10月, 2021年

「福袋」より魅力的(⁉)な無人「福箱」が出現

2021-10-19

最近、無人の「自動販売機」にさまざまな“新種”が加わっている。これも、その一つと言えるかもしれないのが無人「福箱」の登場だ。もっとも、置かれているのは今のところ東京中野区の住宅街にしかない。駅などで手荷物を一時的に預かってくれるコイン式ロッカーと、ほぼ同様なシステムなのが「福箱」の無人販売機だ。客はコインロッカーを開けるのと同じ仕組みで500円玉を投入して四角いロッカーの扉を開く。そして、その中に入っている最低でも5000円以上という“詰め合わせ”「福箱」を取り出すことが出来る。もちろん、中に何が入っているのかは分からない。けれども、500円玉で“5000円以上”の品物が入っている「福箱」を得られるのだから一日50個は、あっという間に無くなってしまう。中に入っているのは、食品、食器、衣料品などが主で、いずれも“新品”である。どうして、そんなに安いのかと言えば、もともと“激安王”と呼ばれた土橋達也氏が“仕掛けたもの”だからである。卸問屋でコロナ禍によって倒産したメーカー品など大量に仕入れるから“激安”にできる。中には正真正銘のブランド品を入れる場合もある。最近、正月の「福袋」がつまらなくなった。昔は「福袋」と言えば、中身が“なに”なのか判らないものと相場が決まっていた。だから価格的にいえば“何倍”もの商品を入手できるということで正月の風物詩となっていた。ところが、いつの間にか「福袋」は“その中身を教える”ものへと様変わりしていった。一つには、それほど金額的に“何倍”とか“何十倍”とかの商品を“詰め合わせ”出来なくなった販売側の事情もあった。また、購入する側も物資に溢れ“必要なものだけ買う”形に変化したせいもある。ただ本来「運試し」という形で始まったはずの「福袋」が最初から中身の判る商品を購入するのでは「福」としての悦びがない。何が入っているか、どれほどの金額のものなのか、判らないで買うから“運試し”になる。そういう意味では、最近の「占いコンテンツ」も、基本“悪いことは書かない”ものでないと売れない、という話を聞いたことがある。昨今は神社のお御籤でも「凶」を入れていない神社も多い。もちろん「福を掴みたい」という気持ちは解かるが、難関苦労を突破してこそ“大いなる悦び”を感じられるのも人生だ。もっと単純に「運に賭ける」という気持ちで生きる方が、自らの運命を克服できるのではないだろうか。

進んでる⁉ 遅れてる⁉ 独身脱出「漂流瓶」

2021-10-18

あなたは「漂流瓶」というものをご存じだろうか。多分、知らないだろう。中国で最近、目覚ましい普及を見せている「独身脱出便利店」内に置かれた“出逢いを求める瓶”のことだ。中国という国は「進んでいる」のか「遅れている」のか、よく解からないようなところがある。わかっているのは、何でも、あっという間に普及していくことだ。そういう意味で言えば、間違いなく「独身脱出便利店」は“新たなる流行”の兆しを見せている“お店”ということになるだろう。だが新たなる流行にもかかわらず、たいていは路地裏の片隅にある。店内の棚には、300から400の瓶が立っている。その瓶こそが、この店の唯一の商品である「漂流瓶」だ。この漂流瓶について日本人が理解をするためには、行きつけのスナックに“自分のボトル”を置いた、と思えばよい。ほとんど同じようなシステムが「漂流瓶」だからだ。つまり、その瓶(日本円で180円~890円くらい)で購入して、その中に「自分への連絡方法」を記しておく。そうすると、来店者で興味を持った人が連絡をして来て、メールや電話や実際のデートが始まっていく、という仕組みである。つまり、その店に行けば、自分への“連絡先”を書き残すことも出来れば、既に置かれてある瓶の持ち主へ、こちらから連絡を取ることも出来る。あくまでも「独身脱出用」なので、独身であること、結婚を目的としていること、それらが利用の条件となる。もし、この店を通じて「結婚」が成立した場合には「漂流瓶」は棚から取り除かれ、その人物に“連絡”を入れていた人たちにも通知される。利用者たちの内訳は女性が6割、男性が4割で、年齢は18歳から35歳迄さまざまなようだ。日本の「お見合い登録」などだと年齢層がやや高い場合も多いが、この店の場合には“高年齢者”は扱っていないようである。まあ、金額的な面から考えても、或る種サークル感覚での利用が多いのかもしれない。中国の独身人口は今や2億4000万人で「4億8000万の瞳」が独身という事態になっている。そのうちの約1億人が完全なる「ひとり暮らし」で、特にそういう人達からの需要に応えているのが「漂流瓶」なのだ。いまや経済的には日本を追い越した感のある中国だが、この「漂流瓶」の流行はお金で買えない「愛」を求めているようで、何故かホッとした気分にさせられる。

