1月, 2022年

「話す」のも自由なら「無視する」のも自由

2022-01-31
何年か前から、日本では“世間的な大勢の意見・考え方”みたいなものが浸透しだすと、それ以外の“意見・観方・考え方”を極力“排除していこう”とする風潮がみられる。特に、本来はそうあってはならないはずのマスコミにおいて、そういう風潮が著しい。したがって情報番組とかバラエティー番組でも極力“危なげない観方や考え方”のみが正論とされる。ちょっとでも偏った意見や考え方を述べると、徹底的にバッシングされたりネット炎上したりする。社会においては、うかつにモノが言えない時代となった。先日、歌手の氷川きよし氏が23年以降歌手活動の休止に入ることが公表された。それに対してタレントの高橋真麻氏が「歌手活動は休止してもインスタグラムは継続してほしい」という意見を述べたら、それに対してネット上で“批判コメント”が集中しているらしい。情報番組に呼ばれたゲスト(コメンテーター)が、自分の個人的な気持ちを述べただけだと思うが、それが“気に入らない人達”が山ほど居るらしい。それなら、最初から個々のニュースに対して感想など求めない方が良い。つまり、現在の「情報番組」「バラエティー番組」の“作り方”を変えた方が良い、ということになる。もちろん、意味のないゲストとかコメンテーターとかが多すぎるのは事実だ。ただ「井戸端会議」的な“話し”というのは、どの時代でも庶民に好まれる。それ自体が悪いとは、私は思わない。近年「ハラスメント的な考え方」というものが尊重されるようになって、話すをするときに“自分”ではなく“相手”や“周り”がどう思うか、どう感じるか、を意識したうえででなければ「ハラスメント」に引っ掛かる考えとか気持ちとかの範囲が拡大しつつある。誰もが“同じ基準”に立って、モノを話さなければならないとすれば、それは或る種「会話の自由」を奪っているのと同じなのではないだろうか。別に、相手に対して強制するのではなく、単純に「私はこうしてほしい」とか「こうあるべきだと思う」とかいうのは、ごく自然な会話の在り方だ。もし、それが嫌なら“否定”するか“無視”すればよいだけの話ではないか。否定や無視も「自由な社会」においては“当然の権利”だと私は思う。それなのに、その前の段階で「言わせないようにさせる風潮」が、私には怖い。なぜなら、時にそれはファシズムにつながりやすいからだ。偏狭な日本人にならないために、みんなが「自由に発言できる日本」であってほしい。

頭脳線の「先端」が4~5mmくらい延びた⁉

2022-01-30
このところ私は私自身で“気になっている”ことがある。自分の手相の「頭脳線(掌の中央部を斜めにカーブする線)」の先端部分が最近少しだけ長くなってきていることだ。なぜだろう。頭脳線というくらいだから、何かしら「頭の変化」なのに違いない。と言っても、相変わらず記憶力は悪くて、すぐに忘れる。まあ、齢だから仕方がないのだが、ほんとうに記憶力が悪くなってしまった。だから、どう考えても頭脳が良くなって、頭脳線が長くなったわけではない。元々私の頭脳線は一般的な印象として“普通”か、普通よりも“やや短め”か、どちらかに属する長さだった。一般的な頭脳線というのは、親指と人差し指の中間くらいの位置に始まって、掌中央部を斜め方向に弧を描きながら走るのが普通だ。母指丘を取り巻く生命線や四指下を横切る感情線と同じく“掌の三大線”と呼ばれるものの一つだ。私の頭脳線に特別目立った特徴はない。私の場合、感情線が“一般的なタイプ”とはやや違って“遊離した形”で2本となっていて、その点が特殊だが、それ以外は三大線に特別な特徴はない。それ以外の運命線や太陽線や水星線は、それぞれ特徴を持っているが、特別“素晴らしい”と思えるようなものはない。私がこれまでに観た手相のうちで生命線が長く“クッキリ”している人達は、意志が強く働き者で家庭的に恵まれている人達が多かった。俗に「生命線が長ければ長生き」などというが、必ずしもそうではない。ただ意志が強く、家庭的に安定している、という特徴がある。そして頭脳線のクッキリと長い人達は、共通して早期退職をしていない。死の直前まで働き続けるのが特徴だ。またクッキリ長ければ、極端に下垂している場合を除き、認知症にはなりにくい。私の場合、やや長くはなったが、まだ「特に長い」と言えるほどではなく、まあ普通程度か、やや長い程度になった…くらいである。したがって、少なくとも「まだ働けるのかな」程度の“頭脳がプラスされた”という程度の認識が、多分妥当なのだろう。それにしても、特に何をしたというのでもなく、むしろ日々頭脳そのものは衰えを感じているのに、そういう中で“ちょっとだけ延びてきた”ことが不気味である。例えば、頭の手術とかして延びたとか、何かを新たに習い出して延びたとかいうなら、それなりに解かるが、何もないところから「ちょっとだけ延ばしてやるか」みたいな“視えない力”を感じると、もっと別な部分、例えば「金運の線」とか「人気の線」とかにしてほしいのだが…。

