10月, 2026年
2026-10-25
世の中には、いろいろな人がいる。「志(こころざし)」という言葉があるが、同時に「その志は立派だが…」という表現もある。今回は、その後者が適切なような……そういう話だ。新潟南警察署の交番パトカーのフロントガラスに2通の封書が置いてあり、それぞれの中に小銭が入っていた。一通の方には“240円”が、もう一通の方には“299円”が入っていた。それぞれの封書の表面には「月光仮面」と記されてあった。「月光仮面」と言って、すぐ理解できる人は、どのくらいいるだろう。とにかく大昔の漫画で“正義の味方”だった白覆面の人物を言う。確か、わたしの大好きだった「まぼろし探偵」は、その少し後になって登場する。とにかく、月光仮面とか、まぼろし探偵とか、そういう感じの名前は“大昔のヒーロー”なので、そういう名前を使う人は“年代幅”が限られる。つまり封書を置いていったのは、高齢の男性であると思われる。封書の中には「僅かですが交通遺児のために使ってください。毎日一枚ずつ集めた小銭です」と書かれてあったらしい。う~ん、この人物を「月光仮面」と呼んでいいのだろうか。おそらく、その記述事態に“ウソ”はないだろう。彼は、毎日、買い物などしたときの“釣銭”を集めていて、それが“或る程度(⁉)”溜まったから、持って行ったに違いない。彼は、きっと幼い頃、ヒーローになりたかった人物なのだ。そしてヒーローになれなかった人物なのだ。だが、幼い頃からの“志”は高く持っている。持ち続けている。だから、今回はちょっと少ないが、それでも寄付金は寄付金であり、名を名乗るほどの者でもないので「月光仮面」が相応しい。だが「ちょっと待った」だ。彼の志は確かに素晴らしい。だが「交通遺児に役立ててほしい」と言われても“539円”で何が買えるのか。もちろん、金額ではない。それは解っているが、ちょっと月光仮面が可哀想だと思うのは、わたしだけだろうか。せめて、500円とか1000円とか、そういう切りの良い金額、或いは“交通遺児キャンペーン”などの開始日とか、そういう何かの日、そういう感じにしてもらわないと……と月光仮面がつぶやく。いや、気持ちは解かるが、世の中には“余っているお金”を持っている人たちも沢山いるので、そういう人達から「ふんだくってやりますから大丈夫です」と、誰か言ってやってほしいものだ。彼にとって、大切だったに違いない“539円”は、彼自身のために使うべきなのだ。神様は、その方が“微笑んで”くれる。月光仮面を困らせると、ちょっと哀しそうなのだ。その辺の“神様の気持ち”も理解してやってほしい。
2026-10-24
小説のタイトルは、それを書いた作家の“人物像”と深く関わっている。そういう意味で『限りなく透明に近いブルー』(村上龍著)というタイトルの小説が出て来たとき、そのタイトルに惹かれて読んだが、正直、よく解からなかった。その時点では“群像新人賞受賞”の作品だったのだが、やがて、それは“芥川賞”を受賞した。どうしてああいう作品が評価されるのか、解からなかった。わたしはその頃、自分でも仲間と小説を書き始めていた頃で、だから、余計に解らなかった。当時のわたしにとっては“黒岩重吾の作品が命”で、ああいう作品こそ素晴らしいのであって、具体的な生活がわからない村上龍氏の作品は、絵空事に思えたのだ。黒岩重吾は原因不明の病気にかかって一時的に半身不随となり、その後遺症で“引き摺るような歩き方”をしながら、大阪・飛田でトランプ占い師として生計を立てながら、小説を書き『背徳のメス』で直木賞を受賞した作家だった。その後は、どちらかと言えば“社会派推理小説”と呼ばれるような分野で人気を得ていった。晩年は“古代日本史”を扱った作品が多いが、どういうわけかその死後には、どの書店へ行っても、彼の作品が置かれていない。松本清張など、未だに特集が組まれて、多数の作品が並べられているが、黒岩重吾の作品は見当たらないのだ。