2月, 2019年

ドラマのような「命」のリレー

2019-02-28

大昔、オリンピックは「参加することに意義がある」と言われた。今はもう誰もそんなことは言わない。それは「順位」が重要だからである。「国」の威信が掛かっていたり「個人」の運命が掛かっていたり「企業」の繁栄が掛かっていたりするからだ。けれども、その原点は言うまでもなく古代ギリシャにある。そして、その大会目的には「美にして善なること」を掲げていた。「美」はともかく「善」の方は、スポーツ競技ではなかなかに難しい。昨年の12月9日、宮崎で「青島太平洋マラソン」というものが行われた。実は昨日、それに参加していた10名に大会の実行委員会から「感謝状」が贈られた。彼らは誰ひとり入賞はしていない。けれども表彰されたのだ。実はその競技に大分から参加していた60代の男性が競技途中で突然倒れたのだ。徐々に崩れ落ちたのではなく、突然倒れた。丁度すぐ後ろを走っていた消防士の山本大祐氏はとっさに手を伸ばし、転がり落ちそうだった身体を支えて安全な場所へと移した。声をかけたが反応はなく、脈も止まっていた。即座に気道を確保し、救命措置を施した。倒れた人がいるという声を聞きつけ駆け付けたのが救急救命士の浜砂憲治郎氏だった。彼は素早く人工呼吸を始めた。そのうち消防で救急係をしている浜畑貴晃氏にも噂が伝わった。彼は逆方向のスタート地点に向かって走り出し、やがて心肺蘇生に役立つAEDを持って登場する。これによる電気ショックを与えて蘇らせようとしたのだ。実際2度目のショックで心肺は見事に蘇ったのだ。やや遅れてやってきた救急車には救命救急センターに勤める安部智大医師が駆けつけて飛び乗った。こうして青島太平洋マラソンに参加していた人物たち総計10名の見事なリレーで一命はとりとめられ、心肺停止となった男性もようやく職場復帰することが出来た。それを待っての今回の「感謝状」であった。それにしても、まったくの偶然ながら、そういう時に必要なメンバーが見事なまでに集まっていた大会であった。ドキュメンタリーのカメラマンが居なかったことだけが妙に悔やまれる。

「慰安婦像」増えると「訪日韓国人」増える⁉

2019-02-27

不思議な法則があるものだ。どうしてそうなのかは誰にも答えられない。けれども間違いなく、データはそれを表わしている。だから日本人も「慰安婦像=少女像」が増えることに神経をとがらせてはいけないのかも…。何しろ「訪日韓国人」は、間違いなく慰安婦像が多くなるにつれて多くなっているのだ。このところ、それは急増しつつある。韓国では「少女像」と称しているらしいが間違いなく「慰安婦像」である。そして「慰安婦像」ということは現代的には「風俗嬢」である。国中それを建てているのだ。しかも記念写真が撮れるよう傍に座れる椅子が付いている。男女を問わず恥ずかしげもなく“風俗嬢”と一緒に映りたがる。「最終的かつ不可逆的な解決」が行われた2015年12月から慰安婦像の設置が増え始め、2019年1月の時点で112体になったと報道されている。さらに世界各地に設置しようという計画もあるらしい。不思議なのは、それと並行して「訪日韓国人」が増えてきていることだ。2018年には753万人が日本を訪れた。これは前年比で5.6%増である。2015年以降どんどん増えている。わが北海道だけでも台湾からの観光客とほぼ同数にまで増えて、一昨年統計で280万人が来てくれている。どうして中国人観光客よりも多いのだろう。韓国の外相は国連で“日本への非難”をアピールし続けているが、それなのに自国の人々が日本に来ちゃうのは、この不思議な法則のせいだとしか思えない。問題は姉妹都市を結んでいる各地域で、日本の秩父市、福岡市、熊本市、萩市などが韓国の都市と“姉妹都市”となっている。そのため秩父市など、本来なら市職員の“相互派遣”等を行う予定だったのだが、安全が確保できないとして見送らざるを得ない状況となっている。大阪市の場合には、サンフランシスコ市と姉妹都市だったのだが、慰安婦像の設置でそれを解消した。この際だから、日本から“風俗嬢御守り”を訪日韓国人の方達には来日記念品として差し上げるというのはどうだろう。そうそう「慰安婦像」の“像”には何故か実際の衣裳が着せられている。銅像はたいていハダカなのに、慰安婦像なのに、どうして衣装を着せているのだろう。

