4月, 2017年

「死」のライブ配信

2017-04-18

誰でも“怖いもの見たさ”という部分はある。多分、だから、その仲間たちは毎夜のように“銃による競演”をライブ配信していたのだ。“銃を片手に会話する”…多分、それが何となく“かっこよく”感じられていたのだ。13歳の少年たちには…。けれども、実弾が入った銃は、いつ暴発するかわからない。自室に鍵をかけて閉じこもり、インスタグラムを使ってライブ配信する。もちろん、家族には秘密だ。仲間たちだけの秘密の世界。その夜はマラカイ・スティーヴンス君の番だった。そしておそらく、彼は電話での会話の方に気を取られていたのだ。一応お決まりの“銃口を頭に向けるスタイル”で会話していたが、一瞬、気が緩み、指が動いたのかもしれない。次の瞬間、彼は床に崩れた。銃弾の音が響き、下から母親と妹が駆け付けた。けれども、部屋には鍵が掛かっていた。なかなか開かない。本能的に危機を察知した母親は必死にドアをけ破って中に入った。そこに血塗れの息子が倒れていた。妹が瞬時に“ライブ配信”されていることを悟った。けれども、もう後の祭りだった。“死の瞬間”を見た仲間や近隣の人達が集まって来ていた。すぐ救急搬送されたが、既に死亡していた。同じジョージア州では、つい最近、同じようにインスタグラムによるライブ配信で“自らの首つり自殺”を中継した12歳の少女がいた。ITなど不得意な私には、どうやってライブ配信など出来るのかわからない。けれども、今の少年・少女たちには、それが可能なのだ。次に“銃の問題”…仲間の誰かの銃であったことは間違いがない。アメリカはどこからでも銃を手にすることが出来る。あたかも、自然なことのように「死」がライブ配信される。進化とは何だろう。死とは何だろう。

相原勇に寄り切られ、曙フォール?

2017-04-17

どうも昔から“格闘家”は女性に弱い。リングに上がれば無敵なのだが、女性にはころりと敗れる。そういう格闘家が多い。元横綱で格闘家の曙もそういう一人だ。なぜ、今頃になってなのかは知らないが、二週間ほど前にタレント相原勇さんとの“TV対決”の番組があった。二人は90年代後半、恋人宣言をしていたが、やがて破局した。その後二人とも結婚しているので、今更蒸し返すこともなさそうなものであるが、TV番組の中で20年ぶりの再会と互いの主張をぶつけ合った。かなりキワドイ対決で、互いの言い分が交錯し、途中で曙が席をけってしまう場面もあった。最期はスタッフの説得で何とか“一応の決着”を付けた格好だが、見ている側には“納得していない二人”の印象が残った。それにしても、女性の執念は恐ろしい。客観的に見ると、曙氏は“もう蒸し返さない”という約束を取り付けたくて、仕方なく応じた番組のように思えた。実際、この形を取ったことで、曙は“自由になれた”筈であった。ところが、どうも、そうではなかったようだ。妙なしこりが曙の方には残っていたようだ。4月11日の試合後、体調を崩し緊急入院となったが、それは試合そのものとはあまり関係がない。私には“相原勇さんとの対決”による後遺症が尾を引いているような気がする。実は同じようなことが過去にもある。曙氏は2012年8月に大仁田厚氏との電流爆破デスマッチを行っている。この時、彼は試合には勝利したのだが、その五日後、後遺症ともいうべき急性肺炎で入院しているのだ。つまり、後から影響が出やすいタイプなのだ。今回も、実際には相原勇さんとの対決で“心が深く傷つき”ダウン寸前だったに違いない。そういう中で体力を酷使したので、気が緩んだ途端、脆くも崩れたのだ。確かに真正面から直接“別れを宣言”していれば、今更こんなことにはならなかったに違いない。それにしても、どうして格闘家たちは総じて女性に弱いのだろう。

