12月, 2020年

精神力の強さ「5冠達成」で証明

2020-12-31

女子スピードスケートの高木美帆選手が、500m、3000m、1000m、1500m、5000mの5種目すべてに出場して、すべての種目で勝利した。前人未踏ともいうべき記録であるが、その割にはニュースとしての“扱い”が小さい。日本のマスコミは圧倒的に“強すぎる”と、やや引き気味になるとでもいうか、総じて“扱い”が小さくなる。けれども、本当はもっともっと“大きく扱ってあげる”べき記録である。もちろん、国内の記録であり、対抗馬が乏しいという事情はあるかもしれない。本来は、ライバルとなるべき“新たなる選手たち”が出て来なければいけないのだ。そのような事情はあるとしても、個々の記録自体も優秀であるので、世界的にも“誇るべき記録”であることは間違いがない。アスリートには、精神的に“強い人”と“弱い人”とがいる。間違いなく、居る。精神的に強い人は、当然のことながらプレッシャーに負けない。どのような場所や舞台であっても、どのようなライバルたちが居ようと、どのようなタイトルやメダルが掛かろうと、優れた成績を残す。それに対して、精神的に“弱い人”は、本来持っている実力を本番で十分に発揮できない。時としては、思いもかけないようなミスを犯す。普段なら、負けるような相手ではないのに、ちょっとした油断とか、ありえないミスとか、気負いの強さが出てしまって、敗れてしまうケースが多い。そうかと思うと、普段はそれほど“とび抜けた力”は発揮できないのに、特別な大会とか、大きなタイトルとか、記録が掛かると、別人のように力量を発揮する選手がいる。高木美帆選手の場合なども、3日間連続での出場で、心身とも“疲れ果てていた”には違いない。特に最終日は「5冠」の記録が掛かっているだけに、精神的に弱ければ絶対に勝てない。よく格闘技などの場合には、最初の“睨み合い”の時点で勝敗が決しているとも言われる。合気道の創始者だった植芝盛平氏は、四方から鉄砲で撃たれても負けなかったと言われる。この人は6歳の時に心霊体験をしていて、神に向かって祈っていると、丸く光輝く大きな玉が瞬時に身体の中に入り込んだという。それ以降、何でも分かるようになっていったらしい。そのせいなのかどうか、彼の手型を見ると類い稀なほどクッキリとした「神秘十字形(頭脳線と感情線の間にある十字形)」が刻まれている。これまで観た中でも、もっともクッキリした見事な十字形だった。

「日経平均3万円」なら「バブル再来」も⁉

2020-12-30

昨日の「日経平均」は、700円以上も値上がりして“30年ぶり”の27000円越えとなった。一気に「27000円の壁」を超えたことで、年末年始に“極端な円高”など起こらなければ、今後も順調に日本株が上昇していく“条件”は整った…といえる。「日本株」は欧米人から見ると「世界の景気敏感株」という“投資対象”で、世界景気が上昇中なら“買い”のシグナルが点灯し、世界景気が低迷し出すと“売り”のシグナルが点灯し始める。そういう眼で視られているので、アメリカと中国の“両大国”の株価が上昇していけば、世界景気は拡大中とみて「日本株」も自然に買われる。日本の株価なのだから、欧米人の評価など関係なさそうであるが、そうではない。何しろ「日本株」の6割を握っているのは“外国人”なのだ。だから、いやでも、外国人による評価が「日本株」の動向を左右する。しかも、その“評価”というのは、日本政府の評価でもなく、日本企業の評価でもない。アメリカをはじめとする“世界景気の評価”なのだ。だから、或る意味では“世界景気”さえ回復していけば、日本政府など何もしなくても、株価が上昇し、その結果として“実体経済”にも回復の兆しが表れてくる。奇妙だが、そういう風に出来ているのだ。そういう意味では、われわれは日本がどうこうよりも「アメリカさん」と「中国さん」とが頑張って世界経済を“牽引して”くれれば、言い方としては良くないが“そのおこぼれ”で「日経平均」はどんどん上昇し、日本のバブル期(80年代後半)へと迫っていく。もっとも、バブル期の38900 円という価格は、そうたやすく到達できる価格ではない。それでも、数年かければ“追い抜く”ことが出来ない価格ではない。もちろん「株価」というのは「実体経済」に“先行する”ものなので、われわれが生活の“豊かさ”を実感するのは“数年先”になるかもしれないが、少なくとも“その予兆”として「日経平均」が3万円に接近していくのは良いことなのだ。私の予感では、もし、やがてバブル期の最高値を超えることが出来るとすれば、2021年3月末までに「3万円」の大台に“タッチする”ことが重要なのだ。必ずしも、それを超えていなくても“超接近”するところまで“一気に駆け上がる”ことが出来れば、条件としてクリアする。逆に、もし、3月末に27000円よりも低くなってしまうことがあれば、もはや「バブルは夢に消えた」と思って良い。或る意味では、今後3カ月間の“株価の動向”が今後十年間の日本経済の行方を「決定する」と断言しても間違いではない。

