私は、或る程度、どういうところでは何か書くか、何となくだが決めている。そして、ここでは基本的に「占い」を真正面から扱うことはほとんどしないのだが、今日は“どうでも良いニュース”が多かったので、たまには良いかと書いてみることにした。例えば、昨日、今日とcocoloniが提供しているサイトから依頼を受けて月2回、ホロスコープの分析を主とした連載コラムを書いている。今回は《「永すぎた春」を乗り越えて結婚》といった感じで二人の女性にスポットを当て記述している。毎回、テーマは担当者に任せてあるので、その時々で同じような人々のホロスコープを多数選別し、その中から特徴を抽出して、こういうホロスコープの場合に該当するというヒントまで記載している。したがって、プロやセミプロとして実占されている方達にとっては、貴重なテキストとしても役立つよう配慮している。私の場合《この一言で救われる》でもそうだが、少しでも実占家たちにとって、役に立つような形で判りやすく記述している。本当はもう少し全体的に解説した方がテキストとしては良いのだが、全部詳しく書いてしまうと、反って実占家にとっては“研究心を削ぐ”可能性もあると思うので、それはやらない。本当の研究者というのは、自分の眼で確認・検証作業を行う。そして、自分の場合にはどう分析・判断していくか考えるものである。そういうことを積み重ねていれば、必ず優れた実占家としての占い師になれる。世の中には、あまりにも“単純・低俗・まがい物”の占いがはびこっている。それではいつまでも占いは“エンタメの飾り物”で終わってしまう。本当に世の中に役立てられるためには、まるで“精神分析医”のような訳の解からない判断を導き出すものではなくて、具体的な未来予言や出来事、運命的な時期判定が可能なものでなくてはならない。私は自分の占いが“未完成”なのを承知で、未来の占い研究者たちのためにデータとして提供できるものを残していく。多分、それが私に課せられた使命なのだ。占いを“お遊び”だと認識している人は、ゲッターズとか、島田秀平とか、シイタケ占いに流れていけば良い。どうしようもない運命に、人生が翻弄されてしまうこともあるということ、そして、そういう時に“わらをもつかむ”気持ちから辿り着くことの出来る「最期の砦」として、我が占いを磨いていきたい。
「リュウグウノツカイ(竜宮の遣い)」と呼ばれる“深海魚”をご存じだろうか。深海魚であるから、滅多なことでは姿を現さない。体長が3m以上ある太刀魚に似た体形の奇妙な魚類である。昨日、舞鶴市の沖合でこのリュウグウノツカイを漁船が偶然捕獲した。何しろ「幻の深海魚」と呼ばれているくらいだから、それに暖かい地域の深海魚でもあるので、日本の近海で観られることは滅多にない。魚類だが、やや“人面魚風”の顔立ちをしている。そして長い背びれも特徴だ。一説には、これらから“深海に棲む乙姫が遣わした者”という意味で「竜宮の遣い」と名付けられたという言い伝えがある。そして「浦島太郎伝説」そのままに、これを見た人は“豪華絢爛な暮らし”を手に入れられるという話と、その地域に“大きな災いが降りかかる”前兆だという話の二つがある。実は昨日は、阪神淡路大震災から24年目の記念日だった。そういう日にリュウグウノツカイが捕獲された。確かに、深海魚であるから、浅瀬に上って来るのは異様な事態なのだ。ネガティヴに捉えれば、深海でプレートが大きくズレる時、それを察知して逃げ出した結果だと考えられなくもない。その一方で「竜宮の遣い」というくらいであるから、浦島太郎のように“夢見ごごちな日々”を与えられる前兆として出現したのだと言い聞かせたい気持ちも解かる。さて、どっちが正解なのか。一つだけ問題なのは、浦島太郎は「玉手箱」を開けて、おじいさんになってしまったことだ。元々“おじいさん”に近い私は、“あの世”から迎えが来るのではないのか。そう言えばむかし死にかけた時、現れたのは鎧兜に身を固めた武将だった。鎧兜の武将に手を引かれて、三途の川を渡りかけたのだ。今書きかけの本があるので、せめてそれを書き上げてからにしてくれないと困る。そう言えば、年末に私を訪ねて来た“占いコンテンツ”会社の社長がいるのだが、私との“約束”を破って、その後は何の音さたもない。もしかして彼は、既に竜宮の方へと旅立ってしまったのではないか。
