3月, 2026年
2026-03-31
わたしは知らなかったが兵庫県の小学校で、男子児童が女子児童から「陰部を触られた」という告発があり、明石署が指摘された少女に対し、署内で約4時間ほど被害申告に沿った形での事情聴取を行っていたという。当時12歳の少女は「何のことかわからない」「憶えていない」と述べていたが、その後、やや強引に「自白調書」を作成、それが後になって「虚偽であった」ということで一応の結末をみている。この事件に対して、先頃、改めて兵庫県弁護士会が児童を4時間近くも事情聴取したのは“行き過ぎ”で“虚偽の調書”を作成される可能性が強いとして、県警への抗議を行ったらしい。わたしには、なぜ今なのかがよく判らないが、そしてもう一つの驚きは女児が“性被害”を訴えたのではなく、男児の方が女児を訴え、それを踏まえて明石署が“4時間も事情聴取した”という…その部分にある。昭和の時代には考えられないような状況で、まず、女児が男児の“陰部を触る”ということも考えにくく、それによって“男児が女児を訴える”ということも考えにくく、それに応じて警察が“事情聴取に動く”ということも考えにくく、それが“署内で4時間も行われた”ということも考えにくく、その後になって“虚偽であった”というのも考えにくく……あらゆる部分で、昭和なら、ほんとうに考えられない事件ということになる。そして、いちばん不思議なのは、ほんとうに“虚偽だった”のだろうか……という部分。もし、ほんとうに虚偽であったなら、なぜ、そのような“不可思議な虚偽”を警察署が動くほどの形で行ったのだろうと思ってしまう。あらゆる部分が変なのだ。もしも、その女児を虚偽で告発したいなら、もう少し警察が動きやすい“虚偽”を行うのではないだろうか。なぜなら、触った、触らない、というのは普通なら“警察が動く”ような問題ではない。それに多分「防犯カメラ」のない教室内で行われたと推定されるが、もっと可能性がありそうな「○○を盗まれた」とか「殴られた、蹴られた」という感じの方が警察が動きそうな気がする。もし、その女児から男児の方が日頃イジメられていたなら、そういう方法だってある。警察が動いたということは、見た目的にも、それがあってもおかしくはない“女児と男児だった”ということになる。現在、全国の学校では防犯カメラを取り付けられているのは60%~70%くらいに留まっていて、それも教室外であるのが一般的だ。イジメなどの問題を考える時、これからは教室内にも防犯カメラを設置すべき時代に入ったような気がする。
2026-03-30
性格にもよるが、一つのことに、或いは一人の人に“執着し続ける”人生の歩み方をする人は多い。この“執着タイプ”は、あまりに目移りしすぎる“流転タイプ”と同様、結果的に不運な人生となってしまうケースも多い。つまり、人生においては“適度な執着”や“適度な流転”はチャンスを呼び込むケースが多いのだが、あまりの執着やあまりの流転は共に幸福には結びつかず、結果だけ視ると“嘆きの人生”となってしまうことも多い。東京のサンシャインシティの「ポケモンセンター」で働いていた21歳の女性が、職業不詳の26歳の男から刃物で襲われ死亡した。襲ってきた男は昔の交際相手で、自らも咽喉を突き刺して死亡した。或る意味では“無理心中の形”だった。二人は2年ほど前に9か月間ほど交際していた。その後、別れたのだが、それは襲われた女性が「ポケモンセンター」で働き出し、それを男性が「お前には似合わない」と言って辞めさせようとしたことが発端らしい。結果的に、ふたりは別れ、女性は勤務を続けたのだが、その職場で刺されたことになる。別れた後に、男の方がストーカーと化し、女性が訴え出て、男には「接近禁止命令」が出た。警察は女性に「職場も変えた方が良い」と勧めたが、元々「ポケモンセンター」で働くことが“夢”であった彼女は、その忠告には従わなかった。つまり、奇妙な形で元交際相手のストーカーからも、それを取り締まる警察からも、その職場を離れるよう望まれながら、それが出来なかった。