「吸血鬼」は16歳~20歳まで“生き血”を吸った

2021-10-17

昔から「吸血鬼」の存在は物語などで知られているが、実際には“存在しない”ような幻想を持っていた。けれども、どうやら「人間の“生き血”を吸って生きていく」吸血鬼は実在するものであるらしい。ケニアのナイロビで16歳の時から5年間に13人の子供たちを誘拐し、“白い粉”や“白い液体”を使って意識を失わせ、そのあと静脈が浮き出ているところに噛みつき、血を吸う方法で殺害していたのがマスティン・ワンジャーラ容疑者(20歳)だ。彼は最初、子供たちに自分はサッカー教室のコーチだと言って近づき、個人的に教えてあげると言って誘惑する方法を用いていた。“白い粉”が何なのか明らかになっていないが、子供たちが意識を失ったところで「吸血鬼」へと変身する。16歳の時に“生き血”を吸うことの悦びを覚えた彼は、2人、3人と繰り返していくうちに、もう“それ”無しには生きていけないようになった。文字通り「吸血鬼」となったのだ。摑まっても反省の気持ちは皆無で、“生き血”を吸う悦びには逆らえなかった。彼が収監されていた刑務所は独房で3人の看守が眼を光らせていた。ところが、彼に対して判決が下されることになっていた前日10月12日の夜に、マスティン容疑者は忽然と姿をくらましたのである。どこも破られたり、壊されたりしていないので、もしかすると容疑者は看守の手招きによって“脱獄できた”と推論された。だが看守たちは、3人とも強くそれを否定している。消えてしまったのは認めているが、自分たちは直接関与していないというのだ。彼が脱獄してから故郷で“撲殺遺体”となって発見されるまで、2日間“空白の時間”がある。何故なのかはともかく彼はどうにか脱獄に成功したのち、実家のある故郷へと向かったのか。村人たちの証言が確かなら、容疑者は実家近くで発見され、逃げようとしたところ大勢の群衆に取り囲まれ、殴る蹴るの暴行を受けて、血だらけになって死んでいったということになる。私には“何かがおかしい”と感じられてならない。もしかすると「吸血鬼」に裁判で話されては困る事情があって、誰かが彼の口を塞ぐべく判決前日に殺害したのではないだろうか。