最近のニュースには「正義」というものに固執し過ぎているものが多い。特に「絶対正義」だ。その時、正義でも時代が変わることで、正義でなくなってしまうことは少なくない。例えば太平洋戦争の時代、お国のために“命を落とすこと”は「正義」だった。本当に「正義」だったのだ。それに「異」を唱える者は「非国民」と呼ばれた。そういう時代が我が日本にもあったのだ。だから、あまり「絶対正義」を振りかざすような人は信用できない。ということで、2月2日からフジテレビ系で「絶対正義」というドラマがスタートするらしい。そして、そのドラマにフリーアナウンサーの田中みな実氏が女優デビューするという。役柄は“不倫中の独身女優”らしい。演技力がどうなのかはわからないが、女優としてのスタートが“キャスター役”ではなく“女優役”であるところに、本気度が窺われる。実は田中みな実氏の父親は銀行の“お偉いさん”だった。そして昨年、経済産業省肝いりの「民間ファンド産業革新投資機構」なる組織の社長となった人物である。ところが役所との間で“投資手法”を巡り対立し、すぐに辞任してしまった。或る意味で“正義感”の強い人物のようである。そういう父親から、“不倫の独身女優”を演じる娘が生まれたことは素晴らしい。世の中「正義」を振りかざす人ばかりではつまらない。昨日、愛知県で暴力団の組員がその素性を偽り、郵便局で「ゆうパック」集配のアルバイトを行い、それを自ら告白し4日目に辞めた人物が、それでも賃金7850円が支払われていたとして、法律的には変換しなければならないらしい。きっと、真面目に働いていたに違いないのに…。それにしても、暴力団員が郵便局でアルバイトって、なんか哀しい。せめてIT社長の用心棒とか、危険な発破作業のアルバイトとか、そういうものにしてほしい。何が正しいのか、何が間違っているのか「それでも地球はまわっている」と叫びながら、火あぶりにされた人物もいた。
昨年末からアメリカの政府機関が閉鎖したままになっている。当然のことながら、そこで働く人たちに給与は出ていない。その数約80万人である。政府機関の中には仕事そのものも休止した状態で閉鎖されたままの部署も多いが、そうでないところもある。国民の生活に支障をきたすような部署はどうあろうと稼働しなければならない。したがって政府機関で働く人には、ずっと働き続けている人もいる。働き続けてはいても、給与は支払われていない。何が原因なのかと言えば、トランプ大統領と連邦議会とで“メキシコの壁”予算でもめているからだ。どちらも妥協する様子はなく、したがって閉鎖が解除される見通しは、今のところない。アメリカ人は日本人に比べて、日頃から預金をしていないことで有名である。まあ早い話が、あるだけ使ってしまうタイプの人が多いのだ。公務員は堅実かと言えば、そうでもない。したがって給与が支払われないと、生活に行き詰まる。既に80万人のうちの17%に当たる人達が家族とか、友人とか、金融機関とかに借金を始めていて、この窮地を乗り切ろうとしている。何しろ、いつ終わるのか、見通しが立たないのだ。しかも、ただ働きが続いている人たちは、日々の生活に不安を抱えながら、どこにも文句の言いようがない。文句を言ったところで、ハイそうですか、と妥協してくれるような大統領でもない。何しろ、あの人、生活に困った経験がないのだから…。大体、“メキシコの壁”なんて必要なのだろうか。「ベルリンの壁」のように、いつか取り壊されるような気がするのだが…。そう言えば日本も、鎖国時代は「壁」ではないが、海外からの人も物も拒否していた。いっそのこと、韓国との間に「壁」を作ってはどうだろう。日本の公務員なら、多分、3ヶ月くらいなら給与が出なかったとしても何とか生活していくだろう。それ以上になったら、さすがにギブアップかもしれない。アメリカの場合は来月半ばくらいまでが限度で、それ以上になってしまうと急増ホームレスなんてことにならなければ良いのだが…。