ところで、肝心の村上龍氏の方だが、武蔵野美術大学の出身で、それであれば「限りなく透明に近いブルー」というタイトルも、その人物像を確かに表している。或る意味で、あの作品は“抽象画”だったに違いない。そう思うと、必ずしも、おかしな作品とは言えなくなる。実際、その後の村上氏は輝かしい受賞歴やベストセラーを生み出している。わたしは彼のTV番組「カンブリア宮殿」もよく観たが、小池栄子氏とのタッグがなかなか似合っていて、初期の頃は村上氏の方がリードしていたが、近年は小池氏の方がリードする形で番組を進めていた。ただ、最近は“元気が乏しい”印象で「透明なブルー」とは程遠い印象で「泥臭いブルー」になっていた。どちらかというと、若い時から恵まれた人生だっただけに、70代に入って“時代の先端を走る”ことに息切れしてしまった印象を受ける。どっちが良いのかわからないが、若くして寵児となるタイプより、どちらかと言えば“泥まみれ”の中から出てきたような人物の方に惹かれてしまうが、むしろ村上氏の場合には、小池氏にリードされて座っている時の方が何かしら“ほのぼのとしていて”わたしには魅力的だった。
2026-10-23
どうも、このところ、AIとか、ネット関連とかで“良くないニュース”が多すぎる。その結果として、これまで盛り上がっていた“AI関連株”なども軒並み大幅下落して「底」が視えなくなってきた。これを「バブル」と呼ぶにはあまりにも短すぎる熱狂で、感覚的には、もう一度“大きく盛り上がって”の終焉にならないと、実需との違いが極端すぎるような気がする。これから2~3年先になって、ほんとうの意味での“AI世界”が歴史上に幕を開くはずだからだ。もし今のまま“尻つぼみ”で終わってしまうなら、あまりにも一過性で、これからの世の中に“AI”が本格的に貢献していくようにはとても思えない。もちろん、株価などの金融市場は“先行指標”なので、実際の世の中とは“1~2年の乖離がある”のだが、それにしても今回の急落は、不安先行が“先走り過ぎた結果”のように思えなくもない。アメリカのSOX指数は、今現在も6.44%くらいの下落を示していて、大きな調整の最後の砦に差し掛かりつつある。ここから先、まだ下落していくと、もはや完全に「バブルは終わった」という段階に入って、すぐには浮上できなくなってしまう。つまりは、SOXのチャートだけ見ると、今は“首の皮一枚で繋がった”状態と言えそうなのだ。もっとも、この「首の皮一枚で繋がる」という表現は“ギリギリで助かる”という意味で使われる言葉だが、実際には、日本の武士たちの「切腹」時の状態を指す言葉で、切腹の時、多くの武士は、じぶんが腹を切るだけでは、なかなか直ぐは死ねないらしい。そこで正式の切腹には“介錯”という武士が立ち会い、その人物が“首を切る”役割を果たすのであるという。それも、完全に“切り落とす”のではなく、首の皮一枚が残る状態に切り落とす。そうすると、本人が“楽に死ねる”だけでなく、その“死に顔”を周囲に見せることなく、首の皮で繋がった状態で、手前に垂れた状態で“最期の姿”を現すことが出来る。したがって、元々は「ぎりぎり助かる」とおいう意味ではなく、助からないが“無様にはならない”という形での死を表していたらしい。わたしも、初めて知ったことだが、ほとんどの人達は、よく“本当の意味など知らず”使ってきていることになる。もし、ほんとうの意味で使うなら、あまりにも“切なすぎる表現”のような気が、わたしにはする。
2026-10-22
