10月, 2023年
2023-10-31
漫画のヒーローだった人物が実在でも活躍する‼ ということでリングに登場した初代タイガーマスクはあっという間に子供たちの心を掴んだ。今からもう40年も前の話だが、タイガーマスクのデビューはなかなかに華やかだった。それもそのはず、当時すでにタイガーマスクは別の名前で欧州のリングで人気を博していたのだ。それを急きょ日本に呼び寄せて「タイガーマスク」の覆面を被らせた。あまりにも急だったので、覆面は急ごしらえで顔の寸法、特に眼の位置に合っていなかった。それでも、日本に戻ってアントニオ猪木氏をしのぐほどの超人気者になった。何よりも、その華麗な空中殺法が子供たちの心をとらえたのだ。ただ通常のプロレスラーとしての活躍の期間は短く、その後は次々と姿を変える形で“新たな格闘技”を追求していく人物として注目された。そんな佐山聡氏だが、今また新たな格闘技イベントを開催している。ただし、本人はもう動けない。あれほど鮮やかに飛び回っていた彼自身は何故か動けなくなっていた。病魔に襲われているのだ。おそらくパーキンソン病ではないかと言われている。さまざまな検査の結果は11月に判明するらしい。格闘技者にはなぜか途中から“謎の病気”に襲われる人が多い。師匠ともいうべきアントニオ猪木氏も、その晩年は動けなくなってしまった。肉体を酷使しすぎたことの代償なのかもしれない。医学の世界は日進月歩で新しい療法や薬品などが次々と開発されているが、それでいながら原因不明、治療法不明のまま放置されている病気も多い。パーキンソン病などもそういう病気の一つだ。佐山氏自身は「絶対にカムバックする」と宣言した。昔、子供たちのヒーローだった佐山氏は、いまや同じようにさまざまな病気で身動きが不自由となっている人たちのヒーローになれるだろうか。その動きは天才的と称された人物だけに、前人未到の“蘇えり”を示すことが出来るか、師匠ともいうべきアントニオ猪木氏が草葉の陰から見守っている……。
2023-10-30
わたしのように、それほど政治に関心が無い者でも、今や自民党の次に支持者が多くなりつつあるのが「日本維新の会」だということは知っている。ところが、最近、どうも「維新」の雲行きが良くないというか、評判が良くないというか、一時期ほどの“勢い”がない。そういえば鈴木宗男氏の“離党”にしても、最初は「除名だ」と叫んでいたのに、実際には“離党”という穏やかな処分になった。ひょっとすると幹部は何か“弱み”でも握られていたのだろうか。その「維新」だが、今回、売り物の“身を切る改革”ということで「企業・団体からの献金の受け取りを全面的に禁止する」と打ち出した。献金を受け取ることで、その政策や方針に影響がもたらされることを避けるためだという。ところが、なぜか“個人献金”に関しては禁止しようとしていない。これでは名称を変えれば、そのまま献金が通ってしまう可能性がある。というか政治団体が、どこからの助成も受けず成り立つものなのか、大いに疑問ですらある。最近、維新では所属議員が地元市議を公設秘書として雇っていたとして問題となった。また大阪府議によるハラスメント行為というのもニュースになった。それらよりも大阪府民が問題としているのは、大阪万博開催に関しての予算計上が当初言われていた金額よりも、はるかに大きく変わりつつ問題のようだ。とにかく、一時期のような“熱烈な支持”というのは無くなってしまった。最近は吉村知事も今一つ元気がない。ハッキリ言えば馬場伸幸氏が代表となって、なんとなく「維新の色合いが変わりつつある」ような印象を受ける。元々、維新の会は橋下徹氏と松井一郎氏のコンビが創始し、牽引してきた。この二人が“その屋台骨”を背負っていたような気がする。いまやその両翼がない。どうも、キャラクターの濃い人たちが次々と抜けていって、その存在感が微妙に薄れつつあるような気がするのは私だけなのだろうか。それに私はいつも思うのだが、政治って、そんなに“きれいなまま居られる”職業なのだろうか。昔、わたしは「清濁を併せのむ」ということわざの意味がよく解からなかった。けれども、だんだん齢が行くにつれ“この言葉”の持っている奥の深さを感じるようになった。「清濁を飲めるって素晴らしい」と感じるようになった。政治家は、とてもヘンな言い方だが“そういう人たち”が行わないと結局は行き詰まってしまうもののような気がする。