中学校などの教育現場で今、深刻な状態を引き起こしているのが「隠れ不登校」の問題だ。病気とかイジメとか精神的な問題から「不登校」が生じてしまうことはしばしば耳にする。学校側が定義する「不登校児」というのは年間30日以上、不登校になる児童らしい。その程度で「不登校児」扱いされるのを初めて知った。私など年間50日くらいは休んでいた記憶があるからだ。もっとも、私の休みは単純に“行きたくなかった”からで、特に「体育」が嫌いだった私は、その授業がある時には休むことが多かった。大人になって会社勤めになってからも、私はしばしば会社を休んだ。「有休」を使って休み、それが無くなってしまうと「欠勤」扱いで休んだ。有休なら給料は変わらないが、欠勤になると給料が減る。それでも私は前日に飲みに行って、朝起きるのが遅くなった時や二日酔いの時などは休んだ。翌日「二日酔いで休みました」と正直に記すと、課長がやって来て「なんか別の理由を付けてくれ」と頼んできたものだ。何んと素晴らしい企業、そして上司だったことか。そういう“変てこりんな生き方”をしながら会社勤めをしていた私は、やがて“自由の身”となった。そういう風に「組織」というものが根本的に合わない人はいる。だから、私には「不登校児」たちの気持が解からないではない。ただ「隠れ不登校児」という存在は、理解しにくいし、支持は出来ない。つまり、学校には行くが、授業には参加しないような児童が急速に増えてきているらしい。しかも、その理由がますますわからない。「授業が解からない」「良い成績が取れない」「テストを受けたくない」これらから学校へと行っても“授業を受けたがらない”というのだが、それは単純に「勉強が嫌だ」と言っているのと同じようなもので、“組織”という枠が根本的に苦手な児童とは明らかに異なる。私は以前から“組織”が合わない児童には「もう一つの学校」が必要なのではないか、と思っている。少なくとも、そういうものが必要な時代に入っているような気がする。あまり規制をかけないタイプの学校があれば、そういうものであれば通うような気がするのだ。一律に教えるのではなく、個々に見合った教え方であれば、教科を選択できる学校であれば、通える児童はたくさん出て来るような気がするのだ。昔は“出社”というものが必要だったが、これからの時代は“出社”は必ずしも必要ではない。そういう企業には、正規の学校に通わなかった“はみだし児童”たちが自宅で仕事をしている姿が妙にお似合いで…。
ときどき神様はイタズラをする。神様というのはイタズラ好きなのだ。「天使のはしご」も、その一つなのに違いない。昨日、朝、東京上空には「天使のはしご」が降りた。私はその名称を知らなかった。重く垂れこめた雲の隙間から、太陽光線による光の帯が放射状に背の高いビルへと降りてくる気象現象を「天使のはしご」と呼ぶらしい。確かに見ようによっては、雲の隙間からはしごを下ろして「そのビルの屋上から登っておいでよ」と呼びかけているかのようにも見える。そう言えば日本には女性の宇宙飛行士が居た。2010年スペースシャトルに乗った山崎直子氏である。彼女が2018年7月に設立した社団法人「スペースポート・ジャパン」では、日本独自の「宇宙港」を既存空港と併用する形で早期に開港させようとしている。宇宙ビジネスには「宇宙港」がどうしても必要らしい。「天使のはしご」では難しいらしいのだ。日本には宇宙ビジネスに一部分だけ関わっている企業が沢山ある。そういう企業の“総元締め”的な意味でも「宇宙港」は必要らしい。現在、ラスベガスで開催中の「CES2019」では「空飛ぶタクシー」がお披露目されている。こちらは有名なヘリコプター製造の会社からの試作品で垂直離着陸型のタクシーなのだが、見掛け的にはどう見てもヘリコプターだ。5人まで搭乗できるらしく2023年の実用化を目指している。そういうわけで、これからの時代は「宇宙」や「空中」がおススメらしいのだが、それよりも現実的には、ちょっとだけ空中のビルからビルへの「遊歩道」をたくさん作って欲しい。私が暮らす札幌は、地下歩道は地下商店街と共に比較的充実してきたが、まだまだ中心部に限られている。地下歩道よりも空中の遊歩道の方が安上がりで見晴らしも良いような気がする。以前、クアラルンプールに行った時、遊歩道の充実していることに驚いた。暑い日差しに照らされて歩くことなく、あちこちへと移動できる。乗り物よりも歩く方が早いのだ。日本にも早くあちこちに遊歩道を作るべきだと神様が囁いているではないか。
