6月, 2020年

「本能的認識」と「差別」は異なる

2020-06-30
「新型コロナ騒動」が起こってからというもの、世界は、あらゆることに関して過剰に反応する傾向が顕著になっている。これまでなら気にもしなかったことまで“神経過敏”に反応しているような気がする。その象徴ともいうべきことが、世界各地で改めて“人種差別”への抗議運動が勃発していることだ。しかも、その抗議運動には、一見“差別とは無関係”に思われるものが含まれている。例えば、フランスの化粧品大手ロレアルの製品が謳っている「美白効果」それ自体が“人種差別”だというのだ。そんなことを言ったら、化粧品メーカーのほとんどが“引っ掛かる”ような気もするが、多分「世界的な化粧品メーカー」だから“やり玉”に挙げられてしまったに違いない。同じように“やり玉”に挙げられてしまった日用品メーカー、医薬品メーカー、食品メーカーが、それぞれ“商品表示”を改めると公表した。そこで追い詰められたロレアルも27日、すべての自社商品から「美白」「色白」「明るい肌色」などの表記を削除することを発表した。謂わば、抗議デモに屈したのだ。しかし、本当にこれが“人種差別”を無くすことに繋がるのであろうか。“人種差別”をしていないことの証しなのか。第一「美白」や「色白」の表記が、そもそも人種差別的な表記と言えるのだろうか。確かに欧米人には“白人優位主義”的な捉え方がある。根強くある。例えばアメリカで、白人と黒人と黄色人種である日本人とが居た場合、“白人+黒人(アメリカ人)”&“黄色人(日本人)”という構図、“白人”&“カラード(黒人+黄色人)”という構図はあるが、“白人+黄色人”&“黒人”という構図には、決してならないという。日本人は白人のアメリカ人にとっては“黒人寄り”の“色のついた民族”なのだ。このような本能的ともいうべき“認識”の仕方は、それ自体は「罪」ではない。問題はそれによって“差別を行う”ことにある。それは商品に「美白」と書くとか書かないとかではなくて、教育の仕方にあるのだ。容姿の美醜などでもそうだが、本能的認識を変えることは出来ない。問題は、それを差別的に扱うかどうかに掛かっている。日本のマスコミでも、特にTVのバラエティー番組などでは美醜によって“差別的に扱う”ことが習慣的に行われてきている。マスコミの影響の大きさを考えれば、これらを改めることが“差別を無くす”一番の手立てのような気がする。

「美術館女子」が、なぜ悪いのか⁉

2020-06-29
私はいつも思う。どうして「みんなと同じ」でなければいけないのだろう。どうして「同じ感覚」「同じ考え方」「同じ意識」にもっていきたがるのだろう。そうでなければ、許さない、といった雰囲気を作り上げるのだろう。いつから、日本は、或いは日本人はこんなに“狭量な民族”になってしまったのだろう。読売新聞社と美術館連絡協議会とが共同で企画したオンライン上の「美術館女子」というコーナーが、多くのネット上の批判にさらされ“公開終了”に追い込まれた。その内容は女性アイドルが東京都現代美術館を訪れた様子を撮影したもので、その解説として「若い女性は“インスタ映え”に夢中」と言ったコメントが添えられている。その種の写真が並んでいるというスタイルだ。確かに、観ようによってはネット上の批判にあるように「若い女性を“無知の象徴”として扱っている」とか「その女の子を鑑賞する人間の目線でしかない」という見方は正しいのかもしれない。ただ半強制的に“公開終了”に追い込んでしまうような内容だろうか。若い女性達の多くが、まず何よりも「インスタ映え」を意識しながら“ものを観る”ことは、今日では当たり前の光景である。それを、そのままコメントとして添えたとして、どうしてそれが「無知の象徴として扱っている」ということになるのだろう。意識過剰だからではないだろうか。現実に、美術品に対しても“インスタ映えの対象”として捉えている若い人たちが多数存在していることを、どうして無視しようとするのだろう。若い人たち全員がそうだというつもりなどなく「多くの若い女性は…」という意味合いであることは誰もが理解できる。それに「女の子を鑑賞する人間の目線…」とあるが、どうして、そういう“目線”ではいけないのか。美術館での撮影なら「作品の方を主体にすべきだ」という意味なのだろうか。それとも、若いアイドルを美術館に同行させて“撮影する”そのこと自体がセクハラだ、とでも言うのであろうか。例えば、70代と思しき厳めしい老人と、20歳前後の可愛らしい女性とが、美術館内の同じ部屋で鑑賞していたなら、その若い女性の方に視線が行くのはごく自然なことである。それを“許さない”等というのは、非人間的発想である。むしろ、そのことの方が許されるべきことではない。この展示が新聞社だけでなく、美術館連絡協議会との“共同企画”であるということは、おそらく「現代美術」というものに対して、もっと一般の人たちも気軽に足を運んでほしい、という願いが込められていたからではないか、そういった“密かな願い”をも踏みにじるネット批判を、私は許すことが出来ない。

