俳優・神田正輝氏が“娘・神田沙也加の結婚”についてインタビューを受けている姿は、タレントとしてよりも“娘を見守る父親”としての姿にあふれていた。その受け答えも“父親”になり切った姿で、決して自分を表に出そうとはしなかった。それは「大人・神田正輝」を感じさせる部分があり、過去に私生活でさまざまな“経験”を経てきた人だけが持つ“奥行き”を感じさせた。そう「世代」は変わるのだ。誰もが、それを受け入れなければならない。今は“聖子ちゃんの娘”でも、“神田正輝の娘”でもない、“女優・神田沙也加の結婚”なのだ。完全に“独り立ちしたスター”は、娘の方にある。けれども、同時に、娘は黙っていても、神田正輝を加えた“スリーショット”の方をインスタグラムで公表した。そこに“娘の答え”がある。母親に関する質問には「ごめんなさい」のポーズでしか応えない“娘の答え”がある。一時期、母親の希望で「沙也加」名を使い芸能活動をしていた娘は、今「神田沙也加」として舞台に立つ。そして母親と同じように、自分よりもずっと年長で“おとなしい男性”を結婚の相手として選んだ。もちろん、本人の中では“母親と同じように”という意識はない。けれども、結果的に“母親と同じ道”を歩もうとし始めている。“トップスターとしての道”だ。母親ほど早くはなかったが“一枚看板”で舞台に立つ。但し、プライベートだけは「一緒にされたくない」その気持ちが、滲み出た“スリーショット”なのだ。他方、母親の方は“高音が出なくなった”という噂もあるが、娘への“祝いの一言”もない。スリーショットを出されてしまったので、なおのことコメントしずらい。母親になりきることが出来ない“過去のスター”は、それでも“孫”に逢わせてもらえる日が来るのだろうか。
誰でも時々自分の中に“別人格”がいるのではないか、と思うような“奇妙な言動”を起こすことがある。むしろ、そのくらいの方が“人間らしくて”よろしい。ただ“犯罪の域”まで行っちゃうと、これはアウトだ。その典型が「声優のアイコ」の犯罪だ。被害者を睡眠薬で眠らせ、その間に現金を奪うという“こん睡強盗”だ。その被害総額2,755,000円というから完全にセミプロである。弁護側は「解離性同一性障害」という“やっかいな病名”をつけ、別人格の“女性”が行った犯罪で、本人には責任能力がない、ということで争った。結果、それは認められず、懲役10年の判決が下った。実は、私が解らないのは、本人が“本当は女性”で、日常生活は“男性”として生活し、犯罪の時だけ“女装”している、というその部分だ。多分、このニュースが犯罪以上に注目されたのは、犯人の性別が“どっち”なのか、よく解からないという、その部分にあった。多くの人は、最初、本人は“女装の巧みな男性”なのだと思っていた。「神いっき」という名前からも、そうであるかに思えた。ところが実際は女性で、けれども普段は“男装”をし、犯罪の時だけ“女装する”という解りにくい形が、その正体を不明なものにして、摘発を遅らせていたことは間違いがない。そういう意味では“推理小説的な知能犯”なのだ。ただ本人が「性同一性障害」であったこともほぼ事実で、公判でもずっと「俺」と自分を名乗っている。つまり日頃から男性として生きているが、満足な収入を得られず、仕方なく“女の武器(女装)”を使って犯罪を重ねていたことになる。ここの部分が、今一つ解かりにくい。自分が嫌っている“女装”をしなければ行えない“仕事(?)”をなぜ続けたのか。それこそ“別人格が行わせた”とでも考えなければ、理解しにくい。宝塚の男役で通してきた女性が、退団後に“女装し脚光を浴び”ているのに、私生活は“男であり続けている人”…どうか、その“謎”を教えて!
