180億円の間違いではない。180兆円だ。一企業の“評価額”としては文字通り世界最大で、アメリカのアップルやグーグルも及ばない。新規株式公開によってサウジアラムコは約180兆円の評価額を目指すことを17日公表した。もっとも、この金額はサウジアラビアのムハンマド皇太子が目標としていた2兆ドル(216兆円)には少し届かない。実際には12月に地元であるサウジの証券取引所に上場される。サウジアラムコというのはサウジアラビアの国営石油会社である。どうして上場するのかというと、石油依存からの脱却を目指しているからだ。おそらくドバイとかアブダビとかと同じく「観光国家」を目指しての資金調達と見られている。今回の場合には2000億株の僅か1.5%だけが売り出される。ところが、それだけで2.8兆円にもなる予定なのだ。2.8兆円もあれば、外国人向け観光施設をいくらでも充実させられる。実は、この企業、上場は国内だけを目指しているのではない。手始めに“国内”なのだ。だから今回はアメリカ人とか、日本人には売ってくれない。もっとも、売られたところで買うことなど出来ないが…。さて、なぜ私がこれを書くのかというと、今後、もしかしたら東京証券取引所に上場される可能性もあるからだ。世界最大の企業が株式で日本に上陸するかもしれないのだ。サウジアラムコとしては本当はニューヨークに上場したい。ところがアメリカの場合、審査基準が厳しくなかなかに面倒で簡単には通りそうもない。そこで、そういう点では“やわに出来ている”東京市場ならすぐにOKが出そうなのだ。というか世界中から資金が向かって来るので大歓迎なのだ。もっともニューヨークが難しいなら香港を目指そうか、という話も内部的には出ているらしい。一応、3か所に上場予定のようなので、東京証券取引所もまだまだ捨てたものではない。アメリカの株式は連日のように“史上最高値”を更新し続けているダウやナスダックだが、日本の株式は今一つ盛り上がらない。企業収益が低迷しているから当然だが、日経平均は30年前に付けた“最高値”から比べると、まだ6合目辺りでもたもたしている。世界中の眼が向けられ、世界中から投資資金が入ってくるためには「アラムコ」に“婿”になってもらわなくては…。
東南アジアの観光名所ではしばしば像が登場する。タイでも、カンボジアでも、ベトナムでも、ラオスでも、象乗り体験は人気のアトラクションだ。いや、正確には「…だった」と書くべきなのだろうか。アンコールワットで有名なカンボジアでは、自然保護活動家たちの批判によって、遺跡公園で行われてきた“象乗り体験”を来年初めまでにすべて中止すると発表された。今後、この動きは他の国々にも波及する可能性が強い。どうして禁止なのかというと、“象乗り体験”が「象を虐待している」からであるという。カンボジアには年間600万人以上の観光客が来る。どちらかというと欧米の観光客が多い。その観光客の多くは“象乗り体験”を試みる。評判は良かった。けれども、酷暑の中で休息時間もなく次々行われる“象乗り”は象自身には負担であるらしく、2016年に一頭の像が観光客を乗せている時に呼吸停止となって死亡した。この事件を皮切りに自然保護活動家たちが「虐待」と言い出したのだ。欧米人客が多いカンボジアでは、欧米人の多い自然保護活動家たちを敵に回したくないのだ。これまで仕事をしてきたゾウ達14頭は、今後も飼い主が面倒をみるということで決着したらしい。だが、私には今一つスッキリしない。“象乗り体験”は昔、私もタイで体験したことがある。予想以上に象の背中は高く盛り上がっている。それに歩くごと左右に揺れる。だから、本来は馬やラクダと違って乗り心地はそれほど良くない。多分、象自身にとっても“背中に負担が掛かる”ことは間違いがない。けれども、人を背中に乗せる行為が「虐待」と言えるのだろうか。別に鞭で叩くとか、エサを与えないとか、長時間にわたって働かせ続けるとか、そこまではいっていないはずだ。確かに、背中に負担はかかると思うので、休息をもっと取らせるとか、乗せる時間を限定するとか、労働のさせ方には考える余地があるが、虐待という言葉は適当ではない。昔から、人間のために“働いてくれる”動物はいろいろとある。もし、自然保護活動家の言うように、人間が勝手に動物を働かせることが「虐待」というのであれば、人間が勝手に動物を殺して「食肉」とすること自体が、最大の虐待と言えるだろう。