12月, 2021年

岸田首相は「幽霊屋敷」に果敢に挑戦する⁉

2021-12-07
正直、私なら、ちょっと気になる。岸田首相が引越しをすることになった「首相公邸」の“噂”に対してだ。つまり「幽霊が出る」という“まことしやかな噂”が、この館にはあるのだ。その一方で、この「首相公邸」は大変に立派な建物で、当たり前の話だが首相にならなければ住めない。そういう意味では家相学的見地から言えば、一国の首相たるもの“大きな家”に暮らす方が、その“人間的な器(うつわ)”も大きくなって良い。但し、歴代首相でここに暮らした人たちは何故か“みな一年前後の短命政権”に終わっている。だから、そういうジンクスもあってか、いつからか首相たちはここに住まなくなった。住まなくなっても、公邸維持費は年間1億6千万円もかかる。う~ん、すごい金額だ。だから“空けっ放し”で「幽霊屋敷」としないためにも、勇気のある首相は、そこで暮らした方が良い⁉ そこで私は思うのだが、とりあえず、入る前に“お祓い”だけはしておいた方が良い。この公邸は、実は1929年に建てられているが、その3年後に“5.15事件”、その7年後に“2.26事件”という血生臭い事件がここで起こっている。そういう点では「幽霊が出る」という“噂”も、意味のない憶測とばかり言いきれない点もあるのだ。風水家相的な観点からどうなのかは、図面がないことには判らない。何しろ“4階建ての広大な洋館”なのだ。まあ、幽霊が出るにしても、広い公邸の“どこか”だろうから、肝が据わっていれば、怖れることはないだろう。それに考えてみれば、身辺警護という観点からは、もっとも安全な領域と言える。ただ、そうはいってもやはり“短命政権”のジンクスは何となく気になる。一つだけ風水的な観点から言えるのは、だだっ広い屋敷にご夫婦二人だけで暮らすようになると、必ず「孤独な運命」となる。政治家であれば“孤立”を招きやすくなる。もしかしたら、そういう形となって退陣していくようになるかもしれない。既に、そのあとには高市早苗氏が“首相の座”を狙うと断言している。もし、岸田首相が「首相公邸」で3年以上暮らすことになれば、それは彼の果敢さが“幽霊をも味方につけた”とみなすべきであり、この立派な公邸に暮らすに値する人物へと変貌していった…とみなすべきだろう。そして、こういう立派な公邸に暮らすことを許されるような「日本の首相」としての価値ある業績を徐々に果たしていくことになるだろう。

「オミクロン株」は関係ない「日本株」急落

2021-12-06
このところ「日経平均」も「ドル円」も急落し続けているが、一般的には市場がコロナの変異株「オミクロン株」の影響によって世界経済が再び停滞するリスクを先取りしていることが“一番の理由”だと説明されている。そうだろうか。或いは、アメリカのインフレ懸念による金利上昇を先読みしての急落だとも言われる。そうだろうか。両方とも、一応もっともらしく語られるが、いま一つ説得力はない。特に「オミクロン株」は急速に広がって入るものの、重症例が出ていない。確かに油断は禁物だが、今後の世界経済を大きく左右するほどのリスクになるとは思えない。特に日本人は慎重なので、同じ“過ち”を何度も繰り返すとは思えず、経済活動再開も“徐々に”という姿勢を崩していない。国際間の“行き来”にしても、いまのところ“水際作戦”が効果を発揮しているように見える。もちろん、イギリスとかドイツとか韓国とか急拡大している地域もあるので、世界経済全体で言えば、多少の影響は出るだろう。ただ、少なくとも去年のような“お先真っ暗状態”ではない。以前にも書いたように「株価」というのは“半年から一年先の経済”を予測する形で動く。決して“今現在の反映”ではない。どうして“先のこと”が判るのかと言えば「景気」は文字通り「気」が先導していくように出来ているからである。会社員の日常を考えても、自分が勤めている会社の経営状態が“良好か”どうかは雰囲気で判る。事業を拡大中で、どの部署も仕事が忙しいなら、良好に違いないのだ。そういう時の“賞与”は大いに期待できる。そうすると、人は“もらう前の段階”で、あれこれ“使い道”を考える。少なくとも懐具合を心配せずに買い物をする。こうして「景気」は実際に人々に“お金が行き渡る”前の段階から活気づく。それと同様のことが「株価の動き」には示される。その企業に勤めていなくても「見通し良好そうな企業の株」が買われる。そういう企業が多くなれば「日経平均」が上昇する、という仕組みだ。あくまでも“実態”ではなく“雰囲気”であり“気分”なのだ。アメリカの“金利上昇”は織り込み済みのことで、いまさら感が強い。既に日本の輸出企業の多くが或る程度の“調整”は済ませている。つまり、本来なら急落する理由がない。株の急落に歩調を合わせるかのように「ドル円相場」が動いて「円」が急騰した。80ドル以上に高騰していた「原油価格」も急落した。「ビットコイン」も急落した。ジェットコースターのような相場は、いくつかのヘッジファンド共同による“未来を目隠しする操作”の表れなのか、それとも実際に待ち受ける“世界経済の混乱”の予兆なのか、来年1月までの「日経平均」が、その答えを握っている。

