5月, 2022年
2022-05-30
岸田首相が掲げる「新しい資本主義」の政策の一つに「出世払い型奨学金」制度を導入することが本決まりのようだ。これは、その在学中は授業料を徴収せず、卒業後の所得に応じて返還・納付できるシステムの奨学金だ。この制度は大変に良いと思う。何よりも良いのは、卒業後の“所得に応じて”返還していく形となっていることだ。私の理解の仕方が正しければ、もし高収入を得ていった場合は、その分を他の方より“大目に徴収する”形となる。逆に所得が乏しければ、全額は返還しなくて良いとか、或いは通常より長期間返済を猶予するとか、おそらくそういうシステムということだろう。よく昔は“出世払い”という方法を使った。いまは返さなくて良いから、その代わりに将来、出世した時には「何倍もにして返してくれよ」と貧乏学生から金を受け取らない店など有ったのだ。現代では、そういう店は存在しないかもしれないが、上下関係や仲間関係では今でも時折そういう“やり取り”がある。思えば、日本は昔そういう方法で「野口英世」「石川啄木」「太宰治」などの“天才”を輩出してきた。彼らは間違いなく“出世払い”がなければ、世の中に出ることのできない人達だった。つまり、この制度が出来れば“新たなる天才”を輩出することが出来るかもしれないのだ。もう一つ「資産所得倍増プラン」というものが打ち出されるらしい。これは日本の資産が“預金”に偏っていることから、それを“投資”の方に転換させようという計画らしい。計画自体は大変に望ましいが、果たして慎重・堅実な日本国民が自分の資産を“投資”に回すだろうか。よほど「預金は損」と感じる方向にでも持っていかないと、ただ単に“投資優遇”だけでは難しい気がする。もっとも、もっと「円安」が進行して「日本株」や「地価」が上昇していけば、そっちの方向へどっと金が流れ込むのは間違いないが……。さらに政府は「国民皆歯科健診」という制度を導入しようとしているらしい。これは正直、やらない方が良い。何となく、この制度を利用して“犯罪的な動き”が起こりそうな気がするからだ。必ず、何らかの“不正”とか“賄賂”とか“偽造”とか、やがて「廃止」となる何かの事件が起こりそうな予感が……。
2022-05-29
ラジオで明石家さんま氏自身が「兄弟子」という言い方をしているので、それに間違いはないのだろう。そうして、もう一つ漫才をするときの“さんまの相方”でもあった。もっとも、その期間は短いので、さんま氏自身は「相方」という意識ではなく「兄弟子」という形での記憶になっているようだ。とにかく、その兄弟子だった人物が“詐欺罪”で逮捕された。当時は「明石家小禄」という名であったのだが、現在は「五所の家小禄」という名称になっている。タレントなどに“架空イベント”などの話を持ち掛け200万円を搾取したらしい。しかも、これが初犯ではなく、何度か似たような“詐欺”を行っての逮捕歴がある。そういう人物なのだ。ただ生年月日を調べて命式やホロスコープを作ると、実際には視たことが無くても、私には“この人物”の全体像が幻影のように浮かんでくる。おそらく、この人物は明石家さんま氏と“それほど変わらないくらいに”話術が上手いに違いない。つまり、彼は詐欺罪で何度か捕まっているが、それは仕事が減って「食べてはいけないから…」などではないような気がするのだ。もちろん、実際にはどうなのか、私はこの人物を詳しく知らないので、もしかしたら違っているかもしれない。けれども、なんとなく私には、この人物が“さんま氏”と共通する「話術の腕」を持っている気がして仕方がないのだ。その“腕”が、逆に“普通の話”だけでは満足できなくなって、或る意味では“自分の話術”がどこまで通用するか、試したくなって、その結果としての“詐欺”のような気がしてならないのだ。おそらく、彼は、普通に高座に立たせても“それなりに客を笑わせ楽しませて”仕事をこなしていく。だが、どこかに“それだけでは満たされない”部分があって、それが結果的に「笑わせながら詐欺話に持っていく手法」を身に着けたような気がしてならないのだ。もちろん、これはホロスコープなどから感じた私の幻想であるかもしれない。むしろ、幻想であってほしいと願っている。そういう形で“一流の噺家”が転落していくのは、あまりにも哀しい。おそらく、さんま氏も何となく、私と似たような感慨を持ちながら、過去を振り返ったのではないだろうか。
2022-05-28
