「メルカリ」という企業については、何となく名前くらいは誰もが聴いたことがあるだろう。ただ実際にはどういう企業なのか、知らない人も多いことだろう。一般的には“フリマアプリ大手”という位置づけである。要するに昔の「リサイクル店」に近いことをネットを通じて行っていると思えば良い。この企業には特徴があって、外国人従業員が多い。それも名門大学を出た優秀な外国人ばかりだ。そういう企業なので、時代の“流れ”を読むことが上手い。IT企業なので、利用者は“若い人たち”なのかと言えばそうでもない。今、急速にユーザーとして増えつつあるのは“シニア層”であるという。どうしてシニア層なのかと言えば、現在「終活」に力を入れているからだ。つまり「生前整理」というやつである。誰もが、或る程度の年齢になって来ると“自分の死後”を考えるようになる。遺された家族は、当然、家の中のものを処分しなければならない。どう処分するか、くどくど訊くのもおかしな話である。そこで、誰かが「メルカリを利用すると良いらしいよ」と言っていたのを思い出す。でも、どうやって利用するのか。そういう人達のために、メルカリは、クラブツーリズムを通じて「メルカリ講座」を開いている。クラブツーリズムと言えば“シニア層”に強い旅行会社として有名だ。山ほど“常連さん”を抱えている。この旅行会社を通じて50代から80代の人達が続々と集まって来るのだ。そして家の中に眠っている“不用品”をどうすればメルカリに出店出来て、どうすれば高値で売れやすいか、手取り足取り教えてもらうことが出来る。しかも、その“売れた商品”はそのまま“旅行パック料金”として利用できるようになっている。つまり、家の中の“不用品”をきちんと“生前整理”しながら、その売り上げで“新たな旅行”を愉しむことが出来るのだ。こんな上手い方法はなかった。しかもクラブツーリズムでは「終活ツアー」を積極的に行っていて「樹林葬体験ツアー」などが大人気なのだそうだ。これなら、死んだ後まで体験出来て家族に迷惑をかけることなく「あの世」に旅立っていける。さすがは旅行会社だ、ということで静かな人気が沸騰中らしい。こうして、老人たちの“伝播”は速い。もしかするとネットよりも早いかもしれない。続々とこの種の人たちが増えて、現在メルカリが抱えている“巨大赤字”は、あっという間に黒字転換が可能なのではないかと、そしてアマゾンのように“巨大化”していくのではないかと、これはあくまで“噂”だが…。
北朝鮮中央通信が9月13日、韓国で出版されている書籍に対して痛烈な批判を行った。北朝鮮のマスコミが海外の民間人が執筆した書籍に対して批評・論評することは滅多にない。どんな本に対して批判したのかというと、いま韓国でベストセラーとなっている『反日種族主義』(イ・ヨンフン他6名の著)という本に対してだ。実は、この本は元々は日本と韓国どちらで出版すべきか、揺れていたという奇妙な経緯を持つ本だ。結果的に本国である韓国で先に出版され、おそらく年内には日本でも“日本語版”として出版される。国内では売れないのではないか…との予測もあったが、意外や意外、予想外の大ベストセラーとなりつつある。日本の場合にも、こういう時期であるから間違いなくマスコミが飛びつき、特に“若い人たち”が購入してベストセラーとなるだろう。それを見越したかのように、北朝鮮では「民族反逆行為としてのあってはならない売国的詭弁の書だ」と“怒り”だけはよくわかる感情的な批判を浴びせている。同じように韓国内でも、一部政治家などから似たような意味合いの痛烈な批判が浴びせられている。ただ元々この本は学者・研究者たち6名が、歴史的な研究の成果として過去の記録・史料などの解説を行った講義内容をまとめたもので、代表であるイ・ヨンフン氏は元ソウル大学の教授である。彼らによれば、朝鮮半島の植民地統治下において「日本軍による土地やコメの略奪はなかった」「従軍慰安婦の強制連行はなかった」などと記されていて、これまでの韓国側主張とは大きく異なる。