10月, 2026年

「過去専門の放送局」があっても良いような……

2026-10-13
最近、BS放送の番組などを見るたびに感じることがある。なぜかBSの番組は圧倒的に“昔の番組”が多い。ドラマのこともあれば、映画のこともあれば、海外ドラマもあれば、どう表現すべきが判りにくい番組もあるが……とにかく現在進行形のものは極端に少ない。ただ、そういうものの中には、その当時は観ていなくて、今になって観ることが出来ることを嬉しく感じるような番組もある。考えてみれば、ドラマとか映画とか貴重映像などは、必ずしも「その時」ではなくても、時が経っても十分に楽しめる内容であれば、現在の“低予算ドラマ”などより面白い内容とか、興味深い内容のものがいくらでもある。歌番組やスポーツ中継などでも、ほんとうは“その時の姿”を「もう一度見てみたい」と思うものは多い。そういうことを考えていたら、思い切って「過去専門の放送局」というのがあっても良いような気がしてきた。それは必ずしも、年齢が行った人たちだけが楽しむとは限らない。われわれはタイムマシンで過去に戻ることは出来ないが、現代の若い人たちは、もし、その「過去専門の放送局」が出来て、どの局のものでも、いつの年代のものでも、望めば自由に「観ることが出来る」となったら、多少、毎月、お金を払っても、良いという人は一定数いるのではないだろうか。われわれは、どう頑張っても、未来世界を先取りして“観る”ことは出来ない。未来は難しいが、過去であれば、少なくとも、1970年代以降の世界であれば、TVフィルムとして遺されているのではないだろうか。そこで過去ドラマ専門の局、過去映画専門の局、過去バラエティー専門の局、過去スポーツ専門の局など、それぞれが各年代の各局のものを揃えて提供する……というのは可能なことのような気がする。いまやBSなどを通じて韓国とか中国とかのドラマなどは“普通”に観ることが出来る。ただ、それ以外の国の放送も観てみたい気がする。昔は、外国ものといえばアメリカ物で、よくドラマなども放映されていた。最近は何故なのか、アメリカのドラマとか、欧州系のドラマとか、極端に少ない。そういう専門チャンネルもあるが、一国だけが観たいわけでもないので、欧米各国とか、アジア各国とか、そういう感じにまとめてもらえると助かるのだが……。以前、小さな映画館へ行ったが、そこは有名ではない映画を沢山上映しているところだが、あまりにも多くの人達が来ているのに驚いたことがある。世の中は“大多数の人達”だけで成り立っているのではないことを改めて感じた。人は“その時代”に立ち戻ることで活力を与えられることもあるのだ。

「生きるための船」転覆109名死亡、116名不明

2026-10-12
アフリカ東部に「ジブチ」という小さな国がある。そのジブチ沖をイエメン側に向かって進んでいた船が10月9日未明に転覆し、少なくとも109名が死亡し、116名以上が行方不明状態となっている。この船に載っていたのは、そのほとんどがソマリアとエチオピアからの“移民希望者たち”で、転覆原因の一つは過剰な人数が載り過ぎていたことによると思われる。近年、アフリカからの移民希望者が異様に増えている。特に多いのはソマリアとエチオピアで、この両国は共に干ばつと地域紛争が絶えず、深刻な食糧危機と若年層の就職難が続いている。日本からは遠いので、その辺のニュースはあまり報道されていないが、ソマリアでは15歳~34歳の非就業率が9割超とも言われ、干ばつも重なって食料が枯渇し、母国に留まっていたのでは生きていくのが難しい。だからとりあえず対岸「イエメン」に向かおうとする人が後を絶たない。したがって船は常に“ギュウギュウ詰め”の状態にある。エチオピアは国土が広いので、地域差が大きいが、それでも州によってはソマリアと変らぬ食糧危機にある。これはアフリカだけの問題ではないが、地球規模の気象変動が各国の食糧事情を変えている。したがって経済的に余裕のある国は“輸入で賄えば良い”のだが、経済的に脆弱な国や地域は、干ばつなどの被害から遁れる術がない。近年、アフリカでは経済的な地域差が大きくなっている。とりあえず他国に遁れる移民たちだが、その移民先に食料や就職先が“待っている”という保証はない。特に、言葉が通じない場合、働き口を見つけるのは容易ではない。これは、どこからどこに向かう移民でもそうであって、言葉の壁は“働き口”と密接に関わってくる。近年、欧州にもアフリカからの難民が押し寄せているが、必ずしも、欧州に着いたからといって“満足な暮し”が出来る保証はない。その結果、フランスとかイギリスとかでは移民と土着欧州人との間で“視えない障壁”が生まれつつある。日本は地域的に遠いのと、島国であり、言葉の壁もあって、アフリカからの難民や移民は少ない。島国は“孤立しやすい弱点”もあるが、とりあえず“食糧危機”や“エネルギー危機”が防げれば、各国と仲良く出来れば、生きるのに“優しい国”なのだ。