金正恩&トランプの対決

2017-04-16

北朝鮮では4月15日、約3時間にわたって金日成誕生105周年を祝う“軍事パレード”が行われた。配信された動画によって、その映像を見たが、一言でいえば“偉大なる統制力”を感じさせる内容で、その“ヤラセ感”が何とも素晴らしい。まさに“軍事国家”であり、恐怖政治の集大成だが、そういうことを差し引いても、この統制力だけは“見事”の一語に尽きる。もちろん、これは何よりもアメリカのトランプ氏に向けての軍事アピールで、丁度、恋する乙女が好きな男の子に向けてオシャレに着飾ってみせるのと同様な心理が働いていることは間違いがない。とは言うものの、実際にアメリカ大陸に向けての各種大陸間弾道ミサイルが着々と整えられつつあることも事実なのだ。受けて立つアメリカも、北朝鮮に対して着々と準備を進めている。その第一弾は、北朝鮮そのものに対してではなく、シリアに対して、或いはIS(イスラム国)に対しての“見せしめ攻撃”だ。つまり、両国とも“一触即発のにらみ合い”状態と言えるだろう。それにしても、かつて“経済危機”が叫ばれ、国民の大多数が瀕死の状態にあるといわれた北朝鮮だが、今回の軍事パレードを見る限り、そのような雰囲気はみじんもない。少なくとも、表面上の北朝鮮は“軍事大国”としての統制力を見事なまでに見せつけている。それが可能なのは、情報統制をかけているからで、外部(西側諸国)からの情報を遮断しているので“政府の指令”が隅々までいきわたるのだ。もっとも、それがいつまで続くかは疑問でしかない。一方のトランプ氏は、思うように政権内のかじ取りが進んでいない。こと“統制力”という点にかけては、完全に金正恩氏に後れを取っている。何しろ、これまでの事業では“ワンマン経営”で許されたことが、大統領という立場では許されない。多くの場合、議会の承認が必要なのだ。だから選挙中の話を、そのままの形で実行できない。極端なことを言うと、北朝鮮などかまっていられない状況なのだ。こうして“ハンバーガーを食べながらの直接対決”は、残念ながら、すぐ実現しそうにない。

“保護者会会長”という隠れ蓑

2017-04-15

自ら買って出た“保護者会会長”という役職が、犯罪のための“下準備”だったとしたなら、これはもう“誰を信じてよいのかわからない”という驚きにつながるのは当然である。千葉県の“女児レエ・テイ・ニャット・リンさん殺害事件”で逮捕された渋谷恭正容疑者は、昨年から“保護者会会長”に自ら立候補し、本来なら一年交代の役職だが、規定を改正して今季も続けようとしていたらしい。“見守る”という名目で、女児たちを観察・物色し、狙いを定めて暴行しようとしていたのだとしたなら、“下準備”としか言いようがない。最初の妻とは離婚し、現在は外国人女性が“母親代わり”という証言が本当なら、元々外国人女性に対しての関心が強い人物と言えそうだ。さらに幼児に対しての愛情は、一時期でも“保育士”をしていた彼の経歴から明らかである。もっとも、幼児に対する愛情が“性愛”を対象としないものであるなら、たとえ男性が愛情を持って接していたとしても一概に“異常”なのではない。実際、現在も多数の男性保育士の方たちが働いている。或いは“保護者会”に携わる男性たちがいる。そういう方たちが、幼児に対して十分な愛情を持っていなければ、逆に保育士や保護者会の仕事は務まらない。したがって、どこまでが“正常な愛”で、どこからが“危険な愛”なのか、実際には微妙な世界なのだ。彼には、その保育士時代に“わいせつ罪”の前科があり、それがどのような行為だったか明らかではないが、何となく想像はされる。したがって、彼にとって“可愛い少女”は徐々に“性愛の対象”としての可愛い少女になってしまうのだ。そういう意味では、本当は年数を経ていても“保護者会会長”にはなってはいけない人物だったのだ。

