11月, 2022年

学生28000人、教員5000人、留学生4600人の館

2022-11-18
「東大」が2027年度までに女性教員数を引き上げるべく「300人採用計画」を打ち出した。女性ばかり一気に300人も採用するって、まるで大企業のようではないか。それにも驚くが、それ以上に私が驚いたのが東大全体の教員数だった。教授や准教授など、その数5000名もいるのだという。私が思っていた“何となくのイメージ”とは大きく異なる。日本を代表する“東大の教授(教員)”って、もっと少ないと思っていたのだ。意外なほど多い。つまり東大教授は、それほど特殊な頭脳の持ち主とか、特別な名誉ある職業とか、そういうものでもないらしい。また、その東大に通う学生数だって28000人もいるのだ。この数字も想像よりはかなり多い。ただ学生数の割に、教員数が多くないか。これでは学生5~6人に1人の割で教員が居ることになる。年齢が近ければ、どっちが教員で、どっちが学生が判らないではないか。それに留学生の数も多い。これも学生6人に1人は留学生で外国人ということになる。う~ん、何となくイメージが違うなあ。ところで現在の東大では、女性教員はどのくらいの比率で居るのかというと、16%くらいだそうだ。それを2027年度までに25%まで持っていきたいらしい。無理に増やしてどうするの⁉と学力の低下を心配してしまうが、その辺は大丈夫なのだろうか。多分、これはOECD加盟国における平均の“女性教員比率”が45%なので、何とか引き上げたい、という気持ちからの“大量採用”なのだ。そういう意味では「東大」で教鞭をとりたい女性にとっては“絶好のチャンスが来ている”と言えないこともない。そこそこ程度の学力でも、もしかしたら“東大の女性教員”になれるかもしれないのだ。あとは入ってから一緒に学生たちと勉強すれば良い。何しろ、学生と教員の“見分けが付き難い状況”だから、紛れ込んで習っていても気付かれない可能性が高い。この計画では正面切って打ち出されてはいないが、もしかすると“女子学生の比率”も同時に引き上げたいのではないか。そうなると、もしかしたら男子学生よりも、女子学生の方が“合格しやすい学校”というふうに微妙に変化していく可能性があるかもしれない。そのうち東大出身の“女性社長”たちがどんどん多くなって、男性社員たちを顎で使うように……。

「家族を世話する小学生」が10%もいる衝撃⁉

2022-11-17
近年の統計には、時々我が目を疑うようなものがある。今回の愛媛県における独自調査で、小学生、中学生、高校生の総計6万人によるウェブ上の回答から明らかになった数字には、正直、私は大きな衝撃を受けた。大体、お恥ずかしいことに「ヤングケアラー」という言葉自体を、わたしは知らなかった。高校生以下の子供たちが家族のために世話や家事を行っていて、十分に教育などが受けられていない状況を指す言葉らしい。同じ調査を、政府も行っているのだが、比率的には少し違っている。けれども、小学生の方が多く、高校生の方が少ない、という意味ではその比率は変わらない。つまり小学生の方が、中学生よりも、高校生よりも、家に戻って後、家族のために働いている(世話している)ケースが多いのだ。どうしてそうなるのかというと、家族、つまり親とか兄弟とか祖父母とか、誰かが病気や障害を持っていて、その人のために動かざるを得ないからだ。今回の調査では小学生では10.4%、中学生では4.0%、高校生では2.3%となっていて、全国比率はこれほど偏ってはいないが、ただ小学生、中学生、高校生の順であることは同じなのだ。私は自分自身が、小学生の時に、母親が入退院を繰り返してはいたが、だからといって“その母親”を自分が面倒をみるようなことはしていない。家事的なことも小学生の時には経験がない。いや十代の時には経験していなかった。ましてや人を介護するなど、考えもしなかった。どちらかと言うと、小学生の低学年の時には“面倒をみてもらう側”だった。母親が病気だったとしても、上には齢の離れた兄と姉とが居て面倒をみてくれた。それに兄や姉がアルバイトなどで外に出ている時には、近所のオバサンとかが面倒をみてくれたし、隣のお兄さんやお姉さんも助けてくれた。だから、私の母親は入退院だったが、それでいて私は“何もせず”育ったのだった。そういう私にとっては、今回のような調査実態は信じがたいもので、それだけ“身近な人”が限られている世の中なのだと、改めて痛感される。それにしても10%という数字は、あまりにも重い。親が病気で思うように動けない場合、兄弟が先天的な病気を持っている場合、そして祖父母が高齢で身体が不自由な場合など、さまざまなケースが考えられる。ただ小学生と言えば、まだ身体そのものが未成熟である。介護などの場合、或る程度の体力もいるし、神経も使う。これを何時間も行っているとすれば、あまりに酷である。「日本」は社会福祉国家として発達してきているが、まだまだ目が行き届かない部分も多い。一方で“子供を産む”ことを推奨していても、このような実態が改善されないうちは少子化を受け入れる方が自然なのだ。

