5月, 2024年

「愛」は不変ではなく「子供」は所有物でない

2024-05-09
世の中に「離婚」が多くなって、その結果として“子供の親権争い”も多くなってきた。昔と違って、仕事をしながら育児もこなす暮らし方が可能になりつつあり、収入面でも男女差が縮まりつつある。そうなると“親権争い”は、どちらが有利とも言い切れなくなっている。こうして離婚した男女が、どちらも子供に対して“強い愛情”を抱いていると、親権争いが思わぬ悲劇を生む。アメリカのテキサス州で32歳の母親と3歳の息子の遺体が公園内で発見された。その母親は、翌日“親権争い”で裁判所に出廷する予定だった。つまり母親は、親権争いに敗れる可能性を察知し、それなら“その前日”に息子の命を奪って、自らも自殺しようと考えたのだった。この女性は息子だけを愛していたのではない。おそらく離婚した夫も愛していたのだ。なぜなら、彼女は元夫の自宅にも訪れ、だれも居ない部屋で洋服をずたずたに切り裂いたり、家具を壊したりもしているからだ。さらに自分自身の家のベッドには、結婚式の写真とウエディングドレス姿の写真を並べて、その2枚も銃弾で打ち抜いている。こうして全ての準備が整った後、母親は保育園から息子を連れだし、公園に行ってスマホを取り出し動画撮影で「さあ、パパにバイバイして」と呼び掛けている。3歳の息子は何も疑わない。そのあと子供向け動画を検索した形跡が残っている。おそらく、息子にそれを見せている間に後ろから頭部を銃撃したのだ。そして、その後、自分自身の頭も銃撃した。彼女は強い愛情の持ち主であったに違いない。最後の写真は、息子だけでなく、自分も並んで笑顔を向けている。それは“復讐”にしても“道ずれ”にしても、あまりに哀しい。おそらく気持ちを切り替え、新たな夫や新たな子供を得ようとすれば“新たな幸福”を得られたに違いないのだが、それを拒否した。あの夫と、この息子でなければ「自分の倖せはない」と頑なに信じていたに違いない。彼女は、自分の決断ひとつで、自分自身も、過去の相手も、そして自分の所有物ではない息子の将来も、幸福に出来た可能性のすべてを自らの銃弾で奪ったのだ。

本当に“胸を打つ”シーンは「そこ」じゃない‼

2024-05-08
偶然なのだろうが、この春のTVドラマで登場人物たちが“記憶を失う”というシーンが続出しているようだ。なんと全部で5人も居るというのだ。ちょっと多すぎないか。どうして、こういうことになるのだろう。おそらく、そういう人物を出すことで「感動的なシーン」や「不条理な出来事」というのを演出しやすいからだ。つまり、視てくれている人達がドラマ全体に対しても、あまり批判的でなく、やさしい気持ちで視て貰えるような、受け入れてくれるような“下地を作りたい”からではないだろうか。しかし、わたしは最近の漫画的な“ありえない設定”が、物語をつまらなくしているような気がする。なぜなら、そういう“ふつうではない場面設定”だと、視聴者との間に距離が生まれる。なぜなら、身の回りには“記憶を失った人”など居ないからだ。どうして、もっと“ふつうの設定”で視る者を引き込めないのか。わたしは最近、TVで録画しておいた外国の映画を観た。その映画は“100年ほど前のアメリカ”を描いたもので、経済的にも追い詰められた家族が“力を合わせて生きて行く”というような設定だった。その物語の中で、男女の葛藤を描くシーンで、トランプカードを握り潰していく……というシーンがあった。どうすることも出来ない感情を抑えきれなくて、無意識に握り潰していく……ただそれだけで、相手との言葉のやり取りや表現は一言もないのだ。本当は山ほど言いたいのに何も言えなくて、そういう中で耐え切れずにカードを握り潰していく。そういうことは誰にでもある。そういう経験というのは、或いは記憶というのは誰にでもあって、その手元だけ映し出しているのだが、何も言わない時間が妙に訴えかけるのだ。こういう“自然な設定”“自然な描写”というものを、いまのドラマは忘れているのではないか。なんでも言葉として表す。形として示す。文字として表記する。だれにでも解るように……というのがいまのTVには必要なのかもしれない。けれども、あえて「解る人には解かる」という“カードを握り潰す”だけのシーンの方が、実際には百倍も雄弁に物語っている。多くの人は、言葉のない中で“AIではない人間”と暮らしているのだ。