このような映画の報道を知るまで、私は作家の故・井上光晴氏の長女が小説家になっていることを知らなかった。それに、もっと驚いたのは井上光晴氏が瀬戸内寂聴氏と男女の関係にあって、それを井上氏の長女である井上荒野氏が、小説として『あちらにいる鬼』として発表し、しかも、その作品の推薦文を作中人物として出て来る瀬戸内氏が“帯”に書いていた。いろいろな意味で、私はすべて知らなかったし、驚くことばかりであった。そして、その小説が今度は映画化となって、それに主演する寂聴氏役の寺島しのぶ氏が作品の中で仏門に入るシーンでは、実際に完全剃髪をしていた。いろいろな意味で大変に興味深い映画作品が11月公開予定であるらしい。井上光晴氏役は豊川悦司氏が演じ、その妻役は広末涼子氏が演じるという豪華な布陣なのだ。それにしても役者魂を発揮する寺島しのぶ氏は、なんの躊躇もなく髪を剃り落としたらしい。瀬戸内寂聴氏というのが、波乱に富んだ人生を歩まれたのは知っている。私は若い頃、彼女の全集を購入しているので、その作品の多くも読んでいる。けれども、作家の井上光晴氏と恋愛関係にあったことは知らなかった。もしかしたら、彼女の小説の中に出て来る純文学作家というのが、井上氏だったのか。それすらも私は知らなかった。私はてっきり、もっと名の知れていない純文学作家だと思っていた。しかも井上氏の長女が小説家になっていて、それも各賞をいくつも受賞している本格的な作家で、その作品の一つに“自分の父親”と“母親”と“瀬戸内氏”と、三人を登場させ、その“愛の顛末”を小説として描くという離れ業を行い、しかも“その作品”を作中に出て来る瀬戸内氏ご自身が“絶賛する”というわけのわからない状態であったとは……。昨年11月、瀬戸内寂聴氏は波乱の人生を終えられたが、原作者として井上荒野氏は“映画となった寂聴氏”を見てもらいたかったのではないだろうか。おそらく寂聴氏のことであるから「この映画は素晴らしいですよ、特に私が…じゃなかった寺島しのぶさんが剃髪されるでしょ…あれはなかなか出来るもんじゃない、覚悟がいりますよ、ちょっと顔立ちも私に似ているし素晴らしい女優さんじゃないですか」などと言いそうな気がする。
2022-05-27
最終的に「どの人生を択ぶ」のかは本人が決める。一見、そうではないように見えても、最終的には本人が決めている。例えば周囲から“勧められたから”というような場合でも、本人がそれに応じて行動しなければ“その方向”には進まない。よく結婚でも仕事でも「親に決められた」などという人がいるが、それに反発した行動をとらなかったのは本人だ。そういう意味で、人生の選択権は最終的に本人にある。パティシエとして著名な鎧塚俊彦氏が昨日、2015年に亡くなられた妻・川島なお美氏の父親が97歳で死去したことを報告している。つまり、彼にとっては義父だが、義母も昨年11月に亡くなっている。つまり、川島家はなお美氏と、その母と父親と三人とも亡くなられた、ということになる。そうして、鎧塚氏は三人の冥福を祈り、感謝の気持ちを表している。さらに「わたしはもう少し遅れてまいります」という表現で、自分ももう少し経ったら後に続くから……というようなことを記している。この部分に、私の“運命学的なアンテナ”が強く反応した。確かに、これは一見“素晴らしい発言”のようにも聴こえる。けれども、運命学的な観点から言えば、この考えは危険なのだ。なぜなら、この発言を真意として受け止めると、彼は自分の“残りの人生”を「川島家」の人たちと共に生きていく、と宣言したことになる。そこには“自分そのもの”は存在しないのだ。或る意味では「鎧塚俊彦」という人物は居なくて「川島なお美の夫」という魂だけが存在している、と宣言したことになる。「耳なし芳一」の物語ではないが、そうしてしまうと、もはや「鎧塚俊彦」という肉体をまとった“川島なお美の夫”だけが“この世”に生きている、ということになる。彼が70才くらいであれば、そう思うのも仕方がないが、彼はまだ56歳なのだ。男性としては“これから”という年齢ではないか。亡くなった妻と、そのご両親を看取ったのだから、或る意味では「川島家」から卒業させてもらったのだ。今後は本当の意味での「鎧塚俊彦」としての人生を歩むべきだ。もちろん、良い女性が居たなら、再婚もすべきなのだ。そういう風な意識で生きないと「早めの迎」が来てしまう。私は、それが心配なのだ。現に、義父は義母が亡くなって、ちょうど半年後に亡くなっている。おそらく、鎧塚氏の場合、気持ちさえ入れ替えれば、すぐ近くに「新たな倖せ」が潜んでいそうな気がする。どっちを選ぶかは、無意識ではあるかもしれないが最終的に本人が決めている……。
