8月, 2022年
2022-08-07
70年代から80年代にかけて、或る意味で日本をリードしていた人物の一人が「アントニオ猪木」だった。その猪木氏が病魔と“闘う”ようになって何年もになる。一時的には極端に痩せ細って別人のようになり、だれもがもうダメか……と思ったものだが、そこから立ち上がっていくのが“燃える闘魂”らしい部分だ。昨日、久しぶりTVにビデオ出演したらしい。痩せ衰えていた時期に比べれば、一応元気だが「病魔」との闘いは続いている。彼が“もう死にそうな時”に、私は「運気的にはまだ死期ではない」と断言した。正直、内心では「もうダメだろう」と思っていた。だから「運気的には…」と付けておいた。まあ“気休め”のようなものである。ところが“死神”のような姿から実際に猪木氏は蘇えった。そういう時、私は改めて“人間の星”を感じる。やはり“星の力”には、人間は勝てない。この場合なら、星の力があれば、人間は死なないのだ。ただ“世界中の強豪”と戦ってきた猪木氏も、どう出て来るかわからない「病魔」との闘いは難しいらしく、未だに苦戦し続けている。それでもプロレスラーに短命な人が多い事実から考えると、この人は長命である。観相学的にいうと、この人は法令線がクッキリと長い。一時期に比べれば“薄れてしまった”が、本来の法令線は大変クッキリとして長かった。法令線は一名「寿帯」とも言って、寿命の長さにも関係がある。より厳密に言えば、その人の“仕事寿命”と関係が深い。つまり、齢を取っても第一線で働き続けなければならない人は、本質的に長くクッキリ刻まれることになっている。そういう点から言うと、猪木氏が自らの「カッコ悪さもさらけ出して生きていくのが、今の自分の役割……仕事である」というふうに悟っているのがたいへんに良い。寿帯を活かす意味で大変に良いのだ。つまり、猪木氏自身が“現在の姿”を曝け出すことが“いまの自分の職務である”と意識している限り、寿帯は彼を死なせない。これは一般の方でも同様なので、法令線がクッキリ長い方は、基本的に“自分の役割”“自分の使命”“自分の職務”を果たし続けている限り、そう簡単には死なないのだ。法令線のクッキリと長くない方、法令線そのものが存在していない方、こういう方は大きな病気に掛かるとあっさりと死ぬ。特に、これまで健康であまり病気をしてこなかったような方の場合、予期せぬ形から大きな病気に掛かると、これまでの健康がウソのようにあっさりと死んでいく……。
2022-08-06
世の中には「超一流の技術者」がたくさんいる。けれども、その多くの方々は“無名”である。特に著名な芸術作品と呼ばれるものの“精巧な複製品”を作ることは、よほどの“腕(技術)”がなければ出来ない。但し、芸術作品の複製品は許可がなければ基本的に“制作”も“販売”も出来ない。「著作権法」と呼ばれる法律が、許可なく複製することを禁じているからだ。昨日、この著作権法に問われた裁判が東京地裁で行われ、被告の版画工房経営・北畑雅史に対して判決が下され、懲役2年、執行猶予3年、罰金100万円という判決が出された。つまり、被告人は有名な東山魁夷氏の「白馬の森」など5作品の贋作(偽物の複製品)を画商に頼まれて制作した。元々被告は版画工房を経営しているくらいだから、贋作が禁じられていることは百も承知のはずだった。ただ元画商から、その“腕(技術)”を見込まれ依頼されて、断る勇気を持たずに制作してしまったのではないか、と私は推察する。優れた技術者は、往々にしてその“腕”を見込まれて作品を依頼されると、断れないことが多い。なぜなら画商という“目利きのプロ”が自分の技術を高く評価している証だからだ。「白馬の森」という作品は東山魁夷氏の作品の中でも、特に幻想的で美しい。画家や版画家なら、だれでもが「こういう作品を遺したい」と思うような作品なのだ。また芸術を愛する人達なら、自分が夢のある家を建てたなら、落ち着く部屋の壁に「ぜひ飾っておきたい」と思うような作品なのだ。つまり、作品の芸術的な良し悪しとは別に、無条件に視る者に“ロマンと安らぎ”を与える不思議な作品なのだ。もしかすると、贋作者は“違法な依頼”なのではないか、と疑いながらも、その一方で純粋にこういう作品を模写する悦びを味わっていたのではないか。相当長期間にわたって行っていたらしいので、つまり、多くの購入者は“疑うことなく購入している”ので、ただ単に技術が優れていただけでなく、ホンモノだけが持つ“趣き”さえも表していた部分があったのかもしれない。ただ描かれた白馬に潜む“或る種の哀しさ”だけが、贋作であることを物語っていた……。