よく“占いの的中”というと“派手な予言”が取り上げられる。けれども実際には、現実的で地味なアドバイスの方が有効な場合が多い。27日午後、日露首脳はクレムリンで3時間にも及ぶ会談を行った。安倍首相とプーチン大統領とがいかに“信頼し合っているか”を証明するような“長い会談”だ。一部で日露の“北方領土の共同開発”を危ぶむ声があったが、これで実現が確実になった。交渉事というのは、こういう風に何度も詰めながらじわじわと“本題”に入っていくのが一番なのだ。7月にも再度会談することが決定している。そして二人とも「相互理解と信頼」という言葉を強調した。私は年頭『クオリティ』という雑誌の中で、2017年に関して種々の予言を行った。その中で「日本とロシアの共同開発については大いに前進させた方が良いと出ています。両国とも経済的にはプラスとして働き、交流面でも期待が持てるでしょう。(中略)実際に足を運ぶことを積み重ねることにより、ロシア側の日本に対する見方も変わり、…元島民のためにきちんと墓を整備することや神社の建設など、日本人村のような形を構築させてもらえれば、良い方向に向かって進むと出ています」地味な予言だ。日米に対しても予言している。「トランプ大統領は“TPP不参加”を表明しているようですが、占いではTPPは十分に機能していく様子が見受けられます。そういった意味では日本がTPPに参加していく意味合いはあると思います」これも地味な予言だが、確かに、その方向で進んでいる。アメリカが不参加では“成立しない”とされていた時期の予言だ。ついでに、もう一つ「日ハムの大谷翔平選手が本来の実力を発揮できないかも…という不安が出ているからです。大谷選手は下半身、足の故障に十分注意する必要がある。(中略)17年シーズンの日ハムは大谷選手しだいでしょうね」まあ、日ハムの現在の状態というのは、こういう形で予言してあったのだ。それにしても、私はTVでも雑誌でも“大谷の足の故障”を予言した。そんなに「確信があったのか?」と訊かれると、ちょっと困る。つい口をついて出てしまった…というのが本当のところなのだから。
時々、どちらの言い分が正しいのか、判別が難しい対決がある。大阪地裁で争われている“医師法違反”もその一つで、医師免許がないのに“入れ墨”の施術をしたとして医師法違反に問われた“彫師の男性”が「タトゥーはアートだ!」と主張し、裁判で争っている。医師の免許無くして他人の皮膚に疵をつけることが犯罪だとする検察側に対し、表現の自由を侵害するものだとする弁護側が真正面から対決しているのだ。確かに、双方ともそれなりに筋は通っている。私には何となく双方の“捉え方の違い”が問題を複雑にしていると思えてきた。つまり検察側は「入れ墨」と呼び、弁護側は「タトゥー」と呼んでいるのだ。検察側には、日本の“やくざ”に直結するイメージを伝統的に持っている。だから「入れ墨」なのだ。それに対して弁護側は、西洋の“ロック・アート”としてのイメージが強く、だから、あくまでも芸術の一種、自己主張の一種なのだ。確かに、近年「タトゥー」の国際的なコンテストとかイベントは多く、世界的に“ファッションとしてのタトゥー”が受け入れられつつあるのは事実だ。もっとも日本では中高年を中心に「入れ墨」への拒絶意識は強い。私が幼い頃暮らした街では、街の銭湯に“入れ墨を入れた男たち”がいつも入浴していた。あの頃は、あの街だけなのかもしれないが、銭湯に入っている男性の半分弱は“彫り物”を入れていた。だから、それが自然なことなのだと思い、別段、不思議にも思わなかった。そして、怖くもなかった。確か“やくざ映画”も多くて、そのほとんどが“彫り物”を見せつける。今ならNGとなるシーンが無数にあった。そういう銭湯で育ったので、違和感を持たなかった私は「入れ墨」に対して寛容である。ただ見苦しいほど入れるのは感心できない。子供の“お絵かき”のようなタトゥーも何となく違和感がある。どうせ入れるのであれば“美しい図柄”を配置を考えて、それこそ芸術的に入れてほしいものだ。