霜降り明星「粗品」と、スポーツニッポンの芸能記者との間でトラブルが勃発したようだ。おそらく年末のTV企画に関するもので、粗品氏は「自分のタイミングで公表したい」という気持ちが強く、スポニチ記者側は「報道の自由」という気持ちが強く、粗品氏は「記事の差し替え」を希望しているらしいのだが、今のところスポニチ側は“応じない気配”の方が強いらしい。ただ、これは既に決まったTV企画で進行中のようだから、いずれは報道が出る。これが“プライバシー”に関するモノとか“事件性のある事柄”とかであれば「スクープ」とか「サプライズ発表」となるのだろうが、既に決まったTV企画であれば、本来は、どちらの側にとっても“騒ぎ立てるほどのこと”とは、わたしには思えない。ただ最近、企業でも、個人でもそうだが、AIなどの進化で、個人情報などが勝手に盗まれるとか流出する事件が相次いでいる。そういう点から言えば、芸能人とか、政治家とか、アスリートとか、本人が“守っておきたいもの”を勝手に“盗み取る”行為に対しては、何らかの規制を早急に掛けないとならない事態となっている。結局、世の中は便利になって、次々と新しいものが生まれて、それによって良くなった部分もあるが、かえって悪くなった部分も多い。特に、自分が特定されないなら「ワルイことをしてもいい」という発想が、特に若い人たちに増えてきたような気がしてならない。日本人は昔から「阿吽の呼吸」というものを持っていて、言わなくても、言葉に出さなくても、相手を感じ、相手を察して行動する……という特技があった。デジタル社会になって、だんだんそういう“日本人の特技”的な感覚が失われていくようで、わたしにはそれが怖いのだ。今回の「粗品」と「スポニチ」の問題だって、昔であれば、阿吽の呼吸で「これはまだ出してはいけないな」と記者の方が察していたような気がする。デジタル社会は、人と人との“言葉に出さない言葉”というものを奪っていきそうで、どんどん人間もロボット化してしまいそうで、どんどん気配の察知力が退化してしまいそうで、それが、何よりも怖い。
2026-10-21
南米エクアドルにあるグアヤキルの教会。10月17日、神父パトリシオ・サンチェス氏はいつものようにミサを執り行っていた。その途中で、多くの信徒が祈りを捧げているその中で、突如、巨大な木製の十字架が背後から落下してきた。祭壇中央で“神の言葉を述べ続けていた”神父は、その巨大な十字架の直撃を避けることが出来なかった。鮮血が飛び散る。もちろん、大勢の信徒たちがすぐさま駆け寄って、下敷きとなった神父を引っ張り出して病院へと救急搬送したが、既に死亡が確認されただけだった。こういうシーンは、よくドラマチックな映画のワンシーンとして演出されたりする。だが、今回は“偶然なる災害”としか言いようのない事件だった。もちろん、誰もが感じるように、その出来事自体は偶然であったとしても「単なる偶然であろうか」と戸惑いが抜けない。そこは“神が住まう”はずのカトリック教会なのだ。しかも、背後からの落下直撃は、まるでサンチェス神父を狙ってでもいたかのように頭部に直撃している。実は十字架本体は木製だが、そこに貼り付けられているイエス・キリストの彫刻像はブロンズ製(⁉)のような気がする。単なる“木製の十字架”であれば、背後から直撃しても、死亡はしなかっただろう。そういう状況からみても、これは単なる“偶然の事故”なのか、推理小説などでよくあるような“事件性”があるのか、それとも神の“逆鱗”に触れたものなのか、どうしても気になる。ということで、一応、彼の周辺を解かる範囲で調べたが、別におかしな部分は出て来ていない。ただ、彼は“事故の数分前”に「説教」を行っているのだが、その時に“人の死”や“神の出現”について語っている。「ここに居る私たちも、いつか皆、死を迎える…(中略)…神や愛する人に自分の時間を捧げなさい」と教えたのだ。もちろん、彼は“いつものこと”として、これらのことを語ったのかもしれない。けれども、それから数分も経たないうちに巨大な十字架が背後から落下した。そして、見事なまでに頭部を直撃した。昔から「事実は小説よりも奇なり」というが、彼の最期の言葉は、はたして誰に向けられたものなのか、ほんとうにそこに来ていた信心深い人たちに向けられた言葉だったのだろうか……神は沈黙している。
2026-10-20