根っからの「ワル」をどうすべきか

2019-02-26

たまに“やりきれない事件”というものが起こる。昨日、東京の児童養護施設「若草寮」で施設長である大森信也氏(46歳)が暴漢に襲われ、胸や腹など数か所を刺されて病院に運ばれた後に死亡した。暴漢はその場で取り押さえられたのだが、4年前までこの施設で3年間生活していた田原仁(22歳)であった。容疑者は鍵のかかっていない玄関から入って施設長室に入り、その部屋にいた大森氏に持ってきた包丁で襲い掛かったと思われる。ちなみに容疑者が入所していた当時の施設長は別人だが、施設そのものに“恨み”があったので誰でも良かったと供述している。ここは親と暮らせなくなった6歳から18歳までの児童たちを預かっている施設で、田原自身も15歳から18歳までここで過ごした。その謂わば“実家”ともいうべき施設に対して包丁を持って仕返しに来たのだ。現在の田原は住所不定・職業不詳と報道されている。そうすると、この施設を出て以降、彼は仕事にも住居にも恵まれていなかったか、自ら流転を繰り返していたものと思われる。そうして自らの人生を振り返った時、“実家”に相当する「若草寮」は“社会への原点”となり、本当の実家は眼中になかったと思われる。彼が“親と暮らせない”事情は分からない。けれども、彼自身の中で“実家”に相当するのは「若草寮」だった。そうだとすれば、その施設で働く人たちは“親代わり”と映る。早い話、18歳になって寮の規定から社会に放り出された児童が、結局上手く行かず、親元に“殴りこんで来た”というのが実情であろう。今の施設長である大森氏は人一倍、子どもたちの“未来”に希望を抱いていた方で、2015年6月に出した『子どもの未来をあきらめない、施設で育った子どもの自立支援』という著書でも、児童養護の必要性を熱く訴えている。職務というだけではなく、心から預かっている児童たちの“行く末”に希望を託していた方なのだ。実は昨日、私はたまたま少年院からの子供たちを受け入れている養護施設に関するドキュメンタリーを見ていた。そのすぐ後の報道だっただけに、何とも言えない気持ちになった。こういう表現は誤解を招くかもしれないが、世の中に根っからの「ワル」はいる。それでも「あきらめない」と果敢に向かっていったのが被害者だったのだ。

携帯・スマホの「見直し検討」は正しいか

2019-02-25

全国に先駆け、今年の4月から大阪府だけが携帯電話・スマートフォンの小・中学校への持ち込みについて認める方針を出した。それを受けて文部科学省も2009年から「原則禁止」としていた“携帯・スマホ”の学校への持ち込みについて、見直しの検討に入った。このニュースに対し昨日「サンデー・ジャポン」に出演していた杉村太蔵氏は「僕は大反対」と持論を展開した。彼自身は自分の子供に対してはGPS機能付きでネットに繋がらないカメラ無し“キッズ携帯”を持たせているという。そして、スマホは高額であり“歩きスマホ”から事故につながりやすく、“イジメ”を誘発しやすいから大反対であるという。文科省が見直しに入ったのは一部から“災害時の活用”という声が聞こえるからである。ただ実際の緊急災害時に役立つかは大いに疑問である。震災で大停電となった時など携帯・スマホもつながらなくなってパニックが発生した。杉村氏の言うように登校時の“歩きスマホ”は事故につながりやすい。学校への持ち込みは「誰が管理するのか」という問題を引き起こす。教師たちにそれを押し付けるのは酷な気がする。ただ一方に、国際的に見た場合、日本のIT関連の普及・教育が遅れて来ていることも事実で、むしろ国が援助して中学入学時にスマホを買い与えて授業に役立てるべきだという意見もある。私の考えとしては暮らしている地域とか、家族的な事情とかも関係することなので、一律に規定できないような気もする。ただ小学生でスマホを持っての登校はさまざまな意味でマイナスの作用の方が大きい。教師への負担があまりにも大きい。昔、必要なものは、学校があっせんする形で購入したものだ。メーカー側は日本の文科省と一体になって“小学生用の携帯・スマホ”とか“中学生用の携帯・スマホ”とかを開発すれば良い。そうして学校では、それを用いるように指定すれば良いのだ。そうすれば、費用も安く、親が安心して持たせられる携帯・スマホが“学校教材”としても活用できる。そうすれば国際的にも後れを取るようなことがなく、みんな一律で“ゲーム中毒者”も出ない、安全なIT王国になれるではないか。ちなみに私はかつて携帯電話を使用していたが、今は一切使っていない。もちろんスマホも使っていない。それでも何ら生活に支障などない。スマホがなければ生活できないなどというのは“幻想”なのだ。