それだけに「韓国人著者による否定的内容の本を出版されてはかなわない」という嘆きが解からないではない。ただ予想に反して、この本はベストセラーになっている。最初はそんなに売れなかったのだが、一部政治家やマスコミが取り上げたことで、多くの人達が興味を抱いてしまったのだ。もちろん「売国親日派」という批判の嵐も巻き起こって入る。年内に日本でも発売されると思うが、日本の場合には“歴史教科書”的な意味づけで「推薦される本⁉」になる可能性もある。何しろ、日本人の多くは“過去に興味がない”というのが本音なのだ。どうしてそんなに韓国人や朝鮮人や中国人が“過去の出来事”にこだわっているのか、本当のところはよく解からないのだ。何しろ“和食”はさっぱりとしている。中華料理のような“こってり感”も、朝鮮料理のような“辛さ”も持ち合わせがない。「恨みっこなしよ」って、歌もあったなんて…古いねぇ。
最近、どの調査を見ても「日本」がダントツに“1位”を獲得できるものはなくなってきている。そういう中で、唯一“ダントツ1位”をこれからも維持していけそうなのが、65歳以上の高齢者が占める人口比率であるらしい。日本は“28.4%”でイタリアやポルトガルなどを押さえて“ダントツ1位”なのだ。この数字はしばらくは続くらしい。だから、そういう意味では日本は安心して“1位”の座に居座っていられる。要するに“高齢者だらけの国”として生きていく。当然、“高齢者だらけの国”であるから、物事すべてスローモーで勢いはない。身体はあちこちガタが来ているし、収入だって増えそうもない。そういう国になってしまったのだ。加えて、もう一つの問題“生涯未婚率”(50歳まで結婚歴がない人)の割合も急速に増えつつあることだ。今から30年前には男性で“5.6%”、女性で“4.3%”だったものが、今や男性は“25%”近くまで拡大している。4人に1人は“独身”のまま生涯を過ごす。したがって“少子化”が進むのは当然なのだ。この分でいくと20年後の日本は間違いなく「高齢者と独身者だらけの国」になる。ただ、物事は考えようである。確かに高齢者だけなら「若さ」が失われた国になるのは必然である。けれども、そうではなくて独身者もいるのだ。つまり比率は高齢単身者ほどにはならないかもしれないが、それに近いくらいの比率で“独身者”もいる。この二つを適度に混ぜ合わせれば、“若々しい高齢者”と“子供のような独身者”にならないか。つまり、高齢者と独身者とを二つに分けてしまうから、どちらも“勢い”が失われていくのであって、高齢者が“若い独身者”を得て、独身者が“経済面も含め甘えられる高齢者”を得て、それぞれが幸せを勝ち取ることが出来れば、“活き活きとした高齢者”や“癒す心で青春謳歌する独身者”に変れるのではないだろうか。大体、高齢者が数多く集まると“病気の話”が多くなる。独身者が数多く集まると“将来不安”の話が多くなる。それぞれが「老人ホーム」や「シェアハウス」に分かれて暮らすから、明るく活き活きとした“未来”が語れないのだ。双方が「ハーフ婚」制度(?)を作って一緒に暮らす形となれば、未来志向型の生き方が生まれる。「ハーフ婚」は“精神的な結婚”で双方の寂しさを癒し、けれども肉体的には“相手の自由”を尊重する。経済的にはフィフティフィフティとして2LDK以上の一つの家に暮らす。そうすれば、普段は別々の部屋で“親子”のような生活の仕方をして、必要な時に一緒に居て“癒し合う”形を採れば良い。この「ハーフ婚制度」を普及させれば、そして、それに国が援助金を出すようにすれば、多数の“新たなるカップル”が誕生して、どちらも“寂しい想い”をせずに済む。そして“若さが失われた国”にならなくて済む(?)のだ。