2022-05-26
普通の日常を送る……ということが、重い病気になってしまうとなかなかできない。それが“出来なくなった”ことによって、今までの“出来ていた普通の日常”が、いかに「幸せなことだったか」ということに初めて気が付く。タレントのだいたひかる氏が、5月25日で47歳となり、がんを告知されてから7年が経過したことを振り返り、これまで生きられるとは思わなかった……と感謝の気持ちを綴っている。しかも、出産まで経験し「天気の良い日に洗濯をしたり、そういう普通のことが倖せだったりします」と記している。そうなのだ。倖せというのは、実は“普通の日常”の中にある。われわれはどうしても、普通の日常が出来ることが“当然”だと思ってしまうので、それを「倖せ」として噛みしめることが出来ない。けれども、大病をして入院していた人とか、罪を犯して入獄していた人とか、何かの事情から幽閉されていた人とか、普通に自分の部屋で暮らしている、或いは普通に自分の足で歩いて外出している、普通に見知らぬ人とも話が出来る、普通に食べたいものを購入できる……そういう“普通の暮らし”そのものが、胸が熱くなるほどに倖せだったりする。特に「がん宣告」の場合、だれもが“死”と向き合いながらの生活となる。数年後に“生きていること”自体が奇跡のようなこともある。そうすると、普通に食事をして、普通に働いて、普通に眠ること自体が、大切な一日、一日、となっていく。もっとも、それもだんだん慣れてしまって「もう大丈夫」となってしまうと、人間というのは「のど元過ぎれば熱さ忘れる」で、再び“日常の不満”が出てきたり、現状に対しての感謝などなくなってしまうのだが、それも含めて、人の幸不幸は最終的に外から与えられるものではなく、自らが、自らの意識の“置きどころ”が作り出すものであることに改めて気が付く。と、もちろん、このように偉そうなことを私は書いているのだが……実は、これは私自身に向けての警告でもある。特に、私のような元来が“贅沢に出来ている人間”は、普通の日常などでは到底満足など出来なくて、あれも欲しい、これも欲しいと思ってしまうのだ。う~ん、これこそが“重い病気”なのかもしれない。
2022-05-25
最近の“裁判事例”は、いろいろ考えさせられることが多い。大阪市に住む51歳の女性が勤めていた病院を相手取り“1200万円の損害賠償”を求めた裁判が17日、被告側の病院が訴えていた女性に“和解金”を支払ったことで解決した。ただ、この裁判には「謎」が多い。現在51歳のこの女性は元々「性同一障害」であり、20代で“性別適合手術”を受け、戸籍上も「女性」となった。つまり、性別の変更を行ったのは30年近くも前だということになる。その後20年以上たって、被告となる病院へと勤めた。その時、病院側から同僚たちの前で「元男性である」と同意なく公表され、その際に「性器を見せるよう要求された」と主張している。但し、この点に関して病院側は否定している。こういう本人の同意なく、性自認や性的志向を公表することを「アウティング」と呼ぶらしい。正直、私は知らなかった。本来は「秘密の暴露」を意味する言葉らしいが、とにかく現代は、それだけでも“訴訟の対象”となる。もっとも、30年近い年月が経った今になって、その時のことを一方的に訴えたのも驚きであり、その当時であっても「性器を見せろ‼」という要求があったのだとしたら、即刻、訴え出ても良かった気もするが……。私が判らないのは、彼女は2020年2月に精神障害を発症して「労災認定」を受けているのだが、これまたその“侮辱”を受けてから7年も経っている。つまり、原告側の主張をそのまま受け入れるなら、性別変更してから20年ほど経ってから「元男性である」と公表され「性器を見せろ‼」と要求された。そして、その後7年経って、それが元で精神障害を発症したので“損害賠償金”1200万円を要求した、ということになる。もちろん、病院側は或る程度それを認めた結果として“和解金”を支払ったのだろう。「性器を見せろ‼」と要求するのもおかしいが、7年経ってから、それが元で「精神障害になった」という主張もどうなのか……。この種の“訴訟事”は、今後増えていきそうな気がするのだが、何十年前の例えば“冗談風のやり取り”とか“酒席での話”とか“皮肉としての一言”とか、いろいろな“うっかり発言”まで訴訟に出来そうな感じがして、なんとなく“今という時代”が怖い。
