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今日の迷言・余言・禁言

未来と運命に対するヒントがいっぱい


最近「日本人」という“大枠”が崩れつつある⁉


時々ネット上の意見などを見て首をかしげることが多い。「そういう考え方もあるのか」ではなく「そういう考えで良いの⁉」とか「それはあまりにも偏向した考えだろう」と思うことが多いからだ。最近は人里に降りて来たクマによる人的被害が多いが、それに対してクマを駆除したことに対して「抗議が殺到する」ことがあるのだという。どんな動物だって、むやみに人を襲えば、その動物に対しては殺傷して駆除しなければならないこともある。それは「動物愛護」とか「動物虐待」とか、そういう問題とは次元の異なった行為だ。それを“理解できない人達”が多くなってきていることに驚く。たぶん30年ほど前なら、人間を襲ったクマを殺傷処分したからといって、抗議が殺到するなどということは無かったはずだ。何かが違う。「日本人」という“大枠の部分”が秘かに崩れ始めているように私には思われる。「国境なき医師団」としてガザの地で医療行為に携わっていた日本人医師のSOSに対して、批判コメントを浴びせる日本人の人たちがいる。つまり“危険地帯”であることを承知で行ったのだから、自分たちで何とかすべきだ、というのだ。なんと無慈悲な考え方であろう。どこで、どんな戦いがあったとしても、傷ついた人たちを“救いたい”と思うのは医師としての本能だろう。その彼ら自身が逃げ惑う形となった時、それを救うのは“国家”とか“正義”とか、そういう以前の“人として”の当然の責務であるように思われる。その辺のところが理解できない人たちが増えて来ている。もはや、人は“国籍”とか“人種”とか“民族”とか、そういうものだけで単純に分けられない時代に入りつつあるのかもしれない。生きて行くうえでの“根本的な価値観”のようなもので区分けすべき時代に入りつつあるのかもしれない。もちろん、動物愛護の精神が悪いというのではない。自己責任の範囲を超えた人たちが正しいというのでもない。ふつうに、人と人とが暮らしていくうえで、助け合える部分は助け合いながら“生きて行く”という、その根幹の部分を忘れてしまったら、やがて人間は“人道型AIロボット”からも諭されるような“情けない存在”になってしまうのではないだろうか。
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