「過去」と生きるか「未来」と生きるか競う⁉

2022-01-29
バラエティー番組の中で「リュースショップで爆売り対決」が行われ、タレントの小倉優子氏と西山茉希氏が出演、自分の私物を“公開査定”してもらったようだ。TVではときどき、この種の“査定”が公開される。いわゆる「お宝」の査定に関しては専門家でなければわからないが、女性のブランドバッグとか貴金属製品とかに関しては、何となくの予測は素人目にもわかる。それに、私物を持ち込むことでタレント本来の暮らしぶりや性格のようなものまで垣間見ることが出来る。多分、そういう意味合いや面白さもあって、この手の番組が増えているのではないだろうか。今回の番組では、まだ表面上は婚姻中の小倉優子氏と、既に離婚し二児を子育て中の西山茉希氏との対決というのも何となく象徴的だ。但し小倉優子氏の場合、実質的には完全別居中であって、夫が戻ってくる可能性は極めて低い。それでも“既婚”であることにこだわる小倉氏と、派手な喧嘩報道の繰り返しの中で“離婚”に踏み切った西山氏の対決でもある。私が注目したのは、西山氏が元夫の早乙女太一氏から贈られた“結婚指輪2つ”を、惜しげもなく査定に出したことだ。78万円で購入してもらった指輪だが、査定の結果は「日付が刻印されている」ことが致命傷となって、わずか21000円の査定となった。もちろん、私が問題にしたいのは、その金額ではない。“結婚指輪”をTV番組の中で、誰もが夫の名前も知っているのに、公開査定した度胸というか、勇気というか、隠し立てのなさというか、その部分に大いに関心をした。こういう人は、新たなる恋愛に何の躊躇もなく入っていけるし、まっさらの状態で“再婚”が出来る。したがって、男択びが“どうか”には問題があるが、少なくとも「未来」と“生きていける”ことだけは間違いがない。そして、自分の“生き方”や“過去”をけっして後悔することはないだろう。その一方“婚姻中”にこだわる小倉氏の方は、実質“完全別居”になってもう長いが、けっして離婚を選択しようとはしない。彼女が大切にしているのは“世間的な評価”や“愛されていた過去”にあるような気がする。もし、彼女が「未来」に目を向け、完全にシングルマザーとして再出発すれば、“新たなる愛”を手に入れられる可能性は十分にあると思うが「過去」と生きていく彼女に、その“選択”はないのだ。

スーパーで「息子」を「いくらなら買える⁉」

2022-01-28
世の中いろいろな人が居る。何かが欲しくなると「もう、どうやってでも欲しい」と我慢が利かなくなる人もいる。確かに“美しいもの”や“可愛らしいもの”は魅力的ではある。たまに男性で「美女」を観ると、どうやってでも“自分のモノにしたい”という、良からぬ欲求を抱く人もいる。アメリカ・テキサス州のスーパーはセルフレジのところが多い。次々と順番待ちの客が並ぶ。その日、スパーに買い物にやって来ていた母子が居た。店内での買い物を終え、いつものように母子でセルフレジに並んだ。その待っている間に、見知らぬ中年の女が近づいてきた。彼女はピッタリと近づいて、しばらく自分たちを観ていた。息子はまだ1歳だが大人しく母親の傍に寄り添っていた。「可愛いし、ほんとうにきれいね」見知らぬ女は母親の方とも息子の方ともいえない中間くらいに向かって独り言のようにつぶやいた。けれども、その物言いは明らかに息子に向けられたものだった。「あなたの息子さんのブロンドの髪と青い目はとても魅力的だわ」今度は、あきらかに母親の方に向かって言った。母親は小さく笑った。ちょっと間があった。それから「息子さん、売ってくれない⁉」女は強い眼で母親を見てきた。なにを言ってるんだろう…と母親は思った。「ねえ、いくらなら買えるの⁉」重ねるように女は言った。冗談だったのか…母親は愉しそうに笑った。けれども、中年の女は笑わなかった。「いくらを出せば売ってもらえるの」まだ、言ってる。それに、傍から離れない。「駐車場の車に2800万円ほど用意してあるの、いくらなら良いの⁉」「いい加減にして、息子に値段はないの!」母親はキレ気味に言った。怖くなって、しっかりと息子の手を握った。「もう、そういう話は止めて、息子から離れてください」ちょうど、順番が廻って来たせいもあって、その女をあからさまに遠ざけた。女は黙ったまま、そこから離れた。買い物の清算を終わって、すぐに店を出ると女が付いてきそうな気がしたので、母親は息子と一緒にトイレに行って時間つぶしをした。もう、女の姿は消えていた。そこで駐車場で自分の車に乗り込むと、なぜか隣にさっきの女が車で近づいて来た。そして窓を開け「ここにはないけど、5700万円までなら支払う用意があるわ」と食い下がってきた。「息子は商品ではないの警察を呼ぶわよ」と電話を取り出すと、女の車は走り去っていった。母親は怖かったので、あとから、実際に警察へと通報した。店や駐車場の隠しカメラの映像などから、母親の申し立てが正しいと証明され、後日、女は逮捕されたが、すぐに保釈金を払って出ている。もし高級デパートだったら、もっと金額は跳ね上がったのだろうか……