2022-05-24
“世代”というものの違いは、時として意外な結果を引き起こす。世論調査で年代別に戸外におけるマスクの着用を「緩和すべき」か「緩和すべきでない」か調査した結果が面白い。20代では「緩和すべき」が36.9%「緩和すべきでない」が58.2%なのに対して、70代では「緩和すべき」が58.1%「緩和すべきでない」が36.4%という結果が出たのだ。つまり、若者たちの多くは“緩和すべきでない”と考え、老人たちの多くは“緩和すべき”だと考えている。なんとなく、逆ではないか、と思うのだが、日本人の場合、若者たちは慎重で感染を恐れており、老人たちは大胆で自由を満喫したがっているとも受け取れる。全世代では「緩和すべき」が50.7%で、要するに半々に分かれるのだ。私は以前から、短ければ1年間、長ければ2年半というのが“災厄が降りかかる期間”だと主張してきた。そういう運命学的な観点から言うなら、だいだい“この夏”でコロナ禍に入って2年半を迎える。もう、そろそろ“脱出期間”に入ったと私は視ている。もし、これ以上続くのであれば“災厄10年間”の長期に入ってしまう。既に欧米ではマスク着用義務がなくなって、多くの人たちが“マスクなし”で外出している。観光地でさえも、マスク姿の人が減りつつある。私はいつも、幼い子供たちが“息苦しそう”にしながらマスクをしている姿を見て、早く正常な“世の中”になってほしいと思ってきた。だいたい、子供とか、老人とか、マスクをしてしまうと、誰が誰だかわからなくなってしまう。70代以降の人たちが「緩和すべき」と言っているのは、一つには“相手の判別がつかなくなる”からではないだろうか。もう一つはマスクをしていると“言葉が聴き取りにくい”からで、それでなくても老人の言葉は聴き取りにくい。マスクをすると、声がこもるので何を言っているのかがわからなくなる。さらに、高齢になると呼吸器に支障を生じることが多くなる。咽喉が細くなるので、呼吸がし辛くなってしまうのだ。つまり、幼すぎる子供と老人には、マスクは辛いのだ。それにしても日本の若者たちは何と慎重なのだろう。「占い」ではなく、コンピュータで先を読みすぎる若者たちは、あまりにも「わずかの危険」をも察知し、避けて通ろうとしすぎるような気がして、その点が私には心配なのだが……。
2022-05-23
加藤登紀子氏の歌で有名な「100万本のバラ」だが、実際にはとてもそんなに多くの花は抱えきれない。だいたい手に入れることすら難しい。それでも“バラの花束”というのは、何となく何十本もの真っ赤な花が咲き誇っている感じのイメージで、一本だけ、というのはかえって寂しかったりする。だいたい日本人の多くは「花を買う」という習慣があまりないので、花屋さんに行っても、なんの花を択んで良いのかがわからない。ところが不思議なことに“バラの花”だけは誰もが知っていて、しかも、なんとなくだが“情熱的な愛”を感じさせるイメージがある。というわけで、長崎のハウステンボスでは現在「100万本のバラ祭」というのが行われているらしい。やはりハウステンボスのような“おとぎの国”“童話の世界”には、バラの花々が良く似合う。文字通り園内には世界中から集められた2000品種“約100万本のバラ”が咲き誇っている、というわけだ。それらが夜間にはライトアップされ、より幻想的な美しさを醸しだしている。このライトアップやデジタルスクリーン等を使って、華やかに演出するように変わって、一気に人気が上向いたのがハウステンボスだ。さらに写真撮影用の“白いブランコ”が備え付けられ、或いはバラの花々に囲まれ“ワインが楽しめるスペース”もあって、まさに大人も子供も楽しめて「夢の王国」に来ているかのような雰囲気が提供されている。一時期、ハウステンボスの経営が傾いていたのがウソのようである。やはり「夢」を売るためには、そして飽きさせないためには、自然な花々の美しい景色だけでなく、多少の演出や華やかなショーは必要なのかもしれない。私が大規模なデジタルスクリーンによるショーを始めて観たのはマカオだったが、予想以上の迫力に目が離せず大いに感動したものだ。コロナ禍で落ち込んだ観光客を「100本のバラ」が取り戻せるか、勝負の“バラ祭”となっている。
2022-05-22