けれども、自然保護活動家の多くは平然と“牛”や“豚”や“鶏”の肉を食べている。いや、厳密にいえば、植物だって“命”がある。だから、本当は人間が勝手に刈り取るとか摘み取るとかして食用とすること自体が、命を奪っているのだ。これらには目を瞑って、身近な動物にだけ「保護」を訴えるのはおかしい。通常の魚は食しても良くて、鯨だけを動物扱いするのもおかしい。矛盾だらけなのだ。もしかしたら、象だって、人間のために自分が役立っていることを感じて幸せなのかもしれないのだ。丁度、腰の曲がったお祖母さんが、孫のため畑仕事を続けるように…。
それはベネチアにあるヴェネスト州議会の会議室において、気候変動対策を考慮した条令修正案を否決した直後に起こった。会議室が高潮によって浸水してしまったのだ。まるで「否決は誤りである」と自然界が警告しているような浸水の仕方だった。かつて「水の都」として世界中から羨望を集めて来たベネチアだが、このところ高潮による被害が年々深刻さを増しつつある。たまたま今年だけが水位が高くなっているのではない。元々人工的に作られた街で、風光明媚で観光には良いのだが、地元住民にとって暮らしやすい街ではなかった。何しろ、いたるところが橋でつながっているので車では移動できない。しかも、その橋は平たんではない部分が多く、情緒はあるが実用的ではない。ここは“町全体”が世界遺産なので勝手に変えられない。建物などの修復は出来ても、根本的な改革は出来ないのだ。つまり、いつまでも“昔のまま”でいなければならない。今回の“修正案”は、それをもう少し緩めようということで地元側から提出されたものだ。ところが、ベネチア以外に暮らす議員やイタリア政府が強力に反対して否決された。その代りに高潮被害のための支援金2千万ユーロ(24億円)を出すというのだ。ところが気候変動の影響でもはや建物の土台そのものが塩害で怪しくなってきている。12日には高潮で187㎝を記録した。これは過去50年にわたって観測した中での最高記録なのだ。観光客もみな水浸しとなって「非常事態」まで宣言された。今はまだ“稀な出来事”だから観光客も許してくれる。けれども、これが日常になったら、もはや観光客どころではなく、地元民自身が暮らしていくことが出来ない。それでも、観光都市優先の考え方、世界遺産としての維持を保つため、根本対策に踏み込もうとはしない。こうして「水の都」は徐々に水没していく。イタリア政府や極右政党が“昔のまま”にこだわり続けても、自然界は容赦しない。おそらく、一番先に逃げ出すのは“観光業”以外の地元民である。居住区として考えた場合、ここはべらぼうに不動産価格が高い。欧州の人達は“古いもの”や“風光明媚なもの”に価値を置くので不便でも高いのだ。それでも20年後、30年後、ベネチアは「水没する街」として老人たちに懐かしまれることだろう。
海外から時々、日本人が“大量に捕まる”ニュースが飛び込んでくる。昨日、タイのパタヤでは新たに8人のグループが捕まり、フィリピンのマニラでは36人のグループが捕まった。東南アジアを拠点にした“特殊詐欺グループ逮捕”のニュースは当然のことながら、現地でも報道される。性懲りもなく何度も“特殊詐欺”で摘発される。それなのに、この種の犯罪は一向に減らない。もし、逮捕された人々を全員“顔写真入りの実名”でTV報道したなら、あっという間に“この種の犯罪”は減っていくのではないかと思うのだが、理由は判然としないが、顔写真も、実名も、決して報道されることはない。けれども、彼らの行っていることは、正真正銘の詐欺である。今回の場合でも、マニラ拠点の詐欺では被害は1400件に及び、被害総額は20億円に及ぶ。確かに、彼らは最初から“特殊詐欺”だと知って仲間に加わった人物ばかりではない。「効率の良いアルバイト」とか「ちょっとだけ稼いでみないか」という誘い文句に引っ掛かった人々も多い。けれども結果的には“特殊詐欺グループ”の手先となって動いたことは間違いがない。悪い事という自覚は持っていたはずなのだ。大体、海外まで出掛けて行って、一つの部屋に閉じこもり、終日、見知らぬ日本の高齢者に対して電話をかけまくるということが、犯罪加担の自覚なく出来るわけがない。しかも、現在は現金を直接送金させるという手口はもうとらない。