1月, 2024年
2024-01-07
大きな震災などが起こると、いつも感じることがある。それは「生命力」という謎の生き物が“われわれの寿命を支配している”という事実だ。けっして「健康」とか「体力」とか「体格」とかではない。こと“寿命”に関してだけは、日頃の体力とも異なる「生命力」という謎の生き物が存在している。そして、それが“すべて”のような気がする。われわれが生まれた時から所有している「生命力」はそれぞれに違っている。だから瓦礫の中からでも“80代の男性”や“90代の女性”が何日も経ってから救出されたりする。しかも、それはわれわれの人生の中で“もっとも運命的”な感じがしてならない。つまり「備わっている」とか「与えられている」とか表現せずにはいられない“終わり方”をする。ほかの物はいくら“運命的”とか言っても、意外にあっさりと“変えられていく可能性”を持っている。ところが、こと「生命力」というか「寿命」というか、これだけは神様だけに“その支配権”が与えられてでもいるかのように、気紛れな要素が強い。なんども「死ぬ」「死ぬ」というような状態に至りながら、その後は再び元気となって何事も無かったかのような日々を送っている人がいる一方で、日頃から元気いっぱいだった人があっという間に亡くなってしまう。通常ドラマではありえないような“あっけない幕切れ”となったりする。もし、神様から「与えられている」ものであれば、或いは先天的に「備わっている」ものであれば、それは「命のろうそく」のようなものなので、だれかと“交換”でもしない限りは「受け入れるしかない」ということになる。ろうそくには当然、短いモノもあれば、長いモノもある。太いモノもあれば、細くて弱々しいモノもある。それでも、一見、弱々しくて“今にも消えてしまいそうな炎”でも、意外なほど消えそうで消えないまま続いていくこともある。まるで出生の時に“神様から手渡されて”出生してきたような「生命力」だが、その明日は謎に包まれていて、謎に包まれているから元気にしていられるような場合もあり、さてさて一体わたしはだれと「命のろうそく」を交換しようか……果たして“それ”は可能なことなのだろうか。
2024-01-06
東洋系の占い暦を観ると、そのほとんどというか全部というか、市販暦2月4日「立春」を干支暦年の“スタートライン”に置いている。中華系の国々が用いている「農暦(旧暦)」ではもっと遅く市販暦2月10日の旧正月1月1日を年初(春節)とする風習が今も続いている。どっちが正しいのかというと、どっちも正しい。実は、日本の占術界などが用いている東洋系の「干支暦」と呼ばれるものは、東洋系ではあるのだが、太陰暦ではなく完全な太陽暦なのだ。この点、プロの占術家でも勘違いしている人が多い。干支暦は「節気暦」とも呼んで、専門的に言うと“二至・二分・四立=12節・24中気”に基づいた中国発祥の太陽暦である。「二至二分四立」というのは、冬至・夏至・春分・秋分・立春・立夏・立秋・立冬の八つの基準点を言う。俗にいう「暦の上では…」というやつだ。この区切りによって、ほぼ均等に春夏秋冬が定められている。日本のような四季の判然とした国や地域においては、この暦は役立つ。ただ、やや実際の季節とは“ズレている”感じが付きまとう。どうしてズレているのかというと、この暦は“日照時間”を元に季節を定めているからだ。どの季節からが“その年”なのかは、ほんとうのところ誰にも解からない。この暦においては一年で最も暗い“冬至の日”を「陽の開始日」とし暦元としている。ただ季節的には“冬のど真ん中”となるので、春の開始日に当たる“立春の日”からを実質的な干支暦のスタートに置いている。ところが「農暦(旧暦)」の方は“太陰太陽暦”つまり実質的には太陰暦なので、毎年、通常の暦に合わせると季節が移動する“太陰暦上の1月1日”が「春節」で一年の起点となる。今年の場合には市販暦2月10日が春節となる。ところで、わたし個人は東洋系の運命学的一年の開始時期としては「小寒(今年は1月6日)」が相応しいのではないか…とさまざまな実例検証から思っている。ただ季節的には中途半端なので、季節を重視するなら立春が妥当で、だからまだ研究段階というのが実際のところだ。もしも、今日から“さまざまな点が変わっていく”なら、それは運気的に去年が去って、ほんとうの意味での年初が来たのだと、秘かに思ってもらいたい。