繊細日本人は「大規模おもちゃ店」を好まない

2021-10-16

もしかすると、これは私の“一方的な思い込み”で、日本でも従業員が500人以上存在する「大規模おもちゃ店」は存在しているのかもしれない。けれども、私には“何となくの感覚”で、そういう“だたっぴろいおもちゃ店”というのは、日本では繁盛しないような気がする。そして、実質的にも存在していないような気がするのだ。そんな「大規模小売店」に対して、アメリカのカリフォルニア州で成立し2024年から施行される法律が、育児用品やおもちゃ用品に対する「男女分け陳列」の廃止法案である。厳密にいうと、完全な廃止ではなく“一部廃止義務”という扱いである。わかりやすく言うと、要するに「男の子のコーナー」「女の子のコーナー」として商品を“全面的に陳列”するのではなく、“男女混合陳列コーナー”も必ず設けること、というややこしい法律なのだ。最近の欧米は、そういうことに関して“えらく神経質”である。私などは、別に“分けても”“分けなくても”どっちでも良いような気がするのだが、必ず、そういう事柄を「法律」で“義務化”していく。そういうことを決める前に「アジア人差別を何とかした方が良いのではないか」と私などは思うが、とにかく“建前的”に「われわれは平等主義者だ」と言いたげなのがアメリカ人のようである。この法案を提出した議員は自分のスタッフの“幼い少女”が「どうして男の子のコーナーに行かないと、私の欲しいおもちゃはないの」と言われて、法案提出を思いついたという。まあ、そういう“即実践型”の部分は、アメリカ人気質の“良い部分”だと思うが…。それよりも、私がこのニュースで一番驚いたのは、従業員500人以上の“大規模店”に限定した法案だという点であった。つまりは、そういう“だだっ広い店”が多いという何よりの証拠だろう。食料品スーパーのようなお店であれば“だだっ広い店”も選択肢がいろいろあって良いのかもしれないが、育児用品とかおもちゃとかは、そんなに“だだっ広い店”にしようとする発想が解からない。幼児期のおもちゃは、そんなに“大多数の中から選択する”ようなものだろうか。十代後半以降であれば、豊富な種類の中から“選択していく”というのは悪いことと思わない。けれども、それほど意思も嗜好も定まっていない幼少期から、選択肢を与えすぎるのは必ずしも良いことと思わない。それに“狭く雑多な商品”の中か択び出していく方が、“繊細な感覚”が養われるような気が私にはする。周囲への理解力という点でも、例えば“6畳一間で6人家族”というぎゅうぎゅうの中で幼少期を過ごした私は、それによって“周りへの気遣い”をいやがうえでも覚えてしまったようなところがある。なんでも大きい「アメリカさん」には「カワイイ文化」は当分、ほんとうには理解できそうもないような…。

800年前ブームだった⁉「一日造立仏」の祈願

2021-10-15

昔から“仏教修行”の一つとして「写経(お経を筆で書く)」や「写仏(仏様を画像として描く)」と共に知られているのが「造仏」とも呼ばれる“仏の彫像づくり”だ。一応、それに必要な用具なども必要なので、あまり普及はしていない。通常、寺院などにある彫像としての「仏様」は“仏師”と呼ばれる専門家が制作するものだが、修行の一環としての「造仏」は、あくまで“修行”や“祈願”を目的として行うので、素人である一般人が心血を注いで行うのが特徴だ。ただ広く普及している「写経」や「写仏」には見本があって、それを丁寧に写し取っていけば良いのだが「造仏」の場合は、それが難しい。手本としての仏像や彫像を見ることは可能だが、樹木や巨石を削って形づくっていくのは本人で、普段、彫像作業などしていない素人は、なかなか最初から“それらしい形”に彫り込んでいくことは出来ない。したがって、最初から「仏様」を彫るというより、徐々にそれらしい形に“近づけていく”のが普通だ。ところが、今から800年以上前の鎌倉時代の一時期、この「造仏」が巷に流行したことがある。どうして流行したのかというと、“願掛け”の一つとして“実際に効果がある”と噂になって広まったのだ。このほど京都府長岡京市にある乙訓寺が所蔵する1.8mの「木造十一面観音立像」を補強・修理のため解体したところ、その内部に“この仏像”が1268年に病気祈願の目的で、わずか一日で制作された「一日造立仏」であることが判明したという。そして記録がある「一日造立仏」としては“最古の仏像”とも判った。“修行”としてよりも“祈願”として、その効能がうたわれたのは単なる「造仏」ではなく「一日造立仏」の方なのだ。文字通り、丸一日のうちに“仏像”を完成させなければならない。しかも、仏師ではなく素人がである。そのためには、相当な練習と研究の日々が必要だったはずである。何もない樹木から一気に“仏像”を彫り出していくのだ。この十一面観音像も決して一日で雑に仕上げたような作品ではなく、細かなところまで丁寧に仕上げられている。したがって、それ以前に相当数の“試作品”を作ったに違いないのだ。おそらく、その人物の中に「仏」が宿って、ごく自然に彫り込んでいくうちに観音像となったに違いない。そうして、おそらく“その祈願”も成就されたに違いない。