都知事選より面白い「5人の美女」の闘い

2020-06-28
昔から「女の闘い」というのは熾烈なもので、それも“5人もの闘い”ということになれば、熾烈を極めるのは言うまでもない。「東京都知事選」の陰に隠れる形で秘かに行われるはずだったが、ここに来て俄然注目を集め出したのは、やはり「5人の美女の闘いだから」に尽きる。7月5日に投開票となる「北区都議補選」のことである。しかも、この闘い、或る意味では上手く色分けされていて、その一人目は自民党と公明党とが推す山田加奈子氏(49歳)で前区議議長まで務めた人物である。その二人目は“都民ファーストの会”が推す天風いぶき氏(35歳)で元タカラジェンヌで小池都知事の秘書を務めていた人物である。その三人目は立憲民主党と共産党とが推す斉藤里恵氏(36歳)で元区議で“筆談ホステス”として有名な人物である。その四人目は“日本維新の会”と“新しい党”とが推す佐藤古都氏(32歳)で“障害者支援の会社”に勤める人物である。その五人目は“ホリエモン新党”が推す新藤加菜氏(27歳)で動画配信で“ゆづか姫”として人気を集める人物である。つまり、いま日本の政治を動かす勢力がこぞって参加し“全国区型の人物”を投入して闘っているのだ。実は大昔まだ20歳前後の時に、私はこの地域に3週間ほどだが暮らしたことがある。「東京」とは名ばかりの“片田舎だった地域”だ。「十条銀座」が懐かしい。そういう北区で「定員1名」のところに、各党が“エース級”ともいうべき5人の美女を投入した格好だ。候補者の年代も20代が一人、30代が三人、40代が一人と、若い世代の配分となっていて、60代や70代は一人もいない。そういう点でも、まさに「女たちの闘い」を演じられるし、加えて5人共「男性と互角に闘える美女たち」でもある。こんなことを言うと“その種の団体”から批判されそうだが、少なくとも“金がバラまかれる選挙”になる心配はなく、むしろ“女の魅力”が勝負を分けそうな気がするのは、“東京の片田舎”を懐かしむ私だけなのであろうか。