2024-01-05
「おみくじ」の吉凶は、意外なほど多くの人たちが気に掛ける。時には、その吉凶自体が多くの人たちが関心を寄せるところとなる。先日、その“おみくじの吉凶”に関して、注目を集めたSNSの投稿がある。その方はみずからが1月2日に引き当てた“おみくじ画像”を示して「これ以上ひどいおみくじってある⁉」と誰にともなく問いかけたのだ。確かに、その内容はひどいものだった。《「願事」妨げになる恐れあり 「待人」来ず 「失物」出ず 「旅行」調子に乗るな 「学問」危うし全力を尽くせ 「争事」人に頼むが吉 「恋愛」片想いです あきらめよ 「病気」軽くはないが治る 「縁談」他人のお節介あり》といった具合で、確かに、どれをとっても気持ちが凹みそうな判断ばかりだ。実は、この投稿者が問い掛けているのは、この内容だけではない。このような内容であったのにもかかわらず「おみくじ」自体の吉凶は「大凶」とかではなく「末吉」であったという。したがって、もしかすると、これ以上の“ひどいこと”が書かれたおみくじも存在しているのではないか……というもっともな疑問だ。大体、偶然の結果である「おみくじ」は、そんなに真剣に受け止めるものでもないような気がするが、そうは言っても、確かに“これ以上の凶のご託宣”が存在しているものかどうか……気になるところではある。一説によると、おみくじ自体の吉凶と、個々に対しての判断とでは“出どころ”が違っていて、一緒のモノとして捉えること自体が間違いだという。確かに私自身も昔「おみくじ」自体は“大吉”と出ているのに、個々の判断は“悪い結果”が多くて、とても「大吉」とは思えなかった記憶がある。大体、おみくじの文章は今でいう“パワハラ的な文言”が多い。上から目線で決めつけ、反論の余地なく「申し渡す」的な物言いが多い。しかも、問いかけに対して“やや異なる”回答が待っていることもある。たとえば、今回の場合であれば「旅行」を問いかけて「調子に乗るな」と回答している。これはどう捉えればよいのか、「何回も行くな」という風な意味合いなのか、それとも「旅先で羽目を外すと問題が起こる」という意味なのか、それとも「運気的に良い時には控えよ」という風な意味なのか、さまざまに解釈できる。おみくじは自分が本当に知りたい部分だけ見れば良い、という捉え方もあるかもしれないが、おみくじ自体の“吉・凶”は、やはり気になるのが普通で、そういうもので一喜一憂するのも、日本人らしくて“ほほえましい”と受け止めるのが、大人のようだ。
2024-01-04
どうも、植田日銀総裁の発言の趣旨が解からない。彼が日銀総裁となって、もっとも海外メディアに注目を浴びたのは「この年末から来年にかけての円相場はチャレンジングな状態になる」と発言したときだ。この発言は記者からの質問に答える形で行ったものだが「…年末から……」という表現が含まれていたことから、海外メディアは「日銀が年内に何らかの手を得って来るのではないか⁉」という読みをし、それに基づいて欧米の経済紙などで大きな報道となった。実際、彼の発言に応ずるように“ドル円相場”は大きく動いた。再び1ドル=150円を窺う方向へと向かっていたのに、一気に“円高方向”へと逆戻りし始め、あっという間に141円付近まで急騰した。だが、その後の上田氏の発言は妙に口籠り始めて、何故、そういう発言をしたのかは不明のままである。その結果、再び1ドル=140円台半ばまで戻ったのだが、実際に年末が近づくと、もしかしたら何かが起こるのか……という空気が流れたのか、再び円高方向に向かって年末に140円を付けるように変わった。だが、やはりというべきか日銀は何もしなかったし、何も起こらなかった。