人は彼を観て「生きていく」との証しを考える

2026-10-11
現在96歳になって、未だ東京新宿で「青空公演」を行うギリヤーク尼ケ崎氏について報道する記事があった。路上で踊る“大道芸人”になって58年。もはや、それは踊りではない。何しろ、現在はパーキンソン病を患い、心臓には機械が入っていて、脊椎管狭窄症で立つのも難しい。そういう満身創痍の中でも、必死に路上で半裸のまま踊り続けようとする。過去にはパリやニューヨークでも踊って、その気迫と異様さは高く評価されたが、普段はベッドで過ごす現在の姿からは、かつての気魄は感じられない。本人は「死ぬまで踊りたい」のだろうが、もはや限界といえる。それでも、こうしてしばしば取材を受ける。実弟が暮しの面倒を見ている。二人暮らしだが四畳半の小さな一室、それがギリヤーク尼ケ崎氏の拠点なのだ。わたしは大昔まだ室蘭市に居た頃、たまたま通りかかった路上で、熱心に半裸で踊りの練習を続ける彼を視たことがある。彼は多分まだ40歳前後で、つまり“踊る大道芸人”になって間もない頃であったように思う。わたしはまだ20歳前後の頃だったような気がする。わたしは別に彼を視ようとして、そこに行ったのではなかった。たまたま深夜放送で気に入っていた女性パーソナリティーが室蘭に来るというので、ちょっとだけ視てみようと買い物ついでに立ち寄っただけだった。もっとも、祭典とは別会場だったので見つけられず、帰ろうとして裏通りへ入った時、練習中のギリヤーク氏を視たのだった。もっとも、その時には彼の名前も知らず、どういう人物かも知らず、ただ単に「変った男性が踊りの練習をしているな…」としか思わなかった。もちろん練習中で“裏通り”だったので、誰も観てなどいなかった。わたしも横目で視て立ち去ろうとしたのだが、なぜか動けなくなった。わたしとの距離は4mくらいだったが、半裸の男性は何かのチェックポイントでもあるのか、繰り返し同じ部分を踊っていた。それからしばらく経って、わたしは彼が“それなりに有名な人物”であったと知った。週刊誌とかに写真が載っていたからだ。その後、映像もみたが、徐々に彼の踊りは“踊り”というよりも“祈り”とか“化身”とか“憑依”とかに近いものへと変わっていった。ハッキリ言って美しくはないし、見事でもない。ただ“生きる”ことに疲れた人たちに、無言で“生きて行くこと”の意味を伝える「念」のようなものだけがひしひしと伝わる……。