「娘の内縁夫」が首謀者だった「救いなき終」

2024-05-07
顔面に袋をかぶせてガムテープでぐるぐる巻きにし、山中で火を点け償却するという“残忍さ”を伴った事件は、結局、実の娘の“内縁夫”が首謀者という哀しい結末のようだ。「働きバチ」ともいうべき両親との間にどういう衝突があったのか知らないが、少なくともその殺害方法は“やくざ”のようなむごい手口で、もし実の娘が絡んでいたとしたなら、あまりに哀し過ぎる。創業者が事業によって大きく成功した場合、そして役員を“創業者一族”で固めていた場合、しばしばその一族間での対立が起こる。そういうケースは珍しくない。だいたいが創業者があっという間に事業を拡大していく場合、ワンマン経営になるのが普通で、時としてはかなり“強引な手法”を発揮していることも多い。それだけに身内から“敵対者”が出てきて、何かしらの恨みや反感を買っている場合も多い。おそらく似たような部分を宝島龍太郎夫妻は持っていたに違いない。ほんとうは「剛腕型の創業者」は身内は少数に止めて、外部からの役員を増やした方が、敵対視されずに済む場合が多い。ところが“強引な手法”を推し進めたい創業者は、経営陣を全部身内で固めた方が“言うことを効かせやすい”意識が強く、外部からの人材を加えない場合が多い。経営が順当で内部に乱れがない時はそれで良いのだが、従業員が多くなって“昔からのやり方”に不満を抱く者が多くなると、身内内部からの亀裂が生じてくる。表面上、役員会議などでは“強引な手法”が通っても、秘かに敵対者の中に“野望を抱く者”が出てくると、事態は一変する。今回の首謀者が、どういういきさつから“義理の父母”を殺害したか解からないが、その“殺し方”から観て、相当に恨みや反感を抱いていたことは間違いがない。それが、夫のみのことだったのか、それとも妻であり娘でもあった人物も加担していたのか、たぶん実の娘が「まったく知らなかった」ということはなかったはずなので、どこまで娘は把握していたのか、最初から計画を共にしていたのか……いずれにしても“急ぎ過ぎた拡大経営”は、あまりに悲しい結末を迎えて終わった。

“18歳~74歳”出場するミスコンで60代女性優勝

2024-05-06
2024年「ミスユニバース」の地方大会だ。昨年から年齢の上限を撤廃したら18歳~74歳までの未婚女性たちが集まった。その中で頂点を極めたのが、60代のアレハンドラ・ロドリゲス氏だったというわけだ。彼女は著名な弁護士で、記者でもあり、数年前に離婚して未婚となった“若々しい60代”なのだ。アルゼンチンのブエノスアイレス大会は、地方大会とは言うものの多くの美女たちがしのぎを削る大会で、ここで頂点に立ったロドリゲス氏は、来月のアルゼンチン大会でも注目を集めることは間違いがない。それにしても、昨年まで出場資格として、年齢の上限があったということを、わたしは知らなかった。日本でもあるのだろうか。少なくとも、日本の場合には“自主規制”が掛かって、60代とか70代は応募してこないような気がする。というかブエノスアイレスの大会では、よくぞ60代にグランプリを与えたものだ。その優勝した彼女によれば、若々しさを保つ秘訣は「ストレス管理と健康な活動」だそうで、それ以外の特別なことは必要ないようだ。どの大会でも完全に年齢を撤廃させるのはどうかと言えば、ひとつだけ懸念されるのは“整形美女”が大挙出てくるようなことなど生じやすいかもしれない。だが考えてみれば、いまの時代“美を生み出す”さまざまな方法があるわけで、いっそのことすべてを撤廃して出場OKにしてしまった方がスッキリするのかもしれない。そういえば昨年だったか、どこかの国が“元男性で性転換した美女”をグランプリとしていた。最近は、そういう部分でも境界線があいまいになって来ているから、もう全部を取っ払って、純粋に“美しいことだけ”を基準として選んだらどうだろう。昔から“一般教養”とか“履歴”とか“語学力”とかも採点に加えられているが、それらも外して、純粋に“美しさ”だけを基準にしてしまった方が、納得しやすいというか、観ている人達には解かりやすいような気もする。

