8月, 2019年

“愛が強すぎない”と「結婚」は続く⁉

2019-08-31

タレントの神田うの氏がTV「5時に夢中!」に出演し、歌手の中尾ミエ氏から「よくもっているわね、結婚生活」と問われ「そうなんですよ、そうなのよ」と応じる場面があったらしい。「みんなから絶対1年もたないだろうといわれ、自分でもどうかなと思ったんだけど、もう12周年」中々に正直な反応を示したらしい。確かに、本人も驚くような“長期的な結婚生活”が続いている。相手は会社経営者ではあるが、有名人でも、芸能人でも、スポーツ選手でもなかったことが“長続き”している一因かもしれない。それから、もっと大きいのは双方ともに“愛情が強すぎなかった”ことだ。神田うの氏はそれまで何人かの有名人と“派手な恋愛”をしてきた。私の記憶が正しければ、ちょっと恋愛に疲れた時に、配偶者となる彼はするすると出現して「結婚」を申し込んだのだ。だから彼女はそれを受け入れた。「愛情」から受け入れたのではなく「癒されるおうち」が欲しかったのに違いない。夫となった配偶者の方も、神田うの氏“ひとすじ”だったのかと言えばそうでもないらしい。一部週刊誌などでは結婚後に“夜の女性達”を連れ立った姿などが報道されている。けれども、二人は何度も「結婚式(或いはウエディングドレス姿)」を披露しながら、危機を乗り切り、結婚生活を継続させた。そして子供を得たことによって「母親の姿」に変わっていった。本当は一度で良い“結婚式”を何度も挙げたのは“デザイナー”としての職業意識もあったと思うが、そういう形でしか「愛」を確認できないからでもあった。けれども、そういう“壊れやすい愛情”で繋がっていたことが、逆に「結婚生活」には良かったのだ。それは何よりも“期待し過ぎない”からだ。愛情は、あまりに“期待しすぎる”と、それが崩れ去った時、立ち直れなくなる。互いに“愛情いっぱい”で結ばれた夫婦は、ちょっとした“亀裂”から修正不可能となって別れていく。そういうケースがあまりに多い。何となくのタイミングから“適度な愛情”で結ばれた夫婦は長持ちする。愛情いっぱいだと“許せない”ことも、それほど相手に期待していなければ“許せてしまう”からだ。お見合いで結ばれた夫婦が、恋愛で結ばれた夫婦よりも“そこそこの愛情”で長続きしているケースは無数にある。「100点満点」の夫や妻などいるわけがない。最初から「70点」くらいの夫や妻を求めた方が、長期的に“幸せな結婚生活”が送れるのだ。