2022-08-05
昨日8月4日は“旧暦→太陰太陽暦”では「7月7日」に相当する。つまり“ほんとうの七夕”なのだ。日本では現在の“太陽暦”における「七夕」を重視する人々はいるが、天文学的には旧暦の方が、神話伝説としての「織姫と彦星の会合現象」を感じさせる。だから日本でも太陽暦の7月7日ではなく、8月7日に変更して“七夕行事”を行っている地域もある。まあ、旧暦でなければどっちにしろ“符合”しないのだが…。ともかく、そういうことで「愛する人同士が結ばれる日」としての威力は未だ衰えてはいない。その神話伝説にあやかろうとするのが、中国における“合同結婚式”である。われわれはどうも「合同結婚式」というと旧統一教会が行うところの“結婚式”のイメージが根強く、あまり良いイメージとして捉えている人は少ない。けれども、一時期流行った“集団お見合い”と同じような感覚で、どちらかと言えば“最高のプレゼント”としての意味合いを持って行われるのが中国における“合同結婚式”なのだ。ということで、昨日も中国の重慶市の三峡恒合観光リゾート区で30組が参加した“ロマンチスト組”の方の「合同結婚式」が行われた。中国人はどういうものか、この種のことを“全員が同じ形式”で行いたがる。だから宗教的な意味合いからではなく、全員が同一の結婚式ファッションだ。多分、真夏だからか男性はタキシードではなく、半袖の真っ白いシャツ姿。女性の方は真っ白のウエディングドレス姿だ。全員が並んだ背景には「愛の証明」という文字が記されている。どうしてこんな文字が書かれるのかというと、中国では七夕に男性から女性にプレゼントを贈る習慣があり、その最高のプレゼントが「プロポーズ&結婚式」だということになる。文字通り「愛の証明」を、そういう形で行いたがる。“合同結婚式”というのが、“永遠の愛”の証明になるのかどうか、何とも理解に苦しむところだが、一つだけハッキリしているのは、中国の男女というのは総じてロマンチストだという点である。それに大昔からの“神話伝説”を信じようとする傾向が強い。まあ、旧統一教会の“教え”を信じ込むよりも好いとは思うのだが、そういう国が、一方では弾道弾ミサイル5発を撃ち込んでくるという、何とも奇妙な“旧七夕”なのだった。
2022-08-04
「運」というものは確かにある。例えば損害保険ジャパンで“企画”を担当していた人々がそれだ。この「コロナお見舞い保険」という商品は、昨年12月から販売を開始した。つまり、ようやく“コロナ”が収束に向かっているような雰囲気が強かったころだ。その頃の見通しとしては、無くなりそうで無くならないが、かといってもう「国内で急拡大することはない」というのが、ほとんどの人達の共通認識だった。だから、この「コロナお見舞い保険」を企画した人達を責めることは出来ない。「運」が悪かっただけなのだ。その時の状況からすれば、無くなりそうで無くならない状態が続いてくれれば、この保険に加入する人はそこそのの割合で継続し、保険の支払いは極めて稀で、その結果として十分に“ヒット商品”となる、と踏んでいたに違いないのだ。或る意味で「地震保険」とか「火災保険」と同様な“万一の備え”として客に奨められる保険の“代表的存在”となるはずだった。ところが、今年に入って春頃から徐々に“新株コロナ”が猛威を振るい始めた。そして急拡大となっていく。コロナ保険は、最初“3か月間で500円”というまことにお安い価格だった。