「過去は過去」現在と「未来」を視て生きる⁉

2022-11-16
ときどき自分の過去に対して必要以上にこだわる人がいる。だが、過去にこだわっても「過去」は戻ってこない。どんなに“華やかな過去”であれ、逆にどんなに“惨めな過去”であれ、過ぎてしまった時は永遠に戻らないし、それを追いかけることは運命学的な観点から言うと好ましいことではない。ネットニュースを見ていたら、過去に“歌舞伎町ナンバー1ホスト”と騒がれたタレント城咲仁氏の記事と、過去に“ナンバー1キャバクラ嬢”と騒がれたエンリケ氏に関する記事とが並んで出ていた。要するに、過去にナンバー1として“一世を風靡した”ホストとホステスの記事だった。城咲仁氏の方は「良い夫婦の日」に“一日署長”をやることになったというコメントと、それに合わせるかのような“夫婦のツーショット写真”の公開で、12歳の年齢差を持ちながら仲良く夫婦生活が続いていることを示していた。一時期、タレントとして低迷していた城咲氏だったが、近年は“通販番組”で支持を集めているらしい。一方、過去にナンバー1キャバクラ嬢としての売り上げを誇っていたエンリケ氏の方は、その後、事業家に転身したりもしたが、現在はまたホステスとしても登場したりしているようだ。だが、こちらの方は離婚した元夫のSNS上での発言が記事になっているもので彼女に対し「一生後悔させたい気持ち…」などとあって、穏やかではない。要するに先月、受理された“離婚”が本人の同意を得ていないもので、争う用意もあることを示唆する内容だ。結婚生活が長続きしないホステスは多い。“家庭の枠”に収まり切れない女性も多いし、元々“男を見る眼”に欠けている女性も多い。だが、どんなに過去ホステスとしてもてはやされていても、いったん家庭に入ったなら、家庭婦人として“見違えるよう夫人っぽく”変身していく女性もいる。そういう人達は、完全に“過去”を棄てて、いつの間にか“主婦”としての感覚に切り替わっている。そういう人は結婚生活も長続きする。結局、いつまでも過去にこだわるか、過去から脱皮して“今の暮らし”というものに馴染んでいくことが出来るか、最終的にはその人の“職業”ではなく、本人の現在・未来に対しての“生き方”“考え方”が、派手さや華やかさはないかもしれないが、堅実な暮らしと長続きする“穏やかな暮らし”を掴んでいく。