一方のストーカー殺人を犯した男の方も、警察に捕まり「もう接近しません」と罰金80万円まで支払ったのだが、その3か月後には“心中殺人”を試みることになった。奇妙にも、この殺人事件は、女性は職場に執着し、男は女性に執着し、その結果として“双方とも命を失う”という哀しい結末となった。もし、女性が職場に執着していなければ、もし男がその女性に執着していなければ、そのどちらかだけで“救われた二人の命”であった。最近、人生の選択肢を“自ら狭めてしまう”人たちが多い。もちろん、流転しすぎるより、執着しすぎる方が、まだ“幸福を掴む”可能性は強いと言えるが、ただ状況や物事によっては「もう一つの可能性」を求めた方が、最初に求めた形とは違うが“幸福な人生”を歩めるケースも多い。何が「災難を避ける」かは誰にもわからないのだ。
2026-03-29
時々ネットニュースなどで取り上げられやすい「てんちむ」こと橋本甜歌氏(32歳)と、同じく「青汁王子」こと三崎優太氏(37歳)とが“結婚”を公表した。実際には今年の1月1日にプロポーズして1月30日に入籍していたという。元々ネットなどで騒がれやすい二人なのだから、最初から公表すれば良いものを、なぜか三か月も沈黙し続けていたようだ。この二人は四柱命式で観た時、或る種の共通性があって、夫側の方は天干の方が「印綬・劫財」で、蔵干の方が「正財・正官・梟神(偏印)」と並ぶ。妻側の方が「印綬・印綬」で、蔵干の方が「偏財・梟神(偏印)・正官」と並ぶ。若干ズレていたりするが、上下に配置された先天運としての“星の配置”には共通性が多い。つまり、その性格も、運命にも、共通性が多い、ということだ。だから、お互いに共感したり理解したりしやすい。但し、共感し合うから、それが即“相性が良い”とは限らない。似た感じの人同士が結婚して、何年かして、その“似ている部分”が反発し合って、結局、離婚するケースはしばしば見受けられるからだ。だから、こういう“似た要素”で構成されている者同士は、友達同士、仲間同士としては申し分ない。「結婚」は“家庭・家族”というものが加わり、さらに“仕事・運命”というものが加わるので、いつまでも友達同士では居られないのだ。この二人の場合、その日支蔵干(配偶者を表す位置)が夫側「正財」となり、妻側「偏財」となっている。つまり両者とも「正財・偏財」の財星なのだ。この「財」という星だが、古代中国人は「財」に「財産(金運)」という意味と「才能」という意味と、その両方の意味を含めて「財」とした。だから「才能の才」には「財」という文字の一部分が含まれているのだ。つまり、この二人は本人自身も才能を発揮しているが、その配偶者にも「才能を発揮し、財力を得ていく人」を求める。それらが難しくなった時、本来の配偶者像から崩れていくことになる。つまり、双方がそれぞれの才能を発揮して、大いなる金運を得ているときは良いが、そうでなくなったら運命的な配偶者像ではなくなってしまう。だから、妻側も基本的には“働き続ける”方が良い。そのつもりはないかもしれないが、昔でいう“専業主婦”となったら、彼は本来の「正財」を無意識に求めだすことになる。そういう意味で言えば、現代の日本では、結婚してすぐ家庭に入ってしまう人は少ないので、配偶者像が崩れるケースは少なくなった…と言えるかもしれない。
2026-03-28
最近、わたしはときどき録画して溜まっている昔の「洋画」や「邦画」を観る。洋画の方が圧倒的に多いが、たまには邦画も観る。すると必ずと言っていいほど、現代では“相応しくない表現や映像”に対しての但し書きが出る。つまり、オリジナル作品を尊重して、そのまま放映します、という文言が続く。21世紀という時代が、いかに“規制に満ちているか”痛感させられる。確かに、時としては「こんなこと言っても平気なんだ」と驚くような言葉が出て来たりする。上司が部下に言う言葉とか、夫が妻に対して言う言葉とか……。映像でも血だらけのまま取っ組み合う場面とか、薬物を回し飲みする場面とか、指を詰める場面とか……なかなかにきわどい。ただ、それらが物語のリアリティーを高めていて、妙に納得させられたりもする。