“苦労知らず”ではない「梟(ふくろう)の神」

2019-08-30

高田延彦氏と向井亜紀氏と言えば今から19年前、夫人に妊娠と子宮頸がんが同時に発覚、子宮全摘出手術を受け、胎児も喪った。その後、代理母出産を試み、2度失敗したが3度目で成功、2003年11月、アメリカ女性代理母シンディ氏によって双子が出産された。こうして高田夫妻は「万里&結太」の両親となったのだが、日本の法律では“国籍”を得ることが出来ず「日本在住のアメリカ人」という奇妙な形の“我が子”となった。私は知らなかったが、最高裁にまで持ち込んで争ったようである。その後、高田夫妻は2009年に「特別養子縁組」の形をとったらしい。ところが、そうまでして“自分たちの子供”にしたお二人であったが、子供達が中2のサマーサークルでアメリカに行ってから気持ちに変化が生じ、双子の子たちは、二人とも途中からアメリカの学校を希望して編入する形となった。こうして高田ご夫妻は、それまで暮らしていた豪邸を売り払ったという。「万里&結太」二人の今後に関しては、アメリカの高校を出て後どうするかについては決めていないらしい。広い豪邸が売り払われたのは「おそらく戻らないだろう」という高田夫妻の予感があってのことだろう。このように経緯を追ったのは、人間の「運命」の本質を知ってほしいからである。確かに、アメリカに行こうと、国籍がどうなろうと、自分たちが“育てた子”であることは間違いがない。けれども、病気によって“子宮と胎児”を同時に喪った向井亜紀氏は、やはり「運命」として“子供”は離れていってしまう人生だったのだ。どんなに努力しても、財産を投じても、愛情を注いでも、子供は離れていってしまう人生が予告されていたのだ。彼女の四柱推命式には、その年干・月干に「梟神」が並んでいる。日本では「偏印(へんいん)」と呼ばれることが多い「梟神(きょうじん)」を、私があえて「梟神」と呼ぶのは、それが「ふくろう」を意味していて、その梟は“自ら産んだ子を食べてしまう”習性を持っているからだ。よく日本では「不苦労」の意として“幸運神”のような意味合いで、梟が飾られたりするが、推命学的には“子を食べてしまう”意味合いの方が符合しているのだ。したがって命式中で「梟神」が強い場合、どうしても“子供縁”が乏しくなる。そして、無理に子供を得た場合には、その子供によって“食い尽くされてしまう”ので財産は失われる。或いは“苦労し続ける”ことになって、正に「不苦労」とは正反対の現象が生ずる家となってしまうのだ。

「クマ」&「人間」どっちが大切…という問題⁉

2019-08-29

何の問題でもそうなのだが、自分に直接かかわらないことに関しては“外野席の人間たち”は勝手なことを言うものである。特に、昨今のように「動物愛護」の精神が異常に発達した人達が多くなってきた社会において、動物を殺害する行為は非人道的と非難されることが多い。けれども、同じ動物でも人間に対して直接被害を与える動物は“排除すべき存在”ということになる。これは自然界を生きていくものとしては当たり前の行為で、そうやって人類は進化し、今日まで生き延びてきたのだ。8月14日に札幌市は市内の住宅街に出没するヒグマ一頭を射殺した。ところが、それに対して「射殺などせず、山に還すべきだ」という意見が多数寄せられたそうだ。しかも、その意見を投稿してきた人のほとんどは道外の人たちであった。ところが、クマの出没はその後も続々と報告されていて、昨日朝には市内の地下鉄駅から200m付近で道路を横断する姿が目撃されている。「山」とか「畑」とかではなくて、住宅街の真っただ中である。ややオーバーに言えば、クマは山から下り始めているのだ。先日放映されたニュース番組では車に乗ったカメラマンの5メートルほど前の住宅の周囲をゆっくり嗅ぎまわってから、何台もの車の横を通り抜けて道路を横断し、草藪へと降りて行った。さすがに車に向かって突進はしないが、もし何頭も一緒であれば車内部の人間を目掛けて襲ってくる可能性もないではない。この地域は、元々は農家の畑だったところで、それが廃業となり、住宅地として建物が立ち並び、道路が整備された。したがって、動物愛護の人達から見れば、人間の居住区が山側に進出し過ぎたことが、クマが住宅地までやってくるように変わった根本原因だということになる。それはそうなのかもしれないが、だからと言って住宅街に頻繁に出没するクマを放ってはおけない。大体、その地域の人達は怖くて外出もままならなくなってきている。その付近には現在数十頭のクマが生息していると推定されている。これらが徐々に住宅街に向かうのは時間の問題なのだ。実は何度か「生け捕り」も試みられたのだが、上手くいかなかった。長期的な対策はいろいろあるかもしれないが、小中学校が近い地域にも出没し始めている以上、早急に駆除していく以外方法はない。そうでなければ、必ず犠牲者が出る。犠牲者が出てからでは遅いのだ。アイヌ民族の「神」でもあったヒグマを射殺するのは、本当は避けたい。けれども一刻の余裕もない状態で「山に還せ」と言っても無理な話で、いくら道外から“反対意見”が寄せられたとしても、まずは「人命優先」で取り組むのが“筋”というものであろう。「クマ」は「くまモン」と違って、言葉が通じないのだ。