2017年に渡米し、その後、何をしているのかよく解からない状態のまま、時々“ネット上に登場していた”綾部祐二氏が新たなチャンネルを立ち上げ、注目を集めている。渡米後の3~5年間は“何も語らない”“何をしているかわからない”状態にすることを最初から決めていたそうで、なかなか興味深い決意のもと旅立っていたことが判る。近年は多くの人がSNSなどを通じて、何から何までオープンな状態で人生を歩んでいる人が多い。それはそれで“一つの生き方”として良いことだと私は思うが、その一方、そういう時代だからこそ、自らのプライベートを“完全封印”して「何をしているかわからない状態にする」生き方があっても良いと思っていた。ただ日本国内に居る場合、特に有名人の場合には、SNSの発達した現代において「誰にも知られず…」というのは意外なほど難しい。それもあったのか、綾部氏の場合は“渡米”という方法を択んだ。彼によれば「来る前に計画を立てたけど、上手くいったことも、上手くいかなかったこともある」のだという。そうして「それが逆に、おもしろい」と語っている。この人の言葉には、人が生きていくうえで、とても重要なことが述べられている。人生というのは彼の言う如く、どんなに計画を立てても、それが上手くいくこともあれば、上手くいかないこともある。それが人生なのだ。それは、すべての人がそうなのだ。例えば占い師は、みんな計画通りに上手くいっているか。冗談じゃない。プロ占い師の多くが、人生上で“多くの失敗”を経験している。未来など、たとえ“茫洋と見えて”いたとしても、だから上手くいくとは限らない。そして、だから「人生はおもしろい」のだ。計画通りにばかりものごとが進んだら、これほど“つまらない人生”はない。綾部氏は自分の「5年後、10年後、どうなっているかが全くわからない」という。そして「まったく想像がつかないから楽しみです」と語っている。これがいい。誰でも、自分の人生は或る程度まで“選択できる”が、なんとなく想像できる未来の選択と、まったく想像できない未来の選択とがある。堅実型の人は“想像できる未来”を選択しがちだが、だからといって、それが想像通りになるとは限らない。冒険型の人は“想像できない未来”を選択しようとする。それは大きく飛躍する可能性もあるが、坂道を転がり落ちるように転落していく可能性もある。けれども、だから「不幸」とは決めつけられない。ドラマのない人生より、激しい紆余曲折ある人生の方が、少なくとも「おもしろい人生」を歩めることは間違いがないのだ。
2022-05-21
私は幼い頃、雑誌の「付録」というものが大好きだった。なぜかあの頃、少年雑誌は“付録ブーム”で、それぞれの雑誌が多数の付録をつけていた。いまでは考えられないかもしれないが「21大付録」とか「23大付録」とか、これでもか、これでもか、という具合にたくさんの付録を附けていた。それから何十年も経って、たまたまドイツを旅行した時、書店で大きな革のバッグが付録としてついている雑誌を眼にして、思わず購入してしまったことがある。旅の途中だったので、すぐさまそれを使って役立った。あれからまた何十年も経って、今度は日本国内で、再び“付録ブーム”がやって来ていることを知った。仕掛けているのは小学館らしい。最新の『美的』という雑誌では何んと「シャネルの高級美容液」を付録としている。980円の雑誌だが、本来30ml=13000円もするシャネルの高級美容液が、その5ml(試供品)=2000円分⁉ 豪華箱入りで付いてくるのだ。そのほか『DIME』という雑誌では「16倍の光学ズーム」を付録で付けているし、子供向け『ちゃお』という雑誌では「スマートウォッチ」を付録としてつけている。これらはいずれも、ちゃんと機能するもので、もし普通に購入するとすれば、間違いなく“その雑誌以上の価格”ということになる。これらによって、それぞれの雑誌の売り上げが急速に伸びていることは言うまでもない。どうして、このようなことが出来るのか。一つには「宣伝費」として考えれば、各ブランドメーカーにとっては“痛くない出費”ということになるからだ。確かに、シャネルの美容液の試供品だけを購入しようという人はいない。けれども実際に試してみて効果があれば、13000円の正規品を購入する人も出て来るに違いない。高額品の「売り方」としては決して悪い方法ではない。それに「売れる」「売れない」よりも、そのブランド名や自信ある新商品名を大衆にアピールする方法として、これほど有益な方法はない。いまはアッという間にSNSで「バズった商品」が知れ渡るからだ。一時期「もう雑誌の時代は終わった」と言われたが、もしかすると“新たな付録商法”が、雑誌たちを蘇らせるかもしれない。