世の中には“何となく哀しい”と思えるような事件が時々ある。9月14日早朝、一人の老人が逮捕された。自ら110番をしてきて「家内を殺してしまった。自殺できなかった」と告白し、警察が110番した男の自宅に向かうと、その通りの状況だったからだ。品川区の東大井にある民家だった。容疑者は無職・木村照雄(83歳)、自らも腹部や太ももなどを刃物で刺していた。殺害したのは妻の冨美子(85歳)さんで、供述によれば深夜3時頃、寝ている頭部などを滅多打ちしての殺害だった。どうして殺害したのかというと、その前日の夕食時に、夫と妻とはささいなことから口論になったのだ。このところ、そういう状況が続いていた。多くの場合は妻が一方的に怒りだして口論になる。夫の方は最初は反論するのだが、途中から黙り込んでしまう。妻は勝ち誇ったように夫を罵るというパターンだ。いつもなら、眠ってしまえば翌朝には忘れる。いや、忘れることは出来ないが、少なくとも“忘れたような”ふりをする。そうやって夫の方はやり過ごして来た。今更、離婚することも出来ない。けれども、前日の夕食時の口論はいつも以上に長く激しかった。そのせいで、夫の方はなかなか眠れなかった。ちょっとしたことで“言い争う日”が、この先もずっと続いていくかに思われた。死ぬまで続いていくかに思われた。夫はふと「もういい…」と思った。二人とも長命で、なかなか早くには死ねそうもない。もう生きていることに疲れた。本当はどちらかが病気で入院すれば少し“距離感”が生まれて良いのだろうが、そういうことも出来そうにない。よく「長寿」というが、ただの長生きは「寿」じゃない。どうして「長寿」などというのだろう。長生きをして“喜ばしいこと”など何もない。こうして、夫の木村照雄は“無理心中”を計ろうと思った。自分も死んでしまえば、殺害しても“罪”に問われることはない。計画通り、妻は殺害した。けれども自分の方は腹部を刺したのに、血が思うように出て来ない。太ももを刺しても、血が思うように出て来ない。こんなはずじゃなかった。どうして血が出て来ないのか。どうすれば血が沢山出てくるのか。お腹が痛くて首つりも出来ない。どうしよう。しょうがないから警察に電話しよう。とりあえず入院して、誰にも怒られずに食事がしたい…。
私はときどき、自分が日本人らしい生活の仕方をしているのか疑問に思う。少なくとも“平安時代”のような生活からは程遠い。けれども日本に産まれ、日本人の両親を持ち、日本の大地で育ってきたから、日本人特有の「美」の感覚は、それなりに持っているのに違いない。“中秋の名月”を美しいと思う感覚は、その一つに違いない。昨日9月13日は「太陰暦」上では8月15日に当たり、俗にいう「中秋の名月」である。どうして「中秋」なのかと言えば「秋分」が近いからだ。「名月」は=「満月」であり、太陰暦上の15日は毎月「満月」となる。「太陰暦」のことを俗に「旧暦」と言ったりするので、何となく“非科学的な暦”のような印象を持たれている方が多いかもしれないが、そんなことはない。或る意味では大変に科学的というか、合理的な暦なのだ。なぜなら、太陰暦の日付通りに“自然界の出来事”が、毎年繰り返されるよう考えられている暦だからだ。例えば8月15日なら必ず「中秋の満月」になる。したがって昔は、農家の人たちにとって“なくてはならない暦”だった。現在でも、中華圏の国では「農暦」と呼んで重視している。「中秋の名月」とはいうものの、窓越しにぼんやり「月」を眺めるというだけでは何となく風情がない。そこで舞台上の「舞い」を見ながら夜月を眺めるというのはどうだろう。場所は山形県寒河江市の寒河江八幡宮境内だ。ここでは毎年、名月を愛でながら雅楽を愉しむという「観月雅楽会」が開かれているのだ。地元も中高生女子など8名が巫女姿で、豊穣や繁栄をもたらす「豊栄(とよさか)の舞」や、平和と安定をもたらす「浦安の舞」を見せてくれるのだ。こうして、美しい月夜と美しい巫女たちの舞いを見ることができ、同時に雅楽の美しい音色を聴くことが出来る。“日本の美”の特徴は“空間美”で、あえて余白を作る。美術でも踊りでも音楽でも必ず「余白」を残す。そこに“美”を生まれさせる。それを理解し、それを愉しむことが出来れば、あなたも立派な「平安時代の日本人(?)」になれるというものだ。正直に言えば、私は多分、眠くなる。あれ、本当に私は日本人だったのだろうか。