“性の多様性”より“個性尊重”が教育に重要

2019-08-28

世の中では“さまざまな生き方(LGBT)”をする人が増えて来たことで、それに合わせて小中学校の教育現場でも「性の多様性」をどう教えていくかが緊急の“課題”となっているらしい。それはそれで必要なのかもしれないが、私にはもっと総括的な「それぞれの個性を尊重する」ということを学校教育として、幼い頃からもっと教えていくことが重要な時代になってきていると思うのだ。それが広く行き渡らない限り「イジメ」も「偏見」も無くならない。「それぞれの個性を尊重する」という考え方が、幼い頃からしっかりと根付くことで、どういう外見であるとか、どういう性格であるとか、言葉や習慣が違うとか、子供にとって“違和感”を抱きやすい部分があったとしても、それはそれとして受け入れる意識が自然に育まれていくと思うからだ。教育現場において、公平性を保とうとしすぎて「みんな一緒」的な考えを強調しすぎると、そこから“外れる部分”がある子供を「仲間」として認めない気持ちが無意識に生じてきてしまう。それは本能のようなものだ。現代の「イジメ」や「偏見」には、そういう“違和感”から発生するものも多いように思う。「それぞれの個性を尊重する」という考え方が幼い頃から広く行き渡れば、何となく違和感ある人種的ハーフの子、障害児の子、先天的なLGBTの子であっても、すんなり「仲間」として受け入れられるようになるはずだ。外見的な違いも、言葉の不足も、行動の特異性も、雰囲気的な異様さも、誰もが「変だけど多分それも個性なんだよね」と幼い心で納得する。この“納得する”ということが、実は人が人を受け入れるためにはとても重要なのだ。動物の世界だってそうである。「仲間」として納得したものだけが受け入れられる。人間も元々は“本能的な嗅覚”によってそれを嗅ぎ分けている。だから“仲間はずれ”を意図的に行うのは、本能的な“違和感”があるからなのだ。けれども、それを幼い頃から正すのが教育である。今は「みんな一緒」という教育の仕方をしがちである。ところが、そうすると「一緒じゃない人」が出てくる。だから、それを排除するためイジメや無視が生まれてしまうのだ。それを「個性の尊重」に変えることで、違っているけど仲間なんだ、という捉え方に変化する。そうすると、みんなが納得したうえで「仲間」が増えていくのだ。本当は「国」同士にも、この方式が通じると良いのだが…。

