7月, 2021年

100年に1度「奇跡の花」咲くのは「吉兆」⁉

2021-07-19

めったに咲くことのない花が咲くのは「吉兆」だという“言い伝え”がある。私自身の体験からでも、確かに“そういう部分”はある。昔、育てていた「金の生る木」の花が咲いた時、文字通り、“大きな金運”がやってきた。その頃、私は「風水」研究の意味合いもあって、さまざまな観葉植物を育て始めていた。だが、もともと“花々”にはそれほど興味がなく、鉢植えを購入しても、なかなか見事には育てられないでいた。名前が気に入って「金の生る木」も購入したのだが、別に「金運」に変化はなかった。たまたま占い師仲間の方と“観葉植物”について話していた時「波木先生は金の生る木に“五円玉”通してます?」と訊かれた。どういう意味なのか分からなかった。「金の生る木」の“新芽”が出た時、その新芽を五円玉の穴に通すと「お金が貯まっていく」と言うのだ。早速、私は、それを実行してみた。最初、新芽に通すのは難しかったが、慣れていくと、どんどん通り始めた。そして、奇妙なことには、それと並行するように“金運に結び付く話”がどんどん起こり始めたのだ。そうして、その年の暮れにはたくさんの花まで咲いてくれた。偶然かもしれないが「金の生る木」は、私に“金運”を授けてくれたのだ。そういう経験があるので、昔から“風説”として知られている「100年に一度咲く花は“吉兆”をもたらす」というのは、ほんとうのような気がするのだ。今月に入って鎌倉市のフラワーセンターでは一本のハスの茎に“二つの花が咲く”現象が起こった。これを「双頭蓮」と呼び、50年~100年に一度の現象で「吉兆をもたらす」とされていると言う。同じように、伊勢市では農家の萩原博文氏(87歳)の庭に、71年前に平塚農業高から“株分け”してもらったリュウゼツランの花が、71年目に至って初めて咲き始めた。これも50年~100年に一度、咲くか咲かないか、と言われるほど珍しい現象であるらしい。もちろん、これらはその方達への“ご褒美”として咲いてくれたものかもしれないが、何はともかく、“めでたい現象”であることは間違いがない。

 

映画「砂の器」を想起させる小山田圭吾楽曲⁉

2021-07-18

最初にお断りをしておくが、私は「小山田圭吾」というアーチストを知らなかった。したがって、どういう曲を作られる方なのかも、解かっていない。さらに彼が東京五輪の楽曲担当だということも今まで知らなかった。今回、彼の「イジメ問題」が露呈し、ネット上で問題視されたことで初めて知った。その“学生時代のイジメ”だが、小・中・高生の間続いていて、その内容も“想像以上”の壮絶なものだった。これは、とても「子供時代のことだから…」で済まされるような内容ではない。ところが、組織委員会としては「時間がない」ということもあって、見過ごす形をとったようだ。もちろん、そのニュースは世界に伝わった。元々、今回の「東京五輪」は最初からトラブル続きであるから、開催式にも「問題点」が“露わ”になった方が、それらしくて良い。つまり、私は、彼の楽曲は「使われた方が良い」という考え方だ。実は、私はこの問題が出て、真っ先に思い起こしたのは映画「砂の器」だった。過去に殺人事件を起こしている人物が、のちに作曲家として著名になり、渾身の一曲として「宿命」を作曲する。そのマスコミ注目の発表会の時、彼に「逮捕状」が施行されるのだ。彼の曲が流れる中で、彼の「逮捕」が近づいていくシーンは“少年時代の映像”と重ね合わせながら、画面上に流れる。文字通り、松本清張氏の原作で“殺人事件”よりも「人間は過去を完全に捨てきることは出来ない」という事実を、痛いほどわれわれに教えようとしている作品なのだ。同じような意味で、私は「小山田圭吾」楽曲を聴きたい。そして、世界に流したい。そうすることで、彼にはさまざまな反応を来るだろう。世界中から来るだろう。その「さまざまな声」を“十字架として背負って”生きていくことが、彼の“今後の仕事”なのだ。