「推奨される」に変えるべき「新球場」問題

2022-11-15
日ハムの“新球場”として期待されていた北広島市の「エスコンフィールド北海道」が、本塁からバックネットまでの距離が足りなかった問題。日本野球機構は日ハム側からの説明と謝罪を受けて検討した結果、2023年に関しては“そのままの状態”で開催し、その後のオフシーズンに改修していく、という方針を受け入れたようである。一時は来年の春に開催できないのではないか、と危惧されていただけに関係者は胸をなでおろしたことだろう。それにしても、どうして、こんな凡ミスが生じたのだろうか。実はアメリカと日本とでは微妙に“ルールが違っていた”ことに原因がある。日本の「プロ野球規則」というのは基本的にアメリカの規則をそのまま因襲したものだ。それなのになぜ違いが生じたか。翻訳時に「60フィート以上が推奨される」と訳すべきところを「60フィート以上を必要とする」と訳してしまったからだ。だから、日本では“18メートル以上”でなければいけないことになった。アメリカでは、あくまで“推奨される”なので、近年の新しい球場では60フィート以下も存在している。その場合“50フィート”にするのが通例なので、今回の日ハム新球場も“約15メートル(50フィート)”なのだ。当然、その設計者はアメリカ人で日本の野球機構が「…以上を必要とする」と訳しているなど知らなかった。だから、これまで多数のエンターテイメント施設を手掛けているHKS社に任せ“口を出さなかった”というか、確かめもしなかったというか、或る意味では“おそまつ”な結果だが、仕方のない部分もある。今回、どうしても“変えろ”と言えなかったのは、元々が“誤訳”からスタートしている問題だったからだ。だから、いっそのこと日本の野球規則の方を改めて「50フィートを必要とする」にしてしまうか「60フィート以上が推奨される」にしてしまうか、改訂すれば良い。そうすれば、24年度以降も新球場を変えることなく、そのまま使用できる。元々がエンターテイメント球場を“売り”にして建設したのだから、そっちの方向性で考えた方が良い。全面ガラス張りとか、球場内の温泉サウナ付きとか、ホテル併設とか、ビールの醸造所とか、土台が“真剣勝負の場”としてはふさわしくないのだ。だが、もしかすると将来的には、この方がスタンダードになっていく可能性もある。元々が誤訳からスタートしている野球規則に縛られるべきではない。

77円~の商品「ショールーム型店舗」で確認⁉

2022-11-14
高級ブランドの商品の場合、店舗には“その飾られている1点”のみあって、それを販売してしまうことは出来ず、註文だけ受け付け商品は到着しだいお届けする……などの販売形式は珍しくない。また元々販売数が限定されている商品などの場合、或る一定数に達すれば、そこで販売終了となる。そういうような販売形式は“高額ブランド商品”の場合、その価値を保つ上からも受け入れられてきた。ところが、今回はいささか勝手が違っている。東京・原宿にオープンした「ショールーム型店舗」には、77円からの“低価格商品”が並んでいる。但し、そこで直接購入は出来ない。高級ブランドの“限定販売”の商品と同じように、そこに飾られている商品は“視るだけ”のためにある。そうして、購入したい場合にはそのブランドのサイトやアプリから購入する仕組みとなっている。これが低価格ブランドとして世界の若者たちを相手に展開している「SHEIN」の戦略なのだ。ふ~ん、解ったような解からない“売り方”だなと言うのが正直な私の感想だ。高額ブランドの商品の場合は、まず実店舗で観察をしてみて、購入しようかどうか考える、というのは理解できるのだ。だが、77円からの商品を“ショールーム型店舗”でじっくり観察した後、買う、買わない、を決めるモノだろうか。もちろん若者たちにとって、低価格であろうと、流行の先端であろうと、じっくり見極めてから購入するというのは悪いことではない。通販などでよくある“サイズ違い”や“素材違い”や“微妙な色違い”なども、これによって防げるという利点はあるのだろう。いつの頃からか、若者たちのファッションは「低価格ブランド」に流れるようになった。昔と違って、流行のサイクルが早くなっている現代、次々と着替えていくのに、高品質の商品など必要がない。邪魔になるだけと割り切るのが現代流だ。低価格ブランドが世界的に支持され始めたのは当然なのかもしれない。ただ、その低価格ブランドにも流行り廃りがあって、長続きしていないような気がする。高級ブランドが何十年も、時に何百年も“その名前”だけで勝負出来たのに対し、低価格ブランドはその登場も早いが退場も早い。あっという間に“若者たち”から忘れられていく。果たして「SHEIN」というブランドは何年もつのだろうか。