キャッシュカードを受け取る、という形が圧倒的に多くなってきているのだ。悪質なのはマニラの方のグループは“金融庁の職員”を名乗っている。こういう役所関係からの問い合わせや指示に日本の高齢者は弱い。パタヤのグループは電子マネーを買わせる方法を使う。どちらにしても簡単に足がつく“現金”ではなくなっている。特殊詐欺グループと警察との“イタチごっこ”が続いているのが実態なのだ。もし、詐欺グループの“手足”となって働く「かけ子」や「受け子」の“なりて”が居なくなれば、自然にこの種の犯罪は減少する。なぜ、実名報道が出来ないのかわからないが、少なくとも18歳以上は“顔写真”と“実名”は公表するようになれば、急激にこの種の犯罪は減っていくだろう。
世の中には「単純な人」と「複雑な人」とがいる。これは別に“知能指数”とは関係がない。性格の問題なのだ。例えばアメリカのトランプ大統領は誰が観ても“単純な人”だ。或る意味では大変にわかりやすい。それに対してロシアのプーチン大統領は“複雑な人”だ。ハッキリとした言動で一見単純に見えるが、その心の中で何を考えているのか、本当のところ誰にもわからない。別に政治の話をするのではない。元レースクイーンでタレントの加藤紗里氏が今年9月に“結婚していた”ことを公表した。その加藤紗里氏に対してのインタビュー記事を読んで、とても面白いと思った。結婚した相手は36歳の不動産会社の経営者で、どこに惹かれたかの質問に対しても正直に「欲しいものを買ってくれたから」と答えている。さまざまな質問に一度も“性格”とか“外見”とか“愛情”とかの言葉は出ず、もっぱら“何々を買ってくれた”の一点張りである。けれども彼女は「みんなから、おまえなんか絶対に結婚できない」と言われたけど結婚できた…と嬉しそうである。そうして、自分でも頑張って“主婦が出来る”ところを見せたいと張り切っている。この人は多分とても正直なのだ。そして単純なのだ。「お金がすべて」だと公言している。お相手が誰か知らないが、多分、事業家としては相当な手腕の持ち主に違いない。そして、多分、同じように単純な人なのに違いない。この「単純である」ということは、決して悪いことではない。特に「幸運をつかむ」という観点から言えば、とても重要なことなのだ。この女性の目的は一つしかなかった。「金持ちと結婚する」という一つで、それに“条件”を付けなかった。ここが重要なのだ。ほとんどの女性は、それだけに絞り切らない。例えば「人柄が良い」とか「女性に優しい」とか「外見が良い」とか「頭が良い」とか…必ず、何か条件を付けようとする。そうすると、目的が絞りにくくなって、その目的に到達しにくくなる。一つだけの単純な目的に絞ると、その願望は達成されやすくなるのだ。人間というのは欲張りで、なかなか“一つだけ”に絞り込めない。若くして成功する人の多くは、単純に一つのことだけをやってきた人達である。けれども結果的に、それが成功を招き、その後の人生を生きやすくする。適度にいろいろな能力があり、性格的にも「多くの人から好かれたい」「誰からも嫌われたくない」という人ほど、目的がころころ変わる。どんなに頑張ったって、世の中全員から好かれるはずがないのだ。嫌われたって良い。これだけは言いたいし、これだけは得たいし、これだけはやり遂げたい。そういう“わかりやすい人”の方が、神様は“幸運”を与えやすいと言っている。
ZOZOの元社長・前澤友作氏と女優・剛力彩芽氏との“破局報道”が出た。一時的にアメリカに移住し、宇宙旅行に備えたいという前澤氏に対して、もう一度日本で“女優”という仕事に取り組んでみたいという剛力氏との間で“溝”が生れたのだ。おそらく前澤氏の方は「そのためにZOZOを手放したのだ」と自分にも、彼女にも、言い聞かせたかったのだろう。けれども、剛力氏の方は“ZOZOの件”については、何の相談もなかった。自分は“女優”を捨てて一緒について行こうと決めていたのに、事前に何の相談もなかった。そのことで「彼についていく」という気持ちに“揺らぎ”が生じていた。「夢見る少年」のまま大きくなった前澤氏は、一歩踏み外すと、大きく音を立てて崩れてゆく不安定さが常にあった。それでも、その「少年」の部分には“限りない可能性”も秘めていた。剛力氏は、世間を敵に回しても良いから、彼の“可能性”に賭けてみようと思っていた。