“世界的言語”と言えば、誰もが「英語」を思い浮かべる。けれども、いま“世界的漫画”と言えば、誰もが“日本の漫画”を連想する。奇妙なことに、日本は幼い子供たちにとって“漫画・アニメから入っていく国”になっている。つまり、日本という国は、世界の子供達との相性が良い。実は、近年、日本語を話せる外国人が急速に増えつつある。もちろん“漫画・アニメ”の影響からだ。子供の頃に、自分から興味を持って憶えた言語は習得しやすい。国際交流基金が後ろ盾となって先頃「エジプト日本学校」が開設された。手始めは中学生を対象とした「日本語教育」で、その中には日本式の“日直”や“掃除”なども含まれる。エジプト人の日本語教員を配して、教材やカリキュラム作成を行い、カイロやスエズなどの都市部から計10校が本格始動し始めている。そこに通う中学生たちからの評判はすこぶるいい。或る生徒は「日本語は美しい言語、将来は日本語とアラビア語で通訳になりたい」と目を輝かせる。彼らにとって「日本語」は美しい言語なのだ。多分、そのイメージは幼いころ親しんだ漫画・アニメからの影響と思われる。エジプトだけではないが、幼少期に“日本の漫画・アニメ”に親しむことで「この国に行ってみたい」という気持ちを抱いた外国人は多い。それは、われわれが子供の頃、例えばエジプトのピラミッドを写真や映像で見て「この国に行ってみたい」と思うのと似ている。そういえば先日、TVで誰かが「わたしは漫画“王家の紋章”でエジプトを学んだ」と言っていた。子供の頃の想いは“美しいイメージ”と結びつきやすい。実際、日本の小学校などの“日直”や“掃除”や“給食当番”などは、その後の教育上に好ましい影響をもたらすことが多い。ただ単に言語だけでなく“暮しの基本”を学べるのが「日本学校」なのだ。こうして、エジプトだけでなく、世界中の学校で“日本式教育”が浸透していけば、もう少し世界は“平和に出来る”のではないだろうか。そういう意味でも、その先駆けとなっていく可能性の強い「エジプト日本学校」は、徐々に世界各地に波及することが出来るのが望ましい。
2026-10-19
いつの間にフランスは、こういう街になってしまったのだろう。市庁舎が火で焼かれる。街中で略奪が始まる。警察と群衆との間で“激しい小競り合い”が続く。そういう報道映像が飛び込んでくる。最初は学生運動だと思われていたが、いまや「ブラックロック」などという危険集団も加わって、日本人が“ゆっくり観光”などしていられないような状況に変わりつつある。いちばんの問題点は物価高騰で庶民の暮しが脅かされつつある点だ。だからデモとか略奪とかがあっても、警察が力で“徹底的に封じ込める”ということが難しい状態となっている。徐々に“生活苦”が国民全体を脅かし始めているからだ。ウクライナとかイランとかの戦争状態が、実はアメリカなどより欧州の方により悪影響が大きい。現在の物価高は世界的な傾向だが、もっとも強く実感しているのがユーロ圏に暮らす人たちで、中でもイタリアとフランスは賃金上昇率が低くて、インフレ率が高いので、どうしても物価高の影響をもろに受けやすい。戦争当事国であるイランのインフレ率は87%とも言われ、異常なほどである。だから本当は早く終結させたいのだが、宗教国は信仰の関係で“神が破れる”のを許さない。だから「ギブアップ」は出来ないのだ。そこで、どうしても戦争などしていないイタリアやフランスが巻き添えを食らって経済苦が続いている。EU加盟国は“一心同体”のようなところがあるから、自分の国だけ“抜ける”ということが難しい。この状態が長引くと、フランスだけでなく欧州各国で“似たような現象”が置き始めないとも限らない。そして、日本や韓国も急速にインフレ率が高まっている。特に韓国は一部の企業だけが“経済的に潤っている”のが明らかなだけに、いったん生活苦が表面化しだすと、一気に暴徒化していく危険性をはらんでいる。日本の場合は韓国ほど極端ではないが、経済的な“潤いある業種”と“追い詰められていく業種”が判然として来つつあるだけに、早く経済政策を軌道に乗せないと、高市政権の支持率だけでなく種々の亀裂が表面化していく可能性が強い。世界にとって、いちばんの解決策は“二つの戦争終結”なのだ。