私に「神とは何か」を教えた小説群

2020-06-27
私は外国の小説をあまり読まないので、海外の「宗教小説」については知らない。けれども、日本の宗教小説は十代から二十代にかけていろいろと読んだ。その中で“キリスト教”に関連する小説は、遠藤周作氏の小説が“群を抜いている”と思った。私は彼の作品を通じて「イエス・キリストの実像」を知ったし、江戸時代における“隠れキリシタン”の実態を知った。さらにいちばん貴重だったのは「神とは何か」を教えられたことである。それまで、私が漠然と抱いていた「神」に対するイメージを、ものの見事に打ち壊したのが『沈黙』だった。そして、それ以降、私の神は決して“完璧な存在”等ではなく、黙って“見守るしか出来ない男”に変わった。そうして、それだからこそ“親友”のように親しめる存在となったのだ。もし、彼の小説群を読まなかったら、しだいに「神」を遠ざけるようになってしまったと思う。その遠藤周作氏の“未発表作品”が長崎県の「遠藤周作文学館」で見つかった。秘書によって清書された『影に対して』という作品だ。知らなかった母親の生きざまを辿りながら、いつしか啓発されていく男の物語104枚であるらしい。この種の作品は存在していないので、ぜひ活字化してほしい。宗教的な要素を持った小説というのは、よほど上手い書き手でないと、お説教じみた作品になってつまらなくなる。要するに、これこれの信仰をすれば、こんなに変わることが出来たとか、奇跡のようなことが起こったとか、最終的には救われたとか、そういった“お説教じみた内容”になりがちなものだ。けれども、遠藤周作氏の小説には、それがなかった。理不尽な出来事がいっぱい書かれていて、それが史実に基づいた内容で、だから誰も反論できない。一部の国では「発禁になった」ともいうが、それだけ“本当のこと”が書かれていたということだ。そして、それを隠そうとするような宗教国家に、もはや「神」など存在しない。

1000万人以上に襲い掛かる「ダム決壊」の恐怖

2020-06-26
私が「防ぎようのない自然災害」として今年の1月に“その不安”を述べた時、おそらく共感された方はほとんどいなかっただろう。それは最初、昨年の12月から今年1月年初にかけて、カリフォルニアやオーストラリアで相次いで起こった“森林火災報道”を受けて私の“予知本能”が発した不安だったが、この時私は「これは予兆にすぎない」と予感したのだ。何が来るのかわからないがハッキリしているのは「防ぎようのない自然災害」がやってくる、ということだった。それも、地球規模で次々と“伝播するような形”でやって来ると思った。ただ、この時には、それが「新型コロナ」という形でやってくるとは夢にも思わなかった。世界規模で次々と伝播はするが、なんとなく「日本は逃れられるのではないだろうか」という気がしていた。続いて、私が目にしたニュースは実は「新型コロナ」の方ではなく「サバクトビバッタの大群」が農作物を食い漁っている、という報道の方だった。だから、私はこちらの方が世界に飛来するのか、と憂鬱になった。日本は大丈夫かとは思うが、油断は出来ない。ところが、もっと大きくて不気味な“大群”が押し寄せてきた。中国で「新型コロナ」が蔓延し出した、というニュースだった。「これだ‼」と私の予知本能が反応した。そして、実際、それはあっという間に世界へと蔓延した。今日では既に1000万人近くが感染者となっている。ただ、これで“お終い”と私は思っていないのだ。こういうものは集中して続く。そして、とうとう“その悪魔”が闇の中から姿を表そうとしている。その場も中国の南西部と東部で今月に入って、ずっと連続して雨がやまないのだ。なんと23日間も“暴雨警報”が出し続けられているらしい。中国本土には大河が流れる。昔から「暴れる竜」とも呼ばれているのは、長江の大河だ。その河川で既に150か所も氾濫しているというのだ。湖北省だけで680ものダムに氾濫の危険があり、中でも世界最大の水力発電ダムとして知られる「三峡ダム」が危機にさらされている。もし、ここが決壊すれば、その上流域に存在する街も、下流域に存在する街も、ことごとくが水没してしまう。現在すでに147mに在り、限界を超えそうなので放水しているようだが、下流域からは、これ以上放水させたら自分たちの街が飲み込まれると反対が起こっている。どうなる中国。