「ルノワールの家」に「ルノワールの絵」戻る

2026-10-10
フランス南部に「ルノワール美術館」がある。ご存じ印象派オーギュスト・ルノワールの絵画などを所蔵・展示している美術館だが、先月8日早朝、この美術館に泥棒が入った。塀や壁を電動鋸などで破壊し美術品4点を持ち去るという荒っぽい手法だった。もちろん防犯カメラが作動し、警報機が鳴り響き、すぐに警察もやって来たが、その間4~5分の間に奪って逃走するという“早わざ”であった。ただ急ぎ過ぎたためか、美術館の庭に4点のうちの2点が“置き去りにされた”ままという状況だった。もしかしたら、この2点は“庭に隠した”つもりだったのかもしれない。それでも、約一カ月経って、無事、持ち去られた2点が返って来た。警察の必死の捜査で、容疑者6人の逮捕に至ったからである。持ち去られていたのは「ロマーノ夫人の肖像」と「井戸端の若い女性」という作品で、日本で一般的に知られている作品ではない。それでも一点で数億円の価値がある。ここは「ルノワール美術館」というくらいで、ルノワールの絵画作品とか本人の使用家具や画材とかが展示されている。晩年のルノワールが居住していた住いを美術館に改装したところなのだ。それだけに若干セキュリティは甘いが、彼の作品を好むファンにとっては“聖地”的な意味合いが強く、大切な美術館だということになる。わたしが思うに、だから美術品2点は無事“我が家”へと戻ったのだ。欧州にある昔からの“小さな美術館”には老朽化が進んで、建て替えが必要なところも多い。セキュリティの甘さが指摘されることも多く、美術品の盗難も後を絶たない。だからといって、警備を厳重にしすぎるのも考えもので、純粋に美術品を見て楽しむ雰囲気が失われてしまう。絵画の価値が上がって、いまや何億円とかの値が付くのが当たり前となっているが、前にも書いたがゴッホなど生前にはまったく売れなかった。それが死後になって何十億円にもなって取引される。もう少し、生前に“評価してあげられる世の中”になることが、立派な美術館を建てるより重要なことのような気がする。

「逃亡犯」目撃情報にこそ「AI捜査」導入を‼

2026-10-09
2022年に大分県別府市の交差点で、一台の車が二人乗りバイクに追突、バイクに載っていた大学生の内の一人が死亡した。車で追突した容疑者・八田與一(30歳)は、その大学生とのトラブルを抱えていたと言われる。つまり単なる“追突事故”というより、意図的な“追突”だった可能性が強い。そして、そのまま現場から“裸足で逃走”したとされている。八田容疑者に対しては、その後、遺族から500万円、警察から300万円、有力情報提供者に対しての報奨金が与えられることが決まった。そのせいなのか、この容疑者に対しては異様なほど目撃情報が多い。これまでに“のべ1万4000件の情報提供”が寄せられている。それでいながら、容疑者の居所特定や逮捕には至っていない。寄せられている情報を分析すると、関東からの情報が4950件と圧倒的に多いが、実際には全国各地からの情報があって、かえって捜査混乱の原因になっているような気がしないでもない。おそらく“報奨金目当ての情報”が相当数混じっていると思われ、こういう時こそAIを使って“情報の整理・選別”をするのが良いと私は思う。11月から“新たなチラシ作製”なども行って捜査網を拡充するというが、これまでの“逃亡犯逮捕”から考えて、もっとも効果を発するのは“容疑者の声や話し方”などの特徴をTVなど使って何度も公開することで、顔は変わっていくが、声や話し方というのは、なかなか変えられるものではない。整形を繰り返し、時効直前に捕まった福田和子容疑者の場合も“決め手”となったのは電話の声だった。八田容疑者に関しては、関東からの情報提供がもっとも多いが、30歳前後で地方から出て来て、素性が知れず、日頃から“危い感じの男”というのは「東京」のような大都会には無数に居る。もしかしたら約5000件の情報提供の中に“ホンモノの情報”が何軒も含まれているかもしれないが、それを抽出していくことが“人間の作業”ではなかなかに難しい。こういう時に威力を発揮するのが、AIではないかと私は思うのだが、もし地方警察の予算では導入が難しいなら、国が手を貸してでも、AI捜査を導入すべきだ。報奨金は“AI捜査の拡充”に用いるべきだし、遺族にとっても、その方が“意味を持つもの”となるに違いない。