世間は、容赦なく剛力氏をバッシングした。「金に眼がくらんだ女」でもあるかのようバッシングを続けた。特に「女優を辞めても良い」と言い出した時、周囲は本気で心配し始め、やがて本気で怒りだし、そして見限って離れていった。彼女にとって予期せぬ事態が生じた。信じた人が自分に黙って会社を手放したのだ。そういうことをしそうだな…という予感はあった。けれども実際に“人の手に渡る”と、彼を取り巻く周囲の対応がコロリと変わった。莫大な財産も所有しているが、莫大な借金も存在していたことを初めて知った。女性は“現実”に戻った。やはり女優は続けなければならない。自分は自分として、自立していなければならない。こうして剛力氏は、女優復帰を本気で決断したのだ。もう迷いはなかった。嫌いになったから別れるのではなかった。これとほぼ似たような現象を体験している女優がいる。高橋惠子という女優だ。彼女は、当時まだ10代で「関根恵子」という名で、大胆な演技で注目され、その将来を期待されていた。ところが彼女は、当時売り出し中だった作家と熱烈な恋をし、事務所に無断でアジアへと二人で雲隠れする。いくつもの仕事に穴をあけ、世間から大バッシングを浴びた。一時的には“行方不明”にもなって「女優生命は終わった」と誰もが思った。ところが、しばらく経って「大人の女」を演じられる女優として脚光を浴びるのだ。考えてみれば、“さまざまな運命”や“個性的な生き方”を表現しなければならない女優は、単なる演技よりも、自らの経験を土台にした演技の方がはるかにリアリティを生む。実際、前澤氏と交際する前の彼女には整ってはいるが“凡庸さ”が目立った。そうなると当然、与えられる役どころも決まってしまう。けれども世間からバッシングを浴び、破局をも経験した彼女の横顔には“翳り”が生れた。大女優としての階段に一歩足を踏み入れたのだ。
そういえば今もタバコは売られている。だから無くなったわけではなかった。けれども一般的な感覚として、何となく今の日本にはもうタバコを吸う人達はいなくなったかのような印象を受けていた。街でタバコを吸う人をほとんど見かけない。飲食店でも滅多に見掛けない。たまに“喫煙席”を設けている店に入った時に、そういえばまだタバコを吸う人がいたんだ…と思うくらいであった。けれども世界的な機関が調査した結果では、日本でも未だに“約3割の人達”がタバコを吸っているという事実が指摘されている。同じ調査では、インドネシアでは76%、ロシアでは58%、中国では48%が喫煙している。“たばこ産業”というのはまだまだすたれていなかったのだ。どうしてこの問題が論じられたのかというと、岡山市では医師たちの方から“受動喫煙ゼロを目指す”条例を定めるべきとの声が上がっていて、それに対して喫茶店などを経営する組合の方から「待った」が掛かったのだ。その時に彼らから持ち出されたデータが、現在における世界的な喫煙データなのだ。外国からお客様を呼び寄せる時に「受動喫煙ゼロ」は“逆効果だ”という指摘だ。なるほど、もっともだなと思った。それよりも、私が驚いたのは、日本人にも33%の喫煙率があったということの方である。ちなみに、私は若い頃、ヘビースモーカーだった。一日60本くらいを吸っていた。それが32歳の時、居酒屋で友人と飲んでいて「よし、今日からタバコを止めよう」と二人で“賭け”をした。守れなかった方が金を支払う。酒の席での軽い気持ちの約束だった。ただ、お金が惜しいのではなく、私は“意志の弱い男”になるのが嫌だった。だから、その日から、完全に私は一度もタバコを吸っていない。友人は3ヶ月ほどで元に戻った。おそらく日本人の約3割は、そういう形で現在でもタバコを吸っているケースが多いのだろう。私は正直15%くらいかと思っていたので、その喫煙率の高さに驚いた。同時にインドネシアなどはイスラム教の厳しい戒律がありながら、そういう点は意外なほどゆるいような印象を受けた。ちなみにインドネシアという国は書籍類が大変に安い。驚くほど安い。ガイドさんの説明によると、国が出版物に助成金を出すので安くできるらしい。私はこの国から貴重な手相の本を何冊も購入した。200名近くのインドネシア人の手相写真が載っていて、とても勉強になった。話を戻して、確かに“受動喫煙”は避けるに越したことはない。けれども、どこもかしこも“喫煙できない”というのも可哀想である。天井や壁やテーブルに“煙を吸引する装置”が備わっていれば、他の客に迷惑が掛からないような気がする。そういう装置は今の科学技術ですぐにでも開発できそうな気がする。多分それが双方にとって一番の解決策のような…。