しかもスマホ決済アプリ“ペイペイ”を通じて支払うことが出来る。若い人たちに気安く入ってもらうためには“適切な価格”であり“適切な方法”でもあった。しかも、支払われる保険金は“5万円”なのだ。見舞金という名目だが、500円が50000円になる。若い人の多くは“無症状”の場合も多い。したがって検査して陽性なら“大喜び”できる。意外なほど反響は大きかった。つまり、本来であれば“大ヒット商品”と言えた。けれども新株コロナの威力は予想以上であった。もちろん、保険金であるから、極端に増えてしまったら採算が取れない。こうして、最初500円だった保険料は3倍の1500円に引き上げられた。ところが、それでも加入者は後を絶たない。仕方がなく、今度は保険金を5万円から2万円へと引き下げた。それでも加入者が後を絶たない。こうして、とうとう8月4日から「コロナ保険」は販売停止となる。
2022-08-03
ほとんどの人は気付いていないが、ここ2週間ほど、激しく上下を繰り返している金融市場がある。“ドル円相場”の為替市場と、“原油相場”の先物市場だ。この二つは或る種の共通性と連動性があり、どちらかが大きく動く時には、もう一方も大きく動く。そして現在、その両方ともに連日激しく動いているのだ。平常時“ドル円相場”などは、そんなに大きく動くものではない。動くと言っても、一日のうちに“何銭”とか“何十銭”とか、その程度の動きが“本来の動き”なのである。これは“原油先物”も同様で、通常は1バレル90.0ドル~90.5ドルと言ったような“微かな動き”であるのが普通なのだ。ところが、このところの“ドル円相場”も“原油先物”も、上に行ったり、下に行ったり、ほんとうに落ち着きがない。それも微量に動くのではなく、大きく上下する。どうして、こういう風なことになってしまったのかというと、世界経済の“先行き”が誰にも見通せなくなっているからだ。そういう時には“仕掛け”的に大儲けをたくらむヘッジファンドなどに金融市場が振り回される。だから、ついこの間まで「ワルい円安だ‼」「ワルい円安だ‼」と騒いでいた人達がいっせいに押し黙った。それも、そのはず数日間のうちに1ドル=139円だったドル円相場が、昨日は1ドル=130円まで急騰したからだ。今日はまた逆方向に動いていて132円~133円となっている。何度も言うように、こんなに大きく動くケースは滅多にない。原油の方だって、今日は再び94ドルから96ドル辺りを窺っている。一時的には1バレル=110ドルを超していた原油先物は、一時的には90ドルを下回るほど下落し、それからまた急上昇へと転じている。だが基本的には、この「ドル円相場」も「原油先物」も方向性は同じで、ドルが上昇すれば原油が高くなるのが本来の姿で、一時的にというか仕掛け的にというか激しく上下しても、やがては徐々に本来の姿を取り戻す。ただ、上がるにしろ、下がるにしろ、極端なのは世界経済にとって良くない。ドルも原油も、徐々に徐々に“緩やかなカーブを描いて”上昇していくのが良いので、一気に動くと、上でも下でも必ず世界の経済にも、政治にも、そして何よりも人々の暮らしに“大いなる嘆き”を生み出す。
2022-08-02
人は、忘れる。特に、私の場合は、忘れやすい。だから20数年前のことなど、憶えているはずがない。ここ最近、或る事情があって、クローゼットの中に仕舞ってある“各種資料”などの処分や整理を始めた。そうするとさまざまな“忘れていたもの”に出逢う。昔の仕事上の記録とか印刷物とか手紙類とか切り抜きとか原稿とか写真とか、その他もろもろだが、その中に娘からもらった“紙で作ったお人形”が出て来た。そのお人形に「うらない、がんばってね」というのと「あまり あさはやく おきないでね」というのがあった。おそらく、私の誕生日とか、クリスマスとか、父の日とか、そういった何かの日に、娘から、紙で作った私の“お人形”と一緒に、メッセージ的に伝えたい言葉を書いたものに違いなかった。この文字や人形の出来から考えて、小学校2~3年生の頃だと思われる。