ジャワ島「噴火」の次は“トカラ列島噴火”⁉

2021-12-05
インドネシアのジャワ島スメル山で大規模な火山噴火が起こった。噴煙が1万5000m上空まで達したというから大規模な噴火である。インドネシアやフィリピンの島国は多数の火山を抱える。火山噴火や地震は避けようがない。日本列島もその系列に入る。鹿児島県に属するトカラ列島では火山性の地震が半日で50回以上続いている。地震でも噴火でもそうだが、大規模なものが起こると、それに関連した領域でも何らかの地殻変動が生じる。ここ数日、日本列島にもちょっとした地震が続いているが、トカラ列島のような“小さな島”がいちばん海底からの突破口として選ばれやすい。何しろ「地球」生命体は、このところ“動き”が活発化している。われわれは“生き物”としての「地球」を軽視し過ぎていたから、さまざまな“動き”に慌てふためく。世の中には「動物保護」を異様なほど訴える人が居るが、それよりも“生命体としての地球”のことをもっと心配した方が良い。近年の地球は、あきらかに“荒れて”いるのだ。一時期のような“おだやかな地球”ではなくなりつつある。古代の人々は「地球」というよりも「大自然」に対して“畏敬の念”を抱き、それを「神」とも崇めて、何事によらず“神からの言葉”に耳を澄まして、その意向に沿う形で物事を行った。いつの頃からか、人間は“地球生命体”を征服してしまったかのような錯覚を持った。その頃から「地球」は牙を剥き出すように変わったのだ。だから大地震が起こったり、大津波がやってきたり、大規模な森林火災が起こったり、集中豪雨が起こったり、土砂崩れが起こったり、火山噴火が起こったり……次々と自然災害が襲ってくる。さらに、疫病としての感染症が蔓延したりもする。もちろん現代人は、古代の人々のように、ただ単に怖れおののいて、神に対して祈りを捧げればよい、というものではない。古代の人々は「大自然との共存」を願った。けっして「大自然の征服」ではなかった。「怒れる地球」を収めるためには“征服”する意識での研究ではなく“共存”していくための研究開発でなければならない。地球科学が“イルカと遊ぶ少年”のような意識で「地球」と仲良く出来るようになれば、もっと暮らしやすい“自然環境”を地球生命体はわれわれに与えてくれるのではないだろうか。