タイが“仏教王国”であることは広く知られている。国民の94%が敬虔な仏教徒だ。けれども若い人たちは、必ずしも「仏陀(ブッダ)」だけが“人類を救う”とは思っていない。“正義の味方”であるウルトラマンだって、わたしたちを救ってくれるではないか、と考える。少なくともタイの若い女子大生はそう考えたのだ。そう考えながら、仏像を見て、次にウルトラマンを見た。その二つの身体は、彼女の中で静かに“一体化”したのだ。「これだ‼」彼女は一心不乱にブッダとウルトラマンの“合体坐像”や“闘いポーズ”を図案化していった。すると彼女の作品は“優れた作品”として地元のショッピングモールで展示されることになった。当然、若い人たちから注目を集めてマスコミが取材する。こうして人目に触れることが多くなった“合体画像”は、宗教団体の“お偉いさん”や政治家の“お偉いさん”の眼にも触れることとなった。敬虔な仏教徒にとって、ブッダとウルトラマンとを結び付けるなど“あってはならない”ことであった。激しい排斥運動が巻き起こる。女子学生はタイの高僧のところに出向き、謝罪しなければならない事態となった。けれども、これに疑問を持つ人達もいた。大昔「芸術は爆発だ」と岡本太郎氏は言った。顔だけウルトラマンだって良いじゃないか。或いは顔だけ仏像だって良いじゃないか。若い人の中では、ごく自然にどちらも“地球を救う”存在だったのだ。決して、仏陀をバカにしたものなどではない。実業家ポンシワンクン氏は彼女の作品を4500バーツ(16000円)で購入、それをネットオークションにかけたのだ。そうすると、その作品は人気を呼び、600万バーツ(213万円)の高値が付いた。こうしてポンシワンクン氏は、そのお金から女子学生に今後の製作費を手渡し、残り大部分は恵まれない人達が通う病院の寄付金へと当てたのだ。こうして、間違いなく女子学生の描いた「ウルトラマン・ブッダ」は空を飛び、危機にある人たちを救ったのだ。そういえば確かに、ウルトラマンの“頭部全体”は“仏陀”の頭部と似ていなくもない。それにしても、もし日本で“仏陀”と“ウルトラマン”の“一体化画像”をショッピングモールに展示したなら、どういう反応が生まれるのだろうか。
昨年の9月、北海道では“大地震”が起き、それに伴っての“大停電”が生じた。そのニュースは、当然、関東でも流れていたはずだ。それなのに、今回の台風で千葉県では“大停電”が起きた。そして、未だ完全復旧していない。現代生活において“大停電”がどれほど深刻な事態を巻き起こすものかについて、昨年の北海道で起きた「ブラックアウト(大停電現象)」は痛いほど教えてくれた。何しろ、それは北海道全域で生じたのだ。真夜中の地震で、文字通り真っ暗になった。そして2日間(地域によっては4日間も)そういう状態が続いた。さいわい北海道は本州ほど暑くはない。したがって冷房が切れること自体はそれほど問題ではない。けれども、部屋の灯りが失われ、情報通信網が絶たれて、信号機も作動せず、エレベーターが止まり、コンビニやスーパーの食料品が枯渇し、TVも映らず、地震でモノが散乱したままの生活は、人に“不安と混乱”をもたらす。台風は通過してしまえば戻らないが、地震の場合にはまたやってくるかもしれないという恐怖心もある。特に、一部の地域だけが停電なのではなくて、北海道全域が停電となったことが、とてつもない混乱をもたらした。例えばスーパーやコンビニは、どこに行っても“食料品がない”のだ。電気が使えないので調理ができない。普段、コンビニに来ない人までやって来る。余計に短時間で商品が消えていく。そういう災害時における“問題点”は、それ以降の“災害時”には活かされるはずだと思っていた。それだけに、今回の千葉県内での対応を見ると、報道を見る限り全く活かされてはいない。あの時と同じような状態が続いているということになる。日本のコンビニは“全国展開”しているところが多いので、北海道での体験が活かされていれば、今回のような状態にはならないはずだ。しかも、本州の場合は、北海道より気温が高い。冷房が使えなければどういうことになるか、想像がつきそうなものである。もっとも、では北海道はもう大丈夫かと言えば、それは解からない。特に真冬に前回のようなことが起きれば“万事休す”である。2日間も暖房が切れてしまえば“凍死”してしまう人が続出する。現代人にとっては、悔しいが「電気」は“命の神様”なのだ。