世界で通用するのは「われ関せず型」の人物⁉

2024-05-05
歌手の松田聖子氏が再び“海外進出”に意欲を燃やしているらしいとの報道があった。彼女の場合、若い頃に一度海外に拠点を写そうとしたが、上手くゆかず日本に舞い戻ってきた過去がある。近年は80年代和製ポップスが世界的に人気を博していることもあり、いまであれば“世界の歌姫”として受け入れられるのではないか、という思惑があるらしい。だが私は上手くゆくようには思えない。なぜかというと「松田聖子」という歌手はキャラクターとして日本人向けに出来ているからだ。どちらかというと海外で通用しやすいのは「我が道を行くタイプ」の人たちである。多少批判されても、それは気にせず、自分のやりたいことをやりたいように推し進めていくタイプだ。日本人でも、総じてそういう“マイペース型”というか“われ関せず型”というか、そういう人たちが成功しやすい。特にアメリカの場合はそうである。松田聖子という人は、或る意味で日本人が最も好む“繊細さ”と“気くばり”を備えている。そういう人は日本人受けは好いのだが、アメリカ人にとっては“解かりづらいタイプ”となってしまう。どちらかと言えば、生き方として“我が道を行く”を貫いている「浜崎あゆみ」の方がそういう意味で言うなら向いている。実際、彼女の場合には外人と結婚もしている。松田聖子は3回結婚したのだが、いずれも日本人であり、日本人的な男性たちだった。いま例えば「大谷修平」は世界的なアスリートとなったが、彼もどちらかと言えば“われ関せず型”で、だから水原一平の“裏切り”があっても、それによって憔悴してしまうことがなかった。日本人はどうしても周囲というものを過剰に意識し、その周囲にとっての“好ましい姿”であろうとしすぎる傾向がある。けれども、どちらかというと世界に通用する人物の多くは、悪く言うと“自分中心”で“人は人、自分は自分”と割り切れるタイプなのだ。したがって、もし松田聖子氏が“世界に羽ばたく”とすれば、それらキャラクターとしてのマイナスを振り払うほどの“歌”や“歌声”でなければならない。それを引っ提げてなら、再びのチャレンジは成功するに違いない。

「入社一か月」なのに「退職代行」利用者急増

2024-05-04
最近、注目されてきた仕事の一つが「退職代行サービス」という分野だ。要するに入社した会社を辞めたくなった時、自分の代わりに“退職手続き”を行ってくれるサービスのことだ。特に勤めて間もない場合、退職を言い出すのも、その手続きを行うのも、憂鬱な作業となる。出来れば、もう辞める会社には出向きたくもない。そういうようなときに全部本人に代わって“代行”してくれる便利なサービスなのだ。入社して間もなく、辞める理由というのはさまざまだ。多くあるのは入社前とでは話が違っていた場合。次が、自分にはこの仕事は合わないと思った場合。職場でのパワハラやセクハラがあったような場合。あまりにも激務で身体がついていかないような場合。まあ“それらの事情”なら、すぐに辞めたくなる気持ちもわかる。そして、そうは言っても自分では“退職”を口にしにくいのも何となく解かる。だから、そういう時の「退職代行サービス」は素晴らしい代行業に思えて来る。実際、企業によっては書類手続きというのが、意外なほどめんどうな場合も多い。或る程度長く勤めてきた人の場合は、なんとなくその人の性質とか、仕事ぶりとか、各種の事情とかについて、周りが感じ取っている場合が多い。だから、辞める場合でも、本人にとって覚悟が出来ているし、周りもそれなりに理解している場合が多いので、時には“送別会”のようなものを開いてくれる場合もある。だが入社して間もなくの場合には、そうはいかない。せっかく入社したのに、なぜ辞めるのかという声が聴こえて来そうである。実際には、新人があっという間に辞めてしまうケースは稀ではないので、本人が思うほど周りは気にしていないが、周囲を気にしやすい人とか、責任を感じやすい人とかは、辞める行為そのものに、或る種の“後ろめたさ”を感じている場合が多い。だから代行サービスを利用するのだ。それによって、退職がスムーズに行えるなら、それに越したことはない。たとえ実際には3~4日しか勤めていなかったとしても、その分の日給というものを受け取ることもできる。そう、わたしも若い頃には何度か経験あるが、そのつど“ただ働き”をした形で辞めていたものだ。このサービスは絶対に利用した方が良い。