占い師よりも占い師らしい美輪明宏氏

2020-12-29

最近、何んというタイトルだったか忘れたが、録画で美輪明宏氏に対して悩みを持った女性達が相談し、それに対して美輪氏から「ご託宣」が与えられるTV番組を見た。相談者たちはいずれも仮面をつけているのが、なんとなく興味深い。ほとんどの相談事は“恋愛”“結婚”“SEX”などに関してで、それらの相談事に対して美輪氏がちょっとだけ問いかけ、それから手短に回答を下す。あまり、長々と話すのではなく、要点だけをゆっくりと、謎のように語っていく。その姿は、まるで“霊界”から伝えられる「神の声」のような感じで、それぞれの女性に見合った回答を瞬時に導き出す。「人を見抜く」という言葉があるが、確かに、この人の言葉には説得力がある。瀬戸内寂聴氏の“相談解答”にも説得力があるが、より個々に沿った形での回答という点で、この人の回答には“呪術的な作用”があるなと私は思った。下手な占い師に相談するよりも、こういう人達に相談する方が、はるかに“的確な回答”を得られるに違いない。しかも、それぞれの“選択による未来の姿”まで的確に予見出来ている。よく、著名な方が雑誌などで「人生相談」をされているが、その人の未来を“見据えた形”でのアドバイスをできる人は少ない。そういう点で、この人には或る種の霊感もあって、的確に未来を予見したうえでのアドバイスなので、なおのこと説得力がある。この人の場合、これまでに培ったたぐいまれな人生経験や、さまざまな思想からの応用力もある。最近は体調を崩されるなど、その話し方にはやや衰えも窺われるが、それが「霊界からの語り」のような妖しさを生み出していて、むしろプラスに響く。さまざまな人生体験を経て来ている人は、占いなど用いなくても一瞬で“その人を見抜く”ことがよくある。よく私は、占いの生徒さんなどから「どうして、それが解かるんですか」と訊かれる。一応、占い的な説明をすることもあるが「何となくだね」と答えることも多い。この「何となく」の方が、占いによる判断よりも自信をもって回答できる。それを口で説明するのはなかなかに難しい。或る種の「気配」とでもいう感じのものが、実はいちばん的確なのだ。別に、占い師でなくても、そういう意味で“人を占える”方はたくさんいる。さまざまな世の中の出来事に対しても、移り変わりに対しても、人々のさまざまな行動や反応に対しても、心を澄まして、敏感に生きてきた人だけが共通して持ちうる「予見力」なのだ。