このところ“嫌な告発事件”が続いている。「NGT48山口真帆」「純烈・友井雄亮」「YouTuberヒカル」こういった“時代の寵児”と、その周辺で巻き起こった出来事が“告発”という形で次々と表に出て来ていることだ。これらの芸能人は、近年の“接触型商法”によって爆発的な人気を生み出してきた。昭和の“芸能人”が「スター」と呼ばれて“高嶺の花”だったのとは違い、今の人気者達は“接触型”であるところに特徴がある。昔はその人の“芸術・芸能”そのものが評価された。ところが現代は、“芸術・芸能”それ自体は“添え物”であって、それを発信する人物の外貌とか、性格とか、日常とか、雰囲気とか、趣味とか…本来の能力とは別次元での評価が主流になりつつある。それは俗に「AKB商法」とも揶揄される“握手会”とか“撮影会”とか“showroom”とか、日常の中で“繋がっている”かのような錯覚に陥らせることで、芸能人と一般人との“垣根”を取り払う商法が成功した証でもある。けれども、同時にそれは常に“プライベートまで晒される”ぎりぎりのところで成立している商法で、実際には“危険な商法”でもある。本人たちが、それに気付いているかどうかはともかく、SNSを通じて、その日常を外部に発信し過ぎている芸能人は、或る意味で自らがストーカー的なファンを養成していることになる。今回の“三つの告発事件”は、そういう意味では「仕事」としての日常と「プライベート」としての日常の境が危うくなってきている著名人たち誰もが考えなければならない課題を突き付けているような気がするのだ。現代は、プライベートで大きな問題を起こせば、仮にどんなに才能があろうと“世間”から抹殺される。仮に、それが「噂」だけで真実ではなかったとしても、拡散してしまった「噂」は取り除きようがない。その一方で、企業として“巨大化”することで、多少の事件があっても“マスコミの口封じ”を行える芸能事務所なども出て来ている。あまりにも自称・芸能人が増え過ぎたことが、いびつな芸能社会やスポーツの世界、文化や流行を生み出していきそうで不気味なのだ。
愛くるしい笑顔で“美少女コンテスト”の動画が何度も流されたジョンベネ・ラムジーちゃんが殺害されて22年が経った。アメリカ有数の大富豪の美少女がクリスマスに殺害されたということで世界中の注目を集めた。外部から侵入した者の形跡が乏しいということで、その両親に“容疑が掛った”時期もあった。さまざまな憶測と中傷が飛び交った事件でもあった。昨日、この事件に対して新たな証言が飛び出した。殺害された当時、比較的近くに居住していた人物が、自分が犯人であると告白したというのだ。既に2016年、児童ポルノ所持で逮捕収監されているゲイリー・オリバ容疑者が、昔の同級生で友人のマイケル氏に手紙の中で「ジョンベネを誤って殺してしまった」と記しているのだ。ゲイリー容疑者が所持していた携帯電話の中には数百点の児童ポルノ画像が含まれている。その中にはジョンベネちゃんの画像も含まれている。けれども警察は慎重である。まずゲイリー容疑者の告白文が微妙なのだ。「ジョンベネの美しい顔、輝くような肌、女神のような身体を見て、私は子供達を殺害してきたことが間違いだったと悟った。けれども、アクシデントが起こってジョンベネは死んだ」或る種、妄想癖のある人物が勝手に殺したことにしている風にも読み取れないこともない。これらの文面だけで真犯人とは決めつけられない。22年前の殺人時に添えられた脅迫状の筆跡とも明らかに違っている。富豪の自宅内で“不審な死を遂げた”という点では、昨年起こった和歌山の“紀州のドンファン”こと野崎幸助氏が覚せい剤中毒死した事件も未だ明らかになっていない。死亡時に外部から何者かが侵入した形跡は乏しく、自宅には二人の人物がいた。お手伝いさんと新妻である。この二人も、事件当時、ずいぶん疑われた。けれども、侵入者のいない自宅内で、殺人が起こったとすれば、真っ先に疑われるのはこの二人である。片方は懇願に負けて“新妻”となった55歳年下の美女であり、片方は30年来の付き合いがある“お世話係”ともいうべきお手伝いさんである。お手伝いさんの方は一時期、仕事を手伝ったこともあり、謂わば“身内的な間柄”である。新妻の方も、元々裕福な家の娘であり、別にお金に困っていたわけではない。もし、二人が共謀したとするなら、もっと自分たちに嫌疑が掛からない方法を考えるだろう。これらの事件は、共に“大富豪”で、“美女”が絡み、さまざまな“憶測”が浮上し、“侵入された形跡”が乏しいことで捜査を難しくさせている。ただ一つ、疑われた人たちは“その十字架”を背負って生き続けなければならない。