人間に近づけなかった「観音様」

2019-02-24

科学者の中には人間の“心理”というものに疎い人が時々いる。せっかくの「法話」なのに、その法話が少しも心に響かず、耳にも残らないとすれば、残念な結果としか言いようがない。アンドロイド観音「マインダー」の話だ。秀吉の正室ねねがゆかりの寺として知られる京都・高台寺の“教化ホール”に3月8日~5月6日まで世界初のアンドロイド観音が設置される。これは高台寺と大阪大との共同制作により誕生したアンドロイド観音で、昨日その“開眼法要”が行われた。これは元々高台寺の執事長である後藤典生氏と世界的なロボット研究者である大阪大の石黒浩教授とが旧知の間柄だったから誕生した作品で「現代人に仏様を何とか近づけられないものか」という話の中から生まれた共同研究の成果であるらしい。ロボットから法話が流れてくれば、確かに興味深い。動かないロボットではなく、身振り手振りを加えて“生きているかのような”雰囲気を加えることで、観音様らしく思えるのではないか。そういう試行錯誤の末に誕生したのが「マインダー」と名付けられたアンドロイド観音であった。だから本当は称賛してやりたいのだが、どうしても出来ない。なぜかというと、この「観音様」頭部と手指は確かに“仏様っぽい”のだが、それ以外の部分、つまり胴体部分がなぜか透明になっていて、あからさまな“機械の繋ぎ合わせ”剥き出しなのである。したがって逆に顔や手だけが“人形的”に作られているので、違和感というか異様な外見だけが眼に飛び込んでくる。とてもじゃないが「観音様」になど見えない。文字通り、実験室の“機械仕掛け”にしか思えないのだ。これではどんなに優れた説法でも法話でも耳に入らない。あまりにも異様な外観なので、そちらの方に気を取られて、法話に心を向けるということが出来ない。とても有り難い説法や法話を聴いたという気持ちになどなれない。そもそも、どうして“胴体を剥き出し”にしようとなどしたのだろう。ロボットそのものに興味を持ってほしかったのだろうか。だが土台がロボットにだけ興味を持つような人は“観音様”になど興味を持たない。観音様に妙味を持つ人は、本当は“ロボット”になど興味を持たない。どっちを優先させれば良いのかと言えば、お寺に置く以上は“観音様”の方である。大学の研究室なら“剥き出し”で良いのだ。そういうわけで、外国人が悦びそうな“観音様”だが、少なくとも日本人の心には響かないと知っておいて欲しい。