五輪選手に「日本で働きたい」と言われても…

2021-07-17

今回は何もかにもグダグダなので仕方がないが、“東京五輪選手団”の管理はいまひとつ上手くいっているようには見えない。その典型が「ウガンダ選手団」のうちの一人が、滞在地である泉佐野市のホテルから抜け出し、新幹線に乗って名古屋に向かったことである。ただ“救い”は、彼が“遊びに向かった”のではなく、妻や子供のために「働きに向かった」ことである。ウガンダの選手団は既に6月19日から来日している。ホストタウンである泉佐野市が、おそらく“早い段階から準備OK”を出したものだから、すぐにやって来ちゃった。実際には、そんなに早くから“やってくる必要性”はないと思うのだが、その“準備期間”は素晴らしいホテルで快適な生活が送れる…と思ったかどうかは知らないが、とにかく早く来た。その結果、選手団の中からは“コロナ陽性”の人物が複数出てきた。つまり、どう考えても“ちゃんと準備して”やってきた選手団とは思えないのだ。実際、この「消えた選手=ジュリアス・セチトレコ」も“重量挙げ”の選手としてやってきたのだが、7月になって新たに示された“重量挙げ基準”では本大会には出場できない。「出られる枠内」だったはずが「出られる枠内」から弾かれた選手なのだ。“9名の選手団”として2か月前からやって来て、何もせず、帰っていかなければならない。母国は決して裕福ではない。五輪出場が履歴のステータスになる。今後のことを考えると、彼は憂鬱になった。そしてインターネットで調べて、名古屋なら外国人でも大勢雇い入れている。元々“重量挙げ”の選手であるから、力仕事には自信がある。彼はホテルの部屋に長い「置手紙」を残して旅立っている。このまま“暮らしの厳しい”本国に戻るよりも、この国で“働いてから”帰りたい。愛する“妻”や“子供たち”のために、少しでも“小金を貯めて”妻子の苦労をねぎらってやりたい。う~ん、考え方としては悪くないのだが、順番としておかしい。君は“五輪選手団”の一員としてや来日しているのだ。本来「移動制限」が掛かっていることは解かっていたはずだ。同じ選手団から複数の“陽性者”も出ている。動いてはならないのだ。第一、ウガンダ人というか、アフリカ人は日本では目立つ。日本は“情報網”が発達しているから、すぐにばれる。それに、インターネットで調べるよりも、ダンベルでも持ち上げて、次の五輪に備えた方が良いような…。

 

「自由の女神」にはフランスに「妹⁉」が居た

2021-07-16

ほとんどの人が知らなかったのではないだろうか。ニューヨークの「自由の女神」には「妹」が居て、それが今年の7月14日「フランス革命記念日」に、ワシントンへとやってきたことを…。いや、ニューヨークのシンボルともいうべき「自由の女神」が建てられてから、今年は135年目にあたるということ自体、ほとんどの人たちは気づいていない。その「自由の女神」だが、実際には40メートル以上の巨像である。今度ワシントンへとやってきた「妹」は“その16分の1”に縮小されている。それでも2.7mもある。実はこの「妹」新品ではなく、元々はパリの「工芸博物館」に10年間も飾られていた。このほど海を渡ってアメリカを訪れ、最初は「姉」が見える位置のニューヨークに設置していたのだが、やはり“母国の傍が良い”ということなのか、革命記念日にワシントンのフランス大使公邸前に“居”を移したのだ。7月14日には、わざわざ本国フランスから外相までやって来ている。米国側からも国務長官が出席しての除幕式だ。その「妹の女神像」を前に、フランス大使は「この像がフランス人とアメリカ人の“友情の証”であることを改めて思い起こさせる」と、よく解からない意義を語った。フランス人にとって「革命記念日」とは、それまでの貴族支配から“庶民が自由を勝ち取った日”ということで「自由の女神」と相通ずるところがあるのかもしれない。少なくとも韓国が世界のあちこちに設置している「平和の少女像」よりは解かりやすい。あの像は“少女が座っている”だけで、何を表しているのかがさっぱりわからない。せめて“半裸で苦悶している”などの“芸術表現”があれば、もう少し訴えられるのだが…。運命学的な観点から言うと、本来、銅像というのは本人の死後に建てるべきもので“生前”に建てるべきものではない。“生前”に建ててしまった人は、そのほとんどが“悲劇的な末路”を迎えている。早い段階で撤去してしまえば、そのような“災い”から逃れられる。同じように“墓石”も、生前のうちから本人が建てるべきものではない。「風水」は“調和の理論”なので、本人が“死ぬ前”から墓石が存在するというのは“不自然”である。そういう意味では、最近流行りの「生前葬」もそうであって、自然界に逆らうようなことは、後々良い結果を招かない。

