7月, 2021年

「画数」より“その意味”との「符合」が強運⁉

2021-07-07

私は、人の“姓名”を観る場合、何よりも“姓名の意味”と、その人の“生き方”との「符合」度合というものを重要視する。ほとんどの場合、姓名には“それなりの意味”がある。その意味に適した“暮らし方”をしていれば、自然と「幸運」をつかめる。自らの“姓名”に逆らうような“暮らし方”をすれば「運」は離れていく。例えば私は「星龍」なので「星の中に、龍のごとき“形”を視付けていく」のが“仕事”だ。金沢に暮らす15歳の現役高校生「薄井華香」氏の場合、その姓名は「華やかな果実の香りを薄い皮の中に包んでいく」のが“仕事”だ。そして実際、彼女は現在、金沢フルーツ大福「凛々堂」経堂店の店長として、たくさんのお客さんたちに“フルーツ大福”を売っている。どうして現役高校生なのに“製造”や“販売”も担っているのかというと、規格外というだけで捨てられていく多数の果物たちを見て、この“フードロス”を無くすため、少しでも早く自分が“立ち上がらねば…”と思ったからだ。そうして一般的なイチゴだけでなく、オレンジとかキウイとか“規格外の果物を薄皮で包んだ”お店をオープンしたかったのだ。自分と同じ女子高生たちを雇えば“フルーツ大福”のお店は採算が合う。もっと、さまざまな果物を活用して“フードロス”を無くしていきたい。こうした想いが通じてか、いつの間にか「凛々堂」の名は知れ渡り始めている。少なくとも彼女が店長として、この店を切り盛りしている限り、繁盛し続けるに違いない。実は彼女の姓名である「薄井華香」は一般的な姓名学の“画数”から観れば、決して“良い姓名”であるとは言えない。天格・人格・地格に「20」「14」「19」と“凶画数”が並んでいるのだ。総数だって「39」で女性には“不吉な数”とされている。そういう姓名であっても“その意味に沿った生き方”をすれば、成功をつかむことができる。その見本のような姓名である。もちろん15歳の彼女が今後ずっと順調な人生を歩めるかは保証の限りではない。ただ少なくとも彼女が、棄てられる果物を活用して、薄皮で包んで販売する商売を継続する限り、運命の女神はピンチが来ても必ず何らかの“手助け”をしてくれるに違いない。

 

 

人は「病魔」に“どう向かい合うべきか”教えた

2021-07-06

元「中日」の4番バッターで、「日ハム」の監督も務め、NHKのプロ野球解説でも知られた大島康徳氏が6月30日に亡くなっていたことが明らかになった。亡くなるちょっと前まで「病状報告」を続けていただけに、まだ「生きている」よう誰もが思っていたのではないだろうか。彼自身が「がん」に侵されていることは早くから知られていた。「余命」を告げられたのち、何年も“仕事を継続”されていたので、何となく治ったのではないか…という印象もないではなかった。最近は重い病気の方でも「病状報告」をされる方が多くなり、特別に珍しくはなくなったが、彼が発信しだしたときには、まだ珍しかった。しかも、そのあとでも精力的に仕事を続けていた。或る意味では、病気のことを“忘れる”かのように仕事を継続していた。きっと“野球”が大好きだったに違いない。多くの人にとっては、現役を遠のいてから“知られる”ようになった人物だが、私は20代の時から彼の活躍を知っていた。ハッキリ言って“華やかさ”は乏しい選手だったが、アスリートらしい純朴さを持った“技術の人”だった。特に“監督”とか“解説者”とかになって、努力して伸びていく後輩選手を見つめるまなざしは“我が子”を見るような優しさがあった。ホロスコープを見ると、トランジットの天王星が出生時の太陽に180度の位置に来た時、同時に土星が火星の出生時位置に0度で重なった時、彼は「余命」との闘いが始まった。そして今トランジットの海王星が出生時の太陽に150度位置に来た時、同時に天王星が出生時の火星に150度となった時、命運が尽きた。人によって、この惑星配置はさまざまであるので「すべての人がこうなる」という見本ではない。ただ多くの人たちにとって、最初の“病魔の発覚時”と“命運尽きる時”とは、何かしらの関連性があることが、私の研究では明らかになりつつある。特に、大島氏のように“病魔”としっかり向き合って生きた人の場合には、それが判然としやすい。彼は生前「自分は何の記録も持っていない」と言っていたらしい。実際には「本塁打王」も獲得しているし、「2000本安打」も達成している。彼自身にとっては“誇るべきもの”ではなかったのかもしれない。もしかすると「余命半年」が「余命4年以上」となって充実した闘病生活こそ、もっとも彼が誇るべきことかもしれないのだ。