本当の人生はもろもろ全てを失ってから始まる。時折、そう感じさせるような人物がいる。大井利江氏などは、その典型と言える。71歳で五度目のパラリンピック出場の切符を手にしたのだ。しかも、この人、49歳までは本格的な陸上トレーニングなどしたことがなかった。元々はマグロの遠洋漁業の漁師だった。39歳の時にミッドウェー沖で20㌔もある漁具が背後から首に落下し頸椎を骨折。肩と腕以外の神経が損傷して“車いす生活”の身となった。自暴自棄がしばらく続いた。リハビリの水泳をしていた時にリハビリ仲間から“円盤投げ”を勧められた。49歳になっていた。試しにやってみると面白くなった。タイミングが合うと素晴らしい飛距離が出る。こうしていつの間にか国際大会にも出るようになり、アテネ五輪パラリンピックにも出場していた。しかも、そこでいきなり銀メダルを得たのだ。それから北京五輪にも出て銅メダルだった。次のロンドン五輪は出場を迷った。東日本大震災の後で満足に練習も出来なかったからだ。それでも出場して10位となった。実は、この時、もう引退しようと考えていた。規定が変わって、今後は“円盤投げ”での出場が難しくなったからだ。ところが2020年に「東京五輪」が開催されることが決まった。それならば何んとか東京五輪に出場したい。そこで、これまでの“円盤投げ”から“砲丸投げ”に種目を切り替えた。これなら出場できるかもしれない。そして見事リオ五輪にも出場することが出来た。そして昨日「東京五輪」出場の切符をかけた大会で、71歳ながら見事それを勝ち取ったのだ。5大会連続出場の記録が、他の選手でいるのかどうか、私は知らない。けれども、出場種目を変えても実力で“日本代表”に選ばれるということ自体が素晴らしい。もっとも常に付き添っている奥さんは、もう疲れた、といっているそうだ。実は、大井氏は子供の頃、プロ野球選手を目指していた。ところが父親が怪我をして働けなくなり、やむなく自分が高校を辞めて遠洋漁業の漁師になった、という経緯がある。彼の“5大会五輪出場”の栄誉は、もしかしたらプロ野球選手として輝かしい成功を収めたかもしれない“人生”の代わりに用意されていた。誰であっても、人生は思い通りになど行かない。理不尽な生活や状況の中で、それでも“一筋の光”を追い求めて生きる人たちに“運命の女神”は微笑みかけることを証明している。
かつてAKB48でアイドルだった川栄李奈氏が第一子を出産したことを報告した。同じ日、先月“第一子の妊娠”を公表していた元AKB48の主要メンバーだった篠田麻里子氏が公式の場に出席した。さらに同じような時期に人気の頂点にあったタレントのベッキー氏が妊娠していることを公表した。まるで言合せたかのように、それぞれが“妊娠の喜び”“母になることの幸せ”を表現したのだ。彼女たちには、いずれも熱狂的アイドルオタク層の支持者たちがいた。ただ「結婚」に関しては、必ずしも“祝福”ばかりされていたわけではなかった。その結果、一時期のような人気が今はない。けれども、三人共とても幸せそうである。私たちは多くの場合、勘違いをしやすい。何百万人もの人々から“熱狂的な支持”を受け、歓声を浴び、マスコミに追いかけられ、仕事に奔走する。確かに、それはそれで華やかで活き活きとした人生の一場面ではある。けれども、だからと言って、それが幸せだとは決めつけられない。操り人形のようにスケジュールに追われながら日々を過ごしても、どんなに多くの人々から愛されても、それで“心からの幸せ”を実感できる保証はない。むしろ、本当の意味でのプライベートとしての時間が持てず、心の中が削り取られていくような寂寞感を感じてしまう人もいる。どんなに多くの人達から愛されたとしても、それらの人達の「たったひとりの人」ではありえない。仮に「たったひとりの人」であったとしても、自分はその人を本当には知らないし、その人と“愛を分かち合いたい”わけでもない。愛されて、本当に幸せなのは、自分もその人を愛している時だ。だから、彼女たちは何百万人よりも、そのひとりの方を択んだ。そして、その“愛する人”の子供を産む。