5月, 2017年

職業における「成功」と「挫折」

2017-05-19

歌手の「塩ノ谷早耶香」さんが自らのブログの中で「芸能界引退」を公表した。もっとも、ほとんどの方にとっては“知らない歌手”に違いない。私も知らなかった。4年前にメジャーデビューしている。苦しみぬいた末の“結論”のようである。昨今の芸能界では、デビューして3~4年後の早い段階で自ら“引退を決断する”若者も多くなった。TVや雑誌などで見て憧れる芸能界と、実際に職場として中で過ごす芸能界とではおのずと違っている。そんなことは理解していたつもりで入って来ても、種々な場面で矛盾や理不尽を感じることが多かったに違いない。一見、華やかに見える世界ほど、その裏側は“醜い部分”も多い。歌手だけではない。俳優、声優、お笑い芸人、漫画家、プロスポーツ選手、小説家、格闘家、キャスター、デザイナー、政治家、医師、弁護士、芸術家、舞踏家、IT起業家そして占い師も…それぞれが矛盾と理不尽の中で生きている。多くの場合、理想とする“職業の姿”を目指しながらも、自分が実際に行っている“職業の姿”に完全に納得しきれているとはいいがたい。誰かが、3%の人たちだけが理想と現実とが矛盾しない形でそれぞれの仕事を行い、それに値する収入を得ている、と言っていた。逆な言い方をすると、残り97%の人達は自分の“職業人としての姿”に満足していない。つまり“ほとんどの人”と言い換えても良い。それでも多くの人達にとって、その分野における成功者は輝いて見えるに違いない。けれども、その一方では、目指してきた分野で挫折し、“傷ついた羽”を休める場所を求めて流浪している人がいるのもまぎれもない現実なのだ。

「老いの結婚」が増えていく?

2017-05-18

エッセイストでテレビの仕事も多い阿川佐和子氏が5月9日に結婚・入籍したことを公表した。本人は63歳で初婚、お相手の方は69歳で再婚となるらしい。なんとなく、こういう組み合わせの結婚が今後増えていくかもしれないと思った。片方が初婚、片方が再婚とか再々婚とかで、双方とも50代後半以降の組み合わせカップルである。何しろ、日本人の初婚年齢が総体的に後退してきている。今や40代や50代で独身は珍しくなくなった。私が30代の頃は、30代でさえも“白い眼”で見られたものだ。そういう意味では、30代、40代で独身であっても、今は“白い眼”など向けられることなく、男女とも年齢的に焦らなくなった。今や「生涯独身」を貫いたとしても、誰もそれを“非難する”ようなことは無くなった。そういう意味では、本当に“良い国”になったものだ。加えて“長寿の国”であることが「老いの結婚」を後押しし始めている。つまり、“親の介護”を終えてから結婚する、という人たちが出て来ていることだ。さらに“sex”そのものを、煩わしく感じる人たちも多くなってきている。或る程度の年齢に達すれば、そういう煩わしさからも逃れられる。年金がどんどん減って、一人だけでは生活がままならない、という切実な問題も“シェアハウス的な結婚”を増やしそうなのだ。長い老後生活を目前にし、一人の人間として“理解し合える相手”を求めたいという願望が拍車をかけている。これら、さまざまな要因が「老いの結婚」を増やしそうな気がする。特に、阿川氏のように“あまり嫌われないタイプの人”が結婚することで「老いの結婚」が市民権を得ていくような気がするのだ。ところで、私は彼女の結婚について昨年11月にブログの中で予告している。つまり、占星学的な惑星の動きから、2017年春までに入籍・結婚しなければ“この結婚話”は流れてしまう…と。そのギリギリの春5月9日に婚姻届けが出された。天空も、二人を祝福してくれるはずだ。

『週刊現代』が『週刊新潮』を抜いていた!