才能開花には「忍耐強さ」も重要

2019-08-27

犠牲者35人を出した「京都アニメーション放火殺人事件」の容疑者である青葉真司(41歳)が、大賞を受賞するとアニメ化と文庫化とが約束される「京都アニメーション大賞」に対し、複数の小説を応募していたことが明らかになった。彼が犯行当初に「俺の作品がパクられた」と喚いていたことが、これで繋がる。つまり、彼は自分の応募した小説は選外となったが、自分が書いた作品のストーリーとかキャラクターの一部が「京アニ」作品において“勝手に使用されている”と捉えて、そのことで“恨みを抱いていた”可能性が強いということである。単に自分が“選外”にされたから恨んだのではなく、その“選外にした作品”を勝手に使用したことが許せなかったのだ。こう考えると、それなりに“筋は通っていて”凶行に及んだ動機も一応理解できることになる。ただ本当に「パクられた」かどうかは大いに疑問である。何しろ「学園もの」のアニメには“似たような作品”が多い。ストーリーにしても、キャラクターにしても、“似たようなもの”だらけが応募してくる。だから、彼の作品から「パクった」というのは、彼自身の“妄想”である可能性が強い。百歩譲って、彼の作品から“パクった”としよう。さて、誰が“パクる”のか。アニメーターの人達は“パクらない”。彼らは、上からの指示に従ってアニメ画像を描くだけである。彼らには“受賞作”を決める権利もなければ、読む機会もない。「京アニ」関係者で、もし、応募作品を読む機会を持つ者がいるとすれば、企画者(社長?)本人とか、企画・制作の部長辺りに限られる。もしかすると、原稿の選考そのものは“外部委託”していた可能性もある。したがって、どう考えても、応募者の“選外作品”から、ストーリーやキャラクターを盗むという行為は余程の事情でも存在しない限り、無意味なような気がするのだ。万が一、関係者が故意にそれを行ったとしても、それを知っているのはその本人のみであろう。つまり、彼が“恨む”べきは、その人物だけで良いので、多くのアニメーターたちまで犠牲にする必要など何もない。それに、彼は大切なことを忘れている。もし、彼が“パクられるほどの才能”を持っているなら、他のところにもどんどん小説を応募すれば良いのだ。そうすれば、必ず、そのうち応募作品は“何かの賞”を受賞するようになる。何の「賞」でもそうだが、こういうものには“運・不運”がつきもので、時にはすぐれた作品が埋もれてしまうこともある。けれども、根気よく書き続けて応募し続けていれば、必ず、認められる作品や時期が出てくる。“才能”には、一気に花開くタイプの人と、徐々に花開いていく人とがいる。また“分野”を変えることで、“環境”を変えることで、急に認められだす人もいる。粘り強く、何年掛かってもあきらめない姿勢でいれば、そのうち、自分でも“コツ”のようなものがつかめる時が来る。焦りは何においても「幸運」を与えてはくれないのだ。

パリでは画家、ロンドンでは漫画家の北斎

2019-08-26

葛飾北斎が“引っ越し魔”だったことはよく知られている。けれども海外に暮らしたという記録はない。北斎が活躍していた頃、まだ日本は鎖国中だったのだから当然である。けれども、北斎は海を渡っていた。正確にいうと“北斎の作品は”というべきか。彼の描いた浮世絵が新聞紙となり、その紙が“陶磁器作品”の包み紙として用いられて、海外に渡ったのだ。よく昔は新聞紙で“壊れやすいもの”を包んで送った。珍しいことではなかった。決して北斎の浮世絵を択んで“包み紙”にしたのではなく、たまたま丁度良い包装紙として使っただけの話である。ところが、その日本から送られた陶磁器の包み紙の絵を「素晴らしい芸術作品だ」と評価したのがパリの銅版画家ブラックモンだった。一流の美術家が惚れ込んだことで、一躍、葛飾北斎の浮世絵はフランスで注目を浴びる。そして、新たなる絵画ブームの“火付け役”となる。彼の作品に影響を受けた“印象派”の巨匠たちこそマネやドガやゴッホやロートレックなのだ。こうして葛飾北斎は、自らは一歩も日本を出ることなく、フランスで“新しい絵画”の生みの親となったのだ。それから150年余り経って、今度はロンドンに居た。2019年5月23日から8月26日まで、つまり今日まで、北斎は「日本漫画の元祖」として、ロンドンの大英博物館の展示室に居る。もちろん彼の漫画作品「鳥獣戯画」としてである。この展示企画は、日本の古典から現代までの漫画作品を、欧米人に理解できるよう50名の作家の70作品の“原画”を取り上げてある。日本の各出版社が全面協力しているので、漫画に付随した“コスプレ”とか“コミケ”とか“アニメ映像”とかも加えられている。また漫画本の“立ち読みコーナー”もあれば、ヒーローとの“撮影コーナー”もあり、原画による“制作過程”の紹介などもある。もちろん、葛飾北斎の漫画はその“元祖”として、“最古作品”として登場している。われわれはどうしても日本の「漫画の元祖」というと手塚治虫氏などを想定しやすいが、そうではなくて葛飾北斎氏なのだ。つまり、北斎は「画家」としても西洋に多大な影響を与えたが、今また「漫画家」として登場し、西洋人に新たな影響を与えようとしている。しかも、日本から一歩も外に出ることもなく、当時は“変人・狂人”のように扱われていた人物なのだ。ちなみに大英博物館の「企画展」として前売り券は飛ぶように売り切れたそうである。

