4月, 2023年
2023-04-06
長野市善光寺から、高さ84cmの「びんずる尊者像」が盗まれ、その後、半日ほど経って無事にその容疑者が捕まった。由緒ある寺から仏像が盗まれるケースは時折あるが「びんずる尊者」と呼ばれる釈迦十六羅漢の一人の像が盗まれるのは珍しい。防犯カメラは“盗み出す様子”を記録していた。それによると、男は作業服を着ていて、だから見掛けた人も“何かの業者”で依頼されて持ち出すのか……と思えたらしい。容疑者は34歳で無職、長野の善光寺から遠く離れた熊本県内に居住する人物だった。多くの人は「単なる盗難事件」とみている。けれども、私は“そうではない”ような気がするのだ。おそらく彼には、どうしても持ち出したい理由があった。なぜかというと、彼は盗む前、じっと長時間この像を観ていたからだ。この「木像」は一名「なで仏」とも呼ばれる。病気の人が、その患部と同じところを“なでまわす”ことによって患部が回復するという伝承がある。つまり“病気回復祈願”をこの仏に託す人が多いのだ。ところが、この容疑者はじっと見つめているだけだった。そして、いきなり運び出したのだ。もしも、最初から“盗難する意識”があるのであれば、完全に人気ない時刻を択ぶだろう。そうではなく、午前8時という“明るい時間帯”になぜ訪れたのか。そして、しばらくじっと見続けていたのか。わたしには、彼が自分の“母親の病気”を治そうとしたのではないか、という気がしてならない。彼の親は熊本県に居て、ここまで歩ける状態ではない。けれども、この像は“患部を撫で回す”ことでご利益を得るのだ。つまり病気が回復していくのだ。もしも、その病人が実質的に“動けない状態”なら、後は自分たち家族が何とかしなければならない。たとえば自分の母親ががんのような病気で回復の希望が絶たれているような場合、もし「なで仏」を使って治そうとするなら、この木像の方を持って行って撫で回させる以外にない。容疑者は、そう考えたのではないだろうか。もしかすると、自分が“身代わり”として撫で回そうか悩んだ可能性がある。けれども、多くの病人は自らやって来て縋るような思いで患部を触っていく。身代わりではダメそうな気がする。そこで容疑者は作業員姿となって「像」を運び出したのだ。だが、それを正直に告白するだろうか。わたしは何となく「黙秘」するような気がする。目的不明の窃盗犯となり、自分の想いを秘めたまま罪に服す……そうなっていくような気がしてならない。
2023-04-05
元々わたしは“最新システム”とか“最先端技術”とか、そういうものを好む方ではない。ただ一応そういうものにも少しずつ慣れていかないといけない状況にはある。何しろ“最新システム”のマンションへと入居したのだ。ところが、どうも、いま一つ“それら”が飲み込めない。昨日、最新システムによるクリーニングを試した。つまり、直接顔を合わせることなく宅配ボックスにクリーニングしてほしい洋服を入れておけば、自動的に“クリーニング完成品”がボックス内に届けられるというシステムだ。だが、どうもおかしい。出掛けて行っている間にクリーニング屋さんがやって来て「ご不在で持ち帰れませんでした」とのメモがある。これ、なに⁉ 不在でもボックスから取り出してクリーニングして戻って来るのが、このサービスではないのか。それから、管理人の方に問い質し、クリーニング屋さんに問い質し、さらにこのシステムを管理している会社に問い質し……結局、最後まで何故スムーズに行かなかったのかは解からない。仕方がないので、夕方になってクリーニング屋さんに来て貰って、直接“手渡しするカタチ”での依頼となった。どうもクリーニング屋さんにしても、このマンションの管理人(管理会社)にしても、このサービスの提供会社にしても、いずれも“このマンション初めての依頼”のようで、だれも“なぜダメだったのか”よく解からない。大体、どこにも出勤していない私が“このサービス”を初めて利用するということ自体、不可思議ではないか。クリーニング屋さん曰く「うちはそんな最新の会社じゃないですから…」って、どういう提携なんだ。考えてみれば、通常のクリーニング屋さんは曜日ごと廻って来て、個別に依頼を収集して、洗濯した完成品を個別に玄関まで届ける。その方が間違いもない。ホテルでのクリーニングサービスは“ホテル内で行う”から間違いが少ないが、確かに個別の場合にはクリーニング屋さんの言う通り「この方が間違いもないし、直接、届けられますから…」と笑顔で話す。う~ん、最新システムは“一応導入した形”になっているだけのようなのだ。依頼する方にしたって、いったんボックスに入れたら、もう“取り出すことすらできない”という不便さを実感した。あらゆる分野が“最新システム”を導入しつつあるが、結局、大昔からの“顔を見て、話を訊いての接客”がいちばん安心で、いちばん間違いも少ない。なんか複雑……。