2023-10-29
どうも、こういうことを書くのは気が重い。だが警告を含めて書いておこうと思う。10月下旬に静岡市にあるホストクラブ「RE:MAKE」の従業員寮の浴室で一人のホストが死亡した。静岡大学に通う現役の大学生でもあった太田琢巳氏(23歳)である。全身火傷を負ったまま浴槽内に放置された状態で死亡していた。彼の死に関わったと思われる6人のホストが既に逮捕されている。被害者が在籍していたホストクラブは周辺からの評判が悪く、その営業の仕方も“本来の接客業”の在り方を逸脱していたようだ。その店のトップが日頃から気に入らないホストを代わる代わるイジメていたらしい。亡くなった太田氏は熱湯を全身に浴びせられ、そのまま放置されたようなのだ。これまでにも救急搬送された従業員など居たという。近年、ホスト産業は“花盛り”のようで衰える気配は視えない。当然、それはお金を出して“そこに通う人々”がいるから成り立つわけで、つまりは女性たちが通っているからだ。それだけ日本の女性たちも経済的に余裕が出て来ているのだと思う。女性たちに経済的な余裕が出て来ていること自体は“悦ぶべき”かもしれないが、何となくスッキリしない。本来の“恋愛の季節”たる20代や30代が“アイドルの推しメン活動”や“ホスト通い”に姿を変えているような気がするからだ。先日視たドキュメント番組では東京には8000人~10000人ものホストたちが居ると言っていた。そんなにもの数が居て商売として成立していることが或る意味では不思議な気がする。もちろん、一般の女性たちよりも、水商売とか風俗とかの女性たちが客層としては多いという事情は知っているが、それだけの数が居て、一般女性が“ほんの一握り”に限られているはずがない。その結果として、一部の有名ホストは芸能人以上の人気と収入を得ている。別に、それ自体が悪いとは思わないが、ホストの数が多くなれば、当然、その入れ替わりも激しくなり、きちんと管理された芸能界などと違って、トラブルも発生しやすくなる。今回の事件は、或る意味でそういう“いびつな競争社会”の中で生れた一つのモデルケースに過ぎない。これからも“ホスト産業”が定着していく以上、もう少し業界としての管理体制を整えないと、同じような事件は今後も出て来るだろう。
2023-10-28
伊藤園がカテキン緑茶のCMとして日本初の“AIタレント”を起用したことで注目されている。実際のCM動画を視てみたが、何も言われないとAIタレントだとは気付かない。何となく「有名ではないけど健康そうなタレントさんだな」という認識で視てしまう。これは実験的なCMとして流されたというよりも、今後増えていくに違いない“CMのカタチ”に踏み込んだといって良い。伊藤園が言うように「純粋に商品自体の効能をアピールしたい」場合には、個性の強いタレントは必要ないわけだ。むしろ、そのイメージが邪魔になることもある。要するに、AIタレントとは感じさせない“健康的な女性”が飲料して、その効果が“表われている姿”を伝えることが出来れば十分なわけだ。しかも、コスト的にはだれもが知っている有名タレントを起用する時の“十分の一の価格”で済むらしい。う~む、AIタレント怖ろしや。本来はアパレル企業などで起用するところが増えそうだという。さまざまな人種や年齢や体形などに応じることが出来るからだ。その制作期間も、実在タレントを使うより短期間で可能なようだ。ただ法律的にはクリアしていかなければならない問題もあるらしいので、その辺で一気にとはならないだろうが、確実に増えていくことは間違いないだろう。