「インフレ」より「中絶」が重要なアメリカ⁉

2022-11-13
われわれはよく「アメリカ人」と“ひとくくり”にして話すことが多いが、実際には「アメリカ人」と言っても、その地域によって“性格”や“考え方”は大きく異なる。今回の中間選挙で、その“違い”が見事に表れたのが「中絶問題」だった。つまり、人工中絶は“女性の権利”として認めるべき、という進歩的な考え方(⁉)と、人工中絶は“自然の摂理に反する行為”として認めるべきではない、という保守的な考え方(⁉)の対立だ。日本人的な考え方からすれば、何で今になって“人工中絶”を認めるとか、認めないとか、おかしなことで争うんだろうと不思議に思うが、彼らは真剣だ。今回の選挙で、それが「インフレ」に次ぐ争点の一つだったからだ。事前調査で“共和党有利”と視られていたのに、いざふたを開けると双方が拮抗していた。どうしてそうなったのかというと、終盤になって、この「中絶問題」が俄然人々の関心事として問題視しされたからだ。そもそもアメリカは、未だに南部などでは“保守的なキリスト教徒”が多い。そういう地域では“神様絶対”で、それに逆らう“人工中絶”は“あってはならない行為”なのだ。ところが実際には、その南部などで“少女たちの妊娠”が多い。もちろん未婚の十代少女たちの妊娠だ。そうすると、どうなるか。未婚のままで「母親になる」十代女性たちが多くなっていく。もっとも、アメリカは州ごと法律が違うから、州を跨げば“人工中絶”は出来る。それを認める州や地域には、多数の女性たちが“駆け込み寺”のようにやって来る。まるで時代が逆行したかのような現象だ。70年代には「女性の権利」として華々しく登場した“人工中絶”だったのに、いつの間にか保守的な州では、その権利を認めない法律が次々と施行されていったのだ。丁度、保守的なイスラム教の多い地域では、未だに女性が「顔を見せてはいけない」とか「肌を露出してはいけない」とか言うのと同じ“宗教的な正義”がまかり通っている。日本は「旧統一教会問題」で“宗教的呪縛”の怖さを改めて知ったが、アメリカはアメリカで“宗教的呪縛”から未だに逃れられない人々が、十代女性のシングルマザーたちをたくさん生じさせ、現在も神の“教え”に従っている。

もっと根本から見直しが必要な「児童相談所」

2022-11-12
近年、児童相談所が絡んでいる“事件”や“犯罪”等が多い。11月8日に児童相談所で一時保護していた15歳の少女が、施設3階のトイレの窓から10メートル下の駐車場へと転落して死亡した。この少女の場合、今年3月~9月にも児童相談所に保護され、10月になって別な施設へと移った後、11月3日に保護者に引き取られて、翌4日から行方不明となって、その3日後に警察に保護され、諸手続きを経たのち今回の児童相談所が“受け入れる”形で連れられて来ていた。その後、施設職員と面談しているうちに、本人が「トイレに行きたい」と言い出したので、行かせたのだが時間が経っても戻らないので確認に行ったときには、もう飛び降りていた。一応、事故と事件の両面からの捜査だが、これはもう“飛び降り”以外に考えられない。よほど“施設”が嫌だったのか“家庭”が嫌だったのか“生きていくこと”自体が嫌だったのか、いずれにしても、児童相談所の“トイレ窓”から抜け出すのは容易ではない。そうまでしても彼女は「逃げ出したかった」ということだろう。特に11月3日に保護者に引き取られて、その翌日には“行方不明”となっている。その場合の“保護者”とはだれだったのか。通常、もしそれが“実の親”だった場合、その親元には居たくないというなら、逆に“施設”は“家庭の代わり”になるはずで、そこからまで“逃げ出す”というのが理解しにくい。もし保護者が“実の親”ではなかった場合、半ば“仕方がないから引き取る”形ならば、本人にとって“安住の場”とならないことはすぐに推察が付く。だから逃げ出すのは理解できるが、児童相談所に来てすぐの段階で“トイレの窓”から飛び降りたのは、よほど「施設」自体も嫌っていたからに違いない。女性で15才であるから、通常なら高校生だが、報道では「無職少女」となっているので、彼女にとっては「学校」も“安住の場”ではなかったに違いない。そう考えると、彼女にとっては転々とする以外に“生きていく場”が得られなかったことになる。そういう意味では、昔なら“あいまいな形”のままでも雇ってもらえたが、現在は“そういう生き方”が許されない時代となっている。確かに、それは社会福祉的な観点からも必要なことなのかもしれないが、世の中にはさまざまな事情から“過去”を棄て“家族”を棄て“しがらみ”を棄て、ひっそりと“陰に隠れるような形”で生きていかなければならない人たちもいる。そういう人々にとって、現代は必ずしも“やさしい”とは言えない。酷な時代かもしれないのだ。