2023-04-04
現代の日本の家庭の多くは“西洋式”である。つまり、ダイニングテーブルというものを備えている。果たしてダイニングテーブルで飲食だけをしているかどうかは疑問だが、一応、そこが“食卓”となっているのが“本来の姿”であることは間違いがないだろう。ところが、昔の日本の家庭では床に座ったカタチで食事をすることが多かった。いまでも“そういうカタチ”で飲食をする家庭は少なからずあるに違いない。和室には座卓が置かれて“それ”がメインのテーブルだった。わたしもそういう家庭で育ったが、いつの間にか“椅子に座って食事をする”のが当たり前へと変わった。時は流れて、この家に引っ越して来るまで我が家はソファー用のセンターテーブルで食事をするのが常になっていた。どうも、最初は違ったような気がするのだが、いつからか“そういう風に”切り替わっていた。一つには本来のダイニングテーブルの方にパソコンが2台“向き合うカタチ”で置かれ、そこで仕事などもする時期があったせいだと思われる。ソファー用のセンターテーブルが大きく楕円形で“食卓用”として使いやすかったせいでもある。イタリア製のセンターテーブルなので、日本の食卓テーブルと比べると少しだけ高さがある。それでも慣れると、この方が使いやすかった。とにかく16年間の内で、本来のダイニングテーブルを食卓として使った期間は短く、せっかく“見晴らしの良い”テーブル席は仕事用に座る機会の方が多くなっていった。ところが、こちらに越して来てから、なぜかダイニングテーブルで食事をする日々が続いている。一つには、越してきた当初にはセンターテーブルが使えなかったからだ。大理石のテーブルは運ばれてくる途中で破損し、その結果新たなテーブルと交換となった。その輸送に一週間を要したので、結果的に最初からは使用できなかった。そのせいで嫌でも本来のダイニングテーブルを使わなければならなくなった。こちらも大理石で大きいが、センターテーブルと比べて自然な大理石としての趣きがある。センターテーブルの方は美しいが加工されているからだ。どちらも石としては分厚く、センターテーブルの方は5㎝ほど、ダイニングテーブルの方は3㎝ほどある。奇妙なもので、予期せぬ事情から始まったダイニングテーブルでの食事だが、キッチンに近いこともあって、このまま続いていきそうでちょっと怖い。
2023-04-03
最近、わたしの眉毛の“白髪化”が著しい。それと同時に、その眉毛が徐々に長くなっていきつつある。これはよく周囲から尊敬を集める僧侶や、その地域の生き字引として慕われる長老に多く見かける“長寿型の眉”だが、なんとなく“そういう感じの眉”に変わりつつある。この眉の典型は、日本では今から30年も前に首相を務めた村山富市氏に視る。実際、彼は現在も健在で、昨日も社民党党首の福島瑞穂氏がご自宅を訪問して“ツーショット写真”に納まっていた。現在99歳らしいが元気そうだ。この“長寿型の眉”は女性には少なく、男性に多い。それも情に厚くて部下後輩から慕われている“おじいちゃん”に多いものだ。わたしも徐々にそうなっていくのだろうか。しかし、わたしには“部下後輩”と呼べる人はほとんどいない。占いの生徒さんにしても、それほど“慕ってくれている”感じの方は乏しい。う~ん、では“慕ってくれる常連さん”だろうか。もっとも改めてそう問われると、そんな風に思える人って、ほんとうに居ただろうか。前にも書いたが「人間の眉」というのは“血の余り”なので、そういう点では“血族”との関係性がいちばん強い。村山富市氏は、現在は大分に暮らしているようで、もしかしたら“親戚(血族)関連”の方達との交流が深いからかもしれない。わたしは正直、自分が“情の深い人間”なのか、それとも“情の浅い人間”なのか、よく解からない。妻からは「冷たい」ともよく言われる。たとえば初婚時に生まれた娘とはもう長いこと逢ってもいない。兄弟との関係性も特別に強い方とも思わない。若い頃のわたしは“濃い一文字眉”に近かった。良く言えば「熱血漢」のようなところがあった。けれども占い師として自立するようになって、世の中が“理屈通りに行かないこと”を痛感させられた。また人との関係性においては、あまり直情的に過ぎるとトラブルを招きやすい。それで徐々に個人的な感情は封印し、あまり表に出さないことの方が多くなっていった。長い眉毛を“櫛で梳かしている”ということが、村山氏のエピソードとして知られた。わたしの父親も眉毛が長かった。ところが理髪店で寝ている間に短く切られてしまい、それ以降、長くならなくなってしまった。そうして、ごく凡庸な寿命で逝った。
2023-04-02
2023-04-02