2028年「中国」が世界1の経済大国に⁉

2020-12-28

イギリスのシンクタンク「経済ビジネス・リサーチセンター」が26日、当初の予測より5年も早まって、中国がアメリカを抜いて「世界1」の経済大国へと変貌するだろうとの予測を公表した。その理由としては、今回の中国における早期の“コロナ対策”が成功して、それに遅れを取り経済的打撃の大きいアメリカを「抜き去っていく」構図が鮮明になったと断言している。確かに、拡散するのも早かったが、収束させるのも早かったのは誰もが認めるところで、欧米や日本との“決定的な差”が出たことは間違いがない。もっとも、今だ「中国の武漢が発生源」という“憶測・疑惑”が消えていないことも事実だが、それでも「国家としての統制が効いている」ことだけは間違いがない。その成果が“経済面”で顕著に出そうなのだ。もっとも、これは「国家」としての比較なので、必ずしも、中国人全体が“裕福になっていく”わけではない。人口の多い中国は、平均すれば、まだまだアメリカにはかなわず、個人の平均所得では追い抜けない。そういう意味ではインドも同様で、この国も2030年までには確実に「日本」を追い抜いていくらしい。つまり、経済大国の順位は「中国」→「アメリカ」→「インド」→「日本」と、一応予測されているのだが、もしかすると日本は次の「ドイツ」にも追い抜かれている可能性もある。アメリカの場合、思い切った“経済対策”の導入で国家としての経済は急回復しつつあるのだが、捻じれ国会が影響して近く1400万人の国民が「失業保険給付」を受けられない可能性も出て来た。向こうは、容赦なく“首を切る”のが当たり前の社会なので、その分「失業保険給付」は欠かせないものなのだ。もし、この事態が避けられないと、アメリカの年明けは“異様な空気”に包まれた新年を迎えるかもしれない。最近は日本でも「リストラ」や「企業再編」が当たり前になりつつあるが、考えてみると、むかし日本で抱かれていた「大企業に入社すれば一生安泰」などと言う幻想は、右肩上がり時代の“甘い発想”に過ぎなかった。日本の場合、アメリカさんほどには、当然のことながら“余裕資金”がない。早く正常社会に戻さないと、国家そのものが持たなくなってくる。欧米のワクチン投与は早いが、日本では2月下旬になるそうで、ちょっと遅すぎる。少なくともそれまでの間に広がり過ぎないようにしないと、日本だけがいつまでも感染者数が減っていかないという結果になりかねない。いつもは中国の“早すぎる決断”を、流行に飛びつき過ぎると思うのだが、今回ばかりは即断実行や国家統制という手段も、悪いことばかりではないのだと、妙に感心している私がいる。

63年後「母娘の共同作品」として本が誕生

2020-12-27

その作品は1956年から57年にかけて「毎日小学生新聞」に掲載されていた。プロ作家としての作品ではなく、神戸で暮らしていた寿美枝氏が投稿する形で何度も掲載された小学生向け童話であった。おそらく作者にとって、自分の創作した童話掲載は貴重な体験だったに違いない。その切り抜きは大切に保存され、やがて本人は亡くなり、その遺品は娘である前田美智代氏が引き継いだ。もっとも、その中身は深く確かめることもなく、押し入れに眠った。ところが、娘の美智代氏も高齢となって、ふと母親の遺品の整理を思いついた。そういう中で発見されたのが、新聞に掲載された何篇もの童話だった。地元の小学生たちが登場する形で描かれている。母親の作品が新聞にまで掲載されていたことを知らなかった。棄ててしまって良いのか。娘に名案が思いつく。自分が挿絵を描けば、書籍化できるのではないか。考えてみれば、自分はアメリカの大学で、本格的に絵を学んできた身だった。実際にはプロの画家として大成することはなく、絵画教室で教えていた実績が或る程度だった。自分の絵のタッチが、こういう童話の絵として相応しいかは微妙だが、血の通った母娘で“描こうとしていた世界”は十分に理解できる。こうして、美智代氏は童話用の15点の挿絵作品を描いた。そして、母娘の共同作品である童話を自費出版したのだ。63年の時を経て、母娘が一つの作品を形にしていく、何んとも“素晴らしい親孝行”のような気がするのは私だけであろうか。近年、プロ作家ではない人達による童話の創作・出版が盛んになっている。数年前には、貴乃花親方が“童話作品”を書籍化してことで話題になった。別に、文章が上手くなくても、小説的ストーリーが描けなくても、童話というのは誕生する。ストーリーそのものよりも、発想のユニークさや感性の豊かさが童話の大ヒット作品を生む。子供たちにとっては、誰が描いたかとかは関係がない。純粋に、自分の興味を引く作品、想像を刺激してくれる世界が描かれていれば、それで良いのだ。しかも、子供達に国境はない。どの国の子供でも、似たようなものに共感する。童話と挿絵作家が異なる場合もあるが、その場合には“共通の世界観”を持っていなければならない。そういう意味で、母娘は黙っていても通じ合う部分があり、最良のパートナーといえるのだ。