「地味な業種」が“派手な広告”で目を引く後は…

2020-06-25
私はいつも不思議に思っていた。どうして、そんなに「過払い金が戻る」とTVで広告を流すのだろう。「過払い金」が戻るような借金というのは、そんなに誰もが行うものではない。通常の借り方であれば「過払い金」など発生しないか、発生したとしても僅かな金額のはずだ。それなのに、こんなに何回も「過払い金が戻る」と宣伝するのは何故だろう。その答えを、24日に東京地裁から下された「東京ミネルヴァ法律事務所」“破産手続きの開始決定”が教えてくれた。元々経営状態が良くなかったのだ。だから派手な宣伝をして客を集める必要があった。ところが法律事務所というのは、通常の人は何かしら問題が起こらないと相談には行かない。そこで何も問題が起こっていなくても「活用できる人達」を“掘り起こしていく”方法を考えた。それが「過払い金」だったに違いない。もう一つの目玉だった「B型肝炎給付金請求訴訟」も、その対象者がそれほど多数いるとは思えない。要するに、どちらかと言えば通常の法律事務所ではメインとしていないようなものをメインに据えて、経営の立て直しを図ったのかもしれない。同じような手法を感じさせるのはフィットネスジムを経営する「RIZAP」だ。ここは文字通り芸能人を使っての“派手な宣伝”だけが記憶に残った。短期間で「痩せる」「変身する」ということを前面に打ち出し、芸能人のフィットネス利用の「前」と「後」を見せることで一時的に評判を呼んだ。ところが“派手な宣伝”で知名度アップとは裏腹に、経営そのものの方は赤字を垂れ流すようになる。現在、2年連続での“大赤字”で今年は減ったが、それでも60億円の赤字である。元々、法律事務所にしろ、フィットネスジム経営にしろ、本来は地味な業種でTVを使って華々しく宣伝を掛けるような分野の職業ではない。もちろん、どちらの業種も、近年はライバルが多く、普通に“待つだけの形”で商売が成り立つ感じではなくなっているのかもしれない。そうかもしれないが、元々は“地味な業種”であることは間違いがない。“派手な商法”でお客を呼び込むような分野の職種ではない。そういう意味では「占い」の分野も同様で、本来は派手な分野ではない。そういう意味では、あまりに派手な宣伝を繰り返しているような占い師集団は“危険信号”が灯っているかもしれないのだ。

秘蔵されてきた「埋蔵金(銭)」は11000枚以上

2020-06-24
昔から「埋蔵金」の話は耳にするのだが、実際に眼にすることはほとんどない。よく「埋蔵金を発掘する」などというTV番組もあるが、実際には何も出てこないで“お終い”となるケースが多い。私の占いのお客さんにも“埋蔵金発掘”に情熱を傾けている方がいて、そういう人達の“真面目な活動(?)”を来るたび話してくれていたものだ。そういうことよりも、温泉を掘り当てるとか、石油を掘り当てるとか、宝石鉱山を掘り当てるとか、そういうことの方が労力に見合っていそうな気が私にはする。さて、昨日、青森県の西北部に位置する町の大和田地区に暮らす戸沼君江氏から、同町教委に対して「資料として役立ててほしい」と秘蔵していた埋蔵金(銭)11000枚以上の寄贈があった。早速、町教委では歴史資料館である「光信公の館」において7月3日から常設展示することを決定した。これが“金貨”なら大注目を浴びるところなのだが、残念ながら小さな“数珠つなぎの銅貨”ばかりで、正直に言うと見栄えはそれほど良くない。けれども、江戸時代に埋められた「埋蔵金(銭)」であることは間違いがなく、昭和の半ばに既に亡くなっている夫の戸沼武治氏が砂の中から発見し、磨きながら大切に秘蔵してきたものである。寄贈されなければ、やがては所在不明となってしまう。実際、23000枚以上あったはずの「十三鉄砲大埋蔵金(銭)」は、現在どこに消えたのかわからない。預かるべきところに預かってもらわないと、こういう“お宝”は“ゴミくず”扱いされ、失われてしまうケースが多い。まさか金の「大判・小判」まで“ゴミくず”として捨てる人はいないとは思うが、昔の物置の片隅とか、床下とか、天井裏とか、そういうところで隠されたままになってしまうと、その子孫には“ガラクタの山”にしか見えないかもしれない。私なども、江戸時代の古書を何万円も出して購入することがある。まさにボロボロの“和綴じ本”が多いが、表面上ボロボロであっても、その中身にはキラリと光る秘伝が述べられていたりする。ただ八割方は、ただのボロボロ本で中身までボロボロのものだ。それでも、その書名に惹かれて購入することもある。だから、書名というのは重要なのだ。

