これまで研究者の誰ひとり言及しなかった事実、それが四柱推命(子平)という占術に残っている「西洋占星術の影」、もっと言えば「転用されている占術理論と技法」に対しての見解です。
私が最初にそれを見出した時、単なる偶然の一致だろう、と考えました。まさか、古代中国の推命学の創始者達が西洋占星術から、その理論や技法を取り込んで、新たな占術を発案した…などということが信じられなかったからです。けれども、両占術の歴史的な研究が深まる過程で、それを認めざるをえないような事実が次々と出現してきたのです。まるで真犯人を追っていた刑事が、上司の中に犯人が潜んでいたことを突き止めてしまったかのような衝撃を覚えました。
それでも、冷静に考えてみると、そこに矛盾はなかったのです。
まず、「西洋占星術」という占術は、決して西洋に留まっていたのではありません。比較的早くから東洋へも伝播していたのです。私の個人的な研究・仮説では、紀元前3000年紀の時代から既に「星占い」が存在していたのは古代エジプト王国であり、数百年遅れてバビロニア帝国へと伝わり、ここで星辰信仰と結びついて大いに発展し、さらに古代ギリシャ時代の「カルデア人」と呼ばれる占術師集団によって今日のホロスコープ占断法の基礎が完成されています。
さらにギリシャ式占星術は、一方でトルコやペルシャのアラビア圏天文学者たちへと伝わり、種々なアラビックパーツやハウスシステムが考案されていきました。他方では独自のヴェーダ占星術が存在していたインドへと伝わり、今日まで伝わるインド式西洋占星術へと発展していくことになるのです。やがて中国へと伝わった西洋占星術が、ギリシャから直接もたらされたものなのか、アラビア圏を経由してのものなのか、インド仏教的な色彩を帯びたものなのか、明確ではありません。
確かなことは、中国・唐代には既にギリシャ式占星術の翻訳書が存在しているという事実です。
最初「聿斯経(いつしきょう)」と呼ばれたギリシャ式占星術は、やがて中国式の見方も加わり「七政四余(しちせいしよ)」と呼ばれるように変りました。そして、それだけでは飽き足らなかったのか、疑似占星術ともいえる「太乙神数(たいいつしんすう)」、「紫微斗数(しびとすう)」、「星平会海(せいへいかいかい)」といった占術を次々と誕生させていきました。
特に「星平会海」という占術は、実際には「占(星)術」と「子(平)術」とを合体させた占術で、或る意味では西洋占星術と四柱推命(子平術)とが、同列に並べられ、合わせ技として占う形式がとられている歴史的にも注目すべき占術です。したがって、四柱推命が西洋占星術の影響を受けるのはむしろ当然のことで、切り離してしか捉えなかった今日までの考え方に無理があるのだといえます。そこで、四柱推命と西洋占星術の間にある中国式占星術の代表とも云える「紫微斗数」に注目しましょう。この占術では種々な部分で西洋占星術において用いる占術方式を取り入れています。
まず、「12星座」に当たる「12支」があり、「12ハウス」に当たる「12宮」があり、「主要7惑星(七政四余の「七政」)」に当たる「紫微14星(北斗7星&南斗7星)」があり、「副次的4星(七政四余の「四余」)」に当たる「副星4星」があり、「アスペクト」に当たる「同宮(0度)・対応宮(180度)・三合宮(120度)」などの見方があり、「トランジット星」に当たる「流年星」の見方があり、実星(実際に存在する惑星)と虚星(実際には存在しないか虚構の星)の違いはあっても、占い方の基本はほぼ同一であるといえます。
四柱推命という占術は、これらの占術要素とは明らかに異なり、12星座も、12ハウスも、古代の7惑星も登場しません。簡素な四柱八字と、それらに付随した「10の虚星」のみです。けれども「奇問遁甲」という占術で推命学的な判断を下す「奇問命理」では、「12宮」ではないのですが「10宮」を表出します。この「10宮」には面白い特徴があって、その表出法は四柱推命的、その解釈法は紫微斗数的なのです。けれども、私が四柱推命に西洋占星術の影を見るのはそういうようなことではありません。もっと生な形で、共通している判断技法があるからです。