♪ちぎれるほど手を振る あなたの眼を見ていた

2020-12-26

昨日書いたことに続くようで、いささか気が引けるのだが、昨日、作詞家のなかにし礼氏が亡くなったので、昨日の続編のような形で「歌謡詞」について書く。私は20代半ばで「北海道作詞大賞」という“賞”をいただいている。その少し後で「日本作詞大賞新人賞」のノミネート作品にあがったこともある。だから、少しばかり“作詞”に対しては思い入れがあるのだ。実はノミネートされた時、日本作詞家協会の重鎮から「東京に出て来ませんか」と誘われた。「東京に出てくれば、いろいろな方に紹介してあげられます」とまで言われたのだ。けれども、私には、若い時に東京へと出て行った時の“嫌な思い出”があった。上野公園で寒さに震え、見知らぬ男性から、不意に抱き着かれた“嫌な記憶”しかなかった。怖気づいている私は、東京へと出れなかった。本当は、あのとき「作詞」と「占い」の両方で“腕試し”すべきだったのかもしれない。とにかく私は東京に出なかったが、もし作詞家を目指すのなら、“この人”のような作詞家になりたいと思ったのが、なかにし礼氏であった。それくらい私の魂を揺さぶったのが彼の作品群だった。一般的には阿久悠氏の方が知られているし、ヒット作品数が多いような気がするが、芸術的な観点から評価した場合には、文句なく、なかにし礼氏が抜きんでている。彼の作品の中で、芸術的な秀作としての三点を上げるなら「石狩挽歌」「別れの朝」「時には娼婦のように」の三つが好い。そのどれもに、歌謡詞でしか表現できない素晴らしい言葉の帯がある。例えば「石狩挽歌」には《 破れた網は 問刺し網か 》という一行がある。これは実際に漁をしていた漁師たちにしか通じない言葉で、一般の人には何が何だかよく解からない。けれども、この一行で、漁場の雰囲気すべてが伝わってくる。そういう“情景描写”を描かせたら、なかにし礼氏の右に出る者はいないのだ。「時には娼婦のように」という歌も素晴らしい歌詞で、私が何より素晴らしく思ったのは《 バカバカしい人生より バカバカしいひとときがうれしい 》という一節だ。ここには何の情景描写もない。単なる心象風景だ。けれども、ここには多くの人が語りたくても語ることが出来ない人生の不条理が凝縮されている。人は誰でも、よわくて、もろい時がある。そういう時に、人は“娼婦”の癒しを求めようとする。けれども、この物語の男女は、共にまともなカップルであって“娼婦”と“その客”ではない。だから「時には娼婦のように」なのだ。そして「別れの朝」だが、これは曲も素晴らしいのだが、特に《 ちぎれるほど手を振る あなたの眼を見ていた 》という一行が効いている。ちぎれるほど手を振っている相手と、その相手の眼だけを見つめ続けている自分とがいる。その両方を一行の中に見事に描き出している。普通は「手を振る」相手に対しては、その「手」の方に視線がいくのが普通だが、深い愛で結ばれた二人の場合だけが「眼」だけを見つめている形となる。映画なら、カメラを何台も用意して、さまざまな角度から、撮らないと描けない描写なのだ。

「みたらし団子」&「ドルチェ」が走る⁉

2020-12-25

桑田佳祐氏が作詞・作曲し、坂本冬美氏が歌唱し、ミュージックビデオには戸次重幸氏も出演する「ブッタのように私は死んだ」が、公開一か月半で再生回数100万回を突破したという。最近では瑛人氏の「香水」が爆発的ヒットとなったが、それに続く可能性が出て来たのが、この楽曲である。今年は何もかもが“リモート化”して、社会全体に或る種の“空虚感”が漂っている。実態を肌で感じられない、もどかしさがあるのだ。そういう時代となって、近年はどちらかといえば隅に追いやられてきた「具体的な名称」「リアルな感覚」の歌詞が多くの人の心を捉えた。「香水」では、言うまでもなく「ドルチェ&ガッバーナ」という“ブランド名”が印象に残る。また「ブッダのように私は死んだ」では、死後の言葉としての「みたらし団子が食べたい」が妙に効いているのだ。そう、人は最終的に、個人的に“好きなもの”“嫌いなもの”“欲しいもの”“忘れられないもの”などがある。死ぬ直前まで、それが気に掛かってならないことなどがある。それは個々に異なるもので、一時期、流行っていた“みんなに共通”などと言うようなものではない。“みんなに共通”なものや世界を描こうとするのは「みんなに好かれたい」という気持ちの表れで、どこか芸術として純粋ではない。だから、“みんなに共通”なものを描こうとすると、かえってみんなのこころには届かない。「ドルチェ&バッカーナ」や「みたらし団子」は、誰でもその名前だけは一応知っているが、好むかどうかは“その人しだい”なのだ。だから、かえって、その人の実像がイメージしやすい。自分は好まないが、そういう人が“そういう気持ち”をいだくのは理解できる、という好かれ方なのだ。「昭和歌謡」が年齢層に関係なく、当時の世相を牛耳って多くの人達に歌われたのは、常に、そういう“具体的名称”が歌詞の中に入っていたからだ。その方が“人生ドラマ”としてもイメージしやすい。最近の歌詞は“抽象的な言葉”を使い過ぎる。例えば「永遠に…」とか「真実の…」とか、聴く側には何が“永遠”なんだか、何が“真実”なんだか、さっぱり伝わらない。だから、ほんとうの大ヒットにならない。本当の“永遠”は死後に訪れるのだろうし、本当の“真実”は別れた後に実感したりする。経験談、特に失敗談は、どんな“理想論”よりも胸を打つ。人は一人ぼっちでいる時に“孤独”を感じるのではない。大勢の中の“独り”を感じた時に、たまらない孤独を感じるのだ。