2億円「フランス人形」の“幸せ”

2019-08-25

久しぶりに“整形美女タレント”ヴァニラ氏のインタビュー記事が出ていた。何年か前「フランス人形」に憧れて“美容整形”を繰り返している美女として話題になった。ただ整形を繰り返し過ぎて“美女”から“美女⁉”に変わりつつあるようで若干、心配もしていたが…。そして現在、眼が異様に大きくなって、明らかに“整形のし過ぎ”は続いているようだが、自分の“お店”を持ったことで精神的には多少“ゆとり”が生まれて来ているようにも思えた。これまでに掛かった“整形の総額”は2億円を超えているというが、それでも「フランス人形」には成りきれていないらしい。本当は音楽活動の方で活躍したいようだが、自分のお店を持ったことで全国からヴァニラ氏に憧れる女性達が来てくれるようになり、それが彼女に“生きがい”を与えているようだ。それにしても幼い頃、祖母の家で観た「フランス人形」が彼女の一生を定めた。仮に、今後、整形のし過ぎによって顔や体に異常が出て来たとしても、後悔することはないだろう。人は“憧れ”に魂を奪われると、それに“なる”或いは“近づく”ために一生を捧げる。私だって、十代の時、手相家キロに“憧れ”「こんな占い師になりたい」と、この道に進んだ。百年以上前に活躍した手相家は「キロの前にキロなく、キロの後にキロなし」とまで言われた人物である。驚異的ともいえるような“予言的中エピソード”にあふれている。但し、現代では、その多くが“脚色されたもの”であったと批判されている。占い師の“予言的中話”には、実際、後から脚色されるケースも多いので、どこまで本当だったかはわからない。彼の手相書は世界的なベストセラーとなったのだが、今読むと、特別、優れた内容であるとは言われない。ただ、その当時に多くあった“仰々しい内容”の占い書籍と比べると、簡潔で判りやすく、合理的記述が多かった。それと、彼の本には多数の“著名人の手型”が掲載されていて、それが当時としては新鮮だったに違いない。今と違って、有名な政治家、王侯貴族、映画スター、舞踏家、作家、歌手、プロスポーツ選手などは身近な存在ではなかった。そういった人たちの“手型”は載せているだけで価値があったのだ。人は、人に“憧れ”、自分の一生を“賭ける”ケースも多い。例え、その結果がどうであろうと、一生を託すことが出来る“存在”を持つことは幸せなことである。或る意味で“悔いのない生き方”が出来るからだ。そこに到達できることが“幸せ”なのではなく、追い続ける存在を持つことが“幸せ”だからだ。

