久しぶりに昔の仲間達と再会した。そうして、もう一人の仲間が脳梗塞で倒れたことを知った。人間、或る程度の年齢に達すると、何よりも健康が一番であることを時折痛感するようになる。普段は自分が健康であることに感謝などしないのだが、身近な人が「倒れた」と聞くと、とたんに神様に感謝したくなったりする。なんて自分本位なのだろう。我ながら呆れてしまう。
私はこれまで病院と云うものに入院したことが一度しかない。十代半ばのその時、俗に云う「幽体離脱」を経験しているが、今思えばもう少し幽界なるところを探索しておくべきだった。三途の川で手招きしていた先祖・親戚たちらしき人々の顔も、しっかり憶えておくべきだった。ただ、そういう経験があるせいか、私は仏壇に手を合わせる時、その時の情景を必ず思い起こす。したがって、私の先祖・親戚たちへの合掌は妙にリアルだ。
それに肉体と云うものに対しての感覚も、多分普通の人達とは少し違う。よく親が亡くなると、その遺体に対して泣きすがる人がいるが、私には文字通り「魂の抜け殻」にしか見えず、その肉体を「親の実態」とは思うことが出来なかった。父親の場合は、私が病室へと入った時、まだ医師二名が父親の肉体に対して蘇生術を施していて、実際に「ご臨終です」と告げたのはそれから7分以上後だったのだが、入った瞬間「この人たちは、ただの抜け殻に対して何をしているのだろう…」という違和感だけだった。何故だ…と云われると上手く説明できないが、とにかくその肉体は明らかに魂の抜け殻で「おやじ」は、そこにはいないのだ。
もちろん、そんな変なことを思うのは私だけであって、他の兄弟などは必死ですがりつくように見守っていた。今、私は「魂」という表現を使っているが、これを「気」とか「念」とか「心」とか「幽体」とか、言い換えることが出来るかもしれない。とにかく「死を迎えた肉体」からは「本人」が消えている。だから、御棺を運ぶ時なども全く悲しみはない。母親の時もそうだったが、死の直前までは眠られぬほど辛かったが、亡くなったことで、母親も肉体の苦しみから救われたことでホッとしたものだ。ただ幼かった兄の娘が哀しみをこらえている表情が痛々しく、抱きしめてあげたい衝動に駆られたものだ。
私は昔、山の中に入って、絶食をしたままで、自ら命を絶った人物の記録を読んだことがある。その人物の貴重なところは、死に至るまでの記録をつづっていたことで、私の記憶が確かなら90日以上生き続けてしまうのだった。本人は最初30日もすれば絶命するものと思っていたらしいが、30日くらいではピンピンとしている。彼が水だけはペットボトルで何本か持ち込み、それを飲み続けていたせいもある。人間と云うのは水さえ飲んでいれば30日くらいの断食は健康体なら誰でも出来る。通常は40日くらいは大丈夫らしい。水がないと10日間くらいで絶命してしまう。彼の記録はペンをかろうじて持つことが出来た時までで終わっているが、大体断食を始めて30日~40日くらいの時期が最も健康だったようで、頭脳も明晰であった。
そして50日目くらいだったと思うが、元の生活に戻りたい…もう一度生き直してみたい…という願望が強まる。この時、草野球をしている少年たちの声が聞こえていたらしいから、何らかのサインを発すれば良かったのだが、そうしなかった。「骸骨のようになった私が戻れるわけがない」と記している。やがて自分の体がミイラのように変化していくのを意識し、肉体と幽界を行き来する自分を感じるようになる。ここにも肉体=自分ではないことが暗示されている。ただ幽界に関しては「夢なのか…現実なのか…」と記されていて明快な記述とは云えない。
私の記憶で書いているので多少違っているかもしれないが、要するに死の直前まで必死で書きとめようとしていたらしい。
私は最近「業(ごう)」と「縁(えにし)」と云うことについて時々思うことがある。人間と云うのは、先天的に「二つのこと」だけは本能的に天から与えられていることを察知しているのだ。だから、それらに対しては気になるものなのだ。業と云うのは「課せられた役割」と訳せるかもしれない。通常は仕事のことだ。但し、職業とは限らない。職業とはしなくても自分が「これだけはやらなければ…」と感じてしまう「課業」(天から与えられた職務・役割)で、副業となる場合もあれば、ボランティアの場合もあれば、趣味だけの場合もあれば、さまざまなケースがある。とにかく突き動かされるように、やるような状況が生まれてくることが特徴だ。稀にそれを見いだせない人もいる。その場合は苛立つ。何故か苛立つ。職業的に恵まれていても、経済的に恵まれていても「本当の自分はこんなことをしていてはいけない…」と感じてしまい、或いは「何もしなくて良いのだろうか…」と焦りのようなものを感じてしまったりする。
一方、縁の方は「先天的に強いきずなを持っている相手」と云うことで、必ずしも「配偶者」が「縁」の相手とは限らない。「悲恋や片思いの相手」の場合もあれば「不倫相手」「親友」「親子」「兄弟」「敵」等の場合もある。いずれにしても、先天的に強い絆や縁を持っているため、容易に離れることが出来ない。よくなかなか結婚しない人を「縁遠い」などと云うが、そういう人の中には親・兄弟との縁が強すぎて、配偶者を得られないケースもしばしば見られる。先祖との縁が強すぎる女性の場合は、養子を迎える形に切り替えれば結婚は可能だ。長年の不倫などでズルズルとなっている場合、それを完全に清算しないと当然のことながら、結婚につながる恋愛は出来ない。そのままの状態で結婚相手を求めようとする人がいるが、これは「縁の法則」から云って難しいものだ。
私は、いつの頃からか自分のお客さんたちも何らかの縁でつながっていると思うようになった。もちろん、この場合の縁は運命の相手としての「縁」とは別物ではあるが、友人や仲間達と同じく、どこかで共通の要素を持っているから縁を結ぶのだ。かなり昔の話になるが、まだ私が占いハウスに出ていたとき、どうしても時間的に合わず鑑定することが出来ないお客さんがいた。私がそのことで困っていると、尊敬する先輩占い師の方が「良いのよ」と微笑むように言った。「逢えないと云うことは縁がないと云うこと。無理に逢おうとしなくても、縁のある方であればそのうち必ず会うことになるのだから…」と教えてくれた。それ以来、私はスケジュール的に逢えないとか、重なってしまって鑑定できなくても悩まなくなったものだ。
よく「逢っていないので、もう縁は切れたのでしょうか?」と云う人がいるが、実際に逢う、逢わない、ということと「縁」とは別物である。何十年逢わなくても、縁が復活した例はたくさんある。最近の若い人たちは1ヶ月も逢わないと、もう終わってしまったかのような考え方をするが、大自然の呼吸は大きく、神仏は気長だと云うことを理解すべきだ。
掲載日:2008年07月15日
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