そこで私は思うのだ。占いの世界でも、今後、数十年経てば「AI占い師」が活躍できる時代がやって来るだろう。わたしは以前、ソフトの企業から依頼を受けて共同で「占いソフト」と呼ばれるものを多数提供した。ただ、その時、ただ単に個々の“意味だけを詰め込む”やり方だと、AI占いは失敗することが判明した。あらゆる可能性を文字化してしまうので、何が何だか判らない回答となる。つまり実際の占い現場では、その人のその時に応じた微妙な回答の選別が必要なのだ。それも瞬時の選別が必要なのだ。また、同じ占い内容でも年齢とか性別とか環境とか職業によっても、判断は微妙に異なってくる。それらを考慮できなければ、実際の相談事には応じられない。あれは今から30年も前の話だから、現在のAIとは異なる。現在のAIは驚くほど進化し、学習能力も高い。したがって、今すぐはムリでも何十年か先には間違いなく、その人にとってもっとも相応しい回答を与えられるAI占い師が誕生しているはずだ。癒し能力だって、AI占い師の方が人間占い師よりもはるかに優秀になれそうな⁉
2023-10-27
このところ季節は急速に進んできている。「秋」の終盤を“駆け抜けていく”という感じだ。今年は「夏」が長かっただけに、よりいっそう「秋」が短く感じられる。ところで私は今年中に“新刊”を出す予定でいる。もう書き上がって出版社に預けてからそうとう経つ。実際、出版社カタログの新刊予告は5月ごろから出ている。最初は「夏」には出る予定だったのだが、それが「秋」にずれ込み、もしかすると「初冬」にずれ込みそうな雲行きなのだ。何が遅れている原因かというと、今回の本『「結婚」占星学の奥義』は実例としてのホロスコープ図解が多い。わたしは数えたことがないが出版社によると149例が載るらしい。したがって、それらのホロスコープ図解に手間取っているのだ。今回のホロスコープ図解は、わたしの希望でなるべく“多数載せる”ということだけでなく、それぞれの章によって“異なったスタイルのホロスコープを載せる”つもりでいる。それは、その方が解かりやすいからだ。何よりも「解りやすく書く」というのがわたしの望むところだ。そのため章ごと“理解しやすいホロスコープ”で表すのが著者の使命だと私は思っている。ほとんどの占星学書は、どのページを観ても掲載されているホロスコープは“同一形式のモノ”だ。それは基本的に出版社の方でホロスコープの原盤を作っていないからである。いや作っていても、読者に解かりやすいホロスコープを提供しようとしていないからだ。それぞれの章ごと“観察すべき部分”が違うのだから、ホロスコープも微妙に異なっていなければならない。パッと見で“解りやすいホロスコープ”を提供している占星学書はまことに少ない。それは著者たちがどこかに読者たちは「通常のホロスコープは読めて当たり前」という意識があるからだ。わたしは“奥義書”を書いているのだが、それでも入門間もない方が読まれても“内容が把握できる”ことを基本として書いている。ほんとうの奥義や秘伝というのは、読んで解からないことではなく誰でも読めて意味することも解るが、それでいて“それ”を実践に活かしていくのが難しい技だ。書いてあること自体が“わからない”のは秘伝でも奥義でもない。多数の実例を載せるのは、実証性の意味もある。多くの人で当てはまっていなければ心から信用することはできない。そういうわけで、確かに時間が掛かっても仕方がないのだが、今年中には出て欲しい。
2023-10-26