もちろん、その影響力を考えると、必ずしも「だから良い」とは言い切れない部分もある。けれども、少なくとも芸術や芸能の作品においては、現代は少し“規制が強すぎる”よう感じられる。だから、或る意味では“迫真の演技”というものから遠ざかってしまうような気もするのだ。もう一つ、昔の映画を観て思うのは、これは洋画でも邦画でもそうなのだが、その時代背景としての“当時の街並み”とか“建物やその内部”とか“流行りもの”とか“国家観”とか“暮らしぶり”などが判る点がある。さまざまな点で、当然のことながら今とは違っている。洋画などでは“人種差別”なども平然と示されるし、いまとは異なる“国としての敵・味方”なども解る。特に“戦争”そのものをしているとき、その前後の時、完全に平和な時代の時……これほど映画には時代が反映されるのか、と驚く。その当時の経済的な状況も映画には反映されやすい。日本の60年代など、大都会と地方とでの地域差も判然としている。自分自身は、そういう時代を生きて来たのだな…と思うのだが、なぜか実感はない。自分とは無関係な“大昔の出来事”のような感覚を持ってしまうのは何故だろう。その一方では胸が締め付けられるほどの“なつかしさ”を感じてしまうこともある。大昔の一般家庭のトイレなど、そういえばそうだった……と改めて想い出すのだが、どういうわけか自分自身の記憶というよりも、それこそ“映像の記録”のような気がして、もしかすると、無意識ながら“嫌な過去の記憶”は消してしまっているのかもしれない。
2026-03-27
ときどきマスコミ報道の中で「スタグフレーション」という言葉を耳にするようになってきた。この言葉の意味は「景気停滞しているのに物価上昇が続いている現象」のことだ。なぜ、こんな言葉が使われ始めるのか。それは、現在の状況が続くと、そうなって行く可能性が強いからだ。現在の状況とは、アメリカとイランの間で戦争が続き、海峡が封鎖され、石油が高騰していく状況だ。一週間以内くらいの間に、何らかの打開策が打ち出されないと、間違いなく“そういう方向”に世界は進んで行く。今回のスタグフレーションは「アメリカ発」もっと言えば「トランプ発」だと言ってもいい。最初にアメリカに生じて、それは、すぐに日本と欧州に伝播する。さらに世界へと広がりを見せる。いったんアメリカに生じたなら、それが世界に普及することは確実で止めようがない。したがって、そういう点から言えば、アメリカは…というかトランプ政権は、ここ数日のうちに“何らかの手立て”を打とうと見計らっているに違いない。そのアメリカでは株式市場の「ナスダック」が急落し、俗に「恐怖指数」と呼ばれるものが急上昇している。普段は動きが乏しいのに現在は“28”まで急上昇中だ。もしもアメリカの作戦が不発に終わって、危険な状況が長引いた場合、まずはアメリカからスタグフレーションは起こるが、実はもっともその打撃を受けるのは「日本」なのだ。次が「韓国」だ。この両国がもっとも打撃が大きい。これまで比較的、経済が順調だったアメリカは、確かに急速に職を失う人、家を失う人が増えるが、その比率は極端ではない。ところが日本と韓国の場合は元々エネルギーを輸出に頼り、経済的に脆弱な部分があって、しかもアメリカ市場の影響をもろに受けやすい。したがって、この二つの国がもっともアメリカに続いてスタグフレーションが引き起こされやすい。しかも、その深刻度はアメリカをしのぐ。続いて欧州の主要国が、これに続く。ドイツ、フランス、イタリアなどだ。その一方で、もしもアメリカの作戦が成功し、あっという間に“終結の兆し”が視えたなら、これまで過度に市場が急落していたため、その反動ともいうべき現象が起きてくる。つまり、株式市場はどの国も急騰するが、とりわけ「日本」の株価は急騰することになる。前にも述べたように「日本株」というのは“世界における景気敏感株”としての役割を備えているからだ。どっちに転ぶのかは、わからない。ただ、どちらにしろ、この一週間以内に“それ”は判明する。
2026-03-26