「魅力度ランキング」に本気で怒る山本知事⁉

2021-10-14

世の中にはさまざまな“ランキング”がある。きちんとした“裏付け”を持ったランキングもあるが、その多くは“不可思議な根拠”に基づいている場合が多い。毎年、民間のシンクタンクがインターネットを通じて調査・公表する「都道府県魅力度ランキング」というものがある。この最新版で「群馬県」は44位であった。まあ「妥当な順位かな」と私などは思ってしまうのだが、この順位に“激怒”している人物がいる。群馬県の山本一太知事だ。彼はこの順位に「誇りを持っている県民に対して失礼であり、侮辱でもある」とし、今後のため「法的措置も検討している」と怒っている。ちなみに、1位となっているのは「北海道」2位は「京都府」3位は「沖縄県」4位は「東京都」といった具合だ。これを観ると、“魅力度”というよりも「観光をしようとしたとき魅力的な場所」といった基準で択ばれているような気がする。“魅力度”とはいうものの「暮らす場所として」という意味ではない気がするし「公共的な優位度」とも関係がなさそうである。つまりは“イメージ的な魅力度”で、県知事が真摯に向き合うような調査結果とは言い難い。ところが“自分の県”に対して誇りを持っている山本一太氏は「根拠不明なランキングで下位に位置される屈辱は許しがたい」ということのようだ。ただ、山本氏は“44位”でお怒りなのだが、当然のことながら、群馬県の下にも位置している県はあって、その最下位47位は「茨城県」である。だから、44位の群馬県が怒ると、それ以下の県知事たちは“どうすれば良いのか”戸惑うことであろう。こういう“ランキング”というものは、さまざまな分野で実施されているが、普通に考えて疑問に思う、ことの方が多い。例えば「ジェンダーランキング」などだと日本は世界的に見て、もうすごく劣っているよう位置付けられているが、“強い女性”や“怖い女性”は山ほど居て、周りを見ても“男に従っている女性”など滅多に見かけない。表面上の数値だけでランキングすると、実態とは合わないものになりがちなのだ。以前「幸福指数」というものが注目を浴びたが、必ずしも「幸せな国」が客観的に見て“幸福とは見えない”部分も多かった。「世界の美女ランキング」などにしても、或る種の“押し付け”であって、そんなものに惑わされる必要などどこにあるのだろう。

“占い師”も“小説家”も保証ないけど自由な仕事

2021-10-13

「文學界新人賞」の公式サイトに載せられている選考委員たちの言葉がSNS上で話題になっているそうだ。いずれも現役の人気作家たちが選考委員となっているだけに、新しい才能を待ち望む気持ちが表現されている。それぞれ本文はもっと長いが一部のみ載せる。青山七重氏は「あらゆる可能性をかいくぐったタフな小説を読ませてほしい」阿部和重氏は「独自性や新奇性や革新性を歓迎します」中村文則氏は「あなたの文学を全力で小説に込めればいい」村田沙耶香氏は「同じ書く生きものとして未知の小説を楽しみにしています」そして金原ひとみ氏は「何でもいいよ!小説が書けたら送ってみて!」という感じである。ちなみに、金原氏の文だけはまったく略していない。この金原氏の“応募歓迎の一言”が「シンプルでいい」と、特に注目されたようだ。彼女は多分、意識して「小説家」を目指して書くというより、何気なく“書けてしまった”的な小説の方が気負いがなくて好いと感じているからかもしれない。実際、小説家には意識して“その道”を目指した人も多いが、或る種の偶然から書いたものがきっかけで“プロ作家”となっていった人も多い。同じようなことは「占い師」にも言えて、私のように幼少期から「占い師」を目指した人もいるにはいるが、比率的には少ない。人生の途上で何らかの出来事が起こって、それがきっかけで「占い」に手繰り寄せられていった人たちが多い。小説家と共通するのは、比較的“自由が利く”職業である、という点だ。したがって、副業・兼業の形で「占い師」を行っている人は多い。実際、小説家も占い師も“職業の安定性”という部分では、きわめて低い。つまり、将来に対しての“保証”というものがまったくない。昔と違って、現代においては“さまざまな職業”で同じことがいえるが、組織的な仕事よりも単独で行う仕事の方が、その“不安定さ”は強い。もっとも、その分“自由”と“気侭さ”が許されてもいるわけで、だから会社組織の中で「合わない」と感じ、日頃から“自由”を求めている人にはうってつけの職業だとは言えるだろう。