 

奇妙さで言うなら「葛飾区」の「党名」が一番

2021-07-05

「都議選」そのものには興味がないが、なんとなく候補者などを眺めていて「葛飾区」のところに目が留まった。奇妙な政党名から出馬している候補者が多いのだ。「愛の力党」河合ゆうすけ氏、「SDGs党」ごとうてるき氏、「議席を減らします党」黒瀬信明氏、「テレビ改革党」高橋じゅんや氏、「つばさの党」根本りょうすけ氏 といずれも私個人は知らない方達だが、不可思議な政党名を背景として出馬している。残念なことに彼らはだれ一人当選せず、一般に知られている党名から出馬した方たちが当選を果たした。それにしても、どうして葛飾区だけがこれほどユニークな面々を輩出しているのだろう。一説には、これは“前哨戦”で、この後に控えている葛飾区の“区議選”を意識した選挙活動であるという。“区議選”の場合は70名近い立候補者が予想されるとかで、そういう状態では“憶えてもらえない”ので、その“前哨戦”である今からユニークな面々の“闘いが始まっている”のだという。確かに、彼らは負けて落ち込む様子もない。これらの党の中で「議席を減らします党」だけは“党名の由来”がハッキリとしていて、当選した場合にはその100日後に議員辞職をするらしい。そうすることで、実際に議席が減るというのだが、何かしら不自然で、やっぱり当選しなかった。「愛の力党」は“婚姻率の低下を解決しよう”としている政党らしい。「つばさの党」はイタリアなどにある「オリーブの木」という政党の“日本版”らしい。日本では“オリーブ”より“つばさ”の方が理解しやすいということだが、“つばさ”も抽象的でよく解からない。「テレビ改革党」は“番組内容の改革”なのかと思ったのだが、そういうことではなく“NHK受信料の廃止”や“消費税の廃止”などを掲げていて、これまたよく解からない。「SDGs党」は直訳すると「持続可能な開発目標」となって理解不能だが、元々欧州などで叫ばれている政治信条のようなもので“政党”とすべき名称ではない。これらの“政党名”は今一つ“理解不能”なものが多く、長期的視点に立って名づけられているようには思われない。別に思い付きでも良いのだが、少なくとも「何をしようとしているのか」だけは判然とした政党名をつけるべきだ。

地球環境の温暖化で「危険な住宅」が増えた⁉

2021-07-04

これまでであれば一か月とか二か月かかって降る雨の量が、最近は一日とか二日とかで一気に降りつくす。その結果、山や川が雨水を吸収しきれなくなって“土石流が起こる”とか“川が氾濫する”とかの事態が生じやすい。私は前から言っていることだが、もう、一昔前の日本列島の気候ではない。明らかに、今の「日本」は東南アジアなどと同じく「スコールがやってくる地域」に変わったのだ。だから、これまでであれば“台風の季節”だけを用心していればよかったのだが、もうそういう“信仰”は止めた方が良い。強力な“梅雨前線”なら、いつだってすぐに“洪水”“浸水”“土石流”“崖崩れ”は当たり前のように起こってくる。そういう“島国”に変わったのだ。それだけではない。話は異なるが近年はクマなど野生動物に襲われる被害もどんどん増えている。温暖化による植物の変化が野生動物の生活域をも狂わせている。そこで考え直さなければならないのは、どういう住宅なら「スコール」からも「クマなどの野生動物」からも安全かということである。一番危険なのは、山峰を背景とした丘陵地域の住宅、或いは山裾付近の住宅、さらには川沿いに面した地域の住宅などだろう。もう建っている場合は仕方がないが、これからという場合、出来ればこういった条件の地域に一戸建て住宅を建てることは避けたい。もし、どうしても“その土地”が気に入った場合は、土石流やクマに襲われても大丈夫なほどの頑強な建物にすべきだ。過去の「津波」でも感じたことだが「水」の威力はすさまじく“あらゆるもの”が飲み込まれる。建物でも大木でも人間でも、一瞬で飲み込まれてしまう。どんな野生動物より、その威力は強い。だが同時に「水」は“癒しの源”でもあり、“生命の源”でもあった。もともとの「日本」は、穏やかな気候の中で春夏秋冬を味わい、四季折々の花々と、美しい風景が自慢の国であった。「川」だけでなく「滝」や「泉」や「沼」や「池」を与えて“日本の美”を高めてきた。「おいしい水」の宝庫でもあった。迫りくる地球の気候変動は、日本がこれまで誇ってきたさまざまな「天然資源」を奪おうとしているのだろうか。