手相に“運命が刻まれる”ということに関しては、肯定派も否定派もいると思うが、手相と運命の関係を“改めて考えさせる”のは、作家の佐藤愛子氏と女優の草笛光子氏である。ふたりとも昔なにかの雑誌だったか書籍だったかで“その手相”を公開している。その二人がこの映画の原作者と主演女優となる。佐藤氏のベストセラー『九十歳。何がめでたい』が映画化されるのだ。その佐藤氏の役柄を草笛光子氏が演じる。草笛氏は実際に10月22日に90歳を迎えている。一方の佐藤氏の方は11月5日にちょうど100歳を迎える。つまり『何がめでたい』を書き上げてから、もう十年も経っているのだ。しかも、現在も仕事を続けている。すごい生命力だ。この生命力の源にあるのは彼女の持つ「二重頭脳線」にあるのかもしれない。よく二重頭脳線を“優れた才能”や“社会的成功”の証しとして記している手相書があるが、必ずしも、二重生命線があるから“大成功する”とは限らない。ただいったん成功した場合、長続きしやすい特徴を持っている。そして何よりも重要なことは「頭脳が衰えない」という点だ。佐藤氏が100歳で現役で居られるのは、彼女が二重頭脳線であったが故なのだ。生命線が力強ければ、ヘンな言い方だが生きてはいける。けれども、肉体的に生きて行くことと、頭脳明晰に生きていることとは大いに異なる。二重頭脳線は、その点が強いのだ。一方の草笛氏の方も素晴らしい手相の持ち主だった。特に私が感心したのは“多数の太陽線が存在する”ことだった。通常、何本かの太陽線が存在する場合、1~2本は力強くても、それ以外は“付け足し”のような感じで刻まれる。ところが、彼女の場合には5~6本ある太陽線すべてが力強かった。勢いよく薬指の根元まで刻まれていた。いかに彼女がその晩年においても“輝かしい存在”で居られるかを暗示していた。もう40年以上も前の手型である。現在90歳だから、その当時で50歳くらいだろう。つまり50歳くらいの時点で、今日の90歳における輝かしい状態を指し示していたということになる。佐藤氏も草笛氏も、頭脳だけでなく、その容貌もあまり衰えていない。通常、90歳とか100歳とかと言うと皺くちゃなものだが、お二人の場合には“そういう部分”がない。おそらく、それは“第一線での活躍”を続けているせいだろう。そういう意味では現役で働き続けるということは、頭脳だけでなく外貌を保つ上でも大いに有効なのだ。
2023-10-25
或る調査機関が最近行った調査によると、20代から30代で5年以内に入籍した既婚男女の統計によると、都市部に居住する既婚者の場合「結婚披露宴」を行っていない人が約3割に達しているという。しかも実際に行っているのは5割強で、それ以外のカップルは「一応、考えている」という人たちだ。その一番の理由となっているのは、挙式披露宴に掛かる金額が平均で300万円にも達するからだ。これでは経済的に余裕のない若いカップルが簡単に結婚披露宴を行うのは難しい。昔から、こんなに高かっただろうか。正直、わたしは二度結婚しているが、その一度目は羊ヶ丘の教会で挙げた“簡素な結婚式”で確か14万円(⁉)くらいだったような記憶がある。二度目は入籍だけで済ませた。したがって、わたしに“これ”を論ずる資格はないが、どんなに華やかな結婚式を挙げても、離婚する人は離婚する。ましてや、この調査によれば、当然なのかもしれないが平均300万円の結婚式費用を、その7割方は“親が援助して”成立している。実際よほどの高給取りとか自営の成功者でなければ“自分たちで賄う”のは難しいはずだ。バブルの頃には、結婚式に金を掛けただけでなく、その新婚旅行にも金を掛けた人たちが多かった。ハワイなど海外旅行が当然の時代もあった。そういう時代があったことを想えば、いまの若いカップルは堅実な人たちが多い。もっとも、いまの若い人たちの収入が乏しいのかと言えば、必ずしもそうではない。岸田政権は、国の税増収分を“国民に還元する”政策を掲げているが、それだけ大企業などの税収入が増えていることを意味する。多くの企業が利益を出して潤っていなければ還元など出来ない。それは、そのまま給与ということで働く人たちにも反映されているはずなのだ。したがって、若い人達でも高給取りはたくさんいるはずだが、その比率が少ないから“不満の声”が多いということになる。もう一つはSNSの発達によって、結婚を知らせる手段が無料で出来るようになったことだろう。さらに結婚披露宴などしなくても“挙式写真”は載せられる。時代と共に“結婚観”や“家族観”の捉え方も異なっていき、遠からず“披露宴なき結婚”が主流となるだろう。