2017-05-17

書店に行くと、さまざまな雑誌が目に飛び込んでくる。今は書店でなくても、コンビニにも雑誌は並んでいる。もちろん、コンビニに並ぶのは“売れそうな雑誌”だ。その代表格は『週刊少年ジャンプ』。何しろ発行部数が“200万部を切った”ということがニュースとなるのだ。最盛期の94年には650万部以上を発行していた。あの頃が“売れ過ぎていた”だけの話である。なぜ、あんなに売れたのかというと、少年雑誌のはずなのに、大人までが買い込んでいたからである。今は、それが収まった、というだけの話なのだ。近年、本が売れないというが、雑誌類はそれほど落ち込んではいない。最近の発行部数を調べてみたが、他のコミック誌は『週刊少年マガジン』96万部、『週刊少年サンデー』31万部。女性側の『ちゃお』47万部。『りぼん』17万部。『別冊マーガレット』17万部。一般週刊誌では『週刊文春』65万部。『週刊現代』48万部。『週刊新潮』44万部。『週刊ポスト』38万部。大人向けのコミック誌では『ヤングジャンプ』56万部。『ヤングマガジン』42万部。『ビッグコミックオリジナル』51万部。『ビッグコミック』31万部。女性週刊誌では『女性自身』35万部。『女性セブン』35万部。『週刊女性』20万部。写真師では『FRIDAY』25万部。男性誌では『PRESIDENT』32万部。総合雑誌では『文藝春秋』46万部。女性雑誌では『MORE』21万部。これらが最新の雑誌の発行部数で、つまり、日本における“売れ筋から見た”主要雑誌ということになる。女性誌は総じて発行部数が少ない。それは一つには“雑誌の種類が多い”からで、それぞれが自分に必要な雑誌だけを購入しているからかもしれない。このような数字だけからいえば、インターネットが普及し、雑誌を読まなくなったといわれるが、案外そうでもないことが判る。そして何より私が興味を持ったのは『週刊現代』の躍進である。『週刊新潮』を追い抜いているのだ。近年は中高年に向けての特集記事が多い。ややオーバーな記事が多いが、週刊誌なので派手な方が良いのかもしれない。表紙に「金色」&「赤色」&「デカ見出し」を用いることも多く、目立つよう工夫している。何しろお年寄りは目立たないと、もう見えないのだ。

「片玉」とすべき時期に来ている

2017-05-16

昨日も事故が起きた。最近、似たような事故が連続している。つまり、痴漢の犯罪容疑を掛けられた人物が線路内を逃走し、電車にひかれて死亡したのだ。つい先日も、逃走中に“転落死”した人物がいた。確かに「痴漢」は犯罪である。けれども「死刑」に当たるような犯罪ではない。昨今、痴漢は“みんなが協力し合って捕まえよう”という風潮が根付きつつある。そのこと自体は良いことだ。但し、過去の事例から「冤罪」が多いのも“痴漢犯罪”の特徴である。混みあう場所では、時として“なんでもない人物”が犯人に仕立てられてしまう。その危険性もあるのが、この犯罪撲滅の難しいところなのだ。一度でも、その“容疑”を掛けられると、後から“違っていた”ことが証明されたとしても、それで救済されることはほとんどない。社会的に抹殺されてしまうのだ。しかも「容疑者」として警察に行ったが最後、警察では初めから「犯罪者」として取り調べられる。だから、万一、間違えられて取り押さえられてしまったなら、救われる唯一の方法は“逃走”なのだ。今回の容疑者が、実際にどうだったのかは知らない。けれども、そういう可能性もあることを念頭に置きながら、この犯罪は考えなければならない。そして、実際の犯行に“常習性”があることは、誰もが認める。そうであるなら、その“量刑”として、もっと実際に“効果的な刑罰”を導入すべき時期に来ているのではないだろうか。その一番の方法は“睾丸を抜いてしまう刑”だ。一度、犯せば“一つ”抜き、再犯すれば“もう一つ”抜く、という方法が、もっとも効果的なよう私には感じられる。自分自身で抑えきれない性衝動は、意図的に抑制してやるのが一番良いからだ。一度の犯罪で“一個だけ”男の玉を抜く。それだけで大いに性欲が抑制されるが、sex自体には支障がない。子供もできる。けれども再犯した場合は極端に性欲が抑制される日常となり、子供も出来ない身体となる。このような量刑が世間的に定着すれば、黙っていても“痴漢”や“強姦”等の性犯罪は減っていく。昔あった“宦官”にちょっと似ている。古代中国では、このようにして“女性に仕えさせる”職業が存在したのだ。そこで現代の場合、“片玉”となった「性犯罪歴者」たちは、その後、どういう職業に向かうのが良いか…私に訊かれても困る。