「才能」には、大きく三種類の「開花」がある

2021-07-15

昨日、第165回の芥川賞&直木賞の受賞者たちが決まった。芥川賞は『貝に続く場所にて』の石沢麻衣氏。『彼岸花が咲く島』の李琴峰氏。直木賞は『テスカトリポカ』の佐藤究氏。『星落ちて、なお』の澤田瞳子氏の4氏だ。久しぶりの“二人ずつの受賞”であり、豊作の時期であったといえる。私が以前、ここで注目した佐藤究氏も受賞されて良かった。ところで、私が今回書きたいのは「才能」というものの“質”についてである。例えば、今回、佐藤究氏は初のノミネートにして受賞している。それに対して澤田瞳子氏は、私の記憶が正しければ何回もノミネートしながら、その都度、受賞を逃していた。また芥川賞の石沢麻衣氏は“デビュー作”ではないだろうか。これは小説を書くことに限らないが、人間の持っている「才能」の質はさまざまで決して一律では語れない。先ほど、澤田氏は何度も“受賞を逃した”と書いたが、それはこの人の“才能の質”に関係がある。つまり、この人は“徐々に才能が引き出されていく人”で、最初から備わっているタイプとか、一気に引き出されていくタイプではない、ということだ。こういう人は最初はコツコツ型である場合が多く、具体的に“間違い”とか“問題点”とかを指摘してあげると、それを修正していくので、徐々に実力を高めていくことが出来る。したがって本当の意味での“才能発揮”までには多少時間を要するが、その代わり、いったん習得してしまえば、それ以降は“平均して高い水準”を保つことが出来るのが特徴である。次に佐藤氏や李琴峰氏のような、どちらかと言えば“元々の素質が高い者”の場合には、そのチャンスさえ与えられれば一気に“才能が花開く形”で、仮にそのチャンスがなかなか回って来なかったとしても、いったん“日の目”を見るとぐんぐんその頂きを駆け上っていく。しかも、こういう人の多くは“根拠のない自信”を持っている。途中で“自棄になって放り出す”ことさえしなければ、必ずや、その才能は発揮されるようになる。現在ドイツ在住だという石沢氏の場合は、典型的な“発揚型の才能”で、つまり“何かと出逢う”ことによって、突然、“それ”に目覚めるとか、小説に場合には“書き始める”というのが特徴で、“そのこと”がなければ、けっして“その方面”に向かうことなく、日常的な中でしか才能は発揮されず、凡庸な日々を過ごしているに違いない方々である。よく、特異な才能は“先天的なもの”で、とても自分には“そのような能力はない”と思っているような場合に多い。そういう人たちでも、何かしら“特殊な出逢い”や“特殊な体験”を持つことで、能力が“目覚める”ことは十分あって、その、もっとも顕著な例が“重い事故”や“特殊な病気”に遭って、その体験の後に“霊能力”や“予知能力”が目覚めていくような人たちである。石沢氏の場合は別に“霊世界”などではないのだが、“不可思議な世界”という点では同様で、それも特殊な環境下にあって“生み出された才能”であることは、否定できない事実なのだ。