2023-10-24
池波正太郎、三島由紀夫、吉行淳之介、川端康成……多くの文豪たちが利用した東京の「山の上ホテル」が来年2月13日で「全面休館する」と発表した。竣工から86年を経過し、老朽化が進んでいるので、今後どうすべきかの検討に入るらしい。確かに86年も経てば、本来なら“建て替え時期”に来ている。考えてみると、重厚なホテルビルというのは“そのくらいの年月”は丁重にメンテナンスしていけば“生きながらえる”ように出来ている。人間と同じだな……という感慨を持つ。ただ人間と同じように、歳月が経てば老朽化が進む。昔の“華やかさ”は感じられない。確かに、このホテルは多くの文豪たちが利用したのだが、それは“昭和の時代までの作家たち”で、平成から令和の時代に活躍する作家たちではない。実際、ホームページで提供している画像を観ても、どの部屋も部分的にリフォームはしていても、古びた印象は免れない。それに客室はどの部屋も狭くてインテリアなどにも豪華さはない。昔の作家は、俗にいう“カンヅメ”となって締め切りに合わせ書き上げるには良かったかもしれないが、優雅にくつろぐための部屋にはなっていない。ただ、このホテルはアールデコ様式で建築されていて、そういう意味でクラッシックな外観や内装を好む人にとっては貴重なホテルだった。ところが、ホームページが提供している部屋の写真などを観ても、あまり“アールデコ”が感じられない。もしかすると、何回か内部改装は行っているので、その時に本来の形は変えていったのであろうか。せっかく“クラッシックモダン”という美の形式で建てられたホテルなのに、それが失われてしまったら“売り”とする部分が無くなってしまう。もしも、今後、もう一度改修するとか、建て直すとかするなら、もう一度、原点であるアールデコ様式が徹底したホテルで建て替えて欲しい。現代のホテルは、どこも機能的には素晴らしいが、外観や内装において“眼を見張るような美しさ”を感じさせるホテルが乏しい。特に近年の日本のホテルは機能性ばかりが追及され、外観や内装やインテリアの“圧巻の美しさ”を感じさせるホテルを見たことがない。日常を忘れさせてくれるホテルの役割からも“無駄な美しさ”にぜひ大金を投じて欲しいものだ。
2023-10-23
最近はどの業種でも「地球温暖化」に対応する工夫を凝らさなければならない。そこで建設業界では“鉄筋コンクリート”よりも“木材”で造る方が、地球環境には優しいらしい。そうすると高層ビルなんかも「木材を使って造りましょう」という発想が生まれる。発想が生まれているだけでなく、既に造られ始めている。もっとも、、いくら木材が良いと言っても、全部を木材にしてしまうと、高層ビルなど建てられるはずがない。柱やコアな部分は鉄筋で、それ以外の半分くらいを木材で…という外観となる。そういうことでオーストラリアのパースでは、高さが191mという超高層ビルの建設計画が承認された。何しろ50階建てである。その中には200戸以上の“集合住宅部分”も含まれる。ただ実は札幌にも、既に地球環境に優しい“木造ビルマンション”というのが、有名建築家の設計で建てられているが、なぜか2億円以上もする高額物件が多く、しかも外観がどうも私には“貧相”に視えるマンションなのだ。東京で最近建ったホテルなどでもそうだが、木材を多用すると、どういうわけかその外観は“貧相”な印象を受けるのは私だけなのであろうか。このビルが30年ほど経ったとき、どう視えるのかを想うと、わたしならそれほど高額な物件を購入しようとは思わないが、地球環境のことに眼のない人たちにとっては“素晴らしい物件”と映るのかもしれない。たとえば今回のオーストラリアの木造ビルの場合、現在まで建っている“木造ビル”に比べて、約2倍以上もの高さががる。