インディオが怖れる「黒い雨」が降る

2019-08-24

太古そのままに密林を伴って南米を流れているのがアマゾン川だ。南米の“母なる川”と言っていい。そのアマゾン川で“異変”が起こっている。森林火災が異常発生しているのだ。今年に入ってブラジルで発生した“森林火災”の数は75000件に上る。異常なほど多いのだ。あまりの多さにアマゾナス州では「非常事態宣言」が発令されている。その結果、どうなるのかというとアマゾンから3200キロも離れたサンパウロ上空にまで灰が流れて昼でも暗くなり「黒い雨」が降るのだ。まるで古代インディオの呪術のような「黒い雨」が降るのだ。当然、街はパニックになる。原因は“森林火災”だと解っている。解かってはいるのだが、今のところ手の施しようがない。アマゾンの密林地域だけで“欧州”全体がすっぽりと隠れる“巨大な領域”である。しかも“火災”そのものの原因ははっきりしない。ボウソナロ大統領は記者団から問われて「インディオか、火星人か、一番怪しいのは環境問題にうるさいNGOだ」と発言。猛反発を食らっている。こういう発言の仕方が、いかにも南米の大統領らしい。フランスのマクロン大統領が「G7の緊急課題としてアマゾンの森林火災を取り上げる」と憂慮したのを受けて「未だに植民地的な思考が抜けていない」とこき下ろしている。マクロン大統領は“地球環境の問題”として取り上げるといったのだが、ボウソナロ大領領からすれば「余計なお世話」だということになる。こういうやり取りを見ると、日本の政治家たちのように他国に“気配りを持った発言”など必要ないのかな…という気もしてくる。ただアマゾン川流域には現在でも100万人のインディオたちが暮らしている。自然災害だとしても“森林火災”を放っておくことは出来ない。アマゾン流域の文明というと、われわれはすぐ「マヤ文明」や「インカ文明」を思い浮かべるが、マヤ文明の人々が“焼き畑農業”を行っていたことは有名な事実だ。その結果、やがて土地が枯れていって、せっかく築いた都市を移動させなければならなかったとも言われる。昔、誰かの舞台で「インカ女王の子守歌」というのを聴いた。哀切のある素晴らしい歌唱であったが「黒い雨」の中、きっと天空どこかで“嘆きの歌”を歌われているに違いない。

やがて「香港」は“廃墟”と化すのか⁉

2019-08-23

私が最初に《飲み込まれていく「香港」》というタイトルで、その“危うさ”を書いたのは数年前だ。それから2018年1月15日には《台湾やマカオまで「一つの中国」と言われても…》と不吉な予兆について書いた。さらに今年6月11日には《103万人デモを支持する香港“雨傘運動の女神”周庭氏》という形でも、その“危うさ”を示唆しておいた。まだ日本での報道は小さかった頃だ。そして7月7日にも《「抗議の自殺5人目」が出る(⁉)香港》として、今後の可能性を暗示した。この頃になって、ようやく日本のマスコミは「香港」デモを“大きく扱う”ように変わった。それは“世界”が、そういう報道の仕方に変って来たからで、その“後追い”をし出したに過ぎなかった。いつも思うのだが、何でも「予兆」というものは相当早くから出ているのだが、多くの人は“その部分”を見てもあまり反応しない。もう、取り返しがつかないような状態になって初めて騒ぎ出す。これは一つの「国」というか「街」というか、そのいうものの“変化”=“運命”だが、基本的には個々の人間の“運命”でも同じことである。「予兆」は最初、何でもないことのような形で“小さく表れる”。だから多くの人達は“その変化”に鈍感なのだ。けれども、やがて、その“小さな渦”は徐々に“大きな渦”へと変わっていく。「香港」に話を戻そう。実は数日前、香港の英総領事館員のサイモン・チェン氏が中国政府に拘束された。これは英国に対する“無言の警告”を意味する。どうして、そんなことをするのかというと、中国政府は「香港」の連日のデモや抗議に対して「英国」からのさりげない援助や協力があると睨んでいるからだ。元々“英国領”となっていた期間が長かった「香港」には“英国系の血”を引き継いでいる市民も多い。そういう市民たちに対して、英国居住を促そうとする動きが出てきていることへの“警告”なのだ。けれども、実は香港人たちに“救いの手”を差し伸べているのは「英国」だけではない。同じように「中国」を怖れ、距離を置こうとする「台湾」にも続々と移住しようとする人が出始めている。さらに6月以降、急速に増えだしているのがマレーシアやタイに住居を購入しようとする香港市民たちだ。もちろん、それは“投資用”などではなくて“居住”の為である。つまり、香港の富裕層は直接デモには参加しなくても、着々と“海外逃避”の準備を進めているのだ。このまま長期間の混乱が続くと間違いなく「香港」から富裕層は消えていく。香港の繁栄を支えてきた人達が居なくなってしまうのだ。「中国」が香港を飲み込むことは出来ても、その“実態”は“抜け殻の香港”であり、廃墟と化した街の哀しい姿なのだ。