2026-10-18
「日本列島」は島国なので、そういう点では“陸地続きの国境”と比べると、そう簡単には国内に入れない。「日本」の持つ“良さ”も“悪さ”も、この島国であることと無関係ではない。けれども、いつの間にか「日本」に入って来る(日本で暮らす)外国人は400万人を突破してきた。昨年から今年にかけてだけでも15万人も増加しているらしい。そして、この分で行くと、2040年代には1000万人を突破する……という予測もある。つまり「10人に1人は外国人」という時代が、もうそこまで来ている、ということになる。確かに街中を歩くと、多数の外国人に出くわす。その内訳は、中国人が一番多くて94万人、次がベトナム人の69万人、そして韓国人の40万人と続く。それ以降はフィリピン人、ネパール人、インドネシア人の順だ。欧米人は少ない。少子化が進む日本で、外国人が増えていくことは、良いことなのか、悪いことなのか、一概には言えない。「日本」の場合、長期にわたって“鎖国政策”を採っていた時代があった。その間、欧米からの文化が入らなかったことで“立ち遅れてしまった”部分もあるが、その一方で、日本独自の“さまざまな文化・芸術・工芸品”なども生まれた。だから、どっちが良いと一概には言えない。但し、日本は資源が乏しい。だから、そういう点から言えば“鎖国”はしない方がいい。海外から来る子供たちに対しての教育機関がまだまだ整備されていないよう感じられる。この点は、早急に何らかの対策が必要だ。外国人は「人」なので、言葉が通じれば摩擦は少ないが、動物のシカは言葉が通じないので難しい。近年、シカによる問題が各地で起きてきている。なにしろ、その増殖力は群を抜いていて、クマが日本全土に数万頭なのに対して、シカの場合は300万頭~400万頭もいる。実害はクマほど判然とはしていないが、それでも草木を食料とするだけに“視えない被害”が意外なほど多いらしい。特に怖いのはその繁殖力で、正確な数を把握できていないのだが、近年に至って一気に増殖した形となっている。そうなると当然、人里に出没するシカも多くなる。もちろん、人と動物が共存できればいちばん良いが、徐々にそれが難しくなりつつある。もはや「日本列島」に日本人だけが暮らす時代は終わって、外国人とシカとが徐々に“我が物顔で振舞う”そういう時代が差し迫っているのだ。
2026-10-17
或る意味で“気象予報”というのは“占い”と似ている。だから、当たらないことがあっても「仕方がない」といえば、仕方がないのだ。ただ“占い”と違うのは、時に“強制的に避難を促す”場合のあることだ。もちろん、それが“的中率95%以上”とか言うなら、それは価値のあるものと言えるだろう。だが、大体は外れている。こういう言い方は良くないが“占い”よりも的中率が低い。特に“地震予報”と“津波予報”に関してはそうだ。こういうものは、何回も外れが続くと、たまに“ほんとうの場合”があっても、人は半信半疑で動かなかったりする。だから、そういうことも含めて考えると「止めてしまった方が良い」と、わたしは思うのだ。実際に“大きな地震”が来たとき「地震予報が作動していた」という話は聴いたことがない。もう、そういうシステムが出来て永いのに、どういうわけか“地震予報が活躍した話”とか“竜巻予報が的中した話”とか“豪雨予報で助かった話”というのは、ほとんど出て来ない。どうしてだろう。台風などの豪雨予報は、一応、機能している場合もあるが、大体の進路は予測できるから、別に“避難予報”が出なくても、必要な場所の人達は自主的に避難する。人間は“動物の一種”だから、他の動物と同じように、本来は“生命の危機に対する避難本能”というものを持っている。ただ文明生活が長いので、その本能が“退化している”人たちが多い。