昨日、引っ越し後に初めて「お経」と「祝詞」とを唱えた。何しろ、わたしは“多神教”である。仏教徒でもあり、神道徒でもあり、キリスト教徒でもある。だから新居にも金色の仏壇があり、大きい神棚があり、キリスト教用の祭壇が……ない。とにかく私は多神教なのだ。本当はイスラム教やヒンズー教やユダヤ教などにも参拝したい。少なくとも“多くの神様たち”と仲良くなっておきたいのだ。よく「一つの宗教に絞るべきだ」というような人達もいるが、神様たちというのは、そんなに狭量ではない。だから読経した後、すぐ祝詞を上げる。そして『聖書・詩篇』の一節を読む。ただ、このところなんだかんだと気忙しいこともあって、そういう“祈りの時間”が省かれてきた。よく、こういうものは「毎日唱えなければ意味がない」などと言う人もいるが、これも狭量な話で、そんなに神様たちは“狭いココロ”を持ってはいない。ときどき、気が向いたなら唱えれば良い。義務的に行うのは何であれ不自然さが生じる。ごく自然に、暮しの中の“ひとコマ”として“祈りの時間”があれば良い。唱えるお経にしても、わたしはむかしからのヤツをオーソドックスに唱えるだけだ。それが終わると立ち上がって祝詞に入る。これも何となく持ち歩いて来た祝詞の一篇を唱えるだけだ。さらに詩篇の音読も気に入った部分のみだ。こうして、わたしは“三つの宗教”と関わる。というか戯れる。宗教行事をことさら“神聖なもの”として扱い、或いは“規則”に沿わなければ……という人もいるが、何度も言うが神様たちというのは、それほど狭量ではない。だからこそ、どの国の人にも受け継がれていくのだ。「日本」の場合、少なくとも“どの宗教”を支持しようと参拝しようと基本的に「罪」にはならない。効果的な面から言えば「お祈り」や「お願い」はなるべく具体的な方が良い。神様は万能ではないし、時には間違いも犯す。だからこそ“素晴らしい”のだ。もしも神様が完璧なら、われわれのちっぽけな悩みや問題には“手を差し伸べよう”とはしないだろう。われわれと同じように“いつも傷つき悩んでいる”からこそ、われわれの気持ちが解かるのだ。「完璧な神」になど価値はない。いつも「供え物」を欲しがっているところも、わたしは好きなのだ。そういう部分が無くなったなら、親しくなろうと思わない。
2023-04-01
世の中には“予測不可能なこと”というのがある。210㎝の高さと90㎝の幅を持った書棚が部屋の中に入らない――クレーンによって引き上げられる――当初、そう約束してくれた引越し屋さんが「やっぱりダメなようです」という回答を、昨日、電話でしてきた。おバカな私は、床から天井までの高さが「250㎝あります」と聞いた時、それなら「210㎝の書棚は余裕で入るな」と家具店に註文を出した。誰が考えたって、40㎝も余裕があるのだから、入らないわけがない。いま考えると愚かなのだが、一般的にはそう考える方が“普通”なのではないだろうか。ところが、現代のマンションというのはエレベーターが小さい。元々エントランスは広いマンションなので、エレベーターまでは何の問題もない。ところがエレベーターの高さが210㎝しかなかったらしい。そうなるとエレベーターによる搬入は不可能となる。では階段を使ってはどうか、という話なのだが、これがまた異様に狭いのだ。どうしてこれほど敷地面積が広いマンションであるのにエレベーターや階段が狭く小さいのか。とにかく、そういうわけで、最初は“吊り上げ方式”であれば、ルーフバルコニーが付いているので、らくらく搬入可能との見方だった。ところが、ここにきて、それも不可能だという。う~ん、困った。どうすれば良いのか。「らくらくパック」というものを利用して、何もせずとも真っ白い書棚4台並んで入って、書籍類も収まって入居だけすれば良い、と高をくくっていたのだが、もう“本の段ボール”が積み上がったまま、どうすることも出来ずにいる。これが“暗剣殺の作用”というものか。勉強になる。などと言っている場合ではない。どうすれば良いのか。解決策はいくつかある。その一つは、本を全部棄ててしまうこと。その二つ目は、とりあえず別な書棚を購入して、当然全部の書籍は入らないから、主要な書籍のみ入れてしまうこと。210㎝の書棚を“ベランダまで引き上げてくれる業者”を何としても見つけ出すこと。まあ、これらのどの方式かで挑む以外ない。わたしの最も尊敬する運命家・中村文聰氏は戦争の時すべての書籍を失った。その時、彼はこれを啓示として受け止め「神が私に“新たな観方”を生みだすべきと暗示した」と記述している。わたしも、そのように受け止めるべきなのか。それとも、何とかして引き上げ搬入する手段を模索すべきなのか。前者の方が“恰好は付く”のだが……誰か、正しい答えを教えてほしい。
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