供」が居て、古今東西を問わず何千年もにわたって、繰り返されてきた営みには、それなりの根拠がある。果たして「令和」の新しい法則は、それに打ち勝つことが出来るのだろうか。

「空飛ぶ車」の事故を予感させる幽霊飛行機⁉

2022-09-09
私が最初にこのコラムで「空飛ぶ自動車」のことを書いたのは、いつのことだったか。その頃はまだ“夢物語”だったから、私も“未来の話”的な感覚で書いた。ところが、ここに来て急速に「空飛ぶ自動車」は現実のものとなりつつある。もちろん、現在はまだまだ“夢の途中”だ。そこで多くの富裕層は「自家用ジェット機」を使用している。まあ日本で使用している人が何人いるのか知らないが、海外ではポピュラーになりつつある。特にヨーロッパの場合には、国境越えに「プライベートジェット機を使う」という人たちも多くなってきているようだ。ところが、当たり前の話だが、空での事故とか故障とかは生命を危険にさらす。プライベートジェット機を運転出来る人なんて、そうそういないのだ。9月4日スペイン南部を飛び立った自家用ジェット機はビジネスマンら4人を乗せてドイツへと向かっていた。ところが、飛び立って1時間もしないうちに「気圧がおかしい」という交信を最後に連絡が取れなくなった。けれども飛行そのものは継続されている。フランス上空をさしかかった時、呼び掛けても反応しないジェット機に対して戦闘機がスクランブル発信された。接近した戦闘機のパイロットが観たところコックピットには誰もいなかった。無人のまま「飛行していた」というのだ。戦闘機のパイロットがウソを言うはずもなく、あっという間に「幽霊飛行機」として世間の注目を浴びることになる。やがて、予定地とは異なるバルト海上に自家用ジェット機は墜落した。現在、捜索隊が出て調べているが、それらしい飛行機は見つかっていない。もちろんビジネスマンたちとの連絡も取れない。一つだけ可能性として考えられることは、飛行機が故障して制御不能となったことだ。そして気圧だけがぐんぐん上がってコックピットの操縦士が気を失い狭い室内で倒れ込んでしまった可能性だ。だから戦闘機のパイロットが接近しても操縦士が見当たらなかったのだ。自動操縦によって、或る程度まで飛行は出来ても、制御不能ではいずれ墜落する。もしかすると気圧の上昇で、乗っていた全員が気を失って連絡不能になって上空を「幽霊飛行機」として彷徨ったのかも知っれない。

「白塗り芸人」はロシアの「ハッカー」なのか

2022-09-08
どうも、そのタイトルがいまいちな気がする。新ロシア派のハッカー集団とされる「キルネット」から届いた“政府”に対する予告タイトルだ。「日本国政府全体に宣戦布告」となっているのだが、何となく意味不明であり迫力に乏しい。「政府」か「全体」か、どちらかの文言を無くした方がスッキリとするし意味も通る。つまり「日本国全体に宣戦布告」とか、或いは「日本国政府に宣戦布告」か、まず、どちらかにした方が良い。それから宣戦布告の画面には“白塗り顔面”の人物が出て来るのだが、なぜか怖くない。そうだ、この顔面には“見覚えがある”のだ。ちゃちゃんかちゃんちゃん……確かそう言って登場する。もう一人はロック系のバンドマンだったか……もしかすると二人とも新ロシア派のハッカーなのだろうか。だから“白塗り”でありながら、中国人が好む“赤衣裳”なのか。或いはだから時々“意味不明”のことを言うのか。ハッカー集団「キルネット」の動画が最初に出たのは7日の午後6時半頃らしい。そのためなのかどうか日本の「デジタル庁」が本格的に指導し始めたばかりだ。ここは最大の“腕の見せどころ”ではないか。ただ動画予告によれば、いくつかの企業名が出て来るのだが、どちらかというと最新企業でも世界的企業でもない。ちょっと“古さ・懐かしさ”を感じさせるような印象が残っている企業ばかりなのだ。したがって、ホンモノのハッカー集団なのか、やや疑問を抱く。また、わざわざ日本語を添えた動画になっている点も、ちょっと怪しい。いや日本語を添えているからこそ「白塗り芸人」ではないのか。なにを考えているかわからない点など、共通する部分も多いからだ。だか、もしそうならば安心して良い。なぜなら彼は必ず最後に「チキショウ‼」という。失敗するのが、お決まりのネタなのだ。

地震予知、深海魚が出現、昼コウモリが飛ぶ⁉

2022-09-07
大きな地震が起きるたび、必ず登場するのが、その予知に関する“さまざまな仮説”だ。今回の中国四川省チベット族自治州で起こったM6.8の地震では既に46名の死亡が伝えられている。この数はまだまだ増えるかもしれない。地震が起きたのは9月5日だが、実はその前日、震源地に近い綿竹市では大量のコウモリが目撃されている。その映像をみると、一定方向に飛んでいるのではなく、やみくもに飛び出してきた、というような感じで空を舞っている。文字通り大量で、本来明るい場所は嫌うのがコウモリの生態だが、夕方であるのに本来の居場所を追い立てられたかのようである。そこで中国のSNSでは4日のコウモリの大量発生は“地震の前兆”だったのではないか、という説が飛び交っているのだ。実は古典的な仮説のなかに、大地震の前には「コウモリが昼間に飛翔する」という説が含まれている。その他には深海ザメの一種であるメガマウスが出現するという説がある。またヒキガエルが鳴かなくなること、トンボの大群が出現する、ネズミが異様に走り回る、イタチが穴の中から出て来る、ネコが消える……などといった話しが“前兆”として語り継がれている。日本の場合はこれに加えて「地震雲」が“前兆現象”として信じられている。地震雲というのは、或る種、天空上に亀裂が走ったように出現する雲のことで、さまざまな大地震の前に観察・撮影されている。もちろん、念のため言えばこれらは科学者たちが認めている予知法ではない。地震学者たちも、それなりの科学的なアプローチを試みているが、残念ながら“大きな成果”を得られないでいる。おそらく現実的な予知法としては、学者たちの“あやふやな説”より、地震雲や動物現象の方がはるかに信じられる。そういえば“ナマズ”による予知法もあったような気がするが、これは一般家庭でナマズを飼えるわけがないから、役立たない。昔の家屋は木造でネズミがはびこっていたから、解りやすかったかもしれないが、現代でも使えそうなのは「地震雲」と「コウモリの飛翔」くらいかもしれない。 « Older Entries Newer Entries »