地震などの気象予報は、そういう本能をより“退化させてしまう”ような気がして怖いのだ。だから、当たらない予報なら無くしてしまった方が良い。もし、本気で“当てようとしている”なら、もっと精度の高いものを研究し直す必要がある。なければ見つけ出す……という根本的な発想が、気象庁の人達には無いような気がする。わたしが、こういうことを強く言うのは、地震予報には“国家予算の一部”が投入されているからだ。当たらないものに頼るなら、何も知らず“平穏な気持ち”で過ごす方がいい。土台が、ほんとうの大震災の場合には、緊急速報など役立たないことが多いのだ。「すぐに逃げてください‼」と言われて、緊急グッズに手の届く人は何人いるだろう。おそらく、ほとんどの人は、そのまま飛び出すのだ。
2026-10-16
どうも、このところの日本株は勢いがない。今年前半の“躍動感”が視られなくなってしまった。昨日の「日経平均」は“史上三番目の下げ幅”だったようで、終値は-3318円だった。この現象は「日本」ばかりではなく、お隣「韓国」や「台湾」の総合株価指数も、同じように下落している。特に韓国の株価は8.13%の下落で、これほどの急落は世界的にも滅多にない。ちなみに日本の場合は4.90%の下落、台湾の場合は3.41%の下落だ。この三国はいずれも半導体関連での有力企業を多数抱えているが、総合株価指数のチャートだけ見ると、今年の場合「台湾」が一番安定していて「韓国」がもっとも上下運動が激しい。「日本」はその中間にあって、その点だけで言えば問題ないのだが、このところ連続して下げ続けていて6日続落という“下がり方”が問題なのだ。こういうズルズルとした下がり方が一番“先行き”を心配させる。「日本」はようやく経済の先行きに対して“灯りがともり始めた”状態といえる。その矢先に“日本経済の先行指数”である「日経平均」に変調が兆すのは好ましくない。こういう状況が続くと、せっかくの高支持率を保ってきた高市政権そのものにも暗雲が立ち込め始める。政権の評価がもっともわかりやすいのは“経済指標の改善”として出て来る。もっとも今日の“先物指数”は大きく上昇しているようなので、少なくとも今日の「日経平均」の滑り出しは良いはずだ。問題はそれが一日中持つかどうかで、このところ朝方は大きく上昇して始まっても、長続きしないケースが多い。もし、今日、昨日の下落分の半分以上を埋められれば、今後は期待できるが、もし最初は良くても徐々に低下して、昨日の下落分の半分も埋められないようだと、つまりプラス1500円以上にならないで終われば、ほんとうの回復までには時間が掛かると思った方がいい。逆に1500円以上のプラスで、特に半導体関連の多くが上昇するなら先行きは楽観視して良い。その後も、継続的に徐々に回復して、再び7万円代に到達するのは確実となる。今日はそういう意味で日本株にとって、日本経済の今後にとって、重要な一日なのだ。
2026-10-15
あらゆる部分で“時代の変化”を感じることが多いこのごろだが、本の販売も今や「書店」だけとは限らなくなっているようだ。例えば外国人向けの「お土産屋さん」そういうところにも、ごく普通に“一般書籍”が置かれていたりする。もちろん日本語で書かれた“ふつうの本”だ。わたしはあまりいろいろな場所に出向かないので、気付かないことが多いが、それでも、カフェと書店とか、工芸作品と書籍販売とか、駄菓子屋と雑誌販売とか、インテリアと書籍とか、スーパーで雑誌販売とか……さまざまな形式で“本が売られ出している”ことを知っている。もはや街に書店が無くても大丈夫な時代なのだろうか。ただ気になるのは、書店じゃないところで本を買う人は、ほんとうにその本を“読むため”に購入しているのだろうか、という点だ。もちろん、わたしだって本を著述する側の一人として、仮に読まなくっても、本を購入してもらえるのはすごくありがたい。