「オレンジ」と「みかん」の違いが判らない⁉

2024-05-03
オレンジの価格が高騰し、その結果「オレンジジュース」が相次いで販売休止に陥っているらしい。販売休止にしていないメーカーは、これまで410円で販売していた「オレンジジュース」を4月から560円に値上げしている。何しろ輸入価格が3倍~4倍に高騰しているというのだから、値上げしても採算がとれているとはいいがたい。その結果、微妙に変化したのは、これまで「オレンジ・みかんが100%」と表示していたのを「みかん・オレンジが100%」と順番を入れ替えた表示記載だ。ただ、わたしは思うのだが「オレンジジュース」と「みかんジュース」は、そんなに違うのだろうか。正直、あまり味覚に強くない私には、どっちでも良いような気がしてならない。昔コーヒーのTVコマーシャルに「違いの分かる男」というのがあったが、そういう意味では私は「違いの分からない男」で、どのコーヒーを飲んでもそんなに違うとは思わない。ブラックコーヒーなど、どこが良いのか解からない。朝には子供のように牛乳を飲むが、それもどのメーカーとか、どの牛乳とか、特別はない。要するに牛乳であればいい。それと同じようなもので、オレンジジュースも、ミカンジュースも、そんなに違っていないような気がするのだが「違いの分かる人達」には「ミカンジュースなど飲めるか‼」と𠮟られそうである。だが、わたしは思うのだが、結局、わたしは幼少時代を貧しく過ごしたので「違いの分からない舌」になったが、そのことで味の違いは分からなくても、どういう環境でも生きて行けるというか、食べていけるというか、或る意味では耐久力というものを育まれた。環境的に恵まれすぎて育つと、どうしても身体全体が“贅沢”になって、過酷な環境とか貧しい食物状況とかで生きていくことが難しくなってしまうのではないだろうか。いまの時代、いつ、どういう事情から環境が激変するか解からない。たとえば地震とか台風とか土砂崩れとかの予期せぬ災害から、一挙に良好な環境が一瞬にして奪われるか解からない。そういう時でも、幼い頃に“不遇な環境”で過ごしていれば、自然に耐久力が備わって、万一の場合でも「違いの分からない男」として、どれでも美味しく過ごしていくことが出来る。