「カー」という名の生命体

2017-05-15

近年、古代エジプトで続々と“新たなミイラ”が発見されている。つい最近も、エジプト中部の地下墓地内でミイラ17体が発見された。考えてみれば、エジプト王朝というのは葯3000年間もの長い間続いた王朝である。その間、亡くなった王侯貴族の数は相当数に上る。新たなミイラが続々と発見されたからと言って本当は驚くことでもないのだ。彼らは「死後世界」を信じ切っていた。だから、ミイラを作成し続けた。エジプトというのは雨が降らない。ミイラは“湿気”を嫌う。極端な話、エジプトでは砂の下に墓地を作って埋めて置けば、黙っていてもミイラ化される。そういう乾燥地帯なのだ。丁度、アルプスの山峰が冷凍庫状態で、黙っていても遺体が“冷凍保存される”のと同様である。ただ古代エジプトでは、より丁重に神官の手で“ミイラづくり”を行った。それは、死後世界で“蘇るための肉体”をつくるためだった。腐敗した肉体では蘇れない。そのために肉体から臓器を取り出し、それは別な壺に入れて保管する。ミイラが完成すると「口開きの儀式」と呼ばれるものを行う。まあ、言ってみれば呪術である。“蘇りのための呪術”。もう一つ必要なものが「カー神像」である。これは“本人と等身大の彫像”で、ここに「カー」が宿っている。この「カー」というのは“分身”とも“死後生命”とも“肉体を支えるもの”とも“霊体”とも訳される。とにかく、そういうたぐいのものだ。これが備わって初めて、死後の世界で蘇ることが出来る。実際、古代エジプトの著名な王たちは、現在でもカイロ博物館の「ミイラ展示室」内において、ミイラとして復活している。毎日、何百人もの人々が、ラムセス2世をはじめとした歴代の王たちに、ご対面している。奇妙にも、彼らは蘇り、王の威厳をミイラという形で表現している。もっとも、そばにあったはずの「カー神像」はない。もし、それを置いて、本当に蘇ってしまったなら、だれも責任を取れない…からなのであろうか。

太陽神の食器「鼎」が粉々に…

2017-05-14

現代中国は、古代中国とは完全に分断されている。むしろ日本人の方が“古代中国”をよく理解している人たちが多い。その証拠のような事件が起こった。今から3000年以上前に作られた神器の一種「鼎(かなえ)」が国内運搬中に粉砕されてしまったというのだ。古美術品としての価値は1億2000万円とも言われる。それが運搬途中で粉々に粉砕してしまったのだ。所有者は“価値のある大切な品物”として扱ってくれるよう業者に頼んだというが、途中で乱暴な扱いをされたことは間違いがなく、本来、青銅品なので、そんなに脆くはないはずだが、目的地について封印を解いてみると粉々に壊れていたらしい。結局、保険には入っていたが保証金は50万円まで、それ以上は返ってこない。おそらく、日本で同じことを行ったとしたなら、古美術的な価値はわからなくても、丁重に扱ってくれるに違いない。中国におけるネット上の書き込みには「古美術品と書いておかなくて良かった。書いていたなら、丸ごと無くなっていたよ」という“笑えないジョーク”のような書き込みさえある。今の中国とは、哀しいかなそういう国なのだ。或る意味で、今のアメリカと中国には共通する部分がいくつかある。頭脳優秀で国際感覚に優れている高所得の人達と、がさつで権利だけを声高に主張する低所得の人達と、やや強引すぎるが二種類の人種が共存しているのだ。広い国土で貧富の差と、教養の差が、明らかに広がりつつある。元々太陽神への生贄を捧げるための器として誕生した「鼎」だが、丸いものの方が“原初の意義”に沿っている。「鼎」は“三本足”で成り立つ器を意味するからだ。古代中国における“円周率は3”で、だから丸い器で三本足なのだ。そして、その表面は動物の血で“赤”く塗った。それは“太陽を意味する色”とするためである。ところが、それがいつの間にか“王朝のシンボル”となって、王朝だけが所有することを許される器に変わった。つまり“王位継承の印”として扱われるように変わっていく。本来「鼎」には、そういう歴史的な“謎”が含まれている。もちろん、そんなことなど“気にしない”運搬業者は、放り投げてトラックに積んだに違いない。