芸者「アンナ」に芸者「ゆう子」の“背後霊”⁉

2019-02-23

「アンナ」という芸者なのだそうだ。しかも、その芸者、今は舞台で“おんな”を抱いている。それでも、ちゃんと“性転換”して、芸者になれるのだそうだ。どうやって芸者になるのかというと、新橋の芸者さんに弟子入りして着物の“着付け”や“所作”など教えを受けたからだ。本当は浅草の芸者さん「浅草ゆう子」さんに弟子入りすべきだったのだが、2月20日に亡くなってしまった。12歳から浅草の芸者置き屋「新菊の家」に奉公で入り、16歳で芸者デビューをし、何と80年近くも芸者として働き続けた方だ。享年96歳。それから一日置いて、元宝塚のトップスター・湖月わたる氏が舞台「雪まろげ」で“芸者を目指す女アンナ”を演じることを記者会見で宣言をした。元々“男役”で、現在は「ベルばら45」で“おんな”を抱いている。それが一転して今度は“芸者役”を演じるというのだ。その切り替えのためには、私生活でも超ミニスカート姿に切り替えることで乗り切ると断言。その湖月氏の発表を待つかのように、本物の浅草芸者として80年近くを過ごした「ゆう子」氏は亡くなった。きっと今回の舞台では「アンナ」の背後霊として、のりうつってくれるに違いない。何しろ80年も芸者をしていたのだ。川端康成や田中角栄や美空ひばりなど著名人から愛された芸者は、性転換したばかりのアンナを危なっかしくて見ていられないに違いない。さりげなく背後に憑いて、芸者らしい着付けや所作を教えるに違いない。この舞台は、今は亡き名女優・森光子氏の代表作の一つで、主役である東北温泉街の芸者・夢子を演じていた。その夢子の“妹分”に当たるのが「アンナ」なのだ。だから、もしかすると森光子氏も見てられなくて一緒に“背後霊”となって、湖月わたる氏の所作などを手伝うかもしれない。こうして“芸者を目指す女アンナ”は二人の大ベテランがさりげなく手を貸して“舞台・芸者”らしくなっていくのだ。

「玉手箱」を開けてしまった太郎浦

2019-02-22

そうそう浦島太郎の物語です。あの人、どうしたんでしたっけ? 我慢できずに「玉手箱」を開けてしまったんですよね。そうして、おじいさんになっちゃった。それでこちらは、現代の「玉手箱」を開けてしまった人なんですが「太郎浦勇二」というんです。もちろん、本名が「太郎浦」なのですよ。実はこの人、去年まで弁護士だったんです。でも「玉手箱」を開けてしまったので、今は“弁護士剥奪”です。それでもって、もう73歳のおじいさんになっちゃいました。やっぱり「玉手箱」は開けちゃいけません。ん?「玉手箱」ですか? そりゃ、乙姫の女性達から預けられた“遺産”ですよ。この人、二つ口座を持っていて、その一つは業務用…つまり資産管理用の口座です。そこに、乙姫様は自分が亡くなったら頼むわね、と遺産を移し替えてくれるのですよ。そして“死人に口なし”ですから、それを今度は自分の個人用口座の方へと…何しろ「玉手箱」ですから、そりゃ、開けてみたくなりますよ。ところがですね、最初の方は1億3000万円だったのですが、遺族というものがおりまして、還してくれ、というんですよ。もちろん「玉手箱」ですから、還せません。そしたら“弁護士資格剥奪”ですよ。ひどいと思いませんか。それでもって、もう一人の乙姫様は遺族はいなかったのに、お寺の方に口頭で「死後はお寺に寄付する」と伝えておりまして、それを気付かなかったのですよ。だから、こちらは1億6000万円ですが、警察の方に知れまして御用となったのです。いやあ“死人に口有り”だったのですよ。え? どうして「玉手箱」を開けてしまったのかって? それはですね。何しろ、竜宮城から戻って間もないものですから、ちょっと浮かれていたというか、株の信用取引で大きな損失が出たのですよ。それで、つい「追徴金」というやつを請求されまして「玉手箱」から引き出してしまったのですよ。だから、還せといわれても、もう無いんですよ。乙姫様たちは「玉手箱」を渡す時に確かにおっしゃいました。冗談っぽく「開けちゃいけませんよ」「ご安心を。大切に保管します」そう言って受け取ったのに、ついつい開けてしまった自分が情けない、ということで「太郎浦」は、容疑を認めている。