参院選に「壇蜜」が自民党から出馬する⁉

2020-12-24

来年の参院選にタレントの壇蜜氏が「自民党から出馬する」という報道が「東京スポーツ」に掲載されている。出処が「東京スポーツ」ということで、怪しむ人が多いかもしれないが、私は、その可能性は大いにある、と思っている。それは彼女の仕事の“択び方”が、最近、妙に“おかたく”なって来ているからだ。例えば、昨年から防衛相の「自衛官募集」のCMキャラクターを務めている。さらに、自ら、陸・海・空の各自衛隊に“体験入隊”しているのだ。これは“政治的思想”を少しでも抱かなければ、なかなか実行できないことで、かつて作家の三島由紀夫氏が“体験入隊”を行い、その後に市ヶ谷の自衛隊本部に乗り込んで“革命を促そうとした”事件があった。男性ならともかく、女性は通常、体験入隊など好まない。彼女が現首相である菅氏と同じく“秋田出身”であることも、その可能性を暗示する。地元出身の首相から“お願い”されて、断れるようなタイプではない。既に自民党本部には「壇蜜」の自衛隊ポスターが堂々と貼られている。最近は「JA全農秋田」や「JR九州」のCMキャラクターとしても起用されていて、“脱がない壇蜜”になっている。もし、出馬するとすれば、自民党本部の方で考えているのは「東京選挙区」か「比例の全国区」か、どちらかということになる。東京選挙区は、これまでの定数「5」から「6」へと“一枠”増えることになっていて、そこに登場させようというのだ。また比例区の場合には、全国的に知名度があり、女性からの支持も熱いところから、最高得票を期待できるという読みもある。ただ壇蜜氏は、元々が「ハダカ」でのし上がった人物で、そこに各種団体から“拒否反応”が出てくる可能性もある。それでも、私がその可能性を「あり」と視るのは、この人の人生の“歩み方”にある。タレントとして売り出す前にも、さまざまな職業に就いていて「新たなる世界」に対しての抵抗感がない。タレントになってからも、最初はグラドルだったのが、いつの間にか女優業もやり、バライティの司会をしたり、エッセイストの顔を持ったり、ナレーターもこなしたり、なかなかに器用でもあるのだ。しかも、自分の意見を“声高に主張”するのではなくて、こそっと耳打ちするような、そういう奥ゆかしさもある。もっとも、さまざまな遍歴を持っているということは、長続きしない可能性もある。それでも、虐げられてきた女性達の“声を拾う”役割としては、もっともふさわしいと言えるのではないだろうか。