♪運が良いとか悪いとか…「母の日」が来る

2017-05-13

私が唯一自信をもって歌える楽曲がある。さだまさしの「無縁坂」という曲だ。自分の母親と、あまりにも重なる歌で、もう40年も前に母親は亡くなったが、穏やかな日々は少なく、最期も不慮の事故で苦しみながら逝ってしまった。私は母親に何もしてあげられなかったが、亡くなった年にコートを買ってあげた。それが唯一の親孝行になった。亡くなって後、実姉に、それを喜んで伝えていたらしいことを聴いた。けれども、私は母親を事故から救ってあげられなかったし、もう少し早く気付いたなら助かったのに…という思いは今もって消えない。だが何故か私は、母親が亡くなってすぐ住居を変え「運命鑑定」の看板を掲げて“占い”の仕事を本格的に開始したのである。亡くなって二週間ほど後、私は追われるように住居を変えた。何故か、変えなければいけないのだ、という気持ちになった。想い出を引き摺るのが嫌だったからだろうか。元々、その家に対して不吉なものを感じていたからだろうか。今となっては、よく解からないのだが、ともかく私は早々に住居を変え「運命鑑定」の看板を掲げた。何故か“占いの仕事を始めなければいけない”という義務感のようなものが背中を押していた。それまで、私は“占い師になりたい”とは思っていたが、実際に看板を掲げて実占するところまではいっていなかった。第一、会社勤めでもあったので、両立が難しかった。それなのに、追い立てられるように実占を始めたのだ。バス車内や雑誌や新聞など矢継ぎ早に広告を出した。もっとも会社勤めも継続したので、夜間のみ自宅内での鑑定であった。今のように携帯電話のある時代ではない。昼間に電話が掛かってきても、誰も出ない。だから、客数は限られていた。それなのに、何番目かの客に母親とまったく同姓同名の客が来た。しかも、その客からは、その後、十年近く鑑定依頼を受け続けた。もちろん、母親と同姓同名であることなど伝えていない。奇妙な偶然としか言いようがないのだが、その女性は出逢った当初から「先生は札幌に出られれば、もっと有名になれるのに…」と口癖のように言っていた。別に、その女性に言われたからではないが、今、札幌に居る。昨年、妻の母親が亡くなった。いつも、私に占ってもらうのを楽しんでいた。だが、最期の入院の前だけは、自分の身体ことは占わせなかった。「母の日」が、またやって来る。

「運命」という名の生命体

2017-05-12

病気や看取り、祈りやお祓い、占い師になるキッカケや転機、人生に行き詰った時に読んで欲しい1冊。
波木星龍「母の日に捧げる記」今、私が「占い」を生業としているのは、母の死があったことと無関係ではありません。そういう原点から出発している私は今も母親からいつも見守られている気がしてなりません。
鮫島礼子「それを「運命」とヒトは呼ぶのか」波木星龍先生のもとを訪れて大きく変わった点はもうひとつ、手相です。波木先生のもとを訪れてからぐんぐん反対側の部分から線が伸び始めて、3つの補線のようなモノが伸びてきたのです。