本当の「思いやり」を知っている人物

2019-02-21

現代は良い意味でも悪い意味でも“記録”が残る。ましてや芸能界のようなところで仕事をしていれば、過去の“記録”や“記憶”は一生ついてまわる。本人はもちろん、世間という“一般の人々”にも残りやすい“記憶”というものはある。そういう意味で芸人・小峠英二氏は、いつの間にかTVのバライティ番組では欠かせないタレントの一人となった。自分の立場をわきまえ、出過ぎず、必要に応じて“笑い”を引き出す存在として好感が持てる。しかし、同時にこの人には一時期、恋人同士として“世間公認の仲”となっていたタレント坂口杏里氏のイメージが付きまとう。もう破局報道があってかなりの年月が経つが、それでも、その坂口杏里氏の“話題”や“ニュース”が飛び出すたび、なぜか一緒に想い出されてしまう。昨日、その小峠氏は「RIZAP」新CM発表のゲストとして呼ばれていた。記者からの公開質問で飛び出したのは、またしても坂口杏里氏のことだった。昨年から何度も「芸能界復帰」を希望するメッセージを発信している。だれに向けてのものなのか、どこに向けてのものなのか解からないが、自ら飛び出していった芸能界に戻りたい願望を持っているようだ。そういう場合、もう別れてずいぶん経っているのだから、その質問を遮ったとしてもかまわない。或いは、軽いジョークで交わしたとしてもかまわない。例えば「あんこは好きなんですけど、杏里の方はちょっと…」などと言っても良いわけだ。けれども、小峠氏は「なんかね、一応、ネットニュースとかの情報しか知らないけど…」と前置きして「復活するなら頑張りやいいんじゃないですか」と、ちょっと距離を置きながらもエールを送る回答をした。この言葉の中に、彼の“やさしさ”や“思いやり”があふれている。そして彼が当時は恋人として“真摯に付き合っていた”ことを物語っている。別れて後、彼女はホストと交際し始め、AV女優に転身し、さらにはキャバクラのような水商売に向かった。どう考えても、小峠氏にとって“苦々しい報道”ばかりだった。どの仕事も我が侭から長続きせず、また芸能界に戻りたいといっている。公・私とも“救いようのない存在”なのだ。それでも、彼は彼女を一言も“悪く”言わなかった。そこに、この人の“懐の深さ”があふれている。きっと、今日の“栄光”を掴むまで苦労したに違いない。そういう人だけが持っている「思いやり」なのだ。

新国名「マハルリカ(高貴に誕生)」が実現⁉

2019-02-20

ときどき自分の“苗字(姓)”を嫌う人がいる。確かに特殊で印象的に良くない苗字の場合、変えたくなる気持ちはわかる。けれども、これまで家系的に使われてきた苗字を勝手に変えることは出来ない。もし、どうしても社会的に不都合が生じて変更したい場合には裁判所に出向かなければならない。個人の苗字でさえもそうなのだから、国家の名前である「国名」を変更するとなれば、もろもろの手続きが必要でよほどのことがない限り変更は難しい。しかし、それを決行しようとしている人物がいる。フィリピンのドゥテルテ大統領だ。元々「フィリピン」はスペインからやって来たマゼランによって「聖ロザリオ諸島」と呼ばれた。ところがマゼランは殺害され、続いてやってきたスペインの軍隊により征服されて「ラス・フィリピナス諸島」と呼ばれ、この名が現在の「フィリピン」に化した経緯がある。この名称は、植民地化した当時のスペイン皇太子「フェリペ」にちなんだものだ。その後350年間、フィリピンはスペインの植民地だった。その後、アメリカの植民地となり、1946年に独立するまで支配下にあった。私は昔、フィリピン女性と付き合ったことがある。明らかにスペイン系の血を引いた容貌の女性だったが、英語を話してキリスト教徒だったが、占いにも造詣が深くて占数術を得意としていた。スペインからの影響で国民の多くはキリスト教徒である。アメリカからの影響で国民の多くは英語を話す。つまり元々のマレー系の血と、スペイン系の血と、アメリカ系の血が入り交じっているのが“現代のフィリピン人”なのだ。実は「国名を変えるべきだ」と主張したのはドゥテルテ大統領が最初ではない。マルコス大統領もそれを望んでいたのだが一部から反対も出て実現しなかった。ドゥテルテ大統領が提案している国名は、現地語であるマレー系の言葉で「高貴に誕生した」という意味を持つ「マハルリカ」である。フィリピンが高貴に誕生したかどうか疑問だが、確かに独立国として16世紀のスペイン皇太子名を冠しているのもおかしいといえばおかしい。早くも一部から反対が出ているらしいが、果たして日本の元号が変わる頃、フィリピンは新国名に変わっているだろうか。