瞬時に「命を救おう」とする女性達がいる‼

2020-06-23
「偶然なんてドラマの中だけだよ」という人がいる。そうでもないのだ。ごく普通の日常の中でも「偶然の出逢い」は存在する。けれども、それは“恋愛”や“結婚”に限らない。あらゆる場面で、不可思議な“偶然”は存在するのだ。そして我が日本には、素晴らしい判断力や行動力を持った「命の恩人」たちがいる。京都市のデパート「藤井大丸」の近くの路上で今年の4月1日午後6時過ぎ、50代の1人の男性が突然意識不明となって路上に倒れた。路上の男性を最初に目撃したのは“介護福祉士”の小長谷真由子さんだった。デパートの近くなので、人通りはある。もし、小長谷さんが通り過ぎたとしても、誰かが気が付く可能性はある。けれども、彼女は見過ごさなかった。おそらく、それは“介護福祉士”で日頃から男性の介護に慣れていたからではないか、と私は思う。通常の会社員女性だと、見ず知らずの50代男性の元へ走って抱き起すことはなかなかできない。しかも、彼女は応急措置として、すぐに心臓マッサージを始めたのだ。路上である。これも介護福祉士として、そういう訓練を受けていたから出来たことで、なかなかとっさに出来るものではない。その現場に、たまたま通りかかったのがアルバイトで働く23歳の八木くるみさんだった。彼女は、すぐ事態を察知し、その付近には無さそうなので「藤井大丸」に駆け込み、AED(救急医療)の装置を借りてきた。さらに、そこに通りかかったのが“保育士”であった後藤奈美さんと橋本夏海さんだった。彼女たちは協力して男性の身体にAEDを取り付け電気ショックを実施した。これも、彼女たちが“保育士”であったことと無関係ではない。日頃から、子供達にものを着せたり、取り付けたり、施したりするのに慣れているからだ。その騒ぎに気付いたのがデパート内に居た“看護師”の岡沢安里さんだった。彼女も心臓マッサージの経験があった。そこで、小長谷さんに代わって本格的心臓マッサージを開始した。その頃になって、ようやく消防署からの救急隊員たちがやって来たのだ。こうして、5人の女性達の連携が見事に活かされ、心臓停止していた男性の命は救われた。そうして、ようやく仕事復帰の連絡を得て、京都の下京消防署署長から昨日、5人の女性達に「感謝状」が手渡されたのだ。偶然にしてはあまりに、好都合な職業の女性達に出逢ったことを“救われた男性”は感謝しなければならない。

人間は「100度の気温変化」に耐えられるか⁉

2020-06-22
この地球上には“100度”も気温が変化する地域がある、と言ったら信じられるだろうか。また正式には認められていないが、どうやら今月20日、そんな場所が誕生したようだ。ロシア・シベリア北部の町ベルホヤンスクだ。もちろんシベリアであるから“極寒の地”として知られている。真冬には最低気温が氷点下67.8度にも達する。とても通常の人間が暮していくような場所ではない。けれども、今年はちょっと変なのだ。ここに来て、今年の課題ともいうべき「防ぎようのない自然災害」に見舞われている。気温が急上昇し始めているのだ。6月17日が30.9度、6月18日が32.8度、6月19日が35.3度、そして6月20日が38.0度…という恐ろしいまでの“熱波”に襲われている。何しろ“極寒の地”だ。寒さには強いが暑さには弱い。北海道に住む私も、暑さには弱い。38度等、考えただけで恐ろしい。いや、氷点下の67.8度の方がもっと恐ろしいが…。そんなところに暮らしていたら、何もかもがおかしくなってしまいそうだ。実際、ロシアのノリリスクという町では火力発電所のオイルタンクに亀裂が入って、2万トンもの軽油が漏れ出しているらしい。また、これまで“永久凍土”と言われていた土台が溶け出し、建物の6割が変形し出しているという。「地球温暖化」という言葉を聞いて久しいが、徐々に温暖化しているというよりも、地球そのものが一つの生命体として“自らを制御できなくなってきている”ような気もする。これまで“人類の住まい”として、快適な環境を差し出してきた地球だが、ここに来て“終わりの始まり”を告げるかのような出来事を次々と生じさせている。もっとも、それがただ単にコンピューターなどによくあるような“一時的な不調”で終わるのか、それとも本当に“地球の寿命”として、自らを破壊しようとしているのか、それは解からない。もしかしたら、かつての“地球の支配者”であった恐竜たちも、こういった地球環境の急激な変化に見舞われて、絶滅していったのかもしれない。こういう時、私はなぜか青春の時に聴いた「傘がない」という曲を想い出す。さまざまな暗い世相を反映したニュースが流れていても、自分には関係がない。自分にとって重要なのは「今日の雨」「傘がない」という現実だ…という歌詞の歌だ。子供に還って、自分にとって大切なものだけにしがみつきたくなるのだ。