雪が降り積もる4月

2017-04-14

久しぶりに朝から外が寒かった。そう思っていたら、雪が降りだした。えー4月半ばなのに…と思っていたら、出掛けるときには横殴りになっていた。真冬用のコートで歩いたが暑くはなかった。少しだけ、暖かい地域がうらやましかった。レストランの窓から雪が降り積もっていくのが見えた。雪というのは、それまで春の街並みだった景色を“白く染めていく”絵模様としてはとても美しい。けれども、いざ外へ出ると、寒いし、濡れるし、周りが見えないし、ろくなことがない。そういえば先日、故郷「室蘭」の写真をアップしている画面を見た。ぎょっとするくらい美しかった。こんなに美しい街だったろうか。街が変貌して美しくなったのではない。確かに昔、見ていた風景なのだ。なのに、写真で見直すと、とても美しい。ところが私はどうも好きになれなかった。風が強すぎるのだ。特に真冬の風は雪を蹴散らして舞い上がり、異様なほどに渦を巻いて身体の芯まで凍えさせていく。あの風は写真には現れない。いや、現れるかもしれないが、それはそれで、絵模様としては妙に美しいのだ。室蘭に雪は積もらず、路面はいつもてかてかだった。思い出に残っているのは、粉雪舞う中で、必死に前に進もうとしている氷像のような私の姿だった。室蘭は“焼き鳥”が名物だが、それは寒さの中で赤ちょうちんが唯一ぬくもりを感じさせ、熱く身体を温め、美味しく感じられるからだ。私はイタンキ浜の近くで育ったが、その夕映えは確かに美しい。けれども同時に、水平線の向こうに消えていく姿はもの悲しい。海の音までもの悲しくなる。たった独りで、私はいつまでも水平線を見ていた。だから室蘭は、私にとって“寒い記憶”だけがヒューヒューと渦巻く。写真の景色が美しいからと言って、実際に暮らすのに適しているとは限らない。

生まれ変わりたくない「ダライ・ラマ」

2017-04-13

よく「生まれ変わったら何になりたいか」という問いかけをする。普通の人達は深く考えず“この次は金持ちが良い”とか“今度は女に産まれたい”とか“やっぱ美人が最高でしょ”とか勝手なことを言う。ところがである。「ダライ・ラマ14世」は、そうはいかない。何しろ、これまで700年間にわたって“転生”を続けてきているのだ。つまり、死んでも同じ“ダライ・ラマ”として生まれ変わらなければいけない。そういう形で“生まれ変わって来た”と信じられているのが、現在のチベット密教の最高指導者ダライ・ラマ14世なのだ。“変化の無い生まれ変わり”なので、同じ人にならなければいけない。どうやら、今回のダライ・ラマ氏は、それが辛いらしい。つまり、もう“同じ形で生まれ変わる”のは、嫌だ、と言っているように聴こえる。自分の“生まれ変わり”を見つける形ではなく、新たな方法により“後継者を定める”ことを提案し、年内にもその協議を開始することが報道された。まあ、ハッキリ言うと「自分を捜さないでください」宣言である。実際、その“生まれ変わり”の捜索は相当に難しい。まず、認定する僧というのがいて、その人を中心に“さまざまな前兆”を頼りに捜索を開始する。現在の14世の場合、元々は農家の9番目の子である。けれども、13世の遺品を前にして、3歳なのに「それ、ボクのだ」と見事に言い当てたという。こうして最終的に「転生」と判断された。そして4歳から王宮で暮らし、正式な「14世」を継承した。その生涯は決して平たんなものではなく「亡命者」として今日まで過ごしている。客観的に見れば、王宮を追われた王であり、自国を失った僧である。世界の尊敬を集めてはいても、実際には“辛い立場”なのだ。こうして14世は、自分が生きている間に早く次の後継者を定めて、自分は“転生”などせず、のんびり来世を過ごしたい、と望んでいるかのようである。この気持ち、ちょっと解かるような気もするし、ちょっと“ずるい”ような気もするのだが、誰も、そういうことには触れない。