「俺、地球人だし…」を流行らせよう⁉

2019-02-19

アメリカ大リーグで活躍するダルビッシュ有氏に対して、ツイッター上で「イラン人」という表現を使った投稿者に対して「まず俺日本人だし、ずっと日本で育ってきてるから、冗談でも日本人じゃない的な言い方をされるとうれしくないよなぁ」と反応し、続いて「そもそも完全な純血ってどれぐらいいるんだろうか」と疑問を投げかけている。なるほど、彼自身はそういう風に思っていたのか。私は日頃の彼を良く知らないが、何となくの印象で言えば、高校球児として騒がれ出した当初は“田舎もん”的な雰囲気が強くて、どちらかと言えば“無口な少年”のように思えた。日ハムに入った当時も、東北訛りが抜けていなくて“素朴な青年”という印象だった。それが、いつの間にか美女と結婚し、日ハムのエースとなり、離婚して話題となり、優秀な成績で大リーグへと旅立った。そして大リーグでも活躍して外見的にも逞しくなり、その発言も明確になっていった。再婚相手も意外だったが、今度は順調なようである。この頃から、おそらく一般の日本の方達にとってはダルビッシュ氏の「明確な物言い」が、時として“日本人離れ”しているように感じられ始めたに違いない。けれども、人は年齢によっても、暮らしている環境によっても、性格を徐々に変えていく。彼が少しづつ“アメリカ的な個性”を身につけたとして不思議ではない。それこそが、おそらく「イラン人」との“斜め的な観方”になったのだろう。そして、そういう観方に対して「俺日本人だし…」と反論したところが大変興味深い。人種のルツボである「アメリカ」の中で、彼は「日本人」として「世界のサムライ」として頑張っているのだ。日本から世界に飛び出して活躍する人の多くが、嫌でも「日本人」を意識する。そして一度は「人種」や「民族」というものを考えさせられる。人種差別が横行する国では、それが当然なのだ。特に今のアメリカは「アメリカ第一主義」を旗印に掲げる大統領が仕切っている。いや、アメリカだけではない。ヨーロッパでも、それぞれの国が「人種」や「民族」というものを改めて重視し始めている。これに「宗教」というものも絡んで、近年までは当然のように叫ばれた「世界は一つ」という表現がしぼみつつある。どこをどう探しても「世界は一つ」になれそうもない。私なども「地球人」と「宇宙人」との間に産まれたハーフだが、ずっと「地球人」だと言い張ってきたが、もう、そろそろ限界なのだろうか。

「聞き流す」ということが“出来る人”“出来ない人”