世の中にはいろいろな人がいる。しかも、産れた時に、もうその後の運命が“決まっている”ような人生を歩む人もいる。昨日、窃盗容疑で検察に送られてきた「堀鎮王(79歳)」も、そういう一人なのかもしれない。彼は自分を“プロの詐欺師”として自認している。ところが、昨日は「窃盗」として送検されてきた。彼にとって、それは屈辱以外の何物でもなかったらしい。だから「自分は詐欺はしたが窃盗はしていない」と最後まで言い張った。ところが、彼は承諾なしに相手のズボンから財布を奪った。だから今回は「窃盗」なのだ。今頃、彼は後悔していることだろう。「窃盗」に対してではなく「詐欺」が上手く行かなかったことに対してだ。何しろ、この道50年のベテランなのだ。齢で腕が鈍ったのか。いいや。まだまだなはずだ。彼は次回こそ成功させようと、今から頭をひねっているに違いない。何しろ、この道50年なのだ。どうして、こんなことになってしまったのか。多分、名前が関係している。彼の姓名は「堀鎮王」珍しい名前だ。これを意義的にひも解くと「掘られた空洞の中に、お金の真実がある王」とも読める。わかりやすく言えば「封筒の“偽札”王」だ。彼は親切そうな人物に近づく。そうして「この封筒の中に大金36万円が入っている、これを私のかわりに届けてもらえないか」と訴えるのだ。直接の窃盗容疑の時には明治神宮の敷地内だった。そこで親切そうな男性に、封筒を手渡しながら、このように頼んだのだ。自分の足では駅まで約束の時間に間に合わない…と付け加えた。確かに79歳の老人である。その時間には間に合いそうもない。とはいっても、見ず知らずの人物から、お金を渡してきてほしいと頼まれて、そうそう引き受けてもらえるとも思えないのだが…。そこは「プロ」。何しろ50年間培ってきた腕(?)がある。そこで頼まれた男性が「わかったよ、渡して来てあげるよ」と笑顔を見せると「ちょっと待ってくれ、ここには36万円入っている、万一のこともあるので私に君の財布を預からせてほしい」というのが彼の“手口”なのだ。いつもはこれで成功するのだが、その日は違った。男性は財布を渡すということを妙に渋ったのだ。そこで面倒になって、彼のズボンから奪ってしまったというわけだ。堀鎮王の顔貌を見たが、鼻脇から出る法令線がクッキリと深く長い。これは自分の仕事を全うする形だ。確かに50年も続けてきた。一流の詐欺師なのだ。何しろ親の名付けが「掘鎮王」で「お金の真実の王」となることを予告していた。
私の家にTVが購入されたのは11歳くらいの頃だったような気がするが、その初めの頃に私を夢中にさせた番組が二つあった。その一つがアメリカのTVドラマ「逃亡者」であり、もう一つが昨日訃報が伝えられた兼高かおる氏の「世界の旅」である。まだTVが白黒だった時代の映像の方が記憶に残っている。当時は“海外旅行”が誰でも気軽に行うようなものではなかった。それだけに世界中を駆け巡る彼女の旅の様子は新鮮で“異世界”のような興味深さがあった。彼女の容貌も美しく、何でも積極的に自らチャレンジして、その体験リポートをする。通常の旅行者なら行かないような場所へもどんどん出向く。勇気と好奇心の塊のような女性だと思った。おそらく、当時の日本人全体の身代わりのような意識で世界中を巡っていたのだろう。実際、教科書ではわからない歴史や地理や民族などのことを教えた“興味深い番組”だった。その後、続々と旅番組が登場しているが、おそらく150ヶ国を紹介した番組は他にない。ただ単に先駆者というだけではなく、今も超えることが出来ない“貴重な記録の宝庫”なのだ。私は最近TVでは「オスマン帝国外伝」という海外ドラマが気に入っている。文字通りオスマン帝国の時代の物語なのだが、実際には“宮廷女性達の物語”のようなところがあって、日本の“大奥”のドラマと相通じる部分もある。これはトルコのドラマらしいが、以前NHKで放映したスペインの歴史背景ドラマにも惹き寄せられたことがある。歴史背景のドラマというのは、最初、複雑で解りにくいのだが、徐々に内容が入って来ると面白くなる。日本の最近のドラマは“上っ面でストーリーを運ぶ”物語が多く、入り込めない。ドラマの展開の中で性格が変化していくのも奇妙な共通点だ。歴史ドラマにはそういうところがない。ゆるがせない歴史的事実というものがあって、その中で個々の人物の役割や性格がハッキリとしていて、個々人間の持っている“運命”が垣間見られる。大昔から、無数の人達が“歴史”と“運命”という渦に飲み込まれながら、それでも必死に自らの役割を果たそうとしている姿が、私はたまらなく好きなのに違いない。