著名人の自宅が次々公開される⁉“濃厚接触”

2022-01-27
ここに来て著名人たちが次々とコロナを発症、或いは濃厚接触者となって、TVやラジオや舞台の現場が慌てふためいている。昨日、TBS系“朝の顔”となっている安住紳一郎氏もコロナの濃厚接触者となって、急きょ自宅からの出演に変わった。私は途中からちょっと見ただけなので詳しい経緯は判らないが、本人は極めて元気そうだったが、出社することは出来ず自宅からの中継となったようだ。通常、自宅からの“リモート出演”の場合、背景を壁などにするケースが多いが、安住氏の場合は本棚が背景となっていた。おそらく仕事関係かと思われるファイルケースと共に文庫本がずらりと並ぶ。さらに、ちょっとだけ写っている“高尾山の御札”が妙にリアル感があって好い。多分、急いだせいで“背景などかまっていられない”状態だったのだろう。安住紳一郎と言えば、TBSを代表する人気アナウンサーであるが、まだ40代(⁉)の独身会社員であり、肩書きはいろいろついているようだがフリーのアナウンサーに比べ華やかさに欠ける“住まい”なのは致し方がない。加えて急きょなこともあり“自宅を覗かれる形”になるとは思ってもいなかったことだろう。ただ彼のファンにとっては“大いなるサービス”と言えないこともない。考えてみれば、有名人の誰もが、立派な邸宅で豪華な家具調度に囲まれて暮らしているわけではない。或る意味では、そういう現実を知らしめるためにも、コロナの急拡大による“自宅からの出演”は意味があるかもしれない。近年、さまざまな番組で著名人の自宅内が撮影されることが多くなった。誰でもプライベートを覗かれることは好まないのが普通だが、もし、それによって逆に“庶民派”としての新たなる魅力が引き出されるとすれば、それはそれで役立つ場合もあるかもしれない。元々安住氏などは“その庶民的な好奇心や人となり”が人気の秘密なのだから、御札が見え隠れする感じなど、意図的な演出だった可能性もある。誰でも、他人のプライベートを覗きたい願望は持っている。どちらかと言えば、これまではそのプライベートを“覗く側”に位置していた人物が、“覗かれる側”になるのは何となく愉しい。そういう意味から言えば、これからも、どちらかと言えば“覗く側”に立っている有名人たちが続々“濃厚接触者”となって自宅の中から、リアルな背景と共に出演する番組が増えるのも“新しい愉しみ方”が出来て良いのではないだろうか。

いつからか「洋画」を日本人は視なくなった⁉

2022-01-26
今年正月の映画の興行収入で「洋画」よりも「邦画」の方が好調であるらしい。そういう時代になったんだな、と妙に感心した。私が子供の頃は、日本映画の全盛期で、邦画の方が圧倒的に人気があった。ところが私が大人になるにつれて、日本映画の人気が低迷するようになる。一番の理由はTVの普及から“歌謡曲の全盛期”がやって来て「銀幕のスター」の人気に陰りが出て来て「TVのアイドル」が脚光を浴びるように切り替わっていったせいだと思う。それによって、映画は「洋画」「邦画」とも爆発的なヒットは出せなくなった。そういう中でハリウッド映画を牽引したのは“派手なアクション”や“CG撮影”による華やかなエンターテインメント映画になった。元々映画のような“大画面”は地味な作品よりも、派手な作品の方が見応えがある。長期的に振り返っても“大作”と呼ばれるような“金と時間をかけた作品”で見応えあるシーンの多い作品がヒットしやすい。例えば今年は「邦画」の方が好調だったと言っても、その中身を見ると「エヴァ」とか「コナン」とか、要するにアニメの“親子で楽しめる作品”がヒットしただけだ。「エヴァ」も「コナン」もTVの時から“親子”で観るような作品で、純粋な子供用アニメではない。洋