2019-02-18

こういう事件が起こるといつも思う。人の性格は、それこそ死ななきゃ変わらない。だけど何年も、何十年も、同じことで悩み苦しみ続けるくらいなら、一応、その努力だけでもすれば良いのにと…。昨日未明、大阪の岸和田市で65歳の妻が74歳の夫を殺してしまった。理由は単純で、自宅で夫を介護してきたが、いつもいつも小言を言われ続けて我慢がならなくなったのだ。そして、とうとう寝ている夫の口に、枕を押し続けていたら動かなくなった。我に返り「夫を殺してしまった」と、自ら110番通報した。典型的な“介護疲れ”による殺人事件である。そうではあっても、殺人は殺人である。この女性は、きっと真面目な性格だったに違いない。真面目な性格だから、夫の小言を“聞き流す”ということが出来なかったのだ。病人というものは、概して“我が侭”なものである。それは病気で不自由な部分があるので、或いは思うようにならないので日々ストレスが溜まる。そのストレスを自宅介護の場合には、家族に向けることで発散しようとする。もちろん無意識なのだが、結果的にそうなってしまうケースが多い。最初の内は“病気だから仕方がない”と思っていた介護する方も、しだいに自分にばかり“当たり散らされる”ことに我慢がならなくなってくる。さまざまな理由から“自宅介護”を選択するのだろうが、その結果が夫婦・親子・兄弟による“殺人事件”に発展するなら、多少の犠牲を払ってでも病院や施設に入る形の方が良い結果となる場合が多い。特に夫婦間の場合、親子・兄弟以上に愛憎が絡んでくる。だからトラブルに発展することが多い。もし、どちらかが“聞き流す”ことの出来るタイプであれば、多少の喧嘩はあっても元に戻れる。ところが、どちらも真面目で“聞き流す”ということが出来ない夫婦の場合、徐々に憎しみだけがエスカレートしていく。どちらにも“相手を思い遣る”余裕がなくなってしまうからだ。或る種の“義務感”や“犠牲者”としての意識ばかりが強くなると、最初の頃の献身的な精神は消えていく。日々の小言など、本当は“聞き流す”ことが出来れば済むことなのだ。悩み続けるくらいなら、少しは「じゃあ、聞き流す努力をしようかな」と思えば良いのだが、総じてこういう人達は、自分の正しさを主張する。正しくても、引いてみた方が良い場合もあることを、決して認めようとしない。こうして、徐々に「殺す以外ない」の発想となる。

「ヘイトクライム」で人生を棒に振る人達

2019-02-17

近年、徐々に浸透しつつある思想の一つに「ヘイトクライム」と呼ばれるものがある。これは特定の“属性”を持つ人々や集団に対して“偏見”や“増悪”を抱いて、それが犯罪行為にまでエスカレートしていくような場合を指す言葉らしい。もしかしたら、その最適の事例となりそうなのが2月9日に20歳の医大生が“殺人容疑”で逮捕された事件だ。彼は昨年12月18日、大東区のホテルに1人の“派遣型風俗嬢”を呼び出した。指名されたのはタイ人女性のセーンネ・バニダさん(18歳)。ところが、医大生・四十宮直樹(よそみやなおき)は彼女に対し、購入してきたばかりの金属棒トルクレンチで思い切り叩き始めた。その結果、彼女は絶命したのだ。当然、その途中で彼女は逃れようとした。大きな声を出した。その異変に気付いた従業員が部屋に上って来たので、容疑者は5階の窓から外へと飛び降りたのだ。もちろん彼自身も大怪我をして、救急搬送された。重症だったが命に別状はなく、回復を待って2月9日に逮捕されたという事件だ。彼は殺す意識はなかったが“叩き過ぎて”結果的に亡くなってしまったと供述している。つまり、最初から“暴行目的”で呼び出していたことになる。なぜ“暴行目的”だったのかと言えば、アジア人女性が日本に来て風俗店に勤め、高額報酬を得ていることが許せないという意識があったからだ。もしかしたら、違法就労ではないか、という思いが加わっていたのかもしれない。それにしても、あまりに短絡的で幼稚な発想である。まず“日本人女性”なら許せても“アジア人女性”なら許せない、という考えがよく解からないが、これこそがまさに「ヘイトクライム」なのだろうか。アジア人女性を“下層階級の女性達”とでも見ている部分があるのかもしれない。或いは、本当は女性そのものが風俗によって“高額収入”を得ることを許せないのかもしれないが、日本女性に手出しをしたらすぐ捕まるが、外国女性なら逃げ通せるとでも思ったのか。もしかすると、もっと簡単に殺せて、もっと簡単に、逃げ切れると思ったのか。本人は「殺意はなかった」と言っているが、それなら何故ホテルに行く直前に“凶器”を購入したりしたのか。もし思想的に思うところがあるのなら、直接、言葉で指摘すれば良いことではないか。或いは、暴行だけは加えたいというのなら、素手で殴れば良い。“凶器”を購入してきた時点でアウトなのだ。そして何よりもアウトなのは、医大生でありながら、一人の女性を暴行したくらいで“世間の観方が変わる”とでも思ったらしい行動の仕方にある。しかも、その単純さで、自らの一生だけでなく、被害所女性やその家族、さらには自分の家族をも巻き込んで十字架を背負わせたことである。

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