「夫の死」を、番組中に報道する

2017-04-12

あなたがアナウンサーだったなら、仕事として、それが出来るであろうか。結婚して1年余28歳の女性アナウンサーは、自らの番組内で“それ”をやり切ったのだった。彼女は、その日も、いつものように土曜日の午前10時からのニュース番組「IBC24」の報道フロアで事件を読み上げていた。その途中、事故の速報として現場からの電話中継が入った。現場にいた記者はインドのマハサムンド郡で、5人が乗った乗用車に背後から大型トラックが突っ込み、5人のうち3人が死亡したことを伝えた。その車の車種や色は伝えたが、死亡した人物の姓名は語らなかった。その後もニュース事件の報道は10分ほど続き、番組は終了、カメラがOffに切り替わった。その瞬間、女性アナウンサーのスプリート・カウル氏は泣き崩れた。彼女には速報の事故死亡者の中に“夫が含まれていること”を直感していたからだ。その日、その地方に夫が5人一緒に車で行くことは事前に知っていた。実は報道フロアの責任者は、犠牲者の名をあえて伏せたのだが、それでも妻は本能的にそれを悟ったのだ。けれども、最後まで彼女は仕事をやりぬいた。日本の女子アナウンサーで、同じことをやってのけられる女性が果たしているだろうか。報道の現場に携わるということは、実はそういうことであるのだ。かつて東日本大震災の時、自分の姉が亡くなっていたのに、リポーターとしての仕事をつづけていた男性がおられたが、自分の職務に対する“責任感の強さ”をまざまざと感じさせた。人は、時として“自らの命”を、仕事に対して差し出さなければならないようなときがある。けれども“命”まで差し出すことが、本当に正しいことなのかどうかは、誰にもわからない。

地下資源の発見より地上遺産の保護

2017-04-11

ここ2~3日、世界のあちこちでテロが起こった。エジプト、ロシア、スウェーデン、ノルウェーの各地だ。特にスウェーデンやノルウェーは“平和な国”という認識があっただけに驚きが大きい。エジプトの場合は“IS(イスラム国)による犯行声明”が出されている。もはや日本ではあまり報道されなくなったISによる事件。エジプトにおける独自キリスト教「コプト教会」が狙われた。死者40人以上とも言われる。現在のエジプトは“イスラム教国”である。国民の9割以上がイスラム教徒だ。それでなくてもキリスト教徒(厳密にはコプト教徒)は肩身が狭いのだ。それなのにしばしばテロの被害に遭っている。ISにしてみれば、古代エジプトの遺跡は“偶像崇拝の象徴”である。だから本当は、遺跡の全てを破壊してしまいたいのだ。そういうものを見に来る世界の観光客への“見せしめ”的な意味合いもある。頻発するテロの影響で観光客は一気に減った。今回の対象は観光客ではなく、肩身の狭い本国のキリスト教徒だ。昔、私がエジプトのホテルに泊まった時、午前5時から大音量の音楽が流れ始めた。イスラム教モスクが拡声器を使って信者に祈りを呼びかける音楽である。大音量なので、とても寝てなどいられない。安宿ではなく五つ星ホテルの客室である。どれだけ大音量かが判る。他の国でもそうだったが、イスラム教寺院の見学は強制的に黒い衣装を着せられる。肌の露出が許されないのだ。信者が教えに従うのは良いが、信者でないものにまで教えに従わせるのが気に入らなかった。そんなエジプトだが、現在、なんと宇宙開発を進めている。人工衛星を飛ばして砂漠の地下資源を発見しようとしているのだ。ところがどうも上手く行かない。そんなところにお金を使っているので物価は急上昇、それに抗議して焼身自殺する人まで出ている。とにかく危ない国になった。ただISの最終目的である“ピラミッドや神殿の破壊”だけは絶対に防いでほしい。信者を従わせるのは自由だが、信者でないものまで巻き添えにするのは“アラーの神”でも許せない。

男性が“美容”に群がるのは良いこと?