オーストラリアは地震が少ないのかもしれないが、木造ビルの耐震性というのはどうなっているものなのか、それよりももっと気になるのは、万一、火災となった時、はたして木造ビルは「あっという間に全焼してしまう心配はないのか」という不安が横切る。どう考えたって、木造ビルは“火に強い”とは思えない。しかも、50階建ての高層階で火柱が上ったら、そう簡単に消化できるとも思えない。その辺のところは、どうなっているのだろう。こうして徐々に街中に“木造ビル”が増えていったなら、いまとはまた違った街の外観が形成されるだろう。それは30年後だろうか。それとも50年後だろうか。それとも、途中から新たな材質に取って代わられるのだろうか。いずれにしても50年後のビル群を、当然のことながらわたしは視ることが出来ない。
2023-10-22
世界のいろいろなところで「境界線」というものが問題になっている。パレスチナとイスラエルなど2000年以上も“境界線”で揉め続けている。ロシアとウクライナも結局のところ“境界線”で揉め続けているわけだ。昨日は「日本保守党」が街頭演説をして、他の保守党との“境界線”を、解かったような解からないような主張で喝采を浴びた。もう一つ、きのう、20人ほどのほそぼそとしたデモが行われた。ところが、このデモに対して“抗議する集団”が、それよりもはるかに数多くの人数で“デモ阻止”を叫んでいた。要するに、ほんとうのデモの方は「女性スペース」の利用は「生物学的な女性に限らせて欲しい」という訴えを掲げているデモで、女性と子供の権利を考える団体が主催して行ったものだ。ただ意外なほど参加者は少なかった。それに対して、そのデモそのものが「差別」や「ヘイトスピーチ」に当たるという主張を展開する人々が“抗議に集まった形”のようであった。彼らの方は主として“トランスジェンダーの支持者たち”のようであった。ただ本来のデモ主催者によれば、別にトランスジェンダーを排除する目的ではなく、本来の「女性スペース」は“身体的な女性”だけが利用できるスペースに戻してほしいという“お願い”のデモであるという。ところが、デモの直前に、タランスジェンダー支持者たちから、そのデモに参加する女性たちは写真に撮って顔を晒す……という予告があったらしい。つまり「女性スペース」にトランスジェンダーを入れないのは差別だという考え方だ。これは、なかなか難しい問題で、もし「心は女性だ」という“いかつい身体の人物”がいた場合、その人物も入って良いことにしてしまうと、本来の女性が“デリケートな問題”で使用したくても、使用しにくいという問題が起こりやすい。そういう意味で“身体的な女性”だけを……という“お願い”には正当性があるよう私には感じられる。ただ、それがあちこちに存在してしまうと、それはそれで“差別的な印象”を与えないとも限らない。どうも、最近はどの世界でも「境界線」が怪しくなってきていることは間違いがない。そのうち、どの世界であっても「境界線」は、あるようなないような微妙な感じへと変わっていくような気がするのだが………。
2023-10-21
歌舞伎役者・市川猿之助の母親・父親に対しての「自殺ほう助罪」に対する裁判が行われ、検察側は「懲役3年」を求刑、弁護側は「執行猶予」を望み、11月17日に判決が下されることが決定した。妙な言い方であるが、今回の場合、犯罪は犯罪だが、自らも死のうと決意して「死にきれなかった形」で、一家心中を試みて、自分だけが「生き残ってしまった」ちょっとバツの悪い“自殺ほう助罪”になってしまった。ただ猿之助氏にとってプラスに働いたのは、その後すぐに「ジャニー喜多川氏の性加害問題」が大々的に取り上げられ、そちらの方に世間の関心が移り、それと比べると猿之助氏の「ハラスメント」に関しては“たいした問題ではない”かのような印象を与えることになった点である。