NYダウ1000ドル超の急騰、ドル円「141円」⁉

2022-11-11
世界的な潮流の“動き”に大きな変化が生じたのか。アメリカの金融市場でNYダウが1000ドル超も急騰している。その一方でドル円相場は昨日の「1ドル=146円」から一気に「1ドル=141円」と急落だ。市場予想が外れた場合に大きく動くのはアメリカ相場の通例だが、今回は“その動き”がとても大きい。もしかすると経済面の“利上げペース減速”だけではなく、中間選挙で“共和党の票”が予想されていたほど伸びなかったこと、それからバイデン大統領が14日に中国の習主席と“会談を持つ”と報じられたこと、さらにロシアが一部ウクライナから“撤退”に入ったこと、エジプトで“クレオパトラの墓”が発見される可能性が出て来たこと、日本で“次世代半導体の連合”が誕生することなど、さまざまな情報が一気に出て来たことも多少関係しているのかもしれない。もし、利上げペースの減速が確実であれば、日本で怖れられてきた「悪い円安」には一応のストップが掛かる。そうして世界的な株価の低迷にも歯止めが掛かって、経済的な混乱は解消へと進む。「世界の景気敏感株」とも称される日本株の場合、日本の個々の企業がどんなに円安の恩恵を受けて黒字幅を伸ばしても、世界景気が低迷していく予測がある場合には、NYダウに“連れ安”して下降トレンドから抜けられない。そうすると、現在、再びコロナ感染者が増加傾向にあることなど、ささいな“悪いニュース”にも敏感になって“良いニュース”を拾おうとしなくなる。その結果、世間全体の活気が失われ、文字通り「景気が悪くなる」方向へと運ばれてしまうのだ。ところで、バイデン大統領と習主席とは、この時期に及んでいったい何を話し合うのだろうか。それぞれが“同盟国たち”との絆を強めていっている中で「やっぱり仲良くしましょう」とハグし合うのは何かしら“大人の世界”を覗くようで、ちょっとだけ怖い。ちょっとだけ怖いと言えば「クレオパトラの墓」が本当に見つかったなら、世紀の大発見だが、その顔貌を再現出来て「本当に美人だった」と驚くのか「えっ、視なければ良かった」と思うのか「寝た児を起こす」作業は刻々と続いている。

“売れない”ものを“売っている”「通販」へ疑問

2022-11-10
私も時代の波には勝てず(⁉)ときどき「通販」で買い物をする。元々が出不精の私にとって、やはり「通販」は便利が良い。但し、さまざまな点で“問題”が多いことを指摘しないではいられない。まず、いちばん困るのが、その通販のサイトでは「画像」を載せてあり“在庫ゼロ”ともなっていないのに、その“商品”が存在していないケースがあることだ。そのサイトに問い合わせると「もう生産中止になっている製品です」との回答が返ってきた。そうなのか。それはそれで仕方がないけれども、それならば、どうして何年も“そのまま掲載している”のか。海外製品で、ちょっと他では売っていない製品だから「欲しい」と思ったのだが、もう何年も前から“生産中止になっていた”らしい。それが一つだけなら、まだ「忙しくて画像削除を忘れているのか」で納得できる。ところが、そういう製品が三つも、四つもある。どうしても“似た雰囲気の製品”が好みなので、三つの製品について問い合わせたのだが、その三つともが生産中止だった。なぜ問い合わせたのかというと、その画像には、正面からの角度からしか写真が掲載されていなかったからだ。私は裏側のデザインも知りたくて、裏側からの写真とかがないかを問い合わせたのである。その三つを比較して決めたかったからだ。その結果、その三つともに“生産中止”であることを知った。しかも、すぐに対応してもらえず、3日ほど経ってからの回答であった。この通販サイトは“売る気がない”のだろうか。それとも元々が“怪しい通販”なのだろうか。けれども、ちゃんと実店舗も存在している。通常、心配りのある通販の場合には、何方向からも写した画像を掲載している。本当はそういう「通販サイト」から購入すれば良い。ところが、そういうところには、わたしが求めるような“独創的な製品”が見当たらなかったりする。だから、その“ちょっと怪しい通販”を利用したくなるのだ。その店ではないが、海外製品を扱うサイトでは、しばしば注文した製品が“忘れた頃”にならないと送られてこない場合がある。問い合わせると“奇妙な日本語”が返って来たりする。海外に「日本語担当者」の電話対応を置くのはほんとうに困る。海外に置くなら普通に日本語が通じる人にしてくれないと、こちらの意図が伝わりにくい。それから極端に遅くなる商品には、それが判るマークか何か、特徴を附けておいて欲しい。それから「通販サイト」で海外製品を扱う場合、そのサイズ表示も“日本人にとってのMサイズ”なのかどうか、確認したうえで掲載するくらいの配慮は欲しい。中には文章説明だけあって“写真画像がない”製品もある。どうしてないのか知らないが、それでも“買おうとする”私のような人もいるので、もう少し「通販」の出店者たちは、そういう“貴重な購入者”のことも考えて心配りをして欲しい。