「仏マクロン大統領」だけが「敬愛」を招く⁉

2021-07-14

今回の「東京五輪」でさまざまなところから、もっとも“敬愛”を招くのはフランスのマクロン大統領かもしれない。なぜなら彼は、当初から現在まで一貫して「開会式には来日出席する」ことを表明してきた唯一の主要人物だからだ。この時期になって、ようやく各国首脳たちの出席の有無が少しずつ判明しだしている。アメリカはバイデン大統領は出席せず、その代わりとしてジル夫人が出席することが正式に決まった。韓国の文大統領が“外交”も兼ね、比較的早くに“出席”を伝えた。中国は慎重に状況を見定めながら、孫春蘭副首相の出席を決めたようである。カナダのトルドー首相は比較的早い段階で、今回は“欠席”することを伝えてきている。北朝鮮はおそらく“選手団”も含めて“出席しない”と明言している。何しろ開催国の日本が“やる”のか“やらない”のか、判然としていなかったのだから各国の反応が微妙なのは当然のことである。本来であれば、大統領とか首相とかの首脳クラスの人物はスケジュール調整が難しいので、相当に早い段階で「決定」を下さないと出席は難しい。そういう意味でも、フランスのマクロン大統領だけは唯一早い段階から一貫して「出席」を伝えてきていた。実は、これには理由があって2024年に開催するオリンピックがフランスで行われるからだ。つまり、その“参考”にできる部分があるはずということもあり、終始一貫して「出席」を表明していたのだ。ただ、それが主目的であったとしても、この時期の「出席」には勇気がいるし、外交的にも今回の場合には“役立つ部分”が少ない。それを承知で来日を希望していたのは、この大統領の“裏表のなさ”を物語っているようにも見える。おそらく各国の“出席の有無”に関しては、誰が出席するかを見極めながら、ギリギリまで調整し続けることになるだろう。そういう各国を横目にマクロン大統領の来日は、日本人の目から見て、とても“さわやか”に見える。おそらく事実上は難しくても文字通り「お・も・て・な・し」をしてあげたい“唯一の首脳”ということになるのではないだろうか。

日本の十代「約半数」は“毎日”TVを見ている⁉

2021-07-13

若者の「テレビ離れ」という言葉が飛び交って久しい。もう6~7年前から言われているような気がする。一部の人たちはもっと前から「やがて各家庭にテレビはもう必要がない時代が来る」とまで言っていた。けれども、今回、信頼できるリサーチ会社が行った調査では、必ずしもそうではないことを明らかにした。もっとも、その記事自体には《「テレビ離れ」が加速で放送界が激震》と書かれてあるのだが…。私には、どうしても、そのようには読めなかったのだ。その調査は2015年に行ったデータと、2020年に行った調査とを比較して「こんなにテレビ離れが加速している」という風に記してあるのだが、いったい、どこをどう捉えれば、そんな風に読めるのか理解に苦しむのだ。その記事では、前回(2015年)からの5年間で“こんなに変わった”という風な視点で、一日にテレビを見る人の割合を2015年には85%だったものが79%にまで“減った”と、大騒ぎしている。けれども、実際にはまだ“8割の人たち”が毎日テレビを見ている。年齢別では、60代以降に関しては、実は5年前も今も全く変わらず95%くらいの人たちが毎日見ている。本来であれば、この世代だって少しずつ減っていく方が自然だと思われるのに、何ら変わってはいないのだ。十代はどうかというと、昨年10才~15才は56%が視聴し、16才~19才は47%が視聴し、20代では51%が視聴している。つまり、約半数の若者たちは未だ毎日テレビを見ている…ということになる。もっとも2015年の調査に比べれば減っていることは事実だが、完全に「テレビ離れ」というほどの減り方ではない。ここで重要なのは十代後半から二十代の若者というのは「単身生活者」も多く、家族と一緒に暮らしていても「自分の部屋」を持っている場合が多い。したがって、本人の意思によって“テレビの視聴”を選択できる。もし“ネット動画”とか“受験勉強”とか“恋愛”とか“自分の趣味”などに自分の時間を使いたければ、それが十分可能な世代なのだ。或る意味で「受け身の時間」ともいうべき“テレビの視聴”は、日本人の若者たちにとって、まだまだテレビは“欠かせない存在”であることを意味する。実際、十代における“ネット動画”の視聴は、男性48%、女性37%と半分にも至っていない。一部の人たちが言うほどには「テレビ不要の時代」が日本では、すぐにはやって来そうにない。