バブル企業が消えていく

2017-05-12

5月10日、一つの企業が事業停止に追い込まれた。前に書いた“旅行会社てるみくらぶ”もそうだったが、今回の「(株)ジュネビビアン」も1986年8月の創業、まさに“バブル上昇期”に誕生した企業である。華やかなパーティードレス等を主として扱い、時流に乗って急成長し90年2月には24億の売り上げを誇った。そして、バブルの終焉と共に売り上げが急降下していき、近年は“格安ドレス”の進出や拡大などもあって、業績が低迷していた。実際「ビビアン」のドレスと、“格安通販”のドレスとを比較してみたが、一桁価格が違うのだ。見た目的には、そんなに極端に“違う”という印象を受けない。これでは“格安ドレス”の方に客が飛びつくのも仕方がない。多分、需要としてはキャバクラなどで働く女性たちが一番なのではないだろうか。昨今の若い女性たちは毎夜、パーティーに出席したりしない。結婚式とか祝賀会とかも、最近は地味で実用的なフォーマル・ファッションが多い。これでは売り上げが伸びるはずがない。まあ毎晩のようにパーティーなどが開かれたバブル期の方がどうかしていたのだ。それにしても、バブル期に創業した企業が、また一つ消えた。その売り上げがピークに達した90年2月というのは、正に“バブル絶頂”の時で、この時期を境に日本の景気は急下降していく。文字通り“バブルで産れバブルに消えた企業”の代表選手のような企業と言える。或る意味では、よくここまで持ちこたえて来た、と評価すべきかもしれない。最近では“格安のドレス”は何千円で手に入る。もはや「ドレス」と呼んで良いのかどうかさえ、ためらうほどである。別に“本格的バブル”は望まないが、せめて“ミニバブル”程度の景気の良さは、やって来た方が心身とも潤うような気がするのだが…。

フランス映画はどこへ行った

2017-05-11

10代から20代にかけて私は映画館へよく足を運んだ。そして、たくさんの映画を見たが、正直、記憶に残っている映画はそれほど多くはない。ただ、どうしてなのか忘れてしまったが、邦画よりも洋画の方を多く見たような気がする。中でもフランスの美男俳優であったアラン・ドロン主演の映画はよく見た。正直、どれも、内容はよく覚えていない。ただ彼には、妙に“もの悲しい表情”をするときがあって、それが“悪い奴”を演じる時、美しい横顔ゆえのリアリティを感じさせた。そこが気に入っていたのだ。だいたい映画などで“悪い奴”が、悪い奴らしい顔で出て来ても印象には残らない。アラン・ドロンのように“非の打ち所がない美男”が、それもかすかにもの悲しい表情を浮かべながら、黙ったまま殺していく姿には吸い込まれてしまいそうな魅力がある。最近の俳優たちは、確かに美しいかもしれないが“もの悲しさ”がない。それはたぶん、意図的に作り出せるものではなくて、持って生まれた、或いは過去の人生の中で自然に培われてしまった“哀しさ”なのだ。実際、アラン・ドロンは不遇な家庭環境で育ち、女性不振に陥り、外人部隊に入隊し、その後、世界放浪に出たりしている。そういう実際の履歴が、その美しい横顔に“翳り”を与えるのだ。眉尻は剣先のように尖り、人中は細くて潔癖そうである。そのアラン・ドロンが俳優業から引退するという。まだ現役で活動していたこと自体知らなかったが、次は最後の作品になるらしい。アラン・ドロンが日本で熱狂的に支持されていたころ、フランス映画そのものも脚光を浴びていた。ところが、いつの間にか日本でフランス映画が上映されること自体が極端に減ったような気がする。アメリカ映画は公開されるが、フランス映画はどうなのだろう。だいたい、日本ではアメリカ以外の“外国映画”そのものの上映が、近年、乏しくなったような気がしてならない。それだけ客の入りが良くないのかもしれないが、日本人受けする映画というのは、われわれが知らないだけで公開されているような気がするのだ。派手なアメリカ映画も良いが、時には“人生”を考えさせるヨーロッパの映画も観てみたい気がする。