「お手本」としての日本

2020-06-21
アメリカも、中国も、最終的には「世界の覇者でもリーダーでもない」ということを、昨年から今年にかけて、世界は知ることになった。まず、両国は“貿易戦争”で真正面からぶつかり合った。その結果として、どちらも勝利せず、傷つけ合う結果を露呈し合った。その結果、両国は、既に“解決された”かに思えていたもう一つの問題に行き着いた。アメリカは「白人」と「黒人」の対立という構図。中国は「本土」と「香港(厳密には香港以外の中華圏も含む)」の対立という構図。結局、大昔に決着がついていたはずの問題は、くすぶったままであったという事実を世界に知らしめた。自国内での問題が、そして“傷跡”が癒えていない以上、ほんとうの意味での“世界の指導国”には成り得ない。そういう点で言うなら、我が日本は、なんだかんだ言っても、そういう“おおもとの問題”がない。厳密には“関税問題”も、“民族間問題”もないわけではないが、少なくとも、それで国内が二分されるほどの問題としては存在しない。今回の“コロナ騒動”でも、日本人の“結束力”は事態の拡散を一応は最小限にとどめた。かつての「おしん」の国、日本は士農工商の時代から“我慢強さ”が身についているのだ。最近、日本の経済力の“著しい低下”を警告する書籍などが相次いで出版されている。そのこと自体は紛れもない事実で、今後の我が国の重要な課題となっていくと思うが、少なくとも国内におけるまとまりと、社会保障的な制度の確立という点では、世界の指導国としての役割を担っても良いような立場には居る。なるべく早急に、国として“経済力を高める施策”を打ち出していかなければならないが、少なくともアメリカや中国には欠けているモノを「日本」は備えていたのだということを知っておくべきだし、今後の“コロナ後の新しい世界”の「お手本」となるべく“日本らしさ”は失われないよう心掛けたい。