昨日、何年かぶりで弟に逢った。そうして50代後半以降、弟が何度も入退院を繰り返していることを知った。その割には威勢が良く、元気そうではあった。弟の方から「どこも何ともないの?」と身体のことを訊かれた。そういえば、このところ私自身は“大きな病気”には掛かっていない。眼底出血をして、失明してしまうのではないか、と怯えた時期もあったが、手術してからは、眼にも異常はない。妻の病気の方に意識がいっていて、自分自身の健康には無頓着になっている。よく「健康」について異常なほど気を使う人がいるが、あまり健康を気遣いすぎるのも考えものである。「放っておいても子は育つ」という言葉があるが「健康」も同じようなところがあって、放っておいた方が身体自体の“回復機能”が働きやすいような気がする。こうすれば身体に良いとか、こうすれば健康でいられるとか、食生活はこれこれが良いとか、健康に過敏になり過ぎると、本来持っている“本能的な回復機能”が鈍り出すような気がしてならない。「徹子の部屋」という番組に梅宮アンナ氏が出て、父親である梅宮辰夫氏と母親であるクラウディア氏の両方を介護していることを語ったらしい。父親は6度目のがん、母親は膠原病だ。俗にいう“W介護”の状態にある。彼女は「やっぱり旦那さんがいないとキツイかな」と漏らしたらしい。確かに一人で二人を介護するのは大変だ。まだ娘さんがいるので精神的には支えになっているという。昔は、両親に迷惑をかけることの多かったアンナ氏も、その“借り”を返すかのように頑張っている。或る意味で「昭和」の時代に見られた日本の“親子の形”を引き継いでいる。そうかと思うと、国米兄弟のような例もある。勘違いされると困るので述べておくと、姉はアメリカ国籍の「桜」氏。弟は日本国籍の「創」氏。姉の方はオリンピックにアメリカ代表として出て来る(?)空手選手。弟の方は日本代表として出て来れるかどうか微妙なセーリング選手。そのうち、兄弟で同じ競技で“外国代表”と“日本代表”で激突する兄弟が出て来るかもしれない。世の中、いろんなハーフが多くなってしまったことで、純粋に「国」別の対抗戦とはならなくなってきているような気がする。メダル数もどんどん増えて来て、本来の価値が下がってしまった印象も受ける。そういえば我が家も「4K」テレビに変わったはずなのだが、今一つ「4K」の良さが解からない。時々、テレビ画面が勝手にしゃべり出す怪奇現象があって…何とも怖い。
一時期、“ユニークな姓名”“キラキラネーム”“読めない姓名”“書けない姓名”が流行し、時代的にもてはやされているかのような印象があった。ところが、ここにきて“そういう名前”は減って、どちらかというと昔に戻ったような“シンプルな姓名”“懐かしさを感じさせる姓名”の人達が活躍し始めている。昨日、女優の田中道子氏が「二科展」に初出店で初入選を果たしたというニュースが報道された。「田中道子」なんとシンプルで、どこか懐かしい響きを持っている姓名であることか。そういえば最近、早見あかり、山本美月、丘みどり、浜辺美波…といった“読みやすく”“解りやすく”“懐かしい”印象の芸名を持つ人達が活躍し始めている。ここに掲げた人達が何故「シンプルなのに印象深い」かというと、“姓”と“名”につながりがあって、その両方で“一つのイメージ”を与えてくれるからだ。そういう名前は記憶に残りやすい。いや、記憶に残りやすいだけではない。そういう姓名の方が“幸運な人生”を得られやすいのだ。例えば「田中道子」はいわゆる姓名画数も「天格9・人格16・地格15・外格8・総格24」で画数的にも大変に良い。本当は都会よりも田舎に暮らした方が良いが、これから「大自然&生命」をテーマにしたような作品を描き続きていけばよい。