なんとなく可哀想な「故ダイアナ妃」の銅像

2021-07-03

「王室」とか「皇室」とかいうのは、いろいろと“難しいもの”なのだなぁと改めて思った。いや、それは、どこの家系・血縁にでも“似たような部分”はある。そう考えると、王室や皇室を責めなくて済む。7月1日は故ダイアナ妃の本来なら60回目の誕生日だそうである。それを記念して英国のケンジントン宮殿の庭では“ささやかな除幕式”が行われていた。ウィリアム王子とハリー王子の“二人からの依頼”によって建てられた「故ダイアナ妃」の銅像の除幕式である。公的なセレモニーはない。通常であれば「王妃」だった人の銅像なのだから、それなりの衣装をまとわせても良いはずなのに、彼女の銅像はカジュアルな服装をしている。しかも、単独ではない。彼女の周りには“三人の子供たち”が居る。もちろん、ダイアナ妃の子供はウィリアムとハリーの二人だけである。なぜか、この銅像には“見知らぬ子供たち”が3人寄り添っているのだ。実の息子2人からの“制作依頼”なのに、実の子供たちではなく、見知らぬ子供たちを配して、それをどういう銅像になったか知らなかった息子たちが除幕をする。まさか実の息子たちが「母親のそばには見知らぬ子供たちを立たせておいて」と、お願いするはずもない。ここに、英国王室の何とも言えない「冷酷な仕打ち」を感じるのは、私だけなのだろうか。ケンジントン宮殿からの公式声明には「彼女の功績がもたらした普遍性へのインパクト」という“理解不能な理由”が添えられている。制作した彫刻家も「世界の子供たちに愛を注いだ彼女の人柄を表現した」と誇らしげだ。何かが違う。制作依頼をしたのは、実の息子たちではないか。彼女の子供は3人ではなく2人だけなのだ。ここは宮殿の庭ではないのか。なぜ王妃としての象徴は一つも与えないのか。なぜ、夫だったチャールズ氏は参列していないのか。たぶん、女王から条件が出たのだろう。故ダイアナ妃の銅像は、なるべく目立たないところに「世界中の子供たちに愛を注いだ母親像」としてなら「その建造を許す」と…。