胎児「生きる自由」「拒否する自由」の対立⁉

2021-12-04
アメリカは一応「自由の国」である。だから“どっちの自由”を優先するかでときどき揉める。今回の場合、宗教や思想も絡んでいるので、なかなかに難しい。大雑把に言えば“リベラル派”と呼ばれる人たちは「妊娠中絶の権利」を主張し、“保守派”と呼ばれる人たちは「自然の摂理に反する中絶」の撤廃を求める。別の言い方をすれば、中絶は妊娠した胎児を“拒否する自由”を求めているのであり、中絶反対は妊娠した胎児の“生きる自由”を求めている、ともいえる。これまでのアメリカでは“拒否する自由”の方が受け入れられてきて、50年前から「中絶は憲法によって保障された権利である」とされてきた。けれども、最近は“リベラル派”の思想が徐々に浸透し、一部の州では「妊娠15週以降の中絶を禁止する」と定めるところまで出て来た。これまでは“24週までの中絶を認めていた”州が多かったが、今後は「条件付き15週まで」に切り替えられていく可能性が出て来た。アメリカ人というと、われわれは何でも合理的に捉えがちに思うが、信仰心の強い家族は“自然の摂理”というものを大切にする。そういう人達は“中絶”というものを根本的に認めていない。一方、現代アメリカを代表する自由主義者は“胎児”の前に“自分たちの自由”を主張する。胎児の“生きようとする自由”の前に“拒否する自由”を優先するのだ。こうして、真っ二つに分かれての論争に裁判所が決着をつけようとしている。ところで日本の場合には妊娠22週未満の母体であれば“中絶”は認められている。アメリカは24週までなので、この2週の違いは何なのか、私には判らない。初期妊娠として12週までは“掻爬”する形が日本だが、アメリカは15週まで“初期”として扱う。妊婦の体力的な“差”の問題なのか。とにかく、アメリカでも日本でも「未入籍の子供」が多くなりつつあり、そっちの方が問題ではないかと私などは思うのだが、いったい神様は、どうやって子供の配分を天使たちに指示しているのか…。いや「天使」などというものは、そもそもいなくて、妊娠中に亡くなった「生きる自由」を与えられなかった霊たちが、寂しそうに故郷を見つめている……。

激やせ33㌔で仕事に没頭する浅丘氏の役者魂

2021-12-03
人間、或る程度の年齢になれば、仕事への意欲というものが薄れて来るのが普通だ。ところが、そうなりにくい職業というものもある。例えば「役者」だ。昨日、心不全で亡くなられたことが明かされた中村吉右衛門氏(77歳)も死の直前まで舞台に立ち、先日公開された映画で主役を務めた加賀まりこ氏(77歳)も、新たな役柄に意欲的だった。そして今回は“殺人犯役”ということで意欲的に“役作り”に没頭しているのが浅丘ルリ子氏(81歳)だ。彼女の場合、通常38キロの体重が33㌔にまで激減、周囲が心配するほどの熱の入れようなのだ。大昔から「浅丘ルリ子」と言えば“華やかな雰囲気の美人女優”として第一線を歩み続けてきた。若い頃から“おばさん役”を演じてきた樹木希林氏などとは対極にいる人物だ。その浅丘氏が80を過ぎて初の“殺人犯役”に没頭している。通常なら“尻込み”してしまいそうな役どころだが、もしかすると“自閉症児の母”を演じた加賀まりこ氏への対抗心もあったからか、かつての「浅丘ルリ子」を封印したかのように“殺人犯”としてふるまう。そこに、この女優の“役者魂”のようなものが垣間見れる。人は、或る程度の立場とか地位とか名誉とか、そういうものを手に入れると、その後は“無難”に生きようとしがちである。けれども「役者」という職業は、最後まで監督に指示され、ダメ出しを受けながら、仕事をしなければならない。ましてや“殺人犯役”など、衣裳にしても良い物は与えられず、顔だって美貌は封印される。演技とはいえ、小突かれたり、睨まれたり、忌み嫌われたりする。そういう役柄を、まるで修行僧でもあるかのように、耐え忍んで応じていくのだ。よほどの覚悟がない限り、出来るものではない。もっとも視る側からすれば、いくら浅丘氏といえども、美しく優雅な雰囲気では“殺人犯”には視えない。何かしら毒々しいものを感じさせられなければ、役者として失格なのだ。どんなに大御所であろうと、視る者に対して役柄との間に“違和感”を抱かせてしまったなら、何十年間もの仕事が無意味になる。ただ単に美人顔だった“大根役者”と評価される。それでは彼女のプライドが許さないのだろう。33㌔というのはちょっと心配だが、年輪を重ねなければ見せられない“独自の境地”をぜひ開拓してほしいものだ。