最近、プロスポーツの世界では次代を担う“若き天才”たちが続々と誕生している。ここで取り上げる将棋世界の藤井聡太君など、その典型だ。まだ14歳の中学生だが、既に昨年10月からプロ棋士四段に昇格した。そして現在まで破竹の勢いで勝つ続け、現在三冠の羽生善治氏をも打ち破った。しかも、浮かれるような点が全くない。囲碁や将棋はスポーツというには異色だが、分類的には“闘いの世界”でスポーツに分類される。まあ、しかし、ゲームに似ていなくもない。そういう意味で“現代っ子”を夢中にさせる要素は十分にある。近年の“天才たち”を見ると、幼くして“全国レベル”に達し、強豪たちの間でもまれている。つまり、幼くして同じような“秀才たち”の中に飛び込むことで、より才能が磨かれ、早くから“天才”としての輝きが増していくようだ。そういう意味では、優れた集団に早く仲間入りさせることが、“天才誕生”には欠かせない、ということになる。なるほど、それでは“占いの世界”にも、それは適用されるだろうか。残念なことに、現在までの“占いの世界”には、そういう“開かれた道場”のようなものがない。本気で、後進を育てよう、という占い師が極端に少ない。また、その実力を競い合う“全国レベル”の大会もない。大体、占いというものを学術としての意識を持ち、より高度なものへ精査していこうという発想が感じられない。古典的な“技(わざ)”としての認識、神秘な“知恵”に止めようという意識、或る種のエンターテイメントとして生き残ろうとする発想、そのどれもが門戸を狭くしている。また学術としての体裁を整えていない。きちんと体系化しようとしても、それを阻もうとする同業者の方がはるかに多い。やがて“占いの世界”にも藤井聡太君のような天才が出現し、すべての人に役立つような学術としての“占い”を構築してくれる日は来るのだろうか。
11人が立候補したフランスの大統領選で、予想されていた通り過半数を得たものがなく、改めて5月7日に「国民戦線」のルペン氏と、「前進!」のマクロン氏との間で“決選投票”が行われることが決まった。ルペン氏は「EU」からの離脱を掲げ、マクロン氏は「EU」に留まっての改革を掲げる。テロ頻発のフランスは、もはや“安全な国”とは言えなくなった。それに加えて“移民問題”と“失業問題”の解決が急務である。どちらが選ばれたとしても、国民の不満はくすぶり続ける。近年、テロが頻発しているが、国民の本当の関心事は“10%まで達している失業率”の問題で、これはフランスだけの問題ではなく、イタリアとかスペインでも同様である。“移民の問題”にしろ、“テロの問題”にしろ「EU」全体が抱えている問題で、だからこそイギリスは“離脱”へと梶を切った。元々ヨーロッパは、陸続きのせいもあって国と国との国境線が明確ではない。日本のように島国だと、“海外=外国”で解かりやすいのだが、ヨーロッパの場合は車でやすやすと往復できる。それが「EU」に加盟することの“強み”だと言われた時代もあった。ところが社会情勢が不安になって来ると、これまで“強み”だったものが“弱み”へと変わってきた。移民が大挙やって来て横断し始めるようになったからだ。通貨の統一も、一国の経済的な破たんを“加盟国全体”で何とかしなければならなくなった。今や「EU」は“共和国”のような役割を演じざるを得なくなってきている。“抜け出そう”とする国が出て来るのも当然のことなのだ。今年は、この後フランスの国民議会選挙があり、イギリスの総選挙があり、ドイツの総選挙があり、まさに揺れ続けなければならない。それらに比べれば、まだまだ日本は“北朝鮮からのミサイル”さえ回避できれば、“安心・安全な国”を維持できそうな気もする。
“隠れキリシタン”と言えば、江戸時代の長崎を思い浮かべる。現在でも、その子孫の方々が存在していて“隠れキリシタンの信仰”が維持されている。もう、日本では堂々と“キリスト教徒”を名乗って良いのに、子孫の方々はかたくななまでに“隠れキリシタン”の信仰を維持し続けている。信仰とは奇妙なものである。私は昔、助産婦として生涯を送られた方の自伝の文章添削を依頼されたことがあるが、彼女の記録の中で一番印象として残ったのは、妊婦の病室に貼られた「安産祈願」のお札が何者かによって持ち去られ、仕方なく助産婦の方が真似て「安産祈願」の札を急きょ作って、その後十年以上、その“偽物のお札”が大いに役立った、という話を記されていたことだった。「安産祈願」のお札を盗むという行為にも驚くが、それよりも、急きょ作られた“偽物のお札”が、その後十年以上、その助産院での守護神として実際に機能していたことに驚く。「鰯の頭も信心から」と言うことわざがあるが、考えてみれば“助産婦が書いた安産祈願”の方が、出産について何もわからない神主が書くよりも“霊験あらたか”であるのは当然だったかもしれない。