読んでくれればもっとありがたいが、仮に読む気がないとしても、購入してもらえると、その方の日常の“片隅”に置かせてもらえるような気がして快いものだ。だれでも、気に入った人の傍で過ごしたい。そういう意味で、たとえ自分ではなく、自分の書いた本であっても、未知なる人の“傍で過ごす”ことが出来るのは気持ちがいい。本だって、孤独なのは寂しいものなのだ。いまは書店でなくても、アマゾンなどネット販売からでも本を購入できる。ネット販売の良いところは、24時間開いていること、注文してから届くまで早いこと、古書販売も併設していること、どの本を購入したか、誰にもわからないこと、大昔の本でも取り寄せ可能な場合が多いこと、その本に対しての“感想”などが読めること……などだろうか。その反面、弱点も多い。いちばんは、その本の中身が確認できないことで、何であれ、中身を確認せず購入するのは不安なものだ。最近の書籍は総じて高い。購入した後で「しまった」と思っても、もう遅い。購入読者の感想など当てにならない。大体“星評価”ほど当てにならないものはない。よく、こんな本を“星五つ”とかするものだ…と首を捻るようなケースも多い。カフェなどで本も購入できるところもあるが、わたしは基本的に“他人の手垢がついた本”をそのままの価格で購入する気にはなれない。もし“手垢の付いたもの”でも読みたい内容の場合は、古書店から“安く”購入する。貴重な本が驚くほど安く購入できた時の悦びは、たとえようもない。ただ運命学関係の本などは、大昔の本ほど高い。ボロボロになっているものを何万円も出して購入する時の何とも言い難い苦汁を誰に言えばいいのか。
2026-10-14
大阪などの駅中ビルなどに多数の店舗を出店していたアクセサリーショップの「チャンス・ツー」が負債6億円を抱え破産手続きの開始に入った。1996年の創業で2009年にはピークの22億円を売り上げていたらしいが、それが今年3月では4億円にまで減少していたという。多い時には20店舗以上を出店していたというが、現在では5~6店舗のようだ。30代女性向けのアクセサリーが中心だったようだが、本格的な宝飾品とは微妙に違って、若い女性向けのアクセサリー品は基本的に高額では売れない。特に駅中ビルに多く出店していたことからも、ちょっと立ち寄って、その場で気に入ったなら即購入という人達が多かったと思われる。つまり宝飾品に属する商品だが“薄利多売型の商品”だったと私は思う。こういう、その時々の“流行に左右されやすい商品”というのは、基本的に一気に拡散化して、一気に縮小化する“商売の仕方”を採らないと上手く行かない。同じやり方で“長続き”することは滅多にない。運命学的な観点から言えば、基本的には“十年勝負”で、2~3年の間は宣伝・広告に力を入れて拡散し、4年目あたりから本格的に店舗を増やして拡大させる。そういう形で行けば5年~7年目辺りで“大いなる広がり”を得て、黙っていても収益が拡大していくことになる。但し、十年目辺りがピークで、それ以上は運命学的には“地道に稼ぐ”方式に転換しないと、下降線を辿ってしまうケースが多い。どんな商売でも事業でも、永久不変の成功などありえない。「運勢」というのは、どんな零細な企業であっても働くもので、その商売を始めて十年経っても“全く手応え”が得られない場合には「運」そのものが味方していないか、その企業や店舗に“生命力が欠けている”か大体どっちかで、そういう場合は、その後の継続が難しい。企業や店舗の生命力というのは、人間と違って外見的なものからは判りにくいが、基本的には創業者とイコールで繋がっている。したがって創業者の生命力や気力が衰えてくれば、当然、その企業なり店舗なりも衰えてくる。もし既に後継者がいる場合には、早めにバトンタッチした方が、好結果につながる場合もある。ただし、その後継者の生命力や気力、そして何よりも「運」が旺盛な場合に限る。
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