「永遠」という言葉ほど「愚かな言葉」はない

2024-05-02
人はなぜ歴史を学ぶのかというと「いまを生きるための知恵」を過去の出来事から学び取るためだ。そういう意味で、ここ数年というのは、もっとも歴史から学ぶべき部分が多い時代に差し掛かっているように思う。たとえばドル円の値動きだ。先日、ドル円は1日で6円も“円高”に動いた。5兆円規模の為替介入が行われたからだと言われているが、それによって一気に1ドル=160円から、1ドル=154円まで下がった。ただ、それは一瞬で、その後また“円安方向”へ徐々に動いている。日本株の値動きも最近は微妙だ。一気に41000円を突破したと思ったら、今度は一気に下がって37000円まで急降下した。おそらく急速に再び40000円へと戻していくだろう。デフレからインフレへと転換しつつある今の日本は、経済に関わるあらゆるものが流動的である。繫栄する業種も、昔は何年も、時に何十年も、ひとつの業種は右肩上がりとなり、ひとつの業種は右肩下がりとなったりしたが、最近は一二年の間にコロッとそれらが入れ替わる。去年まで大いに栄えていた業種が、ちょっとした風評で急速に経営が傾き、逆に最近まで閑古鳥が鳴いていた業種が、一気に注目を集めて業績を伸ばす。そういうことが“ふつう”に行われるようになった。それも短期間であっという間に変貌していく。つまり、昔なら三年間くらい掛かったことが、いまだと半年くらいで浸透してしまう。それだけに、世界のどの国と関わるか、どのエネルギーと関わるか、どの通貨が関係して来るか、どの輸入品や輸出品と関わるか、どの情報を基にしているか、どういう気象が関係して来るか……さまざまな条件が重なり合って、特定の職種を押し上げたり、逆に特定の職種を苦しめたりする。こういう時代は、新しい仕事や業種が誕生しやすいと言われる。また一時的に低迷していた業種が復活しやすい時でもある。昔は“安定した業界”とか“右肩上がりの業界”とか言われたものだが、もはや“それ”はない。猫の目のように日々変化する社会情勢が、或る時は有利に働き、或る時は不運に作用し、歴史の中に“成功へのヒント”が隠れていることを教えようとしている。

2024年5月の運勢

2024-05-01

世にも奇妙な「波木流・妄想神社の本」が出た

2024-05-01
実は、この本を書いたのはそうとう前だ。なぜ、こういう本を書いたのだったかは、その時にはちゃんと理由があったのだが、いまとなっては想い出せない。とにかく、書いたのは6~7年も前であり(だから内容的にも、ところどころしか明確な記憶がない)書籍化は出来ないだろう……と思っていたのだが、紆余曲折を経て時間がかかったが、ようやく出版されて形となった。わたしはこれまで“占いの本”をいろいろと書いてきたが、こういう奇妙な“精神世界の本”というのは書いたことがなかった。だから、こういう“隙間の多い本”というのは何となく自分らしくなくって、本当は嫌なのだ。それに書籍化するのであれば「マンガチックなイラストを入れて欲しい」というのが願いだったのだが、実際に出来上がった本にはリアルなイラストが入っている。そういう点でも“しっくりしない”印象があるが、出来上げってしまえば“どの本”も同じで、自分自身の生命力が付与されている。だから出来れば存在感を増し、実際に活躍することが出来る本になって欲しい。正式な書名は『こっそり妄想神社にお参りしなさい』というタイトルで、これもわたし自身が最初に付けた書名とは微妙に異なる。書籍というのは、著者自身がタイトルを付けたままのこともあれば、出版社の方で変更してくることもあるが、どちらかと言えば出版社側が最終的に決めるケースが多い。わたしが最初付けたタイトルが何だったか、正直、これも時間が経ったせいで明確な記憶がない。ただ『すべての願いは妄想神社で叶えられる』のような感じのタイトルだったと思う。何となく「こっそり妄想神社……」というのは、わたしの性に合わない。まあ、しかし、元々が“おかしな本”なのだからタイトルなどどうだって良い。占いの本の場合には『実際手相鑑定密義』とか『四柱推命の謎と真実』とか『全身観相術の神秘』とか『「結婚」占星学の奥義』とか『古代エジプト守護神占星術』とか『江戸JAPAN極秘手相術』とか……他の占いの本では“使われないような名称”を好んで付けてきた。だから、これらに関しては最初から変っていない。変えられたのは『この占いがすごい』という本で、元々は違ったタイトルで書き出したのだが、途中で出版社から「タイトルを変更したい」ということで、それを受け入れた。書籍というのはタイトルで売れたり売れなかったりするようなものではないかもしれないが、ただ、タイトルを知れば“その中身全部”が一瞬にして解かるようなものを私は好む。今回の本は、そういう意味では“一瞬で解かる”タイトルではないが、もしかするとそういう感じの方が手に取ってもらえるのだろうか。 Newer Entries »