とろこで北朝鮮の脱北者キム・チュンソン氏によると、北朝鮮では「地下教会」と呼ばれるものが1200も作られていて、そこでは正に“隠れキリシタン”たちが祈りを捧げているのだという。本来、北朝鮮では憲法で信仰の自由は認められているのだが、実際には『聖書』を持っていたというだけで、秘密警察によって逮捕され、労働強化刑に処せられる。或いは公開処刑に処せられる。信仰の自由など存在しないのだ。秘密警察は“隠れキリシタン”たちに対して、全裸にして“冷凍室に閉じ込める”拷問を施す時もある。日本の“隠れキリシタン”たちの多くが、十字架で貼り付けられ、海中に没していったのと似たような拷問である。もっとも信仰心の篤い“隠れキリシタン”は、いつの時代でも拷問の中で“神の救い”を求めながら、命を落としていく。
確かに、その人は美しい。とても50歳には見えない。「美のカリスマ」と呼ばれる。本人も「肌の美しい人を見ると、つい傍に行って話しかけてしまう」とおっしゃる。確かに“美”へのこだわりが強いようだ。君島十和子…化粧品ブランドのオーナーである。昔はモデルや女優として活躍した。そして何より世間を騒がせたのは遺産相続でもめた君島明氏との結婚。かなりのバッシングも浴びた。そのせいでもないだろうが、この人、どうも“刺激を欲するマゾ体質”のようである。何しろ、毎日50度の熱湯風呂に40分もつかるというのだ。火傷してしまうではないか。私の母親など“熱湯風呂”で全身火傷で亡くなった。だから私には“熱湯風呂”は狂気に思える。寿司にもわさびを追加して食べるとか、強烈な痛みを伴う“足裏マッサージ”を平然と受けるとか、どう見ても“痛み・苦しみ”を快感に感じる“マゾ体質”であるとしか思えない。そういえば“美を追い求める人たち”というのは、最終的に“マゾ体質”でなければ弾かれていく、ということに気が付く。必ず、何らかの形で自分の身体に負荷をかける。そうしていかないと“理想的な美”に到達しない。つまり、日常において“楽な生活”を送っていては“理想の美”は手に入れられないわけだ。“辛い苦しみ”の後で“理想の美”がやって来る。ダイエットも同じことだ。結局“究極の美”は、苦しみや痛みを我慢し続ける“マゾ体質”でなければ達成できないのだ。なるほど。つまり、或る程度の年齢に達しながら“美”を保っている女性達というのは、基本的に苦しみ・痛みを我慢する“マゾ体質”…う~ん、どうも表現が良くないな、自分に厳しい“ストイックな体質”と改めよう…それなのだ。う~ん、でも、これだと、ちょっと格好つけすぎ?
日本電産の創業者・永守重信氏は最近、あちこちの教育機関に寄付金を与えている。寄付金と言っても一千万とか二千万とかのけちな金額ではない。70億とか100億とかいうとてつもない金額である。彼は「日本電産」を起業し一代で“世界企業に躍進させた”人物で、日本有数の大金持ちでもあるが、それにしても桁違いの寄付金である。2014年には府立医科大で70億円を出資し“がん治療”のための陽子線施設を寄付設立し、今年4月には京都大学に次世代モーターを研究する寄付講座を開講、これは今後5年間で2億1千万を寄付する予定らしい。さらに京都学園大学には工学部新設の費用として100億円以上を支援する予定なのだ。ちょっと京都に偏り過ぎている気もするが、それは日本電産が京都にあるので仕方がない。彼の特徴は、やみくもに寄付をするのではなく、明確な目的のために支援する形を取ることで、後に続く優秀な研究者や起業家を育てたい、という思いが色濃く反映されている。日本の場合、大金持ちになると遺産相続の時点で、その半額ほどは税金となる。税金となってしまうと、実際にはそのお金が何に使われるのか誰にもわからない。それならば、自分が“あの世に旅立つ”までに全財産を“寄付として”使い果たして死んでしまおう、というのが彼の発想なのだ。何んとも豪快な生き方である。通常、子供や孫のためなどと財産を少しでも残そうとする人物が多い中で、使い切ってしまおう、という発想が心地よい。しかも、それは“遊び”等ではなくて、あくまでも日本の未来を背負う者たちのためにである。これに近いことを成し遂げたのは現パナソニック(松下電器)創業者・松下幸之助氏が私財を投じた「松下政経塾」以外に知らない。この塾からは多数の政治家が育った。もし私に財産があれば、運命学の総合的な研究機関を作りたいが…預金額を見てみよう。あっ、いけない、そんなバカな(焦る)「夢、幻の如くなり」って、織田信長か!