お笑い芸人「もう中学生(丸田典幸氏43歳)」が、モデル・タレント恵理氏(32歳)と結婚、それをTV番組の中で自ら報告した。「もう中学生」とはいうが、もう43歳になっていた。二人のコメントを読んでいて、いちばんのポイントは「段ボール生活にあるな」と私は思った。つまり、家中、彼がコントネタで使用する“段ボール作品”が山のように積まれているらしい。それを嫌がらず、微笑ましく感じ取ってくれる女性だったことが、いちばんの“決め手”になったのだと私は思った。どういう仕事の人物であれ、その仕事を“家の中に持ち込む人”と“持ち込まない人”とがいる。「もう中学生」のような“段ボールコント”をネタとして、つまり“仕事材料”として家中に置いておかれては、通常の感覚だと、家の中が常に片付かなくて“嫌”という気持ちになりがちである。それを嫌がらず、微笑ましく受け入れてくれる女性はそうそう居るものではない。しかも、この女性の場合には、そこに“違和感を感じていない”ようだった。ただ、一つだけ懸念するのは、もし今後子供が生まれた時、それらはどうするのだろう……という部分だった。なぜなら、当然、子供は“おもちゃ”にも似た段ボールを使って“遊びたがる”に違いないからだ。けれども、それは彼にとって“遊び道具”ではない。仕事で用いる“大切な作品”なのだ。それを理解するには、それこそ中学生まで待たなければならない。もしも彼が、子供と一緒に“それらを使って遊ぶ”ことが出来れば「大物」と言えるが、通常、仕事に使うものは“そういう形”では扱えないのが普通の大人だ。したがって、子供が生まれたなら、新たに“段ボール部屋”を借りる可能性もある。或いは逆に、これまでの“段ボール作品”を選り分けて、大切なモノのみ残して置く方針に切り替える可能性もある。こういう形にするのは仕事よりも“生活重視型”の人物で、そういう人の方が私生活としては安定する。ただ今回の結婚まで、それらの整理をしていなかった人物が、子供が生まれたからといって、すぐ切り替えるとは何となく思えない。そうすると、もし、現在の暮らしをそのまま継続していくことになれば、やがて恵理氏は「母親」と「妻」との間で、そのどちらの“立ち位置”で暮らすべきか悩む日々が訪れそうな気がする。
2026-03-25
「三度目の正直」という言葉がある。この言葉の意味は、ほんとうのところ、よくわからない。通常は、一度目や二度目は上手く行かなくても、三度目であれば上手く行く……という意味で使われる。どうして三度目なら上手く行くのか。実はこの言葉は、元々は「二度目の見直し三度目の正直」というのが本来の姿だったらしい。ということは、一度目は経験不足から失敗し、二度目は細かな部分で見直しが必要で、三度目くらいになって物事は成就する……というふうな意味合いなのだろう。そう考えると、ナルホドそういうものか……と妙に納得する。ただ元々の意味合いはそうかもしれないが、なんでも、物事は三度目くらいになると、その本質が表れる……というふうに、わたしは勝手に解釈する。元タレントの坂口杏里が“三度目の逮捕”となったようだ。今回の逮捕はコンビニで「サンドイッチ一個を万引きした」ということらしい。わざわざ報道しなくても良いような事件だが、同日には、南野陽子氏の元夫が“三度目の逮捕”という報道も流れている。こちらの方は、毎度、詐欺や横領事件などでの逮捕で“ワルイ奴”との印象が強い。坂口杏里の方は“事件”とも言えないような事件だが、この人は自らの感情のコントロールが下手なようで、これまで二度結婚し、いずれもその2か月後には離婚している。職場も転々とし長続きしていない。人生においては、だれもが「思うようにならない時」というものはあるもので、感情に流されず我慢していれば、やがて運勢は好転していく。三度目の逮捕で、これからは“逮捕の常連”とならぬことを祈りたい。同じことで“何度も失敗する”のは、何かに問題があるからだ。それこそ「二度目の見直し」をしていなかったからだ。二度目の見直しをしていれば、多くの場合は諺通り「三度目の正直」で成功にこぎつけられる。もし、三度目でも成功できない場合には、その事柄に関しては“諦めた方が良い”場合もある。何事も失敗から学んでいく……というのは“倖せ”や“成功”を掴むうえでの一番の秘訣で、何度やってもダメなものというのは「そこから同じ形で挑んでも無理」という神からのメッセージと思った方が良い。