その結果、徐々に再びドル円は“円安方向”へと向かい始めて、現在は1ドル=143円台となっている。わたしは当初から思っていたのだが、わざわざ「年末から……」という言い方をしたのは、彼が年末年始には日本からの海外旅行者が増えることを意識し、少し“口先介入”をしておけば、少なくとも年末には「円高方向に向かうだろう」という“読み”があっての発言ではなかったのか。そうでも捉えないと、わざわざ「年末から……」などというはずがないのだ。なぜなら日銀が今すぐ動けないことは、だれよりも彼自身が良く知っている。それなのに「年末からチャレンジング…」などといえるはずがないのだ。彼は海外メディアが、そんなに大きく報道するとは思わず、或る種の“願い”も込めて「……そうなれば、日本人の海外旅行者にとっては多少“円高の恩恵”が受けられるのでは……」という風な意味で“言ってみた”というのが本音ではないだろうか。慎重な彼が“口を滑らせた”とはとても思えない。彼の思惑が見事に嵌まって“ドル円相場”は一時的に円高方向へと動き、そして年初が来て、再び“円安方向”へと動き出していくなら「みんなが好い具合に勘違いしてくれた」と、密かにほくそ笑むのかもしれない。
2024-01-03
日本ではこれまで“大きな災害”とか“大きな地震”があるたび“大和魂”が一つにまとまり、それらの苦難を乗り越えてきた歴史がある。奇妙なことに、大きな戦争とか、地震とか、津波とか、台風とか……そういうものがある時の方が、一つにまとまりやすい民族性を持っている。近年、日本人は何故かバラバラで“まとまりに欠けてきている”印象があった。みんなそれぞれ向いている方向が違っていて、だから当然のように“まとまり”が悪かった。それが1月1日という年初そのものに「能登半島地震」がやってきたために、一気に“まとまる気配”を見せ始めている。これは非常に良いことだ。元来、大和魂というものは過去2000年間、まとまってきた民族だからだ。そうして、まとまりのある時ほど「日本国」は栄えた。近年では「東日本大震災」が“まとまる形”をつくってくれた。それによって日本は“秩序ある国”として世界から称賛された。そして襲われた東北の街々はいつの間にか見事に復興している。無残だった“がれきの街々”はもはやない。日本人というのは、何かの大きな災難とかがあって“絶望的な状態”が来た時ほど、その魂を寄せ合い、新しい未来に向かって往々しく生きて行ける。そういう民族なのだ。ただ能登半島地震は、けっして“予兆”なく訪れた災害ではない。その点は大いに教訓としなければならない。既に2020年12月の頃から群発地震が発生していた。何んと、これまで震度1以上の地震が400回以上も起きていたのだ。今回はM7.6 だが、2023年5月にはM6.5の地震、2022年6月にはM5.4の地震、2021年9月にはM5.1 の地震が起こっている。これだけ続いているということは、明らかに「大自然の方が警告を発している」ということに気付かなければいけない。ところが地震学者も、マスコミも、なぜか、それら大自然からの警告を無視していた。無視という言葉は言い過ぎかもしれないが、少なくとも、その“警告”を軽視し過ぎていた。もう一つの“予兆”もあった。幻の深海魚である“リュウグウノツカイ”が2022年11月と2023年1月と、二度にわたって富山港で釣り上げられているのだ。これも、その近海で何かが起こっていることの予兆として警戒しておかなければならなかった。マスコミは「日本」の重要な地域とか、大都会に近いところとか、そういうところで何かの予兆が視られた時には大々的に騒ぐのだが、比較的“注目度の低い地域”で起こっている現象に関してはあまり大きく報道しない。今回だって、われわれはそんなに“群発地震”が発生していたことを知らなかった。予兆めいた出来事があったと知らなかった。地震学者は一体何のために存在しているのか。国家予算を貰っていながら、何一つ予兆出来ません……で、どうして批難されないのか。わたしには不思議でならない。
2024-01-01
Newer Entries »