“7度目”と“4度目”の「愛の終着駅」

2019-08-22

日本人は他の人種に比べて「執念」というものが、それほど強くない。「和食」で“こってり”とか“とことん”とかいう表現はほとんど出て来ない。どちらかと言えば“あっさり”や“さっぱり”を好むのが日本人なのだ。愛情面に関しても、日本人はあきらめが早いというか、程度なところで“妥協・和解”したがる傾向がみられる。だから通常7回も結婚する人はいない。稀に居るかもしれないが、私は知らない。さて、欧米人には時々、何回も結婚し続ける人がいる。アメリカのキャスターとして世界的に知られるラリー・キング氏は御年85歳であるが、現在7度目の結婚生活にピリオドを打とうとしている。85歳で7度目で「もう和解し難い」と裁判所に離婚を申し立てたのだ。これを日本人はどう思うか。少なくとも私は「すごい執着心だな」と感心する以外ない。執着を感じる部分は三つあって、その一つは「愛情」、その一つは「財産」、その一つは「生命」で、その三つ共に対してものすごい執着を抱いているからこその離婚訴訟だと思うのだ。その婦人は現在59歳で、実はこちらも4度目の結婚である。つまり、お二人とも「結婚」が好きなのだ。でなければ、そんなに何回も結婚しない。そして、より結婚に相応しい「愛」を求め続けているに違いない。でなければ、もう85歳なのだから別れるなどと思うはずがない。しかも彼は今年4月に心臓の病気で外科手術を行っている。実はその時に「あと3日の命」と病院の方から宣告を受け、婦人は財産の書類の名義変更などを弁護士に促されて行おうとしたらしい。おそらくだが、そのことが離婚を決断した夫の一番の理由かもしれないのだ。というか、どうして「3日の命」が蘇ってしまったのか。これも生命へのあくなき執着力のなせる業なのに違いない。彼としては、自分がまだ元気でいられるうちに、きちんと離婚してしまわないと、死後の財産がすべて“愛が失われた(?)”妻のものになっていくと恐れたのだろうか。まあ仮に「3日の命」でも、日本人ならそのベッドに“名義書き換え”を迫るようなことはしないと思うが…。つまり、どっちもどっちとでもいうか、日本人には理解しがたい「愛」と「金」と「命」に対するアメリカ人の執着力なのだ。

「令和」が感じられない“即位記念切手”

2019-08-21

意外に気付かないでいた10月からの“切手代値上げ”だが、それを気付かせる意味もあってのことなのかどうか知らないが、10月18日から「天皇陛下即位記念」の新たな切手が発行されることが公表された。昨日、そのデザインがお披露目となったが、正直、う~んと唸ってしまった。あまりにも古めかしい。まあ、天皇即位だから華やかなのが良いというわけではないが、今一つピンとこない。二種あって、10枚シートでは横に縦書きで「天皇陛下御即位記念」の文字が入っている。これは別にこれでも良い。本当は「令和天皇」とすべきのような気もするのだが…。まあ、でも、これは良しとしよう。肝心の切手デザインの方は、その一つが“鳳凰”をあしらったもので、金色で右半分に寄せた感じでデザインされている。もう一つは“宝相華文様”をあしらったもので、或る種のマーク的な文様が中央にドカンといった感じで描かれている。確かに、二つとも“厳かな雰囲気”を表わしてはいる。これが昭和天皇即位とかであれば、良いデザインだといえるだろう。ただ諸外国の王室切手などに比べ“古めかしい”印象を禁じ得ない。それに、どこにも“新天皇・新皇后”の顔がない。海外にも送られることの多い手紙に使われる切手なのだから、“令和天皇”の顔ぐらいは片隅でも良いから入れてあげるべきだ。それに、私が一番疑問に感じたのは“宝相華文様”の方である。これは1945年に焼失した明治宮殿「正殿」の内部装飾の文様であるらしい。何とも奇妙な気がするのだ。消失した「明治宮殿」の文様を「令和天皇」誕生の切手文様とする。何となく「不吉」な気がするのは私だけであろうか。確かに、それは“輝かしい天皇の時代”を象徴する文様であったに違いない。けれども、もう「明治」に後戻りできるわけではない。それに「明治」は確かに“輝かしい時代”でもあったが、同時に“大きな戦争”を体験した時代でもあった。「天皇」を“現人神”として崇めた時代でもあった。美術的に現代の皇室建築では、デザインとして取り入れるほどの意匠がないのかもしれないが、それなら“宝相華文様”をもう少し小さくして、天皇即位時の天皇装束姿とか皇后十二単姿とかの方がはるかに美的で“日本らしさ”も表わせる。私は“皇室ファン”でも何でもないが、少なくとも「令和天皇」の記念切手であるはずなのに、その主役たる天皇がどこにも存在していないのは、あまりにも寂しい。