 

 

活字離れから見事復活⁉を促す「読書の通帳」

2021-07-12

大分県宇佐市にある「市民図書館」その設立20周年の記念事業として、地元の“宇佐2001ロータリークラブ”が、市民図書館に通う小学生たちに対して「読書の通帳」5000冊と記帳機1台とを寄贈した。「読書の通帳」と言ってもピンとくる人は少ないだろう。要するに普通の金融機関で用いる“預金通帳”を思い浮かべていただきたい。あれとほとんど同じような“もの”を「読書の通帳」として、小学生たちにプレゼントしたのだ。通帳の表紙などには、この図書館のオリジナルキャラクターなども描かれ、無味乾燥な通帳ではない。そして“預金通帳”と同じように、記帳することによって《借りた月日》《本のタイトル》《著者名》《価格》が印字されることになっている。つまり、自分がいつ、どの本を借りて、どのくらいの冊数を読んでいるのか、一見して解かる仕組みになっている。しかも、本の価格も印字されることで、借りている本の“大切さ”とか、知識として蓄えた“金額の価値”などが解かり、楽しみながら学んでいく部分が大きい。おそらく、このようなことを行っている図書館は他にないよう思うが、この「読書の通帳」をもらった小学生たちが、やがて中学生となり、高校生となっても、この“通帳”を増やしていくことが出来れば、自分自身の“成長記録”としても重要な役割を果たすのに違いない。われわれは普段、あまり意識せず本を購入しているが、一生の間のその金額たるや相当なものになる。よく「読書は財産になる」などというが、実際には、あまり“金銭的な価値”としての財産を意識することはない。けれども、幼い頃から、こういう風な感覚で読書を行っていけば、頭の中に“お金を蓄えていく”ような感覚が身につくかもしれない。それに、子供たちが無意識のうちに友達より“たくさん読もうとする”競争意識のようなものも生まれるかもしれない。「読書の通帳」を何冊も持つことで、何となく“将来のお金持ち”になったような気分を味合わせてくれるかもしれない。間違いなく、宇佐市の小学生たちは全国に誇れる「読書の通帳」を持った。このような試みが全国的に広まって席巻していけば、ごく自然に子供のうちから“漫画以外の本”も読みだす子供たちが次々と増えていくのに違いない。

日本には謝罪、中国には感謝、台湾には警告⁉

2021-07-11

台湾のメディアが興味深い記事を載せている。先日「正式離婚」が公表された元卓球選手の福原愛氏に関してである。彼女の「離婚」は台湾の夫側と同時に公表され、事実上、弁護士による“声明文”となっていた。そして、その最後には台湾のマスコミに対して「今後、悪意を持って捏造した報道には法的措置を取る」と記されていたのだ。もちろん、本人の姿はそこになく、実母の帰国時にも、子供たちの誕生日にも、一度も台湾に帰っていない。それでいながら「子供は共同親権」とすることで“円満解決”した形をとった。それはあまりにも「身勝手ではないか」というのが台湾メディアの主張だ。さらに私が注目したのは、そのあとの一行だ。「日本には謝り、中国には感謝し、台湾には警告した」それが許せない、というのだ。もちろん、これには事情がある。日本では多く、台湾の“家族事情”というものが取り上げられ、未だに“目上絶対主義”的な風潮が報道された。家庭内における“男尊女卑”的傾向も、改めて指摘された。その結果「モラハラ夫」という印象が日本人的にはしてしまうのだ。したがって、日本では福原愛氏の“不倫疑惑”よりも、“モラハラによる家庭崩壊”の方が先んじていると受け止められている。したがって、擁護するわけではないが批難は少ない。また中国においては、元々“台湾に嫁いだ”こと自体を好ましく思っていない風潮があった。一時的に中国本土で暮らしたこともある福原氏は中国語も話し、可愛いということで人気があった。それが“離婚騒動”が表面化したことで「中国に戻っておいで…」的なニュアンスで彼女への“応援メッセージ”が多かったのだ。だから彼女は、それに対しての“感謝”を自分の言葉で発信していた。日本人に謝ったのは「東京オリンピック」においての“卓球解説”が内定していた関係で、今回の騒動により多方面に迷惑をかけることになり、何よりもそれに対しても謝罪であった。もっとも、台湾メディアにすれば、これまで“仲良し夫婦”の象徴としてさまざまなTV番組やCMに出演していただけに「台湾」そのものを“裏切った”印象が強いのかもしれない。今後の福原氏が日本に残るのか、中国本土にわたるのか明らかではないが、少なくとも子供のいる「台湾」には簡単に出掛けられそうもない。