今年の「紅白」は「花の82年組」で華やかに⁉

2022-11-09
NHKの紅白歌合戦が“存続の危機”を迎えているらしい。その打開策として、今年は「花の82年組」と呼ばれる“懐かしのアイドル”たちを総出演させ一気に注目度や話題性を高めようと準備している、と一部マスコミが報じている。確かに「花の82年組」と呼ばれる枠内には、華やかな顔が並ぶ。中森明菜、小泉今日子、早見優、石川秀美、堀ちえみ、三田寛子、つちやかおり、シブがき隊、そして女優としての印象が強い薬師丸ひろ子、原田知世……厳密に言えば82年デビューではない人が含まれているかもしれないが、まあその圏内だろう。中でも中森明菜氏に関しては、今年、新たなスタートを本人が宣言しているので、出場するのはほぼ確実だろう。今年、精力的に歌手活動を行っている小泉今日子氏も出場すると思われる。今年いろいろとあった堀ちえみ氏も出場すれば注目度は高い。早見優氏は頼まれれば嫌とは言わないような気がするし、薬師丸ひろ子氏も高齢者層からの人気が高いので視聴率アップには貢献しそうだ。これら全部の“顔”が全員揃うかは微妙だが、少なくとも幅広い層からの支持や注目度という点から言えば、こういった人たちを揃えた方がデビュー間もない歌手たちを揃えるよりも“幅広い層に応えられる”ことだけは間違いがない。近年、日本の“歌謡曲”は低迷期に入っている。昔のような“大ヒット曲”というものが出て来ないのだ。実際、今年に入って生まれた曲で、だれもが知っているような“曲名”を言えるかと問われて、答えられる人が何人いるだろう。私は30代以上の年齢層にまで浸透した曲はほとんどないのではないかと思う。かつてのような大ヒット作詞家や作曲家はいなくなってしまった。歌手、アーティストでも、単独で、その名前を聴いただけで、だれもが知っている歌手は極端に少なくなった。グループ名は知っていても、個人名となるとTVに顔出しの多い人は別にして誰も記憶に残らない。80年代のアイドル歌謡曲は未だに支持されているが、近年の歌謡曲や日本のポップスはあっという間に忘れ去られる。人気が出ても長続きしないのが特徴だ。俗に「スター」とも呼ばれた華やかな歌手の姿はどこへ行ってしまったのだろう。