“コロナ”が「独立・フリー」を速めている

2020-12-23

このところ著名芸能人の事務所からの“独立”“フリー”の報道が多い。昨日も、大手芸能事務所「太田プロ」から女優の前田敦子氏の今年いっぱいでの「独立・フリー」が公表された。今年に入って、独立したり、フリーとなったり、完全引退したり、休業したり…といったニュースが雪崩式に繰り返されている。もちろん芸能事務所が、そういうことに対してオープンになったということもあるのだろうが、比較的、これまで事務所との関係が良好だった人たちまで、申し合わせたように独立している。今年の“コロナ騒動”によって打撃を受けたのは、飲食店や観光産業だけではない。芸能関係のイベントも、舞台も、公演も、その多くが中止や延期となった。これまで“ファンの身近に居る”ことが“売り”だったアイドルも、歌手も、芸人も、アスリートも、距離を取らざるを得なくなった。若手“売り出し中”の芸能人を多数抱えている芸能事務所にとって、大物たちの“稼ぎ”が事務所の経営を支えてきたわけで、イベントなどがことごとく中止になると、大きな収益源を失うことになる。年棒を公開している“野球”などが良い例だが、必ずしも大活躍したからといって、人気球団に所属していなければ、その年棒は抑えられる。ましてや今年のように“無観客試合”なども行えば、大幅収入源で、活躍した選手に出したくても出せない球団事情が生じる。芸能事務所も同じことで、抱えている“社員”としての“若手芸能人”に“ギリギリのライン”は出さなければならない。高所得者の大物たちには、普段は受けないような仕事でも“受けてもらう”などの負担が生じやすい。既に名前が売れている芸能人であれば、独立してフリーとなっても“仕事が舞い込む”かのような幻想が生じやすい。何よりも、“受けたい仕事だけ受けられる”という特典が生まれる。もっとも、現在のように、景気そのものが停滞してしまうと、スポンサー企業がどんどん離れていく可能性が強く、名前があるから大丈夫な芸能人は少ない。それでも「自由を択ぶ」芸能人は急速に増えている。一般企業でも、同じような現象が目立ちつつある。さまざまな制約を生む“コロナ事情”の中で企業の言いなりになるより、独立して“自分の能力を試したい”と思う人は多くなる。「出社する」ということが乏しくなった企業や職種では特にそうである。会社に行かなくても収入が得られる、という快感を一度味わってしまうと、人はどうしても、そういう方向へと舵を切りたくなるのだ。おそらく、現在のような“コロナ事情”が来年も続いていくなら、一気に独立やフリーを目指す人たちが増えていくだろう。

「善意」踏みにじる“やりきれないニュース”

2020-12-22

世の中には「善い人」もいれば「悪い人」もいる。だから、仕方がないと言えば仕方がないのだが、せめて“ここだけ”には悪いことを持ち込まないで欲しい、と思う場所がある。例えば「子ども食堂」だ。もちろん「子ども食堂」というのは、家庭的に十分な食事など与えられない子供たちを対象とした「ボランティア食堂」のことである。東京板橋の「まいにち子ども食堂高島平」も、そういうボランティア食堂の一つだ。けれども、最近になって、ここを運営するか理事一同から「謝罪文」が出た。12月に不祥事が生じたためだ。どういう不祥事かというと、このNPO法人の前理事長が、ここで働くボランティア女性に対して“性暴力”を働き、その女性からの告発によって調査したところ“事実”であることが確認された。したがって前理事長を解任し、その女性に深く謝罪したうえで“新たなる出発”を誓うという内容である。何んともやりきれない謝罪文なのだ。基本的にNPO法人には“支援金”が出るが、たいていの場合にはそれでは不足で“持ち出し”を加えて運営している。現在の日本は、世界的に視ると“裕福な国”の一つとされてはいるが、その実態は平均すると決して裕福ではない。最近ではアジア諸国の方が経済的発展がいちじるしく、既に“追い抜かれている”かのような部分も少なくはない。近年は“ひとり親家庭”も多くなっていて、どうしても経済的な弱者に陥りやすい。そういう中で自発的に各地で続々誕生しているのが「子ども食堂」なのだ。したがって、ほとんどの場合には「善意」で働いている方達が運営している。どのNPO法人でも、運営という点になると少しでも“経営者”として経験を持っているような方を理事長にさせたがる。その方が対外的にも都合の良いことが多いからだ。したがって、中にはボランティアにはそんなに興味が無いのに、名前だけ貸しているような理事長も出てくる。そういう場合に、今回のような“善意を踏みにじるような行為”が行われやすい。この法人が実際にそうだったかどうか知らないが、少なくとも前理事長が、他の方達が居ないところで、そのボランティア女性に対して、予期せぬ形で“性暴力”に挑んだことは間違いがない。ボランティアというのは「信頼」で成り立っている世界なのだから、その「信頼」を奪ってしまうのは、何にもまして罪が重い。