今回の油絵作品タイトルは「枯れぬ夢」で崖の頂上でライオンが振返っているような構図の絵だ。こういう“シンプルな姓名”の人達は一気にブレークすることは稀だが、徐々に世間に浸透していく力を持っている。そういう意味では演歌歌手の丘みどり氏などが典型的な例だといえる。演歌歌手・丘みどりとなって10年間、下積み生活を経験しているからだ。一つには「丘みどり」の名にふさわしくない“へそ出しルック”等で歌っていたからだ。「名は体を表す」で、姓名に相応しい衣裳を着た方が幸運をつかみやすい。「丘みどり」に相応しいのは“和服”なのだ。そして「佐渡の夕笛」という“懐かしい雰囲気の曲”を出した時にオリコン1位となった。そういう意味で言えば、私など「波木星龍」なのだから、もっと曲線型タワーマンション(?)の最上階で暮らせば、華やかに輝いて活躍できるかもしれないのだが…。
私の頭の中では「首都」というものは変わるものではなく、その国が亡びるまで続きそうなイメージなのだが…。「令和」の時代、そういう固定概念でいてはいけないのかもしれない。先ごろ、インドネシアの首都がジャカルタから“ボルネオ東部”へ移すことが本決まりとなった。実は「噂」では前からそういう話も合ったのだが、実際には難しいだろうという見方が大半だった。理由は二つあって、その一つは“地盤沈下”、もう一つは世界一とも言われる“交通渋滞”だ。インドネシアだけかと思っていたら、ここにきてエジプトも首都を現在のカイロから移す予定で、既にその建設が始まっているらしい。確かにカイロの交通事情も過密の一途で、ドライバーのマナーも悪く、慣れないと道路を横断するのは難しい。これまでにも首都を移した国はいろいろあって、トルコはイスタンブールからアンカラへと首都を変えた。パキスタンはカラチからイスラマバードへと首都を変えた。ブラジルはリオデジャネイロからブラジリアへと首都を変えた。カザフスタンはアルマティからアスタナへと首都を変えた。ミャンマーはヤンゴンからネピドーへと首都を変えた。この「ネピドー」への遷都は失敗だったのではないか、と一部で囁かれているが、その田舎に変えるよう示唆したのは占星術師であるらしい。ミャンマーを率いているのは独裁者らしいが、昔の王族が“遷都した方法”をそのまま継承して、占星術師の“ご託宣”に従ったという「噂」である。大丈夫か占星術師。昔、アメリカでもレーガン大統領の時は占星術師の“ご託宣”に従って行動したらしい。そういえばインドネシアも占いは盛んで、私はバリ島でも、ジャワ島でも、現地の占い師に占ってもらったが、恐る恐る「今後の仕事運」を訊いたら「あなたには光が差し込んでいるからもう良い」と言われた。もう良いって「どういうこと?」と思ったが、通訳が上手く変換してくれそうもなかったので、まあ良いかと受け入れた。現地ではもっとも高名な占い師であるということだった。もしかしたら今回の「遷都」も占い師が決めた場所…であるかもしれない。マレーシアは「首都」そのものはクアラルンプールで変えていないのだが、首都機能はプトラジャヤという“未来型都市”へと移転した。昔「未来都市」と言うのに惹かれて行ってみたが「幽霊都市」のように寂しかった。生活感がまるでなく、同じような高層ビルばかりが目立ち、人影がまったくなかったのだ。もしかするとインドネシアの新首都も…。
或る意味で衝撃的なニュースだ。北朝鮮の女性達12人が韓国の情報機関によって「拉致」されていたというのだ。ことは2016年に遡る。この年、北朝鮮政府が中国で経営していたレストランから、女性従業員12名がいっせいに脱北して韓国に亡命を希望したというニュースが伝わった。ところが、その後どうなったのかについての続報はなかった。このほど国際非政府組織の調査チームが下した結論が公表された。どうしてそういうことが行われたのかというと、北朝鮮政府は「韓国に拉致された」と主張し、韓国政府は「自由意思による脱北だ」として激しい応酬が続いてきたからだ。国際非政府組織がその仲介に当たったといえる。