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今日の迷言・余言・禁言

未来と運命に対するヒントがいっぱい


「話す」のも自由なら「無視する」のも自由


何年か前から、日本では“世間的な大勢の意見・考え方”みたいなものが浸透しだすと、それ以外の“意見・観方・考え方”を極力“排除していこう”とする風潮がみられる。特に、本来はそうあってはならないはずのマスコミにおいて、そういう風潮が著しい。したがって情報番組とかバラエティー番組でも極力“危なげない観方や考え方”のみが正論とされる。ちょっとでも偏った意見や考え方を述べると、徹底的にバッシングされたりネット炎上したりする。社会においては、うかつにモノが言えない時代となった。先日、歌手の氷川きよし氏が23年以降歌手活動の休止に入ることが公表された。それに対してタレントの高橋真麻氏が「歌手活動は休止してもインスタグラムは継続してほしい」という意見を述べたら、それに対してネット上で“批判コメント”が集中しているらしい。情報番組に呼ばれたゲスト(コメンテーター)が、自分の個人的な気持ちを述べただけだと思うが、それが“気に入らない人達”が山ほど居るらしい。それなら、最初から個々のニュースに対して感想など求めない方が良い。つまり、現在の「情報番組」「バラエティー番組」の“作り方”を変えた方が良い、ということになる。もちろん、意味のないゲストとかコメンテーターとかが多すぎるのは事実だ。ただ「井戸端会議」的な“話し”というのは、どの時代でも庶民に好まれる。それ自体が悪いとは、私は思わない。近年「ハラスメント的な考え方」というものが尊重されるようになって、話すをするときに“自分”ではなく“相手”や“周り”がどう思うか、どう感じるか、を意識したうえででなければ「ハラスメント」に引っ掛かる考えとか気持ちとかの範囲が拡大しつつある。誰もが“同じ基準”に立って、モノを話さなければならないとすれば、それは或る種「会話の自由」を奪っているのと同じなのではないだろうか。別に、相手に対して強制するのではなく、単純に「私はこうしてほしい」とか「こうあるべきだと思う」とかいうのは、ごく自然な会話の在り方だ。もし、それが嫌なら“否定”するか“無視”すればよいだけの話ではないか。否定や無視も「自由な社会」においては“当然の権利”だと私は思う。それなのに、その前の段階で「言わせないようにさせる風潮」が、私には怖い。なぜなら、時にそれはファシズムにつながりやすいからだ。偏狭な日本人にならないために、みんなが「自由に発言できる日本」であってほしい。
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