ハッカー集団が「威張ってものを言う」不思議

2026-10-08
大阪でハッカー集団「Qilin」の中心メンバーの一人であるロシア人が拘束された。大企業や政府機関などを攻撃しているハッカー集団だが、彼らに言わせると「日本」は世界でも最悪のコンピューターセキュリティ体制の国であるらしい。つまり“攻撃しやすい国”であるらしい。彼らは世界各国に300名以上の“協力する人物”を備えていて、それらの協力の下で、有名な企業とか各国の政府機関とかに攻撃を仕掛けて来ているらしい。今回、拘束された人物については、報道によれば「中心メンバーの一人」であるらしいが、組織としての見解は「彼がメンバーであるかどうか、何もコメントしない」とし、その一方で「日本はコンピューターセキュリティが最悪なので、日本の企業、及び政府機関に対する攻撃は増加していく可能性がある」と語り、さらに「これは脅しではなく、専門家としての見解だ」と付け加えている。これって、どうみても「脅し」としか思えないが、まあ、それにしても、もう少し“仲間に対しては優しく”してあげて欲しいものだ。それに、犯罪集団であるのに、どうしてそうも“高飛車”なんだろうか。もう少し丁寧にものを言うことを学んで来た方がいい。確かにセキュリティは甘いかもしれないが、犯罪者が威張って言うことだろうか。こういう事件が報道されるたび、わたしは“セキュリティなど無い世界”に行きたいと思う。どうも最近の“なんでもセキュリティの世界”というものが、嫌で仕方がない。本来、セキュリティというのは“万一の備え”として開発されたはずで、他人の領域を犯す、というのは犯罪行為なのだから、そういう人々が居なければ、本来は、何の心配もいらないのだ。ときどき中国や韓国のドラマなどを観ていて、他人の家に“勝手に上がり込む”場面が多いのに驚く。たいていの場合は身内とか親友とか恋人とか“元恋人”とかなのだが、それでも、われわれの感覚からすると“勝手に上がり込む”というのが信じられない。日本人の場合は、親子や兄弟であっても、一応、告げたうえでないと“他人の家”には入り込めない。やはり、そういう点で、日本とは根本的に違うのかもしれないが、もう少し“自分のモノ”と“他人のモノ”との区別を、幼い頃にしっかり教え込む教育が必要な気がするのだが……。

「時を戻す」のと「時を進める」どっちが倖せ

2026-10-07
最近は“情報流出”とか“AIが暴走”とかのニュースが多い。そういう報道が多くなると、やっぱり科学が進みすぎると、便利にはなるけど“神経が休まらなくなる”気がしてならない。わたしのようなどちらかといえば“IT系が苦手な人”は、なおのこと昔の“のんびりとした暮し”の方に戻りたくなる。そうは言っても、時は止まらないし、戻すことも出来ない。多くの高齢者は、戸惑いながらも時代についていくしかない。そういうわけで、では逆に今よりもっと先の10年とか、20年とか、30年とか先の未来に“一足飛びに進んでみたら”どうなのだろう……と思うこともある。完全なる“AI社会”になってしまえば、特別な技術を覚えることも、方法を学ぶこともなく、思っただけで、言葉に出しただけで、すべてが“用意されていく”ような……そういう時代がやって来るのだろうか。ただ人間はぜいたくなもので、そういう暮らしの便利さが進めば進むほど、昔の“のんびりとした暮し”に憧れるようなところも出てくる。音楽だって「昔の音源の方が良かった」という人達がいるし、写真だって昔の「写るんです」写真の方を好む人たちもいる。ビンテージ物の洋服とかインテリアとかを好む人たちもいる。時代が進んで便利になるから、或いは豊かになるから“倖せ”なわけではない。むしろ、何一つ物がなくても「愛する人」だけ、傍に居ればいい……という人もいる。そういう点から言えば、時を止めたからといって、時を戻したからといって、或いは時を進めたからといって、それで“倖せ”がやって来るのではなく、自分にとって“大切なもの”“かけがえのないもの”“失いたくないもの”が一つあれば、人はそれだけで“倖せ”を感じることが出来るし、生きていく支えを得ることが出来る。それを無くしてしまったら、どんなに他のもので“埋め合わせ”をしようと思っても、それが出来ない単純な生き物なのだ。つまり、人は「時」を戻すとか、進めるとかではなくって、その人にとって“かけがえのない”それだけがあれば、十分に“倖せ”を得て行くことが出来る“慎ましい生き物”なのだ。