2026-03-24
「紀州のドン・ファン」殺害(⁉)事件の大阪高裁の判決が出た。一審と同じく「無罪」だった。和歌山の資産家・野崎幸助氏が急逝覚せい剤中毒死した事件だが、元妻である須藤早貴被告(30歳)が何らかの方法で夫に対して多量の覚せい剤を飲ませて殺害した……とする検察側主張は、今回も新たな証拠などなく、以前と同じ主張を繰り返し挑んで“破れた形”といえる。わたしは最初から、この逮捕はおかしいと書いてきた。わたしがいちばんおかしいと思うのは、検察側が最初から「元妻が殺害した」と決めつけて捜査している点である。世の中には、さまざまな形で“結婚する人々”及び“結婚生活を継続している人々”が居る。この点に対して、検察側の考え方は、あまりに通俗的過ぎるのだ。つまり被告が、最初から「遺産目当てで結婚した」と考え、短期間の結婚生活が「殺害までの準備期間だった」という捉え方をしている。けれども、本人はそれまでにも表現は良くないが「男性たちを手玉に取って」暮らしてきた過去がある。彼女は札幌で十代までを過ごしたのだが、その学生時代から、金持ち男性と交際して貢がせ、高価なブランド品を身にまとい、早く東京へ出て、もっと「豪勢な暮らしをしたい」という願望を持っていた。東京へ出て、それを実現させてくれる可能性の強い男として紹介されたのが、夫となる野崎幸助氏だった。一方の野崎氏の方も、これまでずっと「若い女性に金を使う」暮しを続けてきた。彼女が初めてではない。ずっと“そういう暮らし方”だったのだ。だから、双方とも、そういう意味から言えば“共通する価値観”で生きて来た。毎月100万円もらって、東京と和歌山との“二拠点生活”が出来れば、若い妻には何の不満もないのだった。少なくとも、そういう暮らしが“あっという間に終わってしまう”のは彼女の計算外だった…ということになる。もし、彼女が仮に“計画殺人”を考えるのであれば、最低でも一年間くらいは結婚生活をしたのち、殺害するのが妥当ではないだろうか。なぜなら、すぐ殺したのでは、しかも、ふたりだけの家で、ふたりだけの時間帯に殺したのでは、真っ先に疑われる。どんなに頭の悪い女性だって、それは感じる。なのに、彼女は夫が死んでもあっけらかんとしていた。お通夜にスマホを弄っていたので、親戚から注意されたほどだ。つまり、夫が亡くなっても平然とし続けていた。もし自分が殺したなら、真っ先に疑われるのだから「悲劇のヒロイン」を演じなければならない。なぜなら彼女は短い間でもAV“女優”として役者を演じていたのだから……。
2026-03-23
3月から4月にかけて、北国では“化粧のような雪”が降ることがある。つまり気温が上がって、路上の雪が溶けだして時間が経つと、それはどんどん“黒っぽく”なる。白かったはずの雪が黒くなっていくのだ。正直、あまり美しくない。ところが、その黒っぽく変色した雪の上に、再び、季節外れの雪が降り積もることで、溶け切らなかった雪は再び“白さ”を取り戻す。完全な「白」ではなく、どう視ても“不完全な白”なのだが、それが季節を必死に“押し留めている”かのようで妙に味わい深い。そういえば、それはどこか「死化粧」にも似ている。死者の顔に対して施す化粧のことだ。多くの場合、人はこの“死化粧を施された顔”と対面する。だから、生前の時のように愛着が持てる。同じように“黒い雪”は見て見ぬふりをされやすい。こうして季節遅れの雪が降ることで、うっすらと化粧を施し、微妙な白い雪となる。こういう話を書いていると、わたしは自分の大昔の作品のことを想い出す。その頃、わたしは『抒情文芸』という雑誌が好きで、よく購入していた。その雑誌は、どの書店にも置かれているメジャーな雑誌ではなく、ひっそりと置いてある書店も存在する類のマニアックな雑誌だった。