2017-04-10

時々わからなくなる。若い男性たちが“就活セミナー”で熱心に受講しているのは“脂取りシートマスク”の使い方だというのだ。なんかおかしい。それって“就活セミナー”で教えるものなのか。しかも、男性たちに…。そう思うということは、私がいかに“昔の考え”を引き摺っているかを証明したようなものだが、でも、やっぱり、それは…と思ってしまう。近年は、まつげエクステとか、脱毛エステとか、そういうものにも関心が高いようだ。確かに面接官に対して、良い印象を与えることは大切かもしれない。営業や接客などの仕事なら、見た目も重要であることを否定はしない。ただ若い男性たちの誰もが、化粧品選びに熱心になるのは、何となく違うような気がするのだ。髪型にしろ、ファッションにしろ、化粧にしろ、このところ男女の違いというのが、だんだんなくなってきているよう感じられてならない。実際、最近の20歳前後の俳優やタレントを見ると、どっちが男性でどっちが女性なのか判別が難しいケースさえ出て来ている。俗にいう「イケメン」が多くなったのは良いことなのかもしれないが、世の中全体が“見た目重視”で物事を捉えるようになっていく風潮は決して好ましいことではない。事実、最近の映画やドラマは“見た目に美しい若手俳優”が沢山出て来るが、後々まで印象に残らない。その俳優が入れ替わったとしても、違和感を感じず見続けてしまうような気がするのだ。つまり“見た目に心地よい”俳優やタレントは、同じように“見た目に心地よい”俳優やタレントなら、その人でなくても良いのだ。それはおかしい。人間としての“個性”“雰囲気”“体臭”のようなものが感じられないなら、極端な話“ロボット”でも良いのだ。見た目に心地よいロボットを添えて置けばよい。もっとも、若い男女が“化粧品”や“エステ”等に関心を持つのは、それだけ我が国が“平和”だからである。今現在、戦争・内戦中の国や地域では美容やファッションに興味を持つことなど出来ない。経済危機が迫りつつある国でも興味は持てない。思想弾圧とか言論制圧のある国でも関心は呼ばない。要するに、平和で自由で一応の経済が保たれているから、そういうものに関心が向かうのだ。そう考えると、少しでも長くこのような風潮が続くことを願った方が良いような気もする。

「やっぱり、そうなってしまったか…」の想い

2017-04-09

多くの人達が同じような想いを抱いたに違いない。そして、その想いの一番は「私」と「大谷翔平氏」本人である。別に彼から訊いたわけではないが、私には解かる。“大谷翔平選手の2017年の野球運を占ってほしい”という依頼を関西系TV局から受けた時、正直、あまり気が進まなかった。ただ一人だけの運勢を占う。それも“野球運”という仕事関連だけの運勢を占う。プロ占い師としては、あまりに“ものたらない”からだ。しかも“なるべく珍しい占い方で…”という依頼であった。それでも引き受けたのは、全国放映する関西系TV局なのに、札幌までスタッフがやって来て、市内ホテルで撮影するという条件付きだったからだ。実際、進行役を務めた芸人・ブラマヨの二人も、大谷翔平氏本人も、私以外の“二人の関西系占い師”も、大勢のTV局スタッフたちも、みな市内ホテルに集結していた。もし、関西のTV局まで出向かなければならないのであれば、私は依頼を受けなかった。結果、私は大谷翔平氏を「墨色判断」という占法で占った。彼自身に筆文字で「日本一」と書いてもらい、その文字だけで占った。そして、“2017年の野球運”が不吉なものであることを彼に告げた。「この文字は下半身に弱点があるということを示しています」ブラマヨがボケをかまして突っ込み、大谷氏が苦笑した。「肢に当たる部分が左右とも掠れている。くれぐれも足腰の故障には注意してください」その時、ブラマヨ・吉田氏が「いつが危ないとか分かるんですか?」と訊いてきた。「運勢的には“最初”からですが、野球なので3月4月の開幕時期が一番ですね」再び吉田氏が「そしたら、成績としてはどうなんですか、活躍できないということ?」と突っ込んだ。「大谷選手の素質は群を抜いています。だからフル出場できれば2016年以上の活躍をするでしょう。でも、それは難しい…と出ているのです」あの時のやり取りは、スタッフ全員が聴いている。もちろん、大谷氏本人は困惑した顔で黙ったまま聞いていた。彼は最初に「占いには興味がないので…」そういうものに接したことがなかったと言っていた。だから、信じるとか、信じないとかいうのではなく、言われるまま筆文字を書き、それによって“足の故障”を指摘されたことが不思議だったに違いない。そして今「やっぱり」の想いが誰よりも強いに違いない。