「生きていない」発言は政治家として「失格」

2021-10-12

年齢的に“若い人”ならば、社会的な事件としての「拉致問題」を“知らない”ということもあるかもしれない。けれども、この人は73歳である。或る意味で、もっとも“拉致事件”が騒がれていた当時、既に社会人として、ましてや本人はジャーナリストとして活動していた時期のはずである。したがって、どんなに鈍感であったとしても“拉致事件の詳細”は脳裏に刻まれているはずなのだ。立憲民主党の生方幸夫衆院議員の問題発言が飛び出したのは、多くの人を前にしたフォーラムでのことだったらしい。拉致問題について問われる中で「拉致被害者で生きている人はいない」と発言した。重ねての質問には「政治家はみなそう思っている」とまで述べた。この発言を受けて、質問状が「立憲民主党」の方に届き、党本部や枝野代表は“平謝り”となった。そして、すぐ生方氏本人も、自らの発言を“謝罪・撤回”した。けれども一連の発言には、重要な部分がある。彼は「拉致被害者を日本から一度北朝鮮に戻す、という約束だったのに戻さなかった。そういう政府だから、向こうが応ずるはずがない。もう正規の拉致被害者はみんな亡くなっている。自民党も含め政治家はみなそう思っている」と発言しているのだ。仮に、彼自身がそのように受け止めていたのだとしても、それを「政治家はみな」と言い切ってしまったことは大問題である。これまで成果は乏しくとも、拉致問題に努力してきた政治家は沢山いるからだ。これが、例えば“気心の知れた仲間内”での話だというのなら、現実問題として拉致された方々の年齢を考え「実際には何人生き残っているんだろう」といった発言なら、許されるかもしれない。けれども彼の発言は“全員死んでいる”と断定しているようなもので、しかも、北朝鮮が応じないのは「当たり前だ」と言わんがばかりである。これでは「家族会」などが怒るのは当然で、単に“県連の代表辞任”だけで済む話ではない。私が思うに、この人は元々「拉致問題」にはあまり興味がなかったのだと思う。そうであれば、問われたとしても「私にはよく解からない」程度に抑えておくべきで「生きていない」とか「政治家はみなそう思っている」とか、言い出したら関係者から“怒り”を買うのは当然であろう。こういう“社会的な問題”“理不尽な事件”に対して、興味を持てないような人は本来“政治家”になるべきではない。国の政治家は「国民の命と財産を守る」ために働かなければならない。それが嫌なら政治家になどならなければ良い。彼は“拉致被害者”を「国民」とは捉えていなかったのだろうか。