小説も載せられていたが、どちらかといえば“投稿詩”が主体の雑誌で、それも若いアマチュア詩人とでもいうか、そういう人達が投稿している“抒情詩”で成り立っている雑誌だった。わたしは時々その雑誌に抒情詩を投稿した。そして、その多くは掲載された。ただ、いつの間にはその『抒情文芸』は書店からも消えていったし、わたしの書棚からも消えていった。ただ、その雑誌に掲載されていたいくつかの詩の中の断片は、未だに憶えている。そういう意味でも、あの頃と、あの雑誌は、とても懐かしい。わたしが掲載した作品の中に「黒い雪」というのがあった。だから、今日、想い出したのだ。どんな作品だったか忘れてしまったが、なぜ「そのタイトルにしたのか」は鮮明に記憶している。当時、暮らしていた室蘭は、文字通り“黒い雪”となりやすい街だった。元々鉄鋼の街で黒煙が上がりやすく、そのため、路上の雪もすぐに黒くなってしまう。札幌のように時間が経って黒く変色するのではなく、翌日には“黒くなっている”のだ。わたしは、そういう街から早く逃れたかった。そういう想いが「黒い雪」を書かせたのだ。
2026-03-22
私も知らなかった。学校の校長というのは「教員免許」がなくても“成り得る”職業だったということを。実際、そういう形で校長となって、その顛末を書籍化した『素人校長ばたばた日記』という本が注目されている。教員免許を持たない県庁職員が、公務員辞令の元に県内の商業高校の校長として派遣され、その高校から極力“県内就職率を高めるよう”ミッションを与えられ、それなりに奮闘努力するさまを描いている。まずは誰もが「教員免許を持たなくても校長になれるんだ」という事実に驚く。そして、大丈夫なのだろうか、と不安視する。考えてみれば、校長というのは、謂わば“学校経営者”だ。教員としての資質よりも、経営者としての資質の方が重要なのに違いない。それに、世の中には「教員免許」というものを持ちながら、それを眠らせている人が沢山いる。わたしの母親だって、大昔だが「教員免許」は持っていた。持ってはいたのだが、一度も教壇に立つことはなく人生を終えた。方や、わたしの方は教員免許どころか“正規の学歴”を経ていないのに、十代の時から「家庭教師」として子供たちに勉強を教えていた。それが、わたしの“初めてのアルバイト”だった。奇妙なことには、その子供たちからは信頼され大いに好かれていた。但し教育そのものには熱心ではなかったので、生徒たちの学力は少しも向上しなかった。その後も、わたしは20代半ばからは「占い教室」を始めていて、占い師を希望する生徒たちを募集し、その後何十年も多数の生徒たちを教えて来た。こちらの方も完全に独学であって、何処かの占い学校に学んだとか、有名な先生に習ったとか、そういうことは一切ない。だから、そういう点でいうなら、この書籍の人物のように、免許など持たず、けれども何十年間も“プロ占い師”を養成すべく教え続けてきた。免許を持っていながら、一人も教えず終わった人生もあれば、免許など持っていないが、何十年も教え続ける人生もある。わたしの場合、個人的に教えるだけでなく、大勢の人たちを対象として、しかも入門書としてではない、どちらかといえば専門書に属する形での“占いの教科書”を何冊も書いて来ている。それも一つの分野だけでなく、西洋式、東洋式のさまざまな占術分野に関してだ。それを考えると、結局、何の分野であれ「免許」とか「卒業証書」とか、仕事そのものには何の関係もない。基礎知識は必要だが、それを活かすか殺すかは、本人の意識や腕に掛かっているのだ。
2026-03-21