そのNGOの弁護士たちによれば、同じレストランで当時働いていた女性達の証言から、12人の女性達は店長に騙されて飛行機に乗ったというのが真相とされた。実は途中から引き返した女性が7人いて、それは店長と情報機関職員とのやり取りを偶然聴いてしまったからだという証言を得た。この事実を確かめるため、脱北した側の女性達による証言も求めたのだが、韓国政府はそれを認めなかった。あれから3年経ったのに、脱北した女性達は未だに韓国政府と情報機関の監視下にあり、自由に面会することすらもできていない。これらの事実から、NGOの弁護士たちは、北朝鮮女性12人は韓国政府によって拉致された、と結論付けたのである。「拉致問題」は日本人と日本政府にとって、もっとも重要な案件である。かつて日本人多数が北朝鮮により「拉致された」として国際社会に訴え続けてきた。けれども最近になって「拉致された」と認定されていた人物が「国内で生存発見される」とか「国内で遺体で発見された」とかいうニュースが出てきている。実際に「拉致された」人たちと「拉致されたかもしれない」人たちとの基準は極めてあいまいだ。北朝鮮との交渉で、本当に「拉致された人たち」の返還を望むのであれば、単純な「行方不明者」との違いをもっと明確にしておかないと、北朝鮮政府から「単なる言い掛かり」として扱われる可能性もある。したがって“有力証拠”があって「拉致された」人だけに絞って交渉しないと、万一、拉致された人が日本国内で発見されたなら、全部が「日本のでっち上げ」と反論されかねない。今から思うと、防犯カメラの設置がもっと早ければ、さまざまな「拉致事件」は起こらなかったか、すぐ解決できた可能性もある。プライバシーも重要だが、犯罪抑止としての“情報公開”はどんどん行うべきだ。
人はときどき意図せずして“そのこと”を知る。そのことを知って、改めて“その人”に尊敬の念を抱くということがある。漫画『ベルサイユのばら』などの代表作を持つ漫画家・池田理代子氏がオペラのソプラノ歌手として舞台に立っているということは何かで知っていた。けれども、それは趣味程度のことなのだと私は勝手に思っていた。そうではないことを初めて知った。彼女は趣味的にオペラを始めたのではなくて、47歳から本格的に東京音楽大学に入学して基礎から学び、すぐ舞台に立つ機会を得て、その後もずっとプロのソプラノ歌手としてオペラ上演を行い続けているというのだ。大学に4年間通う間は、一切漫画の仕事はせず、無収入の中でやりくりしたそうだ。そして昨年11月に、東京から熱海へと本拠地を移動し、現在も「若手支援」目的のため私財をつぎ込んでいるというのだ。そして何より驚くのは、オペラというのはチケットが完売しても“赤字”になる世界だということ…儲けられる職業ではないらしい。かつて漫画家として一世を風靡し、記録的な売れ行きを達成した人物だが、71歳の今、預金のことごとくは「若手支援」のため失われたらしい。けれども、それを後悔する風はない。かつての漫画家を忘れたように、オペラ歌手として若手を育てようとする。実は私が「池田理代子」という人物に興味を持つのは漫画家として優れていたからだけではない。彼女のプライベートが「運命家」として、とても興味深いからだ。彼女はこれまで3回離婚し、4度結婚している。それ以外にも2度の“不倫スキャンダル”がある。公私とも、良くも悪くもエネルギッシュなのだ。多分、彼女は自分自身ではそのように思っていないかもしれないが、独りで何人分もの人生を“駆け抜けて”行くようなところがある。“不倫”にのめり込んだときには、仕事を放り出して失踪してしまった。近年の4度目の結婚では25歳年下男性と結ばれている。これまでの相手男性も、政治家、銀行家、編集者、経営者、声楽家とさまざまである。そういう点でも少女漫画のヒロイン以上にドラマチックな人生なのだ。そして今も「若手支援」のため舞台に立っている。女優ではないのだが、なぜか“運命を生きる”女優のような気がしてならないのはなぜだろう。
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