このところ週刊誌業界が大忙しだ。さまざまな“スクープ合戦”が繰り広げられている。もちろんトップを走るのは『週刊文春』だが、『週刊新潮』や『週刊女性』や『女性セブン』なども追従している。スポーツ新聞各紙もこれに加わるが、締め切りに追われるスポーツ紙は“スクープ”があっても、深く掘り下げられない。一時期は写真週刊誌が隆盛を極めたが、誰もがカメラを携帯するように変わって、“写真”だけでは納得しない時代になった。私は大昔、最初に『週刊文春』へと着目したのは「疑惑の銃弾」スクープが報道された時からだった。言わずと知れた“三浦和義氏の「ロス疑惑」報道”で、まだ世間が誰も注目していない時だった。『週刊文春』はただ一誌だけ「疑惑の銃弾」というタイトルで、当時・輸入商であった三浦和義氏の妻がロサンゼルスで銃弾を浴びて死亡したのは、保険金目的で“仕組まれたもの”だったのではないか、と報道したのだ。私は、その週刊誌をたまたまどこかのレストランで暇つぶしに読んだ。当時としては異色の内容で、私の記憶が間違いなければ最初から連載形式をとっていた。私は大変に興味を持ち、周りの人達に「あれって本当なのかな?」と反応を確かめてみた。ところが、誰もその記事には関心を示さなかった。というか知らないようであった。それから確か“第二弾”が出て、そのあとでTVの夜の番組で、初めて“疑惑の本人・三浦和義氏”のインタビューと共に、その事件の大要が報道された。それも“疑惑の人物”としてではなく、最初は“妻を撃たれた悲劇の主人公”としてのインタビューだった。そうなのだ。最初TVは彼を“悲劇の主人公”として登場させたのだ。つまり、文春側とは逆の立場で“擁護する立ち位置”からスタートしたのがTV報道だった。この時、一般の事件の被害者のようにカメラを意識することなく振舞えば“被害者”で終われたのだが、彼はあまりにも“華やかな印象”を刻みすぎた。それが、つぎつぎと取材を受ける形へと転じていき、“疑惑”もまた注目を集めるように変化していったのだ。ところで今の文春は、あのころと違って、黙っていても“スクープ”が飛び込んでくる。実際には“スクープ”をさばき切れていないのではないか。もう“ひと掘り”するための『隔週文春』を発行すれば、第二の「疑惑の銃弾」が生まれて来るのではないだろうか。
みんなが見ている前で「ムチで打たれる」なんて絶対恥ずかしい。でも、これが意外と多いんだな。観たがる人が…。だって200人も集まるんだよ。やっぱり恥ずかしいんだろうな。打つ方もね。真っ黒い衣装で、頭にも黒い頭巾をかぶっているの。やっぱりねぇ。それで打たれているのは、やっぱり若い女性が多いわけ。結婚前にキスをしたとか、sexをしたとか、いったい誰が通報してるんだろう。だって、その時の下着とかまで並べるんだよ。こりゃ、たまんないって、そういう趣味? でも最近はね。同性愛でもつかまるんだよ。だからね。祭壇の上でね。男が男にムチ打たれるわけ。なんか違うんだよな。やっぱり、男の時には網タイツの女性とかにしてよね。せっかく“公開ムチ打ち”なんだから。えっ、行ってみたい。う~ん、ちょっと遠いよ。インドネシアの北西部。アチェ州というところ、女性はね、人前で肌を出しちゃいけないの。だから、服装チェックさ。よく昔やったよね。スカートの丈が何センチ短すぎるとか…。ああいうの。ここのは0センチ。つまり、スカートは足首まで隠れるやつでないとムチ打たれるの。だから、わざわざ地方からミニ履いて出向いて行く女性がいるらしいってホント? まあイスラム法だから趣味的な人以外は辛いらしいよ。男だってね、顎ヒゲ伸ばさなきゃ、いけないんだよ。僕なんか、顎ヒゲ乏しいから、すぐムチ打たれそう。で、だから、網タイツはどうなってるのって訊いているわけ。それでね。男にムチ打たれた若い男性が“ムチの痛さより、心の苦しみが大きい”って、言っていたそうな。そりゃ、そうだよ。だって、男に打たれるんだよ。トラウマだね。ん? 何かが違う。ところで“神様”って、男なのかな?
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