日本において「四柱推命」と呼ばれている占術を誕生させた国は中国です。けれども、今日のような占い方をする四柱推命は、多くの日本の占術書に書かれているほど、古代から存在していた占術ではありません。そして多くの研究者も勘違いしているのですが、中国式「西洋占星術」である「七政四余(しちせいしよ)」の誕生から、少し遅れて誕生している占術なのです。

中国における「四柱推命」の呼び方は種々あって、「三命(さんめい)」「八字(はちじ)」「命学(めいがく)」「子平(しへい)」「算命(さんめい)」「命理(めいり)」などです。近年になって、逆輸入される形で日本の名称である「四柱推命」も使用されるようになりました。中国におけるもっとも一般的な名称は「子平」です。

それは今日の四柱推命が、徐子平という人物によって実質的にスタートした…と捉えられているからです。つまり「子平の学術」=「子平学」という捉え方です。

「三命」という呼び方もよくしますが、これは天から授けられる三つの運命である「受命(じゅめい)」「遭命(そうめい)」「随命(ずいめい)」を合わせての名称です。「年」「月」「日」の三つだから…なのではありません。

ちなみに同じ発音となる「算命」も、中国でよく使われる名称です。生まれ持っての「宿命を算出する」というような意味合いからです。ただし日本の「算命学」と同一の推命学を指すわけではありません。日本の算命学は、正しくは「鬼谷子(きこくし)算命学」と呼ばれる一部の流儀・門派の推命学で、一般的な「四柱推命」とは微妙に違っています。実質的には同じ推命学の範疇なのですが、星の名称や、判断技法に若干の違いがあるのです。「生まれ時刻」を最初から省いている―という特徴もあります。

推命学源典として実在するもっとも古い書籍は、唐代に書かれたとされている『李虚中(りきょちゅう)命書』三巻ですが、実際に記述されたのは上巻のみで、中巻と下巻とは後世の人物が加筆・編纂した形跡が見受けられるものです。

上巻を記述した李虚中は「四柱(子平)推命の祖」とされている人物ですが、「鬼谷子撰・李虚中註」とあって、その原著者は鬼谷子(きこくし)であるかのような記述となっています。(伝説上の「鬼谷子」は、李虚中より1000年以上前の中国戦国時代に活躍した思想家とされ、さまざまな占術の開祖に祭り上げられています)

原書では一応そうなっているのですが、鬼谷子はそのまま李虚中である可能性も高く、上巻では「生まれ時刻」を用いない方式で推命が記述されています。さらに興味深いことには、李虚中の推命学は現代のように「日干」=「我」と見るのではなく、「年干」=「我」として鑑定した可能性が指摘されています。(その名残りのようなものが、四柱推命の大運「順行・逆行」判断基準や、「奇門命理」による十宮配当の方法で継承されています)

この李虚中の推命方法を改良し、「生まれ時刻」の干支を加え、日干を我と改めて運命を推理する推命学を打ち立てたのが徐子平(じょしへい)です。

『珞ろく子三命消息賦』(らくろくしさんめいしょうそくぶ)二巻が代表作ですが、後に後進が彼の学説を編纂した『淵海子平(えんかいしへい)』の方が一般的には広く知られています。

判り易く分類すれば、

中国・唐代(西暦705~907年)に出現した「李虚中の推命学」=『命書』、

中国・宋代(西暦960~1279年)に出現した「徐子平の推命学」=『淵海子平』、

中国・明代(西暦1368~1661年)に出現した「劉伯温(りゅうはくおん)の推命学」=『滴天髄(てきてんずい)』、同じ明代の「雷鳴夏(らいめいか)の推命学」=『子平管見(しへいかんけん)』、同じ明代の「萬民英(まんみんえい)の推命学」=『三命通會(さんめいつうかい)』、

中国・清代(西暦1661~1911年)に出現した「陳素庵(ちんそあん)の推命学」=『命理約言』、同じ清代の「沈孝瞻(ちんこうせん)の推命学」=『子平真詮(しへいしんせん)』などが主だった推命学原書として知られています。より詳しく表記したものを下に示しておきましょう。

推命学原書の表記

ただ中国における占術書の場合、注意しなければならないのは、必ずしも本人ひとりだけによる著述とは限らないことです。

著者名は、実際には編集者名であることが多く、自分も含めての研究成果、或いは古来からの民間伝承・地域伝承、広く知られた学説に対しての註訳書・解説書、自分が属する門派・流派における秘伝や新学説…である場合がほとんどです。したがって、ときには占いの順序が前後しているとか、明らかに矛盾した内容が含まれているケースもあります。

一般的に云えば、中国の本格的な四柱推命は唐代に生まれて、宋代に至って根本的な改良が加えられ、明代で広く一般に普及し、清代でほぼ完成した占術…と云えるかもしれません。もっとも、清代の研究著述は、明代の推命学よりもむしろ後退している、と指摘する研究者もいます。

最初にも述べたように、生年月日を用いて占う占術としては、中国式西洋占星術である「七政四余」の方が早く誕生しています。中国における西洋占星術は、最初「聿斯経(いつしきょう)」として著述・翻訳されています。聿斯経としての主な著述には『都利聿斯経(とりいつしきょう)』、『聿斯四門経(いつしよんもんきょう)』、『徐氏続聿斯歌(じょしぞくいつしか)』、『聿斯隠経(いつしおんきょう)』などがあります。

これらの内、『徐氏続聿斯歌』の「徐氏」は、四柱推命の方で出てきた「徐子平」である可能性が指摘されています。

聿斯経からは、「七政四余」以外にも「太乙神数(たいいつしんすう)」、「紫微斗数(しびとすう)」、「星平会海(せいへいかいかい)」といった占術が派生することになるのですが、先に四柱推命で出てきた「萬民英」には星平会海に属する著作『星学大成』三十巻もあることは注目すべき事実です。

つまり古典的四柱推命の代表的原典である『淵海子平』と『三命通會』の提唱者が、共に中国式西洋占星術の著述・研究者でもあった可能性が大きいのです。そうだとすれば、四柱推命という占術の中に、西洋占星術的な要素が盛り込まれたとして、何ら不思議はありません。

これまで誰一人指摘して来なかった事実、怖くて触れられなかった事実――それが、四柱推命の中にある「西洋占星術の部分」なのです。