2021年7月の運勢

2021-07-02

格闘家と共通するハルビン頭骨の「眉骨隆起」

2021-07-02

「顔」と「職業」には、或る種の“共通点”が生じることがある。例えば「格闘家」と呼ばれるような分野に所属するプロレスラーとか、プロボクサーとか、総合格闘家とか、柔術家とか、空手家とか……そういう方達の多くは「眉骨」が異様に隆起している。これは最初からそういう顔立ちなのではなく、毎日、心身を鍛え、自らの肉体を鍛錬し、常に“闘える身体づくり”に徹している方のみに現れる特徴である。奇妙なことに、われわれの意識と暮らし方は“顔の骨格”を変えるのだ。鼻骨が異様なほど隆起してくれば、間違いなくその人には“野生の本能”がよみがえり、どんな敵にも向かっていく“勇者”となっていく。もちろん女性でも同様だが、元々の骨格構造が違うので、よほどでなければ女性の眉骨は前に出てこない。したがって女性でも眉骨が突き出ていれば、闘争本能が剝き出しになる。なぜ、こんなことを書き出したのかというと、中国で1930年代に発見され、井戸に隠されたまま時代が経過し、2018年になって改めて回収されて研究に回された「ハルビンの頭骨」が、約14万年も前の“未知の新種人類の頭蓋骨”だった可能性が浮上してきたからだ。その頭蓋骨の特徴の一つが、異様に発達した眉骨なのだ。日本人は比較的「眉骨」の低い人種で、特に“日本女性”である「大和なでしこ」はそうだった。大和なでしこには“闘争本能”がもともと乏しいのだ。男性であっても、日本人で「眉骨」が“極端に突き出ている”男性は少ない。唯一多いのは「格闘技の世界」に集う男たちである。毎日、毎日、闘うことばかり考えているような状態に追い込まれていないと、眉骨は突き出てこない。逆な言い方をすると、この新種人類かもしれない頭蓋骨の男性は“そういう環境下”の中で暮らしていたことになる。狩猟民族だった可能性もある。一説によると、この「ハルビンの頭骨」は実態が判然としていない「デニソワ人」の“系統分かれ”である可能性もある。最近、イスラエルで見つかった「ネシェル・ラムラの頭骨」がヨーロッパに広く分布する「ネアンデルタール人」の“系統分かれ”の可能性も指摘されているので、アジアとヨーロッパでそれぞれに十数万年前に生存していた“新種人類”に近い「頭骨」が出てきたことになる。そして、その人たちは“強い闘争本能”がなければ、生きていけなかったのだ。

失くしたじゃ済まない「警察手帳&捜査資料」

2021-07-01

今の警察官や刑事というのは「制服姿」や「スーツ姿」でいることは少ないのだろうか。まずは、そういう疑問が起こった。制服姿やスーツ姿でいれば、よほどのことがない限り、そのポケットに入っているはずの「警察手帳」を“手放す”ということはないと思うからだ。同じ警察官や刑事による“不祥事”でも、持っていたはずの警察手帳を失くしてしまうとか、捜査資料をどこかに忘れてしまうとか、それも「人間だもの」仕方がないと寛容にはなれない。どんな職業でも、なくてはならないものがあると思うが、とりわけ警察官・刑事にとっての「警察手帳」は、それが犯罪に利用される可能性もあるだけに、絶対に手放してはならないもののような気がする。兵庫県警本部刑事部の30代の巡査部長は、その日ひとりで仕事帰りに“居酒屋”に立ち寄って飲食をした。そのこと自体は問題ないが、私が気になったのは、仕事帰りに“制服姿”ではなく、私服姿になっていたのだろうか、という点である。別に私服姿でも良いのだが、それで「警察手帳」を入れるポケットがなかったのなら、大切な手帳は職場に置いておいた方が良い、ということである。そうでないと、これからも同じようなことが繰り返される心配がある。一人で2時間半ほど飲食をし、彼はその店を出た。そして自宅方向に向かう電車に乗った。その時、捜査資料も持っていたのだから、厳密にいえば、自宅につくまでは“気を抜けない状態”のはずなのだ。ところが、彼は「警察手帳」も「捜査資料」も、ともにリュックサックの中に入れたままだった。最近、若いサラリーマンにも多いが、リュックサックというのは本来「通勤用のバッグ」ではない。もし、それを通勤用に使いたいなら、重要な品物はそこに入れないことだ。立ち寄った場所で、身体から外す可能性が高いリュックは“盗まれたり”“置き忘れたり”しやすいからだ。彼は電車に乗ったことで安心し、すやすや居眠りしてしまった。私も“居眠りしやすい体質”なので、それを責めるつもりはない。やがて彼は、自分の“降りるべき駅”を乗り過ごし、とりあえず下車した駅のホームで、また寝てしまった。問題は、この時、リュックを肩から外していることだ。また寝てしまったのは致し方ないが、肩から外したのは大失敗である。こうして、彼は駅員に起こされるまで寝続けた。駅員に促され駅を出たが、その時にはリュックのことを忘れていた。親切な駅員さんが交番に届けてくれたから“大事”には至らなかったが、万一、危険な人物に警察手帳や捜査資料が奪われた時には、謝罪では済まなくなる。

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