ミイラ取りがミイラに…文在寅…ならなければ良いが

2017-05-10

何しろ、韓国の場合、大統領の“先行き”がことごとく良くない。自殺するとか、暗殺されるとか、逮捕されるとか…それでも、まるでそんなことなど知らないかのように“大統領に立候補”する人が出て来る。素晴らしい国だ。こうして再び、昨日、新たな大統領が誕生した。文在寅(むん・じぇいん)氏64歳。元々は人権派の弁護士だった。どこの国でもそうだが“人権派の弁護士”というのは経済面は弱い。今、韓国の最大の悩みは“経済面”にある。経済面に直接関係のない“日韓関係”など、まったく話題にもならない。つまり、そんなことにかまっていられないほど“今の韓国経済”は危ういのだ。この人は元々が“人権派の弁護士”だから、金銭面では“悪いことはしないはず”という思い込みがある。だから若者たちに圧倒的な支持を得た。ところが、この人には、一つだけ“注意しなければならない問題”がある。彼の両親が“北朝鮮からの避難民”だという点である。彼の四柱命式を見ると、母親からの影響力が強い。つまり、言い方としてはあまり良くないが“北朝鮮の血”が濃いのだ。だから、北朝鮮に対しては“融和政策”で挑むことを宣言している。仲良くしたいのだ。中国とも仲良くしたい。そして、アメリカや日本とは距離を置きたい。“別な民族”だからだ。本音でいえば、政治信条とか思想などではない。“血の宣言”なのだ。そこに、この人の一番の“危うさ”がある。日本はまだ良い。アメリカは生ぬるくなどない。単純なトランプ氏は文在寅氏の“北朝鮮融和策”を理解できないだろう。トランプ氏はビジネスとして金正恩氏とハンバーグを食べることはあっても、個人として安倍総理のように自宅に招いたりはしない。総じてアメリカ人は“何を考えているか解からない奴”は嫌いなのだ。その意味では、文在寅氏にも同じ印象を持つ。そうするとどうなるか。アメリカはビジネス面で韓国を“窮地に追い込んでいく”可能性がある。もちろん、日本も“反日”を真正面から掲げる韓国に寄り添うことは出来ない。もし、文氏が北朝鮮や中国との“蜜月政策”に失敗したなら、若者たちは黙っていない。

ヴァニラ&なかにし礼の「人形」

2017-05-09

私が昔好きだった歌の一つに「人形の家」がある。この歌の歌詞の持つ“もの哀しさ”に妙に惹かれていた。先日、BSで作詞家「なかにし礼」氏の特集番組があり、その中で彼がこの歌について、終戦時の満州に居た日本人のことを歌った歌である、と解き明かされた。「♪ほこりにまみれた人形みたい 愛されて 捨てられて 忘れられた部屋の片隅」終戦時に「日本」という国家から見捨てられ、ボロボロになって満州を生き延びた日本人の悲哀を謡ったものだと明かされたのだ。確かに、そういわれれば“ほこりをかぶった人形”というのは、“使い捨てられた命”であり、かつて日本が統治した満州は“部屋の片隅”に違いなかった。けれども、実際の歌唱は、それこそ人形のように美しかった当時の弘田三枝子さんが熱唱したもので、あの頃の歌声は本当に素晴らしかった。そして、久しぶりで見た“全身整形美女・ヴァニラ”さんに、どことなく似ていないでもなかった。けれども、あれから何十年も経ち、弘田三枝子さんは変わってしまった。なぜか痩せ衰え、そして声が出なくなった。久しぶりで見た“全身整形美女・ヴァニラ”さんも、一時期感じられた“人形のようなオーラ”は消えていた。何かが違う。全身30か所以上を整形し、2000万以上を注ぎ込んだ「芸術作品」と言って良いが、既に“頂点”は過ぎたかのような“人間臭さ”がにじみ出るようになってしまった。もちろん、彼女は人間なのだから、或る意味ではその方が良い。けれども、それは本来“彼女が目指している姿”ではない。彼女は「フランス人形」になりたいのだ。美白のため“日中の活動は避けている”というのを知って、私はかつての「美白の女王」鈴木その子氏を思い出した。彼女は“普通に白かった時”とても美しく、健康的だった。けれども過度に“白くし過ぎた時”、私は危険だと思った。“霊的な白さ”に思えたのだ。そう思っていたら、あっという間に亡くなってしまった。彼女が建てようとしていた“美白御殿”はどうなったのか、ヴァニラもその“危険な階段”を上り始めたような気がする。

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