実態はどうか知らないが、何らかのハラスメントがあったことはあったのだろうが、今回はそう言うことでの「罪」ではなくて、あくまでも“自殺ほう助”としての罪と罰である。おそらく、家族間での“心中話”だった点も考慮に入れると、彼の場合には「執行猶予」がつくのではないかという気がわたしにはするが、ただ犯罪の性質上、この事件は彼に対して“一生消えることのない十字架”を背負わせた。だれだって、自分の両親を“自殺に追い込んで”穏やかな気持ちで居られるはずがない。その時には、自分も死ぬことで「みんな一緒」的な気持ちが優先したかもしれないが、いまは自分だけが“生き残ってしまった”負い目がある。そうして、その負い目は死ぬまで付いて回るのだ。或る意味では、そのことの方が、裁判による罪状などよりも、はるかに重い。自分自身が結果的にみれば“死なせたのも同然”の一家心中劇。それは文字通り“歌舞伎の世界”であれば“涙の物語”として美しく描くこともできるが、現実の社会では“厳しい世間の後ろ指”に身を晒すことになる。しかも、隠れて生きて行くのは難しい“花形役者”なのだ。おそらく、彼自身はもはやその覚悟があって今回も職業を問われ“歌舞伎役者”と答えたに違いない。実際、これをどうみるかは難しい問題だが、ただ一つ“歌舞伎役者の履歴”として「両親を死に追いやった」過去を持つことは、必ずしもマイナスな点ばかりではない。たとえば「心中もの」などの舞台を演ずることになった時、だれもが無意識に過去の姿を回想する。本人だって、無意識にそれが演技に反映してしまうに違いない。そして劇中で流す涙は、演技のための涙ではなく何度でも流れて来る後悔と懺悔と追憶の涙なのだ。
2023-10-20
時々ネット上の意見などを見て首をかしげることが多い。「そういう考え方もあるのか」ではなく「そういう考えで良いの⁉」とか「それはあまりにも偏向した考えだろう」と思うことが多いからだ。最近は人里に降りて来たクマによる人的被害が多いが、それに対してクマを駆除したことに対して「抗議が殺到する」ことがあるのだという。どんな動物だって、むやみに人を襲えば、その動物に対しては殺傷して駆除しなければならないこともある。それは「動物愛護」とか「動物虐待」とか、そういう問題とは次元の異なった行為だ。それを“理解できない人達”が多くなってきていることに驚く。たぶん30年ほど前なら、人間を襲ったクマを殺傷処分したからといって、抗議が殺到するなどということは無かったはずだ。何かが違う。「日本人」という“大枠の部分”が秘かに崩れ始めているように私には思われる。「国境なき医師団」としてガザの地で医療行為に携わっていた日本人医師のSOSに対して、批判コメントを浴びせる日本人の人たちがいる。つまり“危険地帯”であることを承知で行ったのだから、自分たちで何とかすべきだ、というのだ。なんと無慈悲な考え方であろう。どこで、どんな戦いがあったとしても、傷ついた人たちを“救いたい”と思うのは医師としての本能だろう。その彼ら自身が逃げ惑う形となった時、それを救うのは“国家”とか“正義”とか、そういう以前の“人として”の当然の責務であるように思われる。その辺のところが理解できない人たちが増えて来ている。もはや、人は“国籍”とか“人種”とか“民族”とか、そういうものだけで単純に分けられない時代に入りつつあるのかもしれない。生きて行くうえでの“根本的な価値観”のようなもので区分けすべき時代に入りつつあるのかもしれない。もちろん、動物愛護の精神が悪いというのではない。自己責任の範囲を超えた人たちが正しいというのでもない。ふつうに、人と人とが暮らしていくうえで、助け合える部分は助け合いながら“生きて行く”という、その根幹の部分を忘れてしまったら、やがて人間は“人道型AIロボット”からも諭されるような“情けない存在”になってしまうのではないだろうか。
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