だが私に“それ”を貰った記憶がない。しかも、その内容が「あまり あさはやく おきないでね」というのは、どういう意図からなのか。もしかして、私の健康を気遣っていてくれていたのだろうか。娘とは違った部屋に寝ていたから、私が何時に起き出すのかを、娘が知っているはずがない。娘自身も、早起きで、まず自分の目が覚めると、いちばんに私の部屋へとやって来たものだ。もちろん、その時点ではだれも起きていなかったので、私の起き出す時間を知っていたとも思えない。もしかすると誰かが、例えばお義母さんとかが、娘に私のことを“そういう風な形”で話していたのだろうか。最初の妻は“寝坊の代表選手”だったので、私がいつ起き出すかを知らないはずなのだ。とにかく、私は自分があの頃、何時ころから起き出していたのか正確な記憶がないが、今よりもはるかに“遅く”起き出していたことは間違いがなく、そんなに極端に早かったとも思えないのだが……。まあ一般の方達からすれば早いのだが。ともかく、その“謎のお人形”を私にくれた娘はどうしているものか。いまでは全く音沙汰がない。まあ、運動会の時に独りだけ“ゴミ拾い”をしていた娘なので“危ない道に進んでいく”心配だけはまったくなく、その点は安心なのだが…。年齢的には今年は31歳になっているはずで、私の勘では“早くに結婚する”とは思えないので、やがて結婚でもするときには連絡が来るだろうか。それとも、結婚しても、出産しても、母親が亡くなっても、何一つ連絡しないで“他人の関係”を貫いて終わるのだろうか。
2022-08-01
2022-08-01
近年、右肩上がりで急速に増えてきている“病気⁉”がある。それが「発達障害」だ。ちなみに、何となくは誰でも知っているが、発達障害を正確に知っている方は意外に少ないかもしれない。発達障害とは、幼児や幼少の頃から、その行動や情緒に“特異性がみられる”状態が継続していることで、自閉症、アスペルガー症候群、学習障害、注意欠落多動性障害などの“脳機能障害”全般が含まれる。このうち自閉症や学習障害のように、あきらかに集団学習上、問題のある場合を別とすれば“大いなる個性”や“変わった考え方”として、学校側が受け入れても問題なさそうな子供たちも多い。集団生活の中で“ちょっと変な奴”はどこにでもいる。それらを最初から「適切な治療が必要です」として良いのだろうか。しかもその中には或る種の分野で“天才的な才能”を秘めている子供たちもいる。集団生活は苦手だが、自分が興味を持つ分野でなら誰よりも熱心に学習する。そういう子供たちも含めて「発達障害」の“枠”の中に放り込んで良いのだろうか。「発達障害児」の見極め方の中には、“集団の中では浮いてしまう”とか、“齢相応の羞恥心が乏しい”とか、“他人との関わり方が解からない”とか、“相手や状況による会話が出来ない”というようなものまである。このうちのほとんどが幼い頃、3歳~8歳くらいまでの私自身に当て嵌まる。そうだとすれば、昔は発達障害児がいなかったのではなく、居ても特別視をせず、普通に授業に参加させていたような気がする。もちろん、医師からそのような診断を受けた記憶もない。それに、私自身だけでなく、周りにも何人か“そのような子”は居たような気がするのだ。だからといって“教える方”も“学ぶ方”も影響を受けることはなく、それによって集団が乱され、授業が困難になるとは、考えていなかったような気がする。だから本来は必ずしも区別する必要などないのだ。もしかすると学校が“荒れた90年代”に暴徒化する児童たちが表れ、授業を正常化する一環として医学や心理学の面から“集団不適応”として取り入れられた“病気⁉”かもしれない。もっとも、その結果として現代は急速に“不登校児”が増えている。もう少し「学校」の“枠”を緩めてやらないと、発達障害児ばかりが増え、集団に適合できない不登校児が増えていく。
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