「人肉」を“共喰い”するのは…

2017-04-08

お腹がすいたから“人肉でも食べましょうか”と、普通はならない。お腹がすいても“人肉だけはちょっと…”が普通の家庭だ。ところが、そうではなかった人々がいる。古代人にもいるし、一部現代人にもいる。何んと恐ろしや。それで古代人の方は、これまで“純粋に食べたくて”食べていたんじゃないの、と思われていた。栄養があるから食べていたんじゃないの、と思われていた。ところが、どうも、違うらしい。栄養はあまりないらしいのだ。他の動物に比べて“美味しい脂肪分”が少ないらしい。だから、少なくとも“美味しくて食べていた”のではないらしい、という研究がこのほど提出された。それでは“何のため”なのか、そこが問題だ。比較的現代人に近い古代の人々は、よく人肉を食べた。洞窟などに、その証拠が残っている。いや、文字記録にも、それがある。古代エジプトのヒエログリフ(聖刻文字)による“葬祭呪術文書”の中に出て来る。それは国王が高齢となって体力が衰えた時、新たな若い王を誕生させる。その“新たなる王”の誕生儀式の中に、何んと“老いたる王”を撲殺して、その人肉を食する儀式が含まれているのだ。そうすることによって“前王の筋力や能力”が、新たなる王に付与されると信じたのだ。その種の“呪術儀礼”は、世界各地にあった。ドイルド教には、戦った敵の頭蓋骨を杯として、その人肉から流れた“血を呑む儀式”まである。そういった呪術的な信仰と絡んで「人肉」は食されてきたのだ。敵の「血」はともかく、前王とか親とか祖父とかの血肉を食することによって“一体化”しようとする行為は、神聖なものというよりも、或る種“けなげな行為”にも感じられるのは、私だけなのであろうか。

“親の無い子”&“子の無いカップル”の向こう

2017-04-07

現在、日本では約45000人もの“社会的養護”の元で暮らす子供たちがいる。大半は“親の無い子供達”である。或いは親がいても、育てられず“施設に預けられた子供達”である。そのうち約5000人が“里親”、或いは“養子縁組”により“養親”という形で育てられている。この“養親”の場合だけは、法律的にも“実質上の親子関係”となる。“里親”の場合は、法律的な権利はなく、もし、本人が“生みの親元”に戻りたいとか、“養護施設”に戻りたいと希望した場合、それを強制的に引き戻すことは出来ない。つまり、育ててはあげるけど、もし就職して出て行って連絡が無くなったとしても、それを咎めることも引き戻すこともできない。何となく“もどかしい役割”なのだ。その“里親認定”に大阪市が全国で初めて“同性カップル”を認めた。画期的なことらしい。このカップルは30代と40代の男性カップルだという。確かに男性同士では子供を産みようがない。女性同士の場合は、もしかしたら子宮に精子提供を受ければ、母体として出産することは出来る。但し、日本では男女間の結婚でなければ、出生届を認めないはずだ。したがって、事実上、女性同士のカップルも“里親”になるしかない。今後、同性愛カップルが増えていくことによって、こういう“ややこしい親子関係”が増えていくかもしれない。戦争が終わって、もう“親の無い子”はいなくなるのではないか、という楽観論があった。けれども、実際には無くならなかった。むしろ、近年はシングルマザーが増えたことで、働くため養護施設を利用し、そのうち引き戻せなくなってしまうケースが増えている気がする。親子の関係は微妙で、どんな親でも“血は水よりも濃い”で、離れて何十年たっても本能的に“産みの親”を探し求めようとする子供がいる。ただ運命学的には「生みの親より育ての親」という格言が、そのままアドバイスとして当てはまるケースが多い。

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