舞台映えする「筋肉美」で「摂食障害」越え⁉

2021-07-10

世の中には、自分自身が“それ”によって苦しんだことで、“その道”のプロになっていくタイプの人がいる。例えば、自分が“がん”になって苦しんだことで、“がん撲滅”や“がん救済”のプロになっていく人がいる。自分が“イジメ”にあって苦しんだことで、“イジメ救済”の活動を担っていく人がいる。自分が“麻薬常習”で苦しんだことで、“薬中脱出”の館を提供するプロになっていく人もいる。原島さみら氏の場合、“それ”は「摂食障害」だった。その過去を克服して、現在は「摂食障害カウンセラー」となっている。もっとも、カウンセラーといっても、単に“その相談に乗る”とか“励ましを与える”とかのカウンセラーではない。一方で「パーソナルトレーナー」でもある彼女は、悩める女性たちにどうすれば“健康的に美しく痩せられる”か、フィットネスジムにおいて“直接指導”もしているのだ。数日前、健康的スタイルを重視した「ビューティー筋肉祭」の女性部門で見事チャンピオンとなったのが原島さみら氏なのだ。参加者の中でも、長身で肢が長く、肩幅が広く、それでいて“ムキムキではない”女性らしい美しさが際立っていた。つまり、通常の“筋肉コンテスト”に多い、“女性とは思えないような筋肉美”とは明らかに違うのだ。丁度「ミスコン」と「ボディビル美」の“中間”を行くような“健康美”が狙いであるらしい。近年は、どういうものか若い女性たちの間で、フィットネスジムに通う人たちが多くなった。“身体を鍛える”とか“筋肉ムキムキとなる”ことが、男性たちだけでなく、女性たちにも浸透し始めている。昔はアスリートの女性だけが、そういうことに関心を示したが、現在は、むしろ自発的に“趣味”として、“健康法”の一つとして、時に“ストレス発散”の場として“筋肉づくり”に励む女性たちが増えてきた。また、そういう女性たちのカリスマ的存在が、マスコミから脚光を浴びる時代となっている。確かに原島氏のような“身体”は美しいが、何となく私には、この人が何かの拍子に、また“摂食障害”に戻ってしまいそうな“危うさ”を秘めているように視える。たぶん、本人も、どこかでそれを自覚していて、だからこそ誰にもまして“美しい身体”を保たなければならない仕事を択んだに違いない。

 