立花孝志「政治家」でなく「政治屋」になった

2026-10-06
人は誰でも変わっていくから、その変身自体は“良い”とも“悪い”とも一概には言えない。けれども、その代わり方の中に、第三者的に観て“哀しい変り方”というのがある。例えば「立花孝志」という人物だ。この人のことを最初に知ったのはいつだっただろう。何かの選挙の時、偶然TVで視て「面白いことを言う人だな」と思った。それだけだった。ただNHKの視聴料金というのは、わたし自身も前から奇妙に思っていた。NHKの番組を観ていなくても徴収される不合理なシステムだからだ。たぶん多くの人が同様に感じていたと思う。そういう中で立花孝志が出現し、NHKの組織の在り方などを批判していた。だから共感した人も多かったと思う。こうして奇妙な形で登場した彼は、参議院でそれなりの票を集めるまでになった。ただ彼は、その党名をしばしば変えた。だから、投票者たちは、その党名に追いついていけなかった。彼自身は“変わり身の早い人”のようで、みんなが付いてくると思ったのかもしれないが、多くの大衆は、それほど“変わり身”も早くないし、あれこれ“最新の話題”を投じても、ついては来れない。なぜなら、投票してくれた人たちは“ごく一般の生活者たち”だからだ。結局、彼は徐々に獲得票を失っていくようになった。あれこれ“党名”を変えていく、或いは“主張”を変えていく人を大衆は好まない。信頼できない、と思うだけなのだ。彼は徐々に信頼を失い、人気を失い、お金を失ったようで、彼からは“借金報道”が目立つようになった。また他の政治家とのトラブルも多くなった。大衆が知りたいのは、ほかの候補者が何をやったかとか、何を言っているとかより、自分の支持する人が「何をしてくれるのか」なのだった。ところが、どういうものか彼は批判は得意なのだが、自分が今後何を行っていくのか、どういう部分で貢献していくのか……そういう点には関心が乏しいようだった。結局、彼は罪人となって現在拘留中の身なのだが、その獄中にあっても、今回の兵庫の現職議員の死亡に対し行われる“補選”に出馬する意向のようだ。獄中からの出馬だ。既に二人以上の候補者が届け出ていて、彼が出馬しても勝てる見込みはない。それでも「政治屋→立花孝志」は出馬する。そうしないと、彼としては“存在感が失われてしまう”からだ。いまや彼にとって“国民の暮らし”などはどうでも良い。政治屋=立花孝志として、何らかの形で支持と資金を得たいのだ。

「ミステリー」は時を超え「恋愛」は時の鏡⁉

2026-10-05
TV録画をする時「番組表」を観ていて、どうしてこんなに“ミステリー作品”が多いのだろうと不思議な気がする。BSの作品は特にそうだが、日本の“再放送ドラマ”は圧倒的にミステリー作品が多い。どの局であっても、その点では共通している。昔、放映された“恋愛ドラマ”であるとか“時代劇ドラマ”であるとか“家庭的なドラマ”であるとかは、なぜかほとんどない。ミステリーかサスペンスなのだ。海外からの“輸入物ドラマ”は必ずしもそうではない。どうしてなのだろう。日本のテレビは、特に70年代~80年代にかけては“アイドルの黄金時代”で、TVドラマも多数のアイドルの人気にあやかった内容のものが多かった。その結果、時代を超えても“楽しめる作品”とか、時代に関わりなく“魅力的な内容の作品”が作られなかったせいだろうか。とにかく連続ドラマでも単発の作品でも、日本の作品はなぜか横並びに“ミステリー”か“サスペンス”なのだ。それ自体は別に良いのだが、その再放映する作品群が偏り過ぎている。同じものを何度も再放映するとか、同じ原作者や主演者のものを何度も再放映するとかが多すぎる。放映権の関係などもあるのだろうから、同じ時期の作品を扱うことが多いのは、それなりに理解できる部分もある。ただ、それならば、その当時の“もっとさまざまな分野の作品”を扱って欲しいのだ。その原作者や主演者にしても、もう少し多彩な顔触れを再現してほしいのだ。あまりにも一部に偏り過ぎている。最近のBSでは“韓国ドラマ”の作品を扱ったものも多い。確かに、同じミステリーやサスペンスものなら韓国物の方が圧倒的にストーリー展開では軍配が上がる。日本のものは少し説明が多すぎるのだ。これは映画などでも良く感じるのだが、欧米の作品などは、ほとんど説明というものを容れずにストーリーを展開していく。次々と展開していく。そして、最初は解からなかったものが、いつの間にか理解できるような展開へと変化していくように出来ている。そういう“語らず引っ張っていく”という部分が日本物には欠けている場合が多い。昔のミステリーにしても、あまりにも早く“犯人や仕掛け”が解かってしまう作品が多い。事情説明などは語らせず、ストーリーの中で明かしていく手法を学ばないと、その内、BSは完全に“日本作品から撤退”というような事態になりかねないようで、その点が危惧されるのだが……。