自分の“分身”としての子供を産む。それは女性にしかできない。女性だけの“幸せ”なのだ。こうして三人は“一人の愛”を捕まえに行った。彼女たちは、必ずしも“祝福された結婚”とは言えない部分があったかもしれないが、それは第三者の勝手な思い込みであって、自分自身で“選択した”人生に後悔はないのだ。世の中には何百万人からの愛情を受け続けたいばかりに「たったひとりの人」からの愛情を拒絶してしまう人もいる。けれども、その何百万人は、いつまでたっても“心からの幸せ”を与えてくれる人にはならない。そして、いずれ離れていく。別れの言葉もなく離れていく。“花嫁”としての喜び、“母親”としての喜びは、何百万人に背を向けなければ得られない。
アンケートとか調査データには、時々首をひねるようなものがある。このほど公表された「未婚率と職業との関係性」を示すデータはさまざまな点で興味深いのだが、私がもっとも注目したのは、35歳を境として「結婚しやすい職業」から「結婚しにくい職業」へと、180度変わってしまう職業群のあることだった。それは女性の場合で、35歳まではもっとも早く結婚に結び付きやすい職業として医師、弁護士、検察官、記者、編集者が挙げられているのだが、35歳を過ぎると逆に“なかなか結婚しない職業”として弁護士、会計士、医師、記者が登場してくるのだ。考えてみれば、これらの分野はその仕事に就くまで相当な勉強が必要である。国家試験にパスしなければなれない職業が多い。したがって、社会に出るまで“恋愛はお預け”のような環境で育った人たちも多い。しかも、それらの仕事分野には男性が多い。したがって一気に“恋愛解禁モード”に突入しやすい。特に外貌に恵まれ、性格的に“女らしさ”を備えている人たちはそうなりやすいのだ。また逆に35歳を過ぎてしまうと、それらの分野では女性といえども“主要な立場”に立つケースが多くなる。したがって忙しくなり、収入面でも恵まれてくるケースが多い。そうするとなかなか“恋愛モード”は育まれない。男性に金と時間を使うくらいなら、“癒し”や“趣味”に使った方が良い、ということになる。こうして結婚からは遠ざかっていく。或る意味では当然の結果なのだ。特に外貌的には“普通”で、性格的に“女らしさ”を欠く場合はそうなりやすい。一方「生涯未婚」に辿り着きやすい女性の職業としては、デザイナー、写真家、美術家、音楽家などが挙げられている。これを見ると、生活が不規則に傾きやすい職業が多いような気がする。仕事が集中する時と、暇になる時と、生活を“一定のリズム”で繰り返すのが難しい職業は、結婚をあきらめるような状況に陥りやすいのかもしれない。或いは「結婚」という“枠”自体を窮屈に感じてしまう。考えてみれば、職場の中に適度な割合で男女がいて、或る程度決まった生活時間を維持できる職業分野が、無理なく男女交際が生じて結婚が成立しやすい環境と言えるのかもしれない。男性では介護職員、理美容師、調理人、飲食接客業などの分野での未婚率が高い。これらの分野は、男女の出逢いは多いはずなのだが、起業する人は別として雇われている場合の収入は高くない。それに休日を土日に取れない。そうすると、仕事以外での“出逢い”を求めにくくなる。また結婚した場合でも、土日に出掛けられない、仕事帰りが遅いなど“家庭人”としてマイナス条件が多い。このように見て来ると、個々の仕事に対する理解が「結婚」を大きく左右していることに気が付く。
俳優の高倉健氏が亡くなって、もう5年の歳月がたった。その5年目の出版を意識したのかどうかは知らないが、高倉健氏の“養女”であった小田貴月氏が書き記した『高倉健、その愛。』が好調な滑り出しを示しているという。養女としての17年間を綴った…ということになっているが、実際に養女縁組としての書類が役所に提出されたのは亡くなる半年前である。なぜか判然としていないが死後2日後には火葬され、それを実の妹さんにも知らせていなかった。そんなところから遺族は、今回の出版を快く思っていない。遺族側に言わせると、著者・小田貴月氏は“養女”というより“家政婦”として雇われていたに過ぎない、という認識のようだ。亡くなる半年ほど前に“養女”となっていることが、さまざまな疑惑や想像を掻き立てる。そこで、お二人の生年月日に基づく四柱命式やホロスコープはどのような関係を示しているのか調べてみた。