マスコミに踊らされる「菅政権」黄色点滅

2020-12-21

「菅政権」の支持率が急落している。今月19日20日に行った朝日新聞の調査で11月は「56%」だった支持率(不支持は20%)が、12月は「39%」(不支持は35%)になった。一番の原因は「GoToトラベル」のようである。まあ、そのこと自体は致し方がない。「やる」といったり「やらない」といったりで国民が混乱したのは間違いがない。ただ、この支持率の急落にはマスコミが多いに関わっている。最初の頃、マスコミ全体が連日にわたって「GoToトラベル」「GoToイート」の大宣伝を行っていた。当初は、批判など全くしていなかったのだ。それが12月に入って「感染者数」が再び増えて来て、“旅行”や“飲食”が増えたからだという指摘を視聴者たちから受け、それまで“宣伝役”を買って出ていたマスコミたちは、自分たちに矛先が向かうことを怖れ、いっせいに「菅政権」批判へと切り替えた。その結果としての“支持率急落”ではないか。「国民の声」を代表するのがマスコミかもしれないが、その“豹変ぶり”はあまりにも露骨である。もちろん「菅政権」が後手に回ったのも悪い。ただ、マスコミが“世論を誘導した”ように視えることも事実なのだ。マスコミ自体が、それに気付いていて、自らの在り方も“反省する”なら良いのだが、おそらく反省などしないことだろう。そこに問題がある。実は、現在、日本だけでなく、世界的に「トップ」の支持率が急落している。しかも、その多くはこの“感染症対策”が原因になっている。前例が乏しいだけに、どこの国も、どう舵取りをして良いのか“手探り状態”で政策を決断しているというのが実態のようだ。そういう意味では、別にマスコミから叩かれようが、支持率が急降下しようが、そんなに慌てることはない。むしろ、支持率に右往左往する方が見苦しい。それよりも、マスコミに“左右されない方針”をじっくり打ち出していく、という姿勢が望ましい。大体、日本のマスコミは「菅義偉氏の首相誕生」を持ち上げすぎたのだ。本来、サブリーダー型で、国のトップに立つべき人物ではない。それを、かつての田中角栄氏と“同等な人物”でもあるかのような“持ち上げ方”をしていた。もともと田中角栄氏とは「器の大きさ」が異なる。彼は三十代の時から「将来の総理大臣」と嘱望されていた。是非はあるかもしれないが、運命的な観点から言って「大物」であったことは間違いがないのだ。そういう風な観方からすると、菅義偉氏は最初から「大物」として政界に乗り出したわけではない。彼だけを責めるのは、酷なのだ。

知らずに「コロナ」“贈った”サンタクロース

2020-12-20

クリスマスの季節になると、さまざまなところに「サンタクロース」が出現する。今年は、どうなのだろう、と誰もがいぶかしむ。けれども、そう考えるのは日本人くらいで、欧米人は実際のところ、あまり気にしていないようだ。それが悲劇を生むこともある。アメリカのジョージア州では毎年、12月10日、サンタクロースが参加してのクリスマスパレードが行われる。今年も、もちろん、パレードは行われた。サンタクロースとミス・クロースとに扮した2人の男女が、子供達に“大人気”だったのは言うまでもない。50人の子供たちが、サンタクロースと一緒に写真を撮った。さて、その直後に、なぜか終わってから“PCR検査”が行われた。そして2人共「コロナ陽性」だったことが判明したのだ。もちろん、サンタクロースやミス・クロースの役なので、マスクは着用していない。その結果、一緒に写真などを撮った50人が“濃厚接触者”となった。サンタクロースに、子供たちが“距離”など取るはずがない。同じようなケースはベルギーでもあって、小さな町の介護施設に現れたサンタクロースは入所者たちを“楽しませ”“励まそう”としていた。けれども、彼もまた、あとから“PCR検査”を行い“陽性”であったことが確認された。その結果、その施設内の75人が感染し、うち一人が死亡してしまった。どうして、行く前に“PCR検査”をしないのか理解できないが、今年のサンタクロースには、知らずに「コロナ」も一緒にプレゼントしてしまう不届き者が多い。まあ、しかし、日頃から元気であれば自分が“コロナに感染している”と気付かないケースも多い。がんなどでもそうであるが、知らずに掛かっていて、知らずに治ってしまう人もあるのが“病気”の不可思議なところで、必ずしも医薬だけが絶対ではない。現代は「早期発見」が声高に叫ばれているが、その人の体質によっては、いつの間にか“病気”になっていて、いつの間にか“病気”が治っているケースも稀ではない。人間の身体には元々“再生能力”がある。その人の体質によって、或いはその病気の種類や箇所によっても、自然に回復できる場合と、出来ない場合とがあるが、本能的に備えている“再生能力”を軽んじてはならない。パソコンが故障した時「再起動」を掛けることで機能を回復できることがあるように、人間の身体にも“再生機能”は潜んでいるのだ。

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