「季節の変貌」が判然としていることの意味

2022-11-08
人はときどき“同じような毎日”に対して何となくのユウウツを感じることもあれば、あまりの“日々の速さ”にたじろいでしまうこともある。最近、日が暮れるのが早く、そして日の開けるのが遅い。文字通り「立冬」で冬の始まりだからなのか、朝になる直前の“冷え込み”も強くなった。こうして、四季というものを強く感じられるのは、われわれが“人間が暮らしやすい地域”で暮らしているからだ。世界には“四季を感じられない地域”というものがたくさんある。いや、もしかしたら、われわれとは違う方法で“四季を感じている”のかもしれないが、やっぱり四季は“こういう形での変化”が判りやすくて好い。赤道直下の地域や北極圏や南極圏では“四季”だけでなく、毎日の“時刻による変化”さえも感じられないようなところがある。常に、同じような明るさ暗さ、同じような暑さや寒さ、そういうものに慣れてしまえば、それなりに時間を感じ、季節を感じることができるのだろうか。わたしは“暑さ”にも“寒さ”にも弱いので、極端に暑い地域とか、極端に寒い地域とかで暮らすのは多分できない。時刻的な変化に関しては、それほど判然とした違いが無くても、わたしの場合には“生きていけそうな”気がする。私の起き出す時間帯や寝てしまう時間帯は一般の人たちとは少々違う。だから、時間の感覚に関しては、多少、変わった地域に行ったとしても、大丈夫そうな気がするのだ。たとえば暗くなくても昼間でも寝ることができるし、明るくなくても、ひとりだけ起きていくことができる。飲食生活に関しては、日本食でなければならない、ということもない。洋食でも中華でも特殊な料理でも、大体は食べられるし、お腹さえ壊さなければ“そういう食事”が続いても大丈夫だと思う。ただ「日本」の札幌の街に暮らして、この「四季の判然とした街」に暮らして「四季の乏しい街」で暮らす人々に比べて“その変化を愉しむ”ということは可能なのだなと改めて思う。東南アジアなどからやって来る外国人は「日本の四季」を羨ましく思うだろうか。それとも「寒いのは苦手だ」とだけ感じるだろうか。日本の中でも“判然とした四季”を街の中を歩いていて感じられる地域はそれほど多いとは言えない。そういう場所で、ゆったりとした時間の中で晩年を過ごせるというのは、何と恵まれたことだろう。

クリスティーン自らの「終着駅」追い求めて⁉

2022-11-07
もしかしたら俗に“ハーフタレント”と呼ばれる人たちは、共通して“そういう部分”を持っているのかもしれない、と思った。タレントの春香クリスティーン氏の「文春」登場と「TV番組」復帰を知っての感想だ。つまり、純粋な日本人と違って海外で産まれている“ハーフタレント”の場合、一度は自分の“居場所”がわからなくなる可能性だ。彼女らにとって「日本」は“母国”と言えるのだろうか。そうではない場合、日本という国では“外国人”として生きなければならない。“純日本人”が圧倒的に多い日本では「ハーフである」という“血族”の問題は、われわれ純日本人が思うほど簡単ではない。つまり外貌的には、どちらかと言えば“日本人寄り”のクリスティーン氏にしてみれば、言葉にしても“普通の日本人”のように話せるのに、それでいて“外国人枠”に入れられて活動しなければならない。彼女自身は、そのことに関しては何も語っていないのだが、芸能人として“居場所が視えなくなった”根底にあるのは、その部分ではないかとわたしは思う。実際、そういう部分から、もどかしくなって、ぎこちなくなって、わざとらしくなって、消えていったハーフタレントは多い。たとえばクリスティーン氏の場合、戦争に対しる発言で一気に人気を失った。コメンテーターとして、戦前の「日本」を“ヒットラーのナチスと同じような国”と評したのだ。もし彼女が“完全なる外国人枠”に入っていたなら、この発言は許されたかもしれない。けれども、上智大学にも通っていた彼女は、この時まで“日本人枠”で通っていたのだ。だから世間は、特に彼女のファン層であった高齢者層は許してはくれなかったのだ。もちろん、彼女自身はそれだけで“居場所”を失ったわけではない。タレントとしても“芸人”と“文化人”の間くらいに居て、そのどちらにも座り切れない部分があった。そういう意味では芸能活動を休止し、海外留学をして、日本人と結婚し、出産し、ママタレとして再出発をするというパターンは、アグネス・チャン氏に似た方向性と言えないこともない。ただクリスティーン氏が良かったのは空白の期間に“さまざまな普通の仕事”も体験してきたことである。派遣社員として雇われて、彼女たちの雇用状態について肌で知ることになった。こうして“生まれ変わった”彼女は、こんどこそ日本人枠で活躍できるだろうか。私には何となく彼女の「終着駅」はもっと別のところにあるような気がしてならない。それを探し当てた時、彼女の本当の意味での“第二の人生”が始まるような気がするのだ。 « Older Entries Newer Entries »