2022-05-20
作詞家や作曲家は自分の死後も「作品」が形となって生き続けていく。そういう点で、素晴らしい仕事だと思う。映画や小説もそうだが、自分自身が“この世”から消えても、自分が心血を注いだ作品が“生命”を得て、その後もずっと生き続けられるのは、なんと素晴らしいことだろう。昨日、淡路島の都志小という作詞家・阿久悠氏の出身校で、彼の未発表曲「いずこ~ふたたび歌を空に翔ばそう~」の発売イベントが開かれた。阿久悠氏自身は、あまりにも早く亡くなってしまったが、その出身母校で未発表だった詞に曲が付けられ、作品としてまた一つ“カタチ”となった格好だ。その歌詞の中に「……この青空を 歌で満たそう 乾いた心に 降り注ぐよう……」とある。昔、映画の挿入歌で「禁じられた遊び」というギター曲が、私は好きだった。あれは確か戦時中に作られた曲だったはずだ。歌詞があるのか、ないのか知らないが、歌詞などなくても、その切ない響きが伝わってくる。そういえば昨日は歌手の吉幾三氏も、その芸能生活50周年を記念して大阪でコンサートを開くと伝わった。長年の友人だった故・志村けん氏への思いを込めた「二人のブルース」も披露するらしい。彼の場合は作詞・作曲の両方をこなすから、自らの想いを作品化しやすい。「プライベートではちっとも面白くなかった」というが、そうだったに違いない。それでこそプロなのだ。私は彼の「だいじょうぶだ教」が好きだった。丁度、その頃、悩み多い時代を過ごしていた私は、あの「だいじょうぶだ」に救われた思いがあった。現代は、さまざまな分野で規制がかかり、“お笑いの世界”も、人間本来が持っている“可笑しさの部分”を生で出せなくなりつつある。作詞にしても、小説にしても、映画にしても、舞台にしても、あらゆる作品に規制が掛かってしまうと、活き活きとした作品が生まれなくなってしまう。もっと「自由」に作品が発表できるような“新しい時代”を、人々は求めているのではないだろうか。
2022-05-19
ひとは“或る目的”のためには、その長い年月の労力をも惜しまない。毎日、毎日、地下に潜っていって、トンネルを掘り続ける作業も“偉業達成”のためには仕方がない。その地下18mまで降りた先に作られていたのは“アメリカとメキシコ”とを繋ぐトンネルだ。麻薬を運ぶための「地下通路工事」の達成は、文字通り地下組織同士の秘密の売買による“莫大な報酬”を生み出す基なのだ。ということで、いったいどのくらいの歳月をそれに費やせば、立派な「530mの地下通路」が出来上がるのだろうか。壁はちゃんと補強されているし、電気も通り、鉄道も敷かれ、換気システムまで整っている。これらすべてをUFOからやって来た宇宙人が作ったのではなく、コカインなどの“麻薬密輸犯たち”が手作業で作ったものなのだ。確かに、国から国へ国境警備の眼をかいくぐっての“麻薬売買”は難しい。けれども、地下通路を使って800㌔のコカインを運ぶのは難しくない。なにより一度に大量に運び出せるのが良い。それを思えば長い歳月、毎日“穴掘り”の繰り返しでも忍耐強く我慢できたのだ。今年3月、大掛かりな“麻薬密売組織”の一部の者が逮捕された。その逮捕された者たちの供述から“麻薬の隠し場所”が特定され、そこに5月に入ってから一斉捜索が行われた。その際に、米カリフォルニア州サンディエゴ郊外の倉庫とメキシコ北西部ティフアナを繋ぐ“地下トンネル”が発見されたのだ。アムンゼンに「10年の準備、10分の成功のため」という格言があるが、文字通り犯人たちは長い年月を“トンネル掘り”に費やしたはずだ。その結果“莫大な報酬”が得られるはずであったが、主要なメンバーの6名が逮捕されたことで、かつて賑わった“廃墟の炭鉱道”などと同じようなことになってしまうのか。せっかく壁も補強し、電気も通して、鉄道まで敷いて、換気システムまで完備したのに“観光案内”が出来るほどの見世物もなく、地底人が暮らせるほどの住居設備もなく、放置されれば間違いなく廃墟となってしまう。いっそのこと「ミイラの保管場所」として活用する手はないものだろうか……。
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