われわれが「四柱推命」と呼んでいる占術は、中国では古来さまざまな名称で呼ばれてきています。「子平」「命理」「八字」「算命」等ですが、どれも研究者の間ではポピュラーな名称です。名称がたくさんあるように、その誕生の経緯や変遷についても種々なことが言われてきています。ただ、ここで知っておかなければならないことは、この占術を誕生させた中国人の気質についてです。中国人はことのほか古いものに対して価値を置く民族性を持っています。したがって、その起源を実際よりも過去にさかのぼらせ過ぎるきらいがあるのです。 |
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中国の史実は、事実上は夏王朝からスタートします。その夏王朝と次の殷王朝、それに続く周王朝の王名を比較したものを掲げておきます。【表1】これらに四柱推命誕生のヒントが隠されているからです。これら王名をじっくりと比較すると、これまで中国系占術を研究されている方なら、誰もが奇妙な違いを発見することになると思います。その違いとは、殷王朝の王名のみ「十干」が王名に含まれていることです。夏王朝の王名にも、周王朝の王名にも、十干は見当たりません。殷王朝の王名のみ十干が含まれているのはなぜでしょう。 |
それは、この王朝成立前後に、十干十二支による干支暦【図1】が出現していること、その十干十二支に呪術的役割を見出していたこと、各王と十干とを結びつける何かが存在したこと…を物語っているのです。有力な説としては、それぞれの王名十干は、各王の生まれ日における干支暦上の十干と考えられています。古代中国における神話伝説では、天空に輝く太陽は元々十種類あるとされ、それが十干としての「甲」「乙」「丙」……「癸」なのだ、とされていました。したがって、毎日交代で上昇循環する太陽にはそれぞれの性質があり、個々の日に生まれた王子には、それぞれの性質や能力が付与される――と考えられたに違いありません。 | |
ところが「呪術王朝」とも呼ばれる殷王朝以外の王朝では、それらの考え方は継承されなかったようです。亀卜(きぼく)と呼ばれる占いが盛んに行われたのも殷王朝で、王朝開始以前の系譜とされているものを見ると、興味深い事実に気付きます。【表2】 | |
( )内の甲骨文字・王名によって殷王朝系譜をさかのぼっていくと、「王亥(おうがい)」までは辿れるのですが、それ以前は発掘史料としては出てきません。それ以前は伝漿のみです。そして、甲骨文字上の王名は多少入れ替えがあるものの「大乙(天乙)」以前も十干を含ませていたことが明らかです。つまり、神話伝漿に基づく個々の太陽がもたらす生まれ日十干によって、それぞれの性質や能力が付与されるという命理学(呪術)的な解釈は、すでに殷王朝成立以前からこの部族内では始まっていたのです。 |
ただし、よく一般の占術書で述べられることが多い「干支暦は黄帝の時代に始まる」と云う俗説は、何ら根拠のある主張ではなく、先にも述べた先人を尊ぶ中国人的思考・信仰に基づく盲説に過ぎません。通常考えられる黄帝の時代とは紀元前4000年紀かと思われますが、その時代にはまだ文字も暦法も存在していなかったからです。