“神の怒り”表す⁉海上に「燃える眼」が出現‼

2021-12-02
かつてアメリカで9.11の事件が起こった時、その報道写真の中に「悪魔の顔」を連想させる象形が出現したことがある。丁度、心霊写真のような感じで、炎と共に充満する黒煙が“その象形”を形作ったのだ。似たような現象は例えば昔、阿含宗の祭りで白雲と白煙とで“龍の象形”が形づくられた写真にも観たことがある。もちろん昔の“人面魚”にしてもそうだが、単なる“偶然の結果”なのかもしれない。そうかもしれないが、そうではないかもしれない。私は昔「占いハウス」に出ていた時、いつからか“私の部屋の扉”だけに、大きな顔面が出現するようになった。やや斜め寄りの角度で描かれたような顔面で、なんとなくだが頭上に冠のようなものを被った若き男性のように私には視えた。その占いハウスの扉は普通の板材に、ビロードに似た毛先の長い布地を貼り付けた扉で、そういう素材なので“心霊写真的な画像”が見えやすいのかもしれなかった。もっとも、それが出現したからと言って、特別、何かが起こったということもない。それに私には視えていたが、もしかすると私だけだと嫌なので、あまり話さなかった。さて、海外のニュースでメキシコ湾近くの石油掘削施設で海中火災が起こり、それが海上にまで炎が出現し燃え盛っている。石油掘削施設なので、いったん火が点いたら簡単には消火できない。奇妙なもので海上に燃え上がる炎は何故か丸くなる。そして、その周囲に白く尾を引く。その象形が斜め上空から見ると「燃える眼」に視えるのだ。めらめら炎を立ち昇らせる「燃える眼」に視えるのだ。確か“この眼”を、私は視たことがある。大昔TVで「巨人の星」をアニメで観ていた時、主人公の星飛雄馬が相手打者に対して闘魂を傾けた時、その虹彩の中にめらめらと“燃える炎”が描かれていた。あの時の眼だ。けれども、どうしてメキシコ湾なんかに「燃える眼」が出現するのか。最近ではスペイン領のラパルマ島のクンブレビエハ火山の噴火によって溶岩流が流れ出し、地元協会のすぐそばまで迫っている。どうも、地球生命体は何かにお怒りのようで、誰か“怒り”を沈めてあげないと、優れた呪術師はどこへ行った……⁉ 

2021年12月の運勢

2021-12-01

昭和がすべて詰まっている「神田川」の歌詞

2021-12-01
私は歌謡曲の歌詞の中で“好き”“嫌い”で「1曲だけ択べ」と言われたなら、迷うことなく「神田川」を択ぶ。それくらい、この曲の歌詞が大好きだ。その作詞家であった喜多條忠氏が亡くなった。“昭和の日本人”をすべて凝縮したような歌詞が「神田川」だった。私は昔、日刊スポーツ新聞社が公募した「北海道作詞大賞」というものに応募して大賞を受賞した。その前後に別な作品で「日本作詞大賞」の「新人賞」にノミネートされた。その関係者から勧められ“新人作詞家の登竜門”と呼ばれる歌詞募集に応募した。作品の優秀者にはプロの作詞家が添削してくれるというのが魅力だった。その時に、私の作品を添削してくれたのが喜多條忠氏であった。私の作品に対して《作詞そのものは良いのですが、この作品は暗くて救いがありません》と書かれてあった。確かに、その通りだった。つまり彼は「歌謡曲はどこかに救いがなければいけない」というのだ。私は、その時、喜多條氏の「神田川」だって暗くて救いがないではないか…と内心思ったのだが、よくよく考えると、そんなことはなかった。あの歌詞には「♬若かったあの頃」と出て来る。「いま」を歌った歌詞ではないのだ。いまは多分、それなりの暮しとなった人物が、学生時代を振り返っている。だから「♬何も怖くなかった」のだ。私は自分の弱点を突かれた気になった。そうして「作詞家はムリかな」と思ったのだ。正直、ほんとうに無理だったかどうかは判らない。けれども私はその後に占い師となって、その「占い」でもそうなのだが、自分の占いが“救い”という点では、やや“劣っている”かもしれない、と思うのだ。「神田川」の歌詞は、つい“若いふたりの歌”と思いがちなのだが、実際には“何もなかった時代”を懐かしんでいる二人の歌で、懐かしんでいるからこそ“美しい”のだ。もし、あの歌が“50代半ば”とかで、今の心境とかで書かれていたなら、けっして“美しい”ものにはならない。こんなことを書いてはいけないが、50代半ばで“風呂のない四畳半”に二人で住むなど、ろくな者ではない。私はだから情緒性や共感性が強すぎるのか、そういう“昭和的なセピア色の情景”に感動しやすい。それにしても、今の大学生なども、或る意味ではここ数年“似たような状況”にあるような気がするのだが、その割には「神田川」のような情緒性豊かな曲が生れない。日本人の何が変わったのか。下手くそな踊りを組み合わせなければ、情感・情緒を表現できないようになってしまったのは何故だろう。 Newer Entries »