「風水家相」で大切なのは“基礎的な事実”

2019-08-20

吉本興業の“闇営業問題”で謹慎処分になっていた芸人たちの多くが8月19日に「東京吉本」の舞台に立った。その中にはスリムクラブの内間政成氏の姿もあった。彼は妙な形で多くの同情を集めている。何度か5年前に購入した自宅がバラエティー番組で取り上げられているが、その利子も含め9000万円のローンが残っている。しかも、一部報道では、あの騒動以来、妻子が家を出て実家に戻ったとも言われている。内間氏の住宅がTVで取り上げられたのは、元々が番組企画を通じて購入した中古物件だからでもある。さらに、もう一つの理由は“欠陥住宅”だったからだ。三階建ての一戸住宅なのだが、ドアの接続部分が外れてしまう。水道管の金具がきちんと止まっていない。壁に断熱材が入っていない。屋根裏がない…などの欠点がある。中古物件なので、一ヵ所くらいなら仕方がないともいえるが、こんなにいくつもあるのでは9000万の価値がない。特に問題は一階が夏でも寒いということ、三階が陽射しの直撃を受け暑すぎて長時間居られないということ、この二つは「風水」的にも問題が多い。家の中が真夏でも“寒い”のは、もうそれだけでアウトなのだ。それは陽射しが入ってきていないことを意味する。“陽射し”は生命力の源である。それが真夏でも全く入らないような住宅は、もうそれだけで社会の“表舞台”に立てない運命を物語る。彼のように“表舞台”に立たないと仕事にならない人間にとっては最悪なのだ。そして、だから“表”ではなくて“闇”の方の舞台に立ってしまったのだ。その一方、三階の“暑すぎる部屋”も問題で、夜になっても気温の下がらない部屋は、気の流通悪く熱気がこもりやすい。そういう部屋に長時間居ると“心身とも”腐りやすくなる。つまり、体調を崩すことが多く、精神的にも堕ち込み後ろ向きになる。しかも、その両方を同時に持つ住宅が“幸運”を招くはずがない。本当は早急に売ってしまった方が良い。もちろん、安く売り叩かれるだろうが、それは仕方がない。かえって賃貸に戻って良い住宅を見つけ“幸運”を手に入れた方が良い。「風水」というとすぐに方位がどうだとか、時期がどうだとか、間取がどうだとか言い出す人が多い。もちろん、厳密にはそれらも大切なのだが、それ以上に大切なのは、生活するのに便利かどうか、心身とも落ち着ける家かどうか、これらが一番重要である。生活上、不便な家はどんなに方位が良くても、間取が良くても、“良い家”と言われない。また心身が落ち着けないような家では、心穏やかに生活できないし、健康的にも問題が発生しやすい。「思い立ったが吉日」という言葉は真実で、良いと思ったら、即行動する方が“良い住宅”を得られているケースが多い。住居でも職場でも「吉日」は待ってなどくれないのだ。

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