文字通り「賭け」となった三地域の「IR申請」

2021-10-11

ほとんどニュースとしても扱われていないが、今月1日から政府が「申請」を受け付け始めたのが「IR(カジノを含む統合型リゾート)」だ。もっとも有力視されていた横浜は新市長が「ストップ」を掲げて立候補した人物だけに、完全に消滅してしまった。その結果、実際に申請しそうなのは、大阪・和歌山・長崎の三か所に落ち着きそうである。したがって、もし現在のままであれば、この三か所にそのまま“認可”が与えられそうな雲行きである。何しろ、日本人には「ギャンブル」を“悪として”排撃しようとする人たちが多い。私の暮らす北海道でも、苫小牧が“有力候補地”として誘致を進めてきたのだが、結局、地元民の反対を受けて消えてしまった。大体、マスコミは「IR」というものを正しく説明しようとしない。「IR」とは“リゾート施設”であって、ギャンブル施設ではない。もちろん「カジノ」も含まれているが、日本の場合、その面積は3%以下と規定されている。間違えてはいけない。30%以下ではなく、3%以下なのだ。つまり、よほど探し回らなければ“見つけ出せない”ほど隅に追いやられて存在している。それ以外のところは多く“子供たち”と“婦人たち”の「癒しの場」として存在しているのが実態なのだ。だからシンガポールの「IR」は世界中から観光客を集められた。もちろん「カジノ」で潤っているから、どんどん“新しい施設”や“見所”を加えていっている。「カジノ」というと、日本ではすぐ“ギャンブル依存症”と結びつけるが、現在、日本には「カジノ」は存在していないにも関わらず、世界の合法化されている国々よりも“ギャンブル依存症”の比率が高いという事実をご存じだろうか。マスコミは何故、このような事実を伝えようとしないのか。いま“合法化”と言ったが、世界には現在“合法化している国”が145ヵ国もある。日本は取り残されているのだ。世界中に5000か所以上もの「カジノ」が存在している。日本でときどき摘発される「闇カジノ」の方が“悪”と結びつきやすい。申請しようとしている大坂の場合、米カジノ大手MGMと日本のオリックスとが共同事業体を組み、初期投資額は1兆800億円と言われる。すごい金額だ。そういう大金を投じて「癒しの場」を作ってくれて、内外から観光客を呼び込もうとしてくれている。どうして拒絶するのか、私にはまったくわからない。お金の余っている人達が、お金を使ってくれるのを、なぜ拒絶するのか。私は日本人だが、日本人の“心の狭さ”が理解できない。

“ミステリー殺人”のような照明装置落下で死亡

2021-10-10

昔の推理小説やテレビドラマなどでは、舞台上演中に大型の照明装置が落下してきて、出演俳優が亡くなってしまう……場面などが“謎の一つ”として登場したりした。けれども、これは実際の事件である。10月9日の深夜、モスクワにあるボリショイ劇場では「サトコ」というオペラが上演されていた。ボリショイ劇場はロシアを代表する劇場の一つで、主にバレエとオペラの上演に使用される。今回の事故は、その劇場本館の大ホールで、上演されていた舞台装置の一つである大型の照明器具が、物語の場面転換中に落下したことで起こった。出演中だった37歳の男性俳優が、落下してきた照明器具の下敷きになってしまったのだ。もちろん、劇場内は騒然となり、上演は直ちに中止され、すぐに警察が駆け付け、入念に現場検証を行っている。“場面転換中”ということで、どうしても舞台装置は素早く順序だてて行わないと、ぶつかったり、外れたりしやすい。ましてや深夜なので、天井付近は照明以外の部分は暗かった可能性が強い。日本のミュージカルや歌舞伎などの舞台でも、大きく入れ替わるような場面ではちょっとした事故など発生しやすい。こういった“ショー”としての舞台には、或る種、危険はつきもののような気がする。私がまだ十代の頃だったか、サーカスの上演中に“猛獣使い”がライオンに襲われて亡くなってしまう事故が起こったことがある。近年では、ノアのプロレス公演中に、社長も兼ねていた三沢光春氏がバックドロップを受けて動かなくなり、そのまま死亡してしまった事件があった。よく「俳優は舞台の上で死ねたら本望」などというが、今回のようなアクシデントによる死亡は、三沢光春氏のようなリングで試合中の“技を受け死亡”とは若干意味合いが違うような気もする。そういえばプロレスラーでは力道山も、人気絶頂の時に刃物を持った暴漢に襲われて死亡したのだった。私の場合は、占いの鑑定中に死亡するというのは考えにくいので、占いに関することを執筆中に倒れて、そのまま死亡するという形が、ベストなのかもしれない。だが、どう考えても“人気が沸騰する”などということはなさそうなので、誰にも知られず、ひっそりと亡くなってしまうに違いない。

ホテルが「芸術品」を“支援する”&“発信する”