シンガポールの東南アジア研究所というところが、興味深い調査結果をこのほど公表した。ASEANに加盟する10ヵ国の識者たち約1000名に対してアンケート調査を行い、政策やビジネスなどの識者たちが国際平和や安全保障などで、どの国が“正しい行動をとる”と見たてているか、浮き彫りにした注目すべき最新の調査だ。その結果、日本が「正しい行動をとる国」として65.9%もの得票を集めた。アメリカは27.3%であり、中国は19.6%だった。知識人における国際世論は「日本」という国が、世界を“正しい方向へ導く国”だと認識していることになる。その証拠に、日本への信頼度という点でも、カンボジアからは87.5%、フィリピンからは82.7%と、その信頼度は群を抜いている。一方、不信感を抱く国という調査では、中国が51.5%、アメリカが50.6%で激しく拮抗している。つまり両方共に“信頼できない”という共通認識を持たれている国なのだ。因みに日本への不信感は17.0%でもっとも低い。但し、東南アジア地域における経済的に“影響力の強い国”という観方では、中国が73.3%で群を抜いていて、アメリカは7.9%、日本は6.2%とその存在感がない。つまり、中国によるアジア圏の経済的な影響力は強いが、だからといって中国を信用しているわけではなく、最終的には「日本について行けば間違いない」という風な認識を多くの識者たちは抱いているということだ。日本人は確かに、中国人やアメリカ人のように“金でものを言わせる”というような国ではない。その点ではどうして中国人とアメリカ人が共通しているのか、不思議な気さえする。アメリカにはキリスト教的な“ヒューマニズム”があり、中国には儒教や道教などの“古典的な経典”が沢山あったはずなのだ。今や、その両方の“学ぶべき部分”をゆるく身に付けたのが日本人なのかもしれない。一時期、日本人は何でもかんでも“猿真似する国”だと揶揄されていた時代がある。けれども進化した今の日本は、もはや“猿真似の国”なのではない。むしろ世界に“良いもの”だけを発信していく。そして、人類が進むべき正しい道へと“リードしていく国”へ生まれ変わりつつあるのだ。
本人が“正月休み”で代わりを引き受けた木梨憲武氏が、そのラジオ番組の中でカンニング竹山(隆範)氏が現在ハワイ旅行中であること、そして漫才の時の相方である中島忠幸氏の息子さんを連れての旅行であることを明かした。相方であった中島忠幸氏は2006年12月に白血病で亡くなっている。もう、それから13年になる。それなのに、この人は自分の相方の“息子”を“我が子”のように可愛がりながら今日まで来たのだ。おそらく、実子のない竹山氏にとって、相方の息子の成長は自分の子供の成長を見るような思いでいるのだろう。そして、社会人になるまでは“一緒に旅する”に違いない。彼は相方が亡くなった後も「カンニング」の“漫才名”に固執し、それを使い続けた。それはおそらく、相方がいたから成功できた、という思いが強いからに違いない。そして、相方が亡くなる時に「無言の約束」をしたからに違いない。それは「自分が奥様と息子を守り続けていく」という無言の誓いだったはずだ。実際、彼は自分の収入の一部を彼の遺族に渡し続けた。人は往々にして身近な人の“死の間際”で「誓い」をたてる。けれども、歳月は人を変える。あの時、あんなに「誓い」をたてたのに、それを守れなくなってしまった…というケースは多い。時とともに感情も“風化”し、いつの間にか“過去の誓い”も薄れていく。相手はもういないのだ。「誓い」を破ったとしても、誰からも咎められることはない。けれども、中には「無言の約束」を死ぬまで守り続ける人もいる。誰も見ていないし、誰も憶えていないし、誰からも咎められるようなことはない。けれども、それだからこそ守り続けようとする“一途な人”もいる。そういう人は仕事の面では必ず大成する。約束を破らないからだ。よく昔の人は「おてんとうさまは見ている」という表現を使ったが、それは嘘ではない。運命の女神は、そういう人をピンチから救い出すのだ。どんなに窮地に陥ったとしても、必ず何らかの手段で救い出す。特別「幸運」を授けてくれるわけではないが、ピンチに陥った時にさりげなく手を差し出すのが“運命の女神”なのだ。
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