「和菓子」を「世界」に“売り込む”ことは可能⁉

2026-10-04
“和菓子店”の倒産件数が、過去最大級のペースで進んでいるという。いちばんの理由は原材料費の値上げで、その値上げ分を価格に転嫁しにくい和菓子業界は、ここ数年、窮地に追い込まれやすい状況にあり、昨年も多かったのだが、今年はもっと多いペースで倒産が増えているというのだ。それも、100年以上続いてきた老舗のようなところの倒産が増え始めているようだ。確かに周りを見渡せば、洋菓子店だらけで、和菓子店というのは滅多にない。昔からの観光地でもない限り、和菓子屋は見掛けにくいのが実情だ。実は、わたしは“和菓子屋の息子”だった。厳密に言えば、わたしの父親は“元和菓子屋”だった…というべきだろうか。わたしが生まれる直前、それまで経営していた四店舗をたたんで、夜逃げのような格好で北海道へと移り住んだのだ。だから、厳密にいうと、実兄の場合は“和菓子屋の息子”になるが、わたしの場合には経営者ではなく、職人に落ちぶれた父親の息子ということになる。とにかく、そういう中で私は誕生した。だから、こういうニュースを知ると、或る意味で“複雑な心境”になる。そういえば、わたしの大好きな“あんドーナツパン”の親戚ともいうべき“あんドーナツ”は「和菓子」に属するらしい。う~ん、父親の未練が、わたしに“あんドーナツパン”を食べ続けさせているのか。和菓子というのは、昔からの“季節の行事”と“冠婚葬祭”に提供されてきた。確かに葬式や法事の時に、和菓子が出ているのを見掛けることはあるが、洋菓子が出ているのを見掛けたことはない。そういうものに対して、現代は“省略化”や“縮小化”しがちである。そうなると自然に、和菓子を食べる機会というものが減る。家族で食べる……という光景が減る。漫画でも、昔は家族団らんの様子として“大福を食べる”とか“団子を食べる”とかの光景が似合ったが、どうも今では“昔の光景”という印象がぬぐえない。だが、それでは和菓子は“終わりなのか”といえば、わたしはそうは思わない。例えば、誰か“世界的著名人”が「和菓子大好き」と絶賛すれば、そうして京都を訪れた外国人たちが、好んで和菓子を“土産もの”として購入し出せば、状況は一変するに違いない。実際、一時期は“寿司店”だって、閑古鳥が鳴いていたのだ。今では世界の主要都市に「すし店」がある。ただ“日本式”に拘ってはいけない。世界の寿司でって、およそ“本物の寿司”とは似てもいないようなものが平然と“寿司”として食されている。そういう風に変幻自在となれば“和菓子”は大いに蘇っていくのだ。