歯止めが利かない「日本株」&「総理の暗色」

2021-07-09

昨日のTVで久しぶりに“緊急事態宣言の説明”をする菅総理の顔を“大写し”で観た。正直「かなり憔悴しているな」との印象だったが、観相家としては頬の側面部から正面にかけ“暗蒙の気色”が一気に張り出し、“苦渋”を強めている顔貌に見えた。「頬」の側面部というのは、普段、あまり目立たないが“背後から自分を支えてくれている人たち”を意味する。その部分に“暗蒙色”が広がるのは決して好ましいことではない。この部分は年齢が行くと誰でも多少“暗蒙”になる。腎臓の働きとも関係があって、腎臓機能が衰えてくると、どうしてもこの部分には斑点など生じやすい。したがって“徐々に…”であれば、多少暗蒙色に変わっても問題はないのだ。ただ短期間で急速に“その範囲”が拡大されていくのは問題がある。菅総理の場合には、本来であれば「背後から補佐すべき人たち」が離れ始め、或いは“反旗を翻す”可能性が出てきていることを暗示する。そういう「日本のトップ」の状態を反映するかのように、最近の「日本株」はさえない。ずるずると落ち始めて“歯止めの利かない状態”になっている。本来であれば「世界の景気敏感株」ともいわれる日本株は、世界景気が浮上し始めて上昇に向かって行っても良いはずであるのに、ずるずると落ち始めた。今年の2月半ばを頂点として、実に微妙な“滑り落ち方”を見せた。どうして一気に落ちなかったかというと、アメリカ株の“勢い”が良かったからだ。それに“引きずられる形”で何度も“持ち直す”かのような動きを見せた。そして、とうとう“持ち直せないまま”ずるずると落ち始めた。もちろん、日本固有の問題がいろいろと出てきて“経済の見通し”は極めて暗い。いつの間にか「亡国のオリンピック」になってしまったし、頼みの“ワクチン停滞”も明らかとなった。“飲食店”には厳しい冬の時代が続いているし、旅行・移動の制限も“活気”を奪っている。ただ、これらはあくまで「日本」の問題である。本来なら「日本」が停滞していても、世界が“活気づけ”ば「日本株」は浮上するはずなのだ。そうなっていかないのは、ここに来て思った以上に“コロナの変異株”が強力で、世界各地で“呼び戻し現象”が起こっているからだ。したがって、当初よりも“経済の反転”には時間のかかる見通しが出てきたせいだ。アメリカと中国の対立が、世界経済を“より不安定化”させている。こうして、どんよりとした“梅雨空のような暗雲”が「日本」全体を覆っているのだ。

どうすれば「新聞社・販売店」は生き残れるか

2021-07-08

7月1日から「朝日新聞」「毎日新聞」の購読料が値上げになったそうである。それに伴って苦境に立たされているのが“新聞販売店”だ。購読者数が減っていく中で、どんどん“廃業”に追い込まれているらしい。実業家の堀江貴文氏がこの問題を取り上げ、販売店に「廃業した方がいい」とコメントし、ネット上ではそれに賛同する“若い人たち”の声が多数並んだ。「読む価値ゼロ」とか「資源の無駄」とか「情報が遅すぎる」などの辛辣な言葉が並ぶ。その一方で新聞購読者たちに対し擁護する声もある。「毎日の愉しみ」「貴重な情報源」「若い時からの習慣」という感じで、新聞そのものの援護にはなっていないのだが…。ただ私個人は“三大新聞”などの一般紙が低迷していく中で「経済新聞」の発行部数が伸びていること、また「スポーツ新聞」は発行部数を維持していることに注目する。つまり一般紙の発行部数が低迷するのは、若い人たちにとって、もはや“ニュース”や“情報”は「お金を払って得るものではない」という感覚が身についているからで、そういう世の中に変わったのだから、昔と同じ“編集方針”で購読料を得ていくのは無理があると考えた方が良い。ただ新聞には新聞特有の“良さ”もある。例えば“資料的な価値”で何度も読み返すことが出来るし、スクラップして保存することが出来る。その地域特有の“情報”をまとめて手に入れることもできる。もちろん、これらはネットからでも得られるが、新聞の方が整理されていて纏まってもいる。経済新聞やスポーツ新聞の需要が衰えていないのは、個々の“分野”に特化すれば、まだまだ“生き残れる”ことの証であって、一般紙は衰亡しても、専門紙としての“価値ある情報”を発信していけば、新聞の需要そのものは決してなくならない、と私には思える。したがって一般紙の場合には、現在、週刊誌が行っているような“スクープ”をどんどん流せば、その新聞にしか載っていない記事を求めて、新たに購入し始める読者が、必ず現れてくるようになるだろう。つまり一般紙が生き残るには、いかに“独自の取材網”を持って追いかける記者を雇えるかに掛かっているのだ。

 

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