その結果、大変興味深いことがいくつも出てきた。まず、高倉健氏の四柱命式は月干に「梟神(偏印)」が表出し、月支蔵干に「食神」が表出している。「梟(きょう)神」というのは“フクロウの神様”である。フクロウというのは“我が児を食べる”ことで知られる。したがって「食神」と組み合わさると、子供によって財産を食い尽くされる。通常は“子供を得られない”のだが、無理に子供を得ると、その児によって生活が侵食されていくという形なのだ。ホロスコープでは彼女の金星が、高倉健氏の太陽に0度で重なっている。したがって彼女が高倉氏に対して愛情を抱き続けていたことは間違いがない。一方、彼女の太陽に対しては高倉氏の土星が0度で重なっている。或る種の“義務と責任”を彼女に託していたのであろう。また彼女の太陽にはもう一つ、高倉氏の冥王星も180度で対冲している。これは“転生”を意味する配置で、つまり男女関係だったのが親子関係に変わった、ということを意味するのかもしれない。産まれる前からの因縁が作用しやすい惑星としてドラゴンがあるが、彼女のドラゴンヘッドは彼の金星と180度、ドラゴンテールは金星と0度である。さらに、互いの火星同士は180度になっていて、木星同士は90度になっている。火星はsexに関係が深く、木星は経済力に関係が深い。こういったもろもろの関係が実際にどう働いていたかは分からない。ただ「縁」の無き所に惑星同士のアスペクトは創られない。0度とか、180度とかのアスペクトは、吉凶は別にして強い「縁」を持ったカップルでなければ出現しないのだ。そういう点では文字通り「神秘な糸」に手繰り寄せられるような形で成立した“親子”だったのかもしれない。
最近、才能のある人が自ら犯罪を犯す、或いは犯罪に巻き込まれる、というケースが多い。人間はもともと弱いので、それが「犯罪」と認識していても、ちょっとぐらいは…という風な気持ちで巻き込まれてしまうケースも多い。昔「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という言葉が流行ったが、実際、私は香港に初めて行った時、誰もが赤信号で横断歩道を渡っているのに驚いたことがある。その後、いろいろな国に行く機会があって、それは香港だけのことではなくて、比較的多くの国で“普通に行われている”ことだと知って困惑したものだ。けれども、そういう“ちょっとした気持ち”から徐々に“本格的犯罪”に向かっていくケースも少なくはない。田代まさしは何度逮捕されても懲りないらしい。一番最初は“盗撮”だった。二番目が“覗き”だった。もし、この程度で止めておくことが出来れば、今日のような状態にはならなかっただろう。俗に「仏の顔も三度」というが、二度くらいまでであれば後になって「昔はワルだったんだよ」と笑い話にすることも出来る。けれども三度目以上は“言い訳”は許されない。バンクーバー五輪に出場したスノーボードの国母和宏も“大麻の密輸”で逮捕された。気になって四柱命式やホロスコープを出して、優れた素質・才能を改めて感じた。本来であれば“優等生”でなければならない。実際、彼は才能そのものは現在でも認められている。プロスノーボーダーとしての素晴らしい実績もある。報道によると現在は米国居住であるらしい。そのせいで“大麻の密輸”を軽く考えてしまったのかもしれない。そうはいっても、郵便物の中に紛れ込ませるという手段を使っていて、明らかに“犯罪”であることを認識して行っていた。せっかくの才能も、社会のルールーからはみ出せば差し引かれてしまう。この人の場合には五輪の時にも“服装”とか“態度”とかでバッシングを受けた。決して、競技そのものではなかった。日本人はまだまだ保守的なので、そういう部分は重要なのだ。確かに、少し、そういう“形”にとらわれすぎる面が日本の弱点ではある。けれども、そこで生まれ育ち、暮らしていくからには、そのルールに従わなければならない。“規格外の人物”は、時々このルールの枠からはみ出そうとする。或いは、だから国母和宏は米国居住に変えたのか。日本という国は、もう少しだけ「枠」を緩めても良いかなと思うこともあるが、そうすると一気に“崩れ”る危険もあって、最近「枠」の難しさを感じる事件が多い。
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