2021-10-09

近年、日本の高級ホテルには“国内の富裕層向け”というよりも、あきらかに“海外の富裕層向け”と感じられるような“仕掛け”や“工夫”が多い。今回の場合なども、もしかしたら“海外向け”的な要素が強いのかもしれないが、京都にあるホテル「ザ・プリンス京都・宝ヶ池」が、“開業35周年(10月9日)記念”として行っているのが、京都の伝統的芸術家たちの作品をホテル内にて展示・販売する新しい試みだ。日本の古典的な芸術作品というのは、その展示される“場”の雰囲気によって、あきらかに価値が違ってくる。デパートの展示場にあるより、京都の高級ホテルのような雰囲気の中にあって、より“輝きを増す”ことは疑いようもない。今回、展示・販売される工芸品は安土桃山時代から400年以上も続く陶芸技法の継承者である加藤亮太郎や松林豊斎氏の作品群である。茶碗・花瓶・酒器など40点の方は、ホテル内の“クラブラウンジ”の方で展示されている。また、京都の若い作家たちの抽象絵画9点も公共スペース壁面の方で展示・販売している。このホテルでは、少しでも伝統的な京都の芸術家たちを支援すると同時に、世界に向けて日本の“伝統芸術”を発信していこうという意識を持っているようだ。確かに、国内の富裕層だけでは“日本の芸術”を守って継承していくのは難しい時代になっている。海外からも高い評価を受けているのが“安土桃山時代の芸術”なのだ。ただ一点だけ私が気になったのは、“京都の芸術”だけに限定しているような気がすることだ。日本には京都以外でも、さまざまな地域で“優れた技法”が伝承されている。それらを、どう守り、どう伝えていくかは、今後の日本人に残された大きな課題と言える。昔は絵画の展示・販売と言えば、美術館やデパートの催事場と決まっていたが、最近は一部のおしゃれなカフェ・レストランなどでも絵画の展示・販売を見掛けることがある。若い作家の作品などは、かえって“そういう場所”の方が、おしゃれな雰囲気に溶け合って価値を生み出すことも多い。欧州などと違って「気軽に絵を飾る」という慣習が日本にはない。もう少し、さまざまな場所で、ごく自然に“芸術”と向き合う、或いは触れ合う場所が多くなれば、近年の“ゆとり無い心”に“余裕”が生れて来るのではないだろうか。

万引き急増で「レジ袋無料」に戻す可能性も⁉

2021-10-08

「時代」というものは、時に“後戻り”をする。奇妙だが、歴史を振り返れば、決して珍しいことではない。もしかすると現在「有料」となっている“レジ袋”も、再び「無料」に戻る可能性が出て来た。元々、レジ袋の有料化は“環境対策”の一環として、小泉環境相が推進して具体化させたものだが、必ずしも“それ”が効果的だったとは言い難い現象がいろいろ起きている。何よりも問題なのは“万引き”が急増していることだ。確かに「マイバッグ」の使用は、それが“清算後”なのか、“清算前”なのか、微妙で判りにくい。店員がレジ袋に入れて手渡す行為は、それが“清算済み商品”であることの証となる。それにマスコミは「誰もがマイバッグを使用するようになる」と喧伝していたが、実際にはそうなったようには思えない。最初だけ、さまざまな“マイバッグ”が紹介されたりもしたが、実用に適さないものが多かったのか、いつの間にか見掛けることが少なくなった。大体が“環境関連”の取り組みというのは、上手くいっているものが少ない。環境そのものには良くても採算ベースで“高くつく”ものが多い。経済的な不利益を被っても、環境を整えなければならない…という発想は何かが違うような気がする。もちろん、地球環境を考えることは必要だし、さまざまな面で“未来への工夫”は必要なのだが、あまりにも“そこ”だけにこだわり過ぎると、われわれの生活自体に支障が生じる。さらに、そういうことを“声高に推し進める”人の中には、自らの事業や商売への利用をもくろむ人たちも多い。したがって、ほんとうに“地球環境”や“未来の子供たち”をおもんばかって主張しているのか疑問な人たちさえもいる。最近の暮しは、あらゆるものがどんどん変化していくが、そのこと自体がわれわれを「ほんとうの倖せ」から遠ざけていくような気もする。もっと、モノや環境の変化はゆっくりでいい。われわれ人類は何千年もかけて、今のような“暮らしの環境”を作った。何千年もかけて“整えてきた環境”を「何十年かで変えよう」とすること自体、ムリがあるのではないだろうか。

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