どの世界でも「蛇の道は蛇」で、その世界だけでは知られている“裏方たち”がある。「同人誌」の世界で広く知られているのが新潟の有限会社「あかつき印刷」だ。元々が同人誌で描いていたことがある坂井忠久氏が社長で、それだけに「同人誌の味方」をスローガンとして掲げ、ごく少部数のためのフルカラー印刷セットを“売り”として全国的に知られていた。その「あかつき印刷」が3月20日「本日をもって廃業する」と報告した。その理由は“諸般の事情”としか記されていないが、印刷に関わる全てのものが値上がりしてギブアップしたのだと思われる。本人も「倒産です」と認めている。今後は残りの仕事を片付けた後、裁判所に「自己破産」を申し立てるものとみられる。世の中に“同人誌ブーム”があった時代は成り立っていた“極小部数印刷”も、時代が変わって、いまやプロの印刷技術を必要としない時代に入りつつあるのかもしれない。「あかつき印刷」に関して言えば、全国に数カ所あった関連企業は、いつの間にか閉鎖していたり、独自路線に切り替わったりしている。東京事務所は2017年1月に閉鎖していた。わたしは大昔、漫画の方の同人誌にも、小説の方の同人誌にも、占いの方の同人誌にも属していたことがある。漫画の方の同人誌では、あまり“ちゃんとした作品”を載せられないまま止めてしまった。小説の方の同人誌では、いくつかの同人誌に参加し、同じ時期、それぞれの同人誌に何篇かの小説など掲載させてもらった。占いの方の同人誌では、占いに関する論考などを掲載させてもらった。もはや、わたしの手元には何一つ残っていないが…みんな懐かしい。そういうわけで、わたしの20代は「同人誌と共にあった」といっても良い。同人誌は、時に“セミプロとしての登竜門”である場合もある。或る意味では“そういう方達を支えてきた”印刷所がなくなってしまうことは本当に惜しい。元々わたし自身も、若い頃には印刷会社で働いていた時期がある。正直、印刷会社というのは、あまり儲からない。いまのように、紙代とか、インク代とか、人件費とか、輸送費とか、あらゆるものが値上がりしてしまうと、もはや極少部数の印刷では採算が取れない。もしかすると、今後も続々と印刷関連の企業が倒産し始めるかもしれない。
2026-03-20
記憶喪失は小説やドラマなどでは“事件のカギを握る設定”として、よく用いられる。けれども現実には、その後の人生に“暗い影を宿している”ケースが多い。愛知県の岡崎城公園付近で、男女のカップルが昨年の8月、警察に保護された。二人連れで交番を訪れ「自殺未遂した」と保護を求めたのだ。ところが、問題は二人とも“記憶を失っていた”ことだ。自分が誰なのか、わからない。ただ互いに「お父さん」「お母さん」と呼び合っているので“夫婦”とみられる。保護されて半年以上が経ち、断片的ながら“いくつかの記憶”が蘇りつつある。それらを合わせると、どうやら千葉県で長く暮らしていた期間があったと感じられる。年齢も解らないが、推定では二人とも80歳前後とみられている。その年齢なら認知症の可能性もあるが、これまでの調査によれば、そういう記憶喪失ではないようだ。わたしは公開された二人の写真画像から、この二人は自営業者で、何かの商売を手広くやっていたが、金銭的なトラブルに絡んで“心中を図った”可能性がある……と思われる。夫婦で商売を行っていたはずで、夫だけが一人で行っていたわけではない。どうして自営業者だと観るかといえば、一般の会社勤めとか、役所勤めであれば、80歳前後まで現役で働き続けるケースは少ない。自営業者は特に“夫婦で商売を行っていた”自営業者であれば、80歳前後でも現役であることは珍しくない。特に、この妻側は“老齢で人に使われていた人”には思えない。むしろ“使う側”であった可能性が強い。また夫側は“それなりの立場”にあった可能性が強く、観相学上の“山林”部分が発達しているので、大自然が好きで、もしかすると保護を求めた岡崎城公園付近というのは、この男性が昔、好んで来た場所である可能性もある。同時に記憶を失っているのは、その自殺未遂の方法と関係があると思われ、たとえば自家用車の中で練炭自殺を試みたが、死の一歩手前で車内から本能的に脱出し、その結果、脳神経的に“破壊された部分が多く”二人とも同じような形での記憶喪失になっているのではないだろうか。子供達であるとか、最近まで従業員だった人が視れば、確実に判ると思うので、画像が公開されたことで間もなく手掛かりが見つかるに違いない。
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