追い詰められていく「吉本興業」

2020-06-20
最近「お笑い芸人」に対する風当たりが厳しい。これまで世間から少し“持ち上げられ過ぎた”反動もあって、最近は“芸人たち”に対して、監視の眼を向けるよう変わりつつある。そういう意味での“タレコミ”が週刊誌などに多数寄せられているらしい。そういう世間の風潮もあってか、“お笑い”の代表格である「吉本興業」にも焦りの色が窺われる。昨日、3か月半ぶりに大阪の「なんばグランド花月」で客を入れての公演がスタートした。もっとも、客を入れることは入れるのだが、空間を取らなければいけないということで、858席中の112席のみ使用しての公演である。つまりガラガラの舞台公演ということになる。しかも、出演者たちも“直接会話”は出来ないということで、透明なアクリルガラス越しに漫才などを行うのだ。こういう形式では、ふだんなら“笑えること”も何となく笑い辛い。何しろ、周りに人がいないのだから、“笑うタイミング”が難しい。逆に言うと、そうまでして笑う必要もない。本来、“笑い”というものは自然な状態の中で発生するもので、例えば、お葬式の時など、どんなにおかしくても必死にこらえるのが普通だ。アクリルガラス越しの漫才など、よほどの“達人”でもなければ、それをうまく活用して“笑い”に利用できないだろう。多分、その透明なガラスに顔を押し付けて「聞こえます⁉」とか行ったら、面白いとは思うが…。それに対して相手が「こっちを向くならマスクしろや‼」と怒鳴れば、ちょっとおもしろいかもしれない。とにかく、そういう感じでしばらくはやるらしい。何しろ、吉本興業は全国に12か所の“吉本劇場”を持っている。それらを維持し、運営していかなければならない。芸人登録者を6000名も抱える吉本にとって、収入面ではそれほど黒字にならないと言われる舞台公演だが、若手芸人の活躍の場として、練習舞台としても、各地域に“根付かせる”意味からも、失うことが出来ないのが12劇場なのだ。けれども、日本人は元々が真面目な民族で、苦しい時や辛い時に“さりげなくジョークを入れる”というのは苦手な民族でもある。こういう形式の舞台を“心底笑えるのか”には疑問もある。本来の姿が早く戻らないと、吉本をはじめとする“お笑い芸能プロ”は、徐々に追い詰められていくことだろう。

日本人の「融通性の欠如」を考慮しなければ…

2020-06-19
昨日、つくば市で“哀しい出来事”が起きた。4月から“在宅勤務”となっている父親が、自分の娘をチャイルドシートで後部座席に座らせたまま自宅に戻ってしまったのだ。長女8歳の方を車で学校へと送り届けて帰宅した時、後部座席に次女2歳が座っていることを忘れてしまったらしい。車内に7時間もの間放置していて、気付かなかったというのだから、本人が言うように「仕事のことで頭がいっぱいだった」に違いない。やがて、長女を学校に迎えに行く時間になって、それでも気付かなくて、学校について車から出る時になって、ようやく気付いた、というのだからどうしようもない。日中、27.8度にも達した気温の“車の中”で、次女の方は亡くなってしまった。「過失致死容疑」に当たるのだろうが、日頃、いかに“仕事中心”で生活してきたか、家族と一緒に過ごす時間が乏しかったか、おそらく、今になって悔いているに違いない。もし、日頃から子供達と一緒に過ごす時間が多かったなら、どんなに仕事に追われていようと、仕事上の問題を抱えていようと、長女を送り届けた後で、これで責任は果たした、という気持ちにはならない。帰りには、次女の方に話しかけるとか、車から降りてすぐ、次女にジュースなど飲ませてあげるとか、何かを行ったはずなのだ。それらを全くしなかったのは、自分の家族を“本人・妻・娘”という形でしか意識していないからである。“長女”と“次女”という、それぞれの認識の仕方ではないからなのだ。妻である母親も仕事で外出していたから、妻の方にも、多少の過失はある。これまで、夫は、娘たちのことに対しては、妻に任せきりだったに違いない。こういう時代になって、在宅勤務に変ったことで、長女を学校へと送り届けてもらえる。そして、次女の方の面倒も必要な時には観てもらえる。妻は、そう思っていたに違いない。けれども、夫には余裕がなかった。実は、日本人の多くは“在宅勤務”は苦手なのではないか、と私は思う。どちらかというと、出社することで「仕事モード」に切り替えている日本人が多いのだ。また、会社側の方も、“在宅勤務”に切り替える場合に、これまでと全く同じようなノルマを課すのは、少し酷なのだ。これまでよりも“多少、効率が悪くなる”ということを前提にして仕事を与えないと、特に、幼い子供達をいる家庭においては、どうしても“出社時”と同等な仕事量を与えてはムリが出てくる。要するに、企業も本人も、融通性とゆとりを持たせないと、同じような「悲劇」は必ず、また起きて来るに違いない。 « Older Entries