「32年後の死刑」を「神」は許さなかったのか

2026-10-03
人によって静脈に“注射するのが難しい”体質の人がいることは、誰でも知っている。それでも、上手な専門家(看護師)が行えば、大抵の場合は上手く行く。ところが、それでも上手く行かない場合というのが稀にある。そういう場合、強引に注射を続けると、思わぬ事態を引き起こす。アメリカのテネシー州で、18歳の時に同級生を殺害したとして「死刑」判決が下っていた50歳の女死刑囚クリスタ・パイクは以前から弁護士を通じて「静脈注射が困難な体質である故、別な死刑の方法を望む」と嘆願していた。ところが何故か“その願い”は叶わず、このほど“薬物注射による刑の執行”が行われた。通常通り、致死量に至る成分で行ったのだが、やはり難しかったのか一度目の注射では死に至らず、同じ致死量をもう一度注射することにした。死刑囚は嫌がったが、再度の注射が行われた。ところが、それでも「死亡」とはならなかったのだ。合計2度の致死量薬物が体内に入ったが、それは静脈を通じてではなかったようだ。こうして本人は激痛を訴え、刑務所側は病院へと救急搬送する事態となった。裁判所側も事態を重く見て、死刑の執行に問題はなかったか、別な方法での死刑が決まっていたのだが、それには緊急停止を下した。本人は現在、入院中だが“その治療”も困難を極めている。それにしても、わたしが思うのは、18歳の時の殺人で現在50歳ということは、既に32年が経過している。もちろん殺人罪だから極刑は逃れられないにしても、10代の時の犯罪で既に30年以上が経過してから“死刑執行”に至るというのが、今ひとつ判然としない。しかも本人から“別の死刑方法”を懇願していたのに、それが認められず、こういう事態に至った。何かしら後味の悪い“死刑執行”という気がする。もちろん、本人の体質的なものが招いた結果ではあるが、わたしには「神」が32年後の死刑を許さなかったような気がしてならない。18歳の時の罪を許すことは出来ないかもしれないが、32年間、放置していたなら、そのまま「終身刑」という形でも良かったのではないだろうか。一度で死ななかったから、もう一度注射する神経が、わたしにはなぜか怖い。

「めぐみ(娘)」は「早紀江(母)」に“長寿”与えた

2026-10-02
現在90歳になる横田早紀江さんが、拉致被害者の娘「めぐみ」さんの誕生日を前に“北朝鮮との交渉再開”を訴えた。毎年のように訴え続けているが、もう90歳だというのに、その表情は若々しい。そして、今年の誕生日を迎えると、拉致された娘さんの方も62歳になるという。13歳で拉致されたので、もう49年前の話となる。その間、ずっと横田早紀江さんは「娘」との再会を夢見続けたきた。実現できるかどうかは別として、ずっと娘に愛情を注ぎ続けた母親の執念のようなものを私は感じる。こんなことを書くと、批判されるかもしれないが、世の中で、自分の母親から一身に愛情を注ぎ込まれ続けた女性がいるだろうか。いないような気がする。そういう意味で言えば、なんと幸せな「娘」であったことだろう。そして同時に、そのことが母親を強くし、母親の若々しさと健康を永く保ち続けさせた部分もある。つまり、娘は、母親に“強い生命力”と“若々しい心身”を与え続けたのだ。つまり、娘想いの母親は、母想いの娘から“強さ”と“若さ”を与えられたのだ。但し、それが「幸せな人生だったか」といえば、それは別問題だ。悪く言えば“娘に振り回された人生”とも言えるからだ。早紀江さんは熱心なキリスト教徒のようである。彼女の願いを「神」は、なぜ聴いてくれないのか。そうではない。神は彼女に「めぐみ」さんと逢わせて、めぐみさんと一緒に暮らせるよう手配をした。正確に言えば、めぐみさんの娘「キム・ウンギョン」さんと逢わせた。そうして、その娘は「お祖母ちゃんと一緒に暮らしたい」と願ったのだ。けれども、疑心暗鬼の横田夫妻はそれを拒否した。その時、お孫さんであるウンギョンさんは15歳。拉致された当時の「めぎみ」さんと2歳しか違わない。どうしてあの時、横田夫妻は「実の娘」に拘ったのか。結局、その後は、そういう機会は奪われてしまった。神は、時々“代替え品”として、人の願いを聴き入れようとする。ところが、こだわりの強い人は、それを拒否する。その結果、多くの場合には、もうそのチャンスは失われてしまう。神様の努力を無駄にするのはあまりに失礼ではないか。あまりに傲慢ではないだろうか。 « Older Entries Newer Entries »