4月, 2019年

「4兆円」と「400万円」の“差”

2019-04-06

西洋のことわざに「金持ち喧嘩せず」というのがある。この言葉には“真実が含まれている”と時々感じる。例えば、昨日だ。アメリカではアマゾンドットコムの創業者・ジェフ・ベゾス氏と妻のマッケンジー氏とが正式な“離婚手続き”を完了した。日本では“離婚手続き”というと、どうしても「涙」であったり「怒り」であったり「恨み」であったり…が付き纏う。けれども彼らの離婚には、そんなものはない。妻のマッケンジー氏がツイッターに投じたのは“感謝の言葉”である。離婚によって、彼女は日本円にして約4兆円の資産を手に入れ、女性では世界3番目の“金持ち”となった。離婚して、少し資産を減らした格好のジェフ・ベゾス氏だが、それでも資産12兆円になっただけで「世界一の資産家」の称号は維持できそうなのである。まあ、有り余るお金が少しだけ減った…という結果で、両者とも“喧嘩することなく”離婚が成立した。確かに、二人ともまだ若く、喧嘩するぐらいなら“次の相手”を探した方が良い、ということなのかもしれない。一方、日本では秋篠宮殿下が昨年末くらいから、よく眠れないということで“睡眠導入剤”を処方され、何とか身体を維持しているということが報道された。もちろん、殿下自身が“離婚問題”で悩んでいるわけではない。長女・眞子さまの“結婚問題”が暗礁に乗り上げ、“正式婚約”も“正式離別”も出来ない宙ぶらりんの状態で、心労が絶えないのだ。一番の問題は「婚約者」とも呼べない小室圭氏の母親の“借金問題”である。こちらは約400万円である。国民の“税金”で生活している皇族としては“肩代わり”してやることも出来ない。自分達には直接関係のない“借金”なのだが、それでいながら国民の「眼」は、まるで自分たちが国民に借金したかのような騒ぎ方をする。娘たちは「なぜ国民に私たちの“愛”を邪魔されなきゃいけないの」という感じで詰め寄って来るし、マスコミは“親に責任がある”風な書き方に変わってきているし、眠れなくなるのも当然かもしれない。アメリカと日本では、どうも“愛”と“お金”の捉え方が根本的に違うようで、どちらが「良い」か「悪い」かはともかく、喧嘩せずに人生を楽しみたいなら、“金持ち”の方が有利なことは事実らしい。日本では昔から「金の切れ目が縁の切れ目」などと言って、“お金”に「悪者役」を押し付けがちである。けれども古今東西、貧しい人々が“喧嘩の絶えない日常”を送っていることも事実なのだ。

「石打ち」による死刑だけは、ご勘弁を⁉

2019-04-05

多くの人は勘違いしているが「時代」というのは必ずしも“前に進んでいく”だけのものではない。時には、後ろに“後ずさり”していくこともある。そういう繰り返しの中で「歴史」が形作られる。だから、そういう点から言えば、4月3日にブルネイ王国で発効された「新刑法」は“後ずさり型”ではあっても「時代」的にはまともな動きなのだ。東南アジアだが、日本人が訪れることは滅多にないのがブルネイ王国だ。私自身も行ったことがない。一度、行こうかと計画したが、日本からの場合、直接は行けないのだ。確かマレーシア(?)を経由しなければならなかったはずだ。今も王国であり、厳格なイスラム法が施行されている国の一つだ。現在、世界には数多くの“イスラム教国”が存在しているが、比較的“ゆるいイスラム教”の国と“強固なイスラム教”の国に分かれる。ブルネイは後者の方だ。だから「新刑法」では“予言者ムハンマドへの侮辱”も「死刑」の対象となる。怖いのだ。大体“侮辱”の境界線があいまいである。向こうで「インチキ預言者」などと書こうものなら、きっと逮捕され死刑にされてしまうに違いない。死刑にもいろいろあるが、イスラム教で用いる死刑には「石打ち」がある。大衆の面前で本当に石をぶつけて殺してしまうのだ。そんな痛い想いをして殺されるなんて、私には耐えられない。せめて、それだけはご勘弁を…と許しを願うのに違いない。けれども、それは認められず、容赦なく石をぶつけられ、顔面がぐちゃぐちゃになって倒れ込み、それでも頭から石をぶつけられ、頭蓋骨が壊れて亡くなっていくのだ。なんと残酷な死刑であることか。ちなみに「不倫」でも「同性間性交渉」でも、石打ち刑は適用される。だから日本人の場合、あふれるほどの人達が「石打ち」で死んでいくのだ。「不倫は文化」(古い)などと言っていられない。「文春砲」で終わりではないのだ。確か不倫の場合は、双方とも「石打ち」に遭う。よく「痛い想いをしなければわからない」という言葉があるが、分かった時には死んでしまうのだ。とにかく今のブルネイは、日本人が“暮らしてはいけない国”のような気がする。

「一つ屋根の下」とはいうけれど…

2019-04-04

現代は「シェアハウス」のような生活形態もあるので、一概に「一つ屋根の下」だから、家族であるとは限らない。けれども古今東西、一つ屋根の下に集うのは基本的には「家族」もしくは「家族のような人たち」と相場が決まっている。ところが近年、この「一つ屋根の下」で暮らす者たちの間で“殺人事件”とか“殺人未遂事件”が起きるケースが多い。4月2日に相模原市で起きた殺人未遂事件、兄(22歳)が就寝中の弟(20歳)をバールで滅多打ちにして殺そうとした出来事も、そういう家族間で起きた“怨恨による殺人未遂”の一つだった。さいわい弟はすぐに気づき、殴られながらも逃走し、隣家に逃げ込んだので、一命をとりとめた。事件当時、その家には兄弟二人しかいなかった。実は父親と3人暮らしだったのだが、その夜は父親が居なかったのだ。つまり、家の中では二人きりだったので、もし、すぐ目覚めなければ、弟は実兄に殺されていたに違いない。その動機は、日頃から弟に“バカにされていた”ことで恨みを抱いての犯行のようである。確かに、世の中には“合わない家族”というものが存在する。親子間の場合もあれば、夫婦間の場合もあれば、兄弟間の場合もある。この中で、夫婦間の場合には、どうしても合わなければ「別居・離婚」をすれば良い。親子間の場合には、或る程度の年齢になれば、別々に暮らすような形を採れば良い。兄弟間の場合も、出来れば別々に暮らすような形が望ましい。ただ今の日本では「親子の縁」や「兄弟の縁」は法律的に“切る”のは中々に難しい。したがって、法律上はともかく、実質的に離れて暮らし“縁を切る”形を採れば、ぶつかり合わずに済む。ところが、現代は就職事情とか、経済事情とかが絡んで、必ずしも「犬猿の仲」だからと言って“別々に暮らせる”とは限らない。そういう場合に問題が発生しやすい。おそらく今回の事件も、当事者同士は「合わない」ことがわかっていて、本当は別々に暮らせれば良かったのだが、それが出来ない状態の中で悶々とし起こった事件なのに違いない。今から3000年以上前に編纂された『易経』には「火沢暌」という“易卦”が含まれている。これは兄弟ではなく姉妹に関してだが、個性の異なる二人は一緒に居れば“反目しあって”お互いに傷つけ合うばかりだが、別々に暮らせば“それぞれの個性”を活かせて活躍することが出来る…と教えている。多少、経済的には難しくても、その方が互いを活かせるなら、そういう道を歩むことが良いのだと3000年前から暗示されているのだ。

「無関係」だが「無実」ではない

2019-04-03

世の中には、俗に「やり手」として評判の人物がいる。おそらく信越・松本市の飲食店街では、彼女はそういう評判で通っていたことだろう。昨日、弁護士同伴でマスコミに向かって自らの“無罪”を訴えた飲食店「スナックダイヤモンドリリー」の経営者・中原加奈美氏である。この会見がなければ彼女の顔やお店が全国に知れ渡ることはなかった。どの地方にもいる“気風の良い飲食店経営者”の一人にすぎなかったからだ。彼女は多分、自分は何の関係もないのに、まるで「犯人」であるかのように報道され、その結果、店の評判がガタ落ちになって、八方ふさがりになってしまった。それを解決する唯一の手段として、この会見を開いたのに違いない。彼女は今年の2月に突如逮捕されたのだが、それは4年前の“殺人未遂事件”によってであった。彼女の店で飲食した男女が突然体調を崩し、緊急入院、現在は回復したが一時的には意識を失うなど危険な状態にあった。当然、飲食した男女は、店で出されたお酒に薬物を混入された可能性があるとして警察に訴え出ていた。その捜査が4年後になって、この店の経営者と従業員合わせて5人逮捕という形になって表れた。ただ覚せい剤をお酒に混入したとされる月岡愛容疑者以外は3月29日付で「不起訴処分」となった。ちなみに、月岡愛は昨年の段階で既に「ダイヤモンドリリー」を辞めている。この事件は、ホストの奪い合いから“殺人未遂”にまで発展した“くだらない動機”なのだが、起訴されたホステス月岡愛だけでなく、不起訴となった中原加奈美氏と水野華菜子氏の3人がいつも一緒にホスト店巡りをしていた。したがって、或る意味で「共謀したのではないか」と疑われるのは当然なのだった。事件当日は、中原氏は店に居なかったらしい。おそらく、そういうアリバイもあるから、自分は“無関係”なのに、なぜ逮捕されたのか、共謀したかのように報道されたのか、納得できないこともあったのだろう。けれども、彼女は大きな“勘違い”をしている。例えば銀行で“横領事件”が起き、その銀行の窓口業務にあたっていた女性がそれを行っていたと発覚した場合、誰もがその銀行にお金を預けることに不安を持つ。その経営者は、自分がやったことではない、と開き直ることは出来ない。経営者というのは、その事業の全責任を負わなければならないのだ。そして、そういう事件を起こした従業員を雇っていたことに対して、また正しい従業員教育を怠ってきたことに対して謝らなければならない。飲食店において、異物の混入、ましてや覚せい剤の混入など、あってはならないことである。一時的には意識を失うなど危険な状態にあったのだ。これまで通常通りに営業を続けていたこと自体、問題とされても仕方がない。「無関係」でも「無実」ではないのだ。

もう一度「卑弥呼」の時代が来る⁉

2019-04-02

「卑弥呼」が神武天皇以前の我が国の統一国「邪馬台国」の統一者であったことは誰でも知っている。そして「魏志倭人伝」によれば、卑弥呼は女王であり、占いや呪術によって国を治めていた。卑弥呼が頂点にあった時代、古代日本である「邪馬台国」は平和で統一がとれていたが、やがて卑弥呼が亡くなると混乱を極めた。これは中国側から見た日本(邪馬台国)の姿であるが、それ以外の記録がないので、大方の歴史的事実を含んでいるのに違いない。昨日、政府は新しい元号を「令和」に定めた。この「令和」の語源は「万葉集」であるという。けれども、多くの識者は、その“字源”については語ろうとしない。字源とは元々の“文字の成り立ち”のことで、古代中国の“甲骨文字”にその原点がある。その字源から見ると「令」という文字は、その上部が「シュウ」と読み、“天の気”と“地の気”を合わせた儀式斎場の形、その下部が「セツ」と読み、人が膝を折り曲げて祈りを捧げる形、合わせて「天」から啓示された「声」を民衆に発布すること、を暗示した文字なのである。早い話が、卑弥呼が行っていたのと同じような形式で“政(まつりごと)”をつかさどっていくことを意味した文字なのだ。「和」の文字はどうかというと、左は「軍門」の形、右は「祭器」の形、合わせて「平和協定」などを納めた公文書、を暗示した文字なのである。したがって「令和」とは字源的に見ると、卑弥呼のような神聖呪術に基づく統治を行うことで平和を保っていく時代、と読めるのである。政府見解とはかなり異なる。もし、このような字源的な解釈が当てはまるなら、妖しい女王が出現しなければいけない。もっとも、通常、物語などに出てくる卑弥呼は美女のように描かれているが、実際には「魏志倭人伝」で述べられている卑弥呼は高齢であって、一言で言うなら「妖しい婆さん」だったのだ。確かに、巷には時々「妖しい婆さん」としか言いようのない占い師や祈祷師がいる。そういう婆さんに限って、金満家の会社経営者を信者として抱えていたりする。したがって、早急に“そういう婆さん”を探し出し、国政に担ぎ出さなければいけない。本当か⁉ どうも、日本人は、自分たちの祖先が「妖しい婆さん」にかしずいて生きてきた国民であることを忘れがちである。誰だ「卑弥呼さまー‼」って叫んでいるのは…。

2019年4月の運勢

2019-04-01

「平成天皇」が“ひ孫”を抱く日

2019-04-01

「新元号」が決定される前日、平成天皇と皇后は“我が娘”である黒田清子氏の自宅を“お忍び”で訪問された。この事実は、一見、何気ない“出来事”として報道されたが、大きな意味を持っている。もう「天皇」という看板を背負って行動しなくても良いのだ。そうなる“悦び”と“愉しみ”を予感させる行動だからだ。自分の娘が嫁いだ家を何気なく訪問する。狭くて地味な嫁ぎ先の家である。そういう“普通の家”を、嫁がせた親として気軽に訪問できる。そして長女夫妻の自宅で手料理を食べる。一般の人たちにとっては、当たり前ともいえるような出来事だが、天皇と皇后にとってはそうではない。結婚して14年、初めての出来事なのだ。いや、実際には“お忍び”で何回かはされていたかもしれないが、その時にはまだ「天皇」の看板があり、本当の“お忍び”で人に見られてはならない出逢いだった。けれども、これからはごく普通の親子のように外も歩ける。そういう風に“親子で一緒に旅行”とかが出来るのだ。ただ、ご夫妻としては“もう一つ”やり残していることがある。まだ「ひ孫」を抱いていないのだ。ちなみに黒田夫妻の場合には、もう結婚14年で「孫の顔」は難しい。「ひ孫」として可能性があるのは…?…ということになる。登場するのは秋篠宮眞子さまである。多くのマスコミが「小室圭氏と眞子さまの結婚」には否定的である。けれども、つい最近、妹の佳子さまが実姉の結婚に“援護射撃”をした。多くの人は知らないが、実は黒田清子氏の「婚約発表」は2度延期している。但し、反対されていたからではない。けれども、そうやって障害を乗り越え“一般人”となった娘の自宅を「天皇」の看板を取り払う前日に訪問した。看板が取り払われれば、世間から何も言われない。これまでとても仲良く暮らしてきた次男の秋篠宮家が、その長女の結婚を巡って家族間がぎくしゃくし始めた。孫の眞子さまの意志は固く、世間から支持されなくても、海を渡ってでも、やがて小室氏と結婚したいとの願望は強い。仮にそうなっても「天皇」としての看板がなくなれば、世間のバッシングを自分たちが浴びずに済む。看板が取り払われているので、もしひ孫が生まれれば、普通に孫の自宅を祖父・祖母として訪問出来るだろう。無条件に可愛い「ひ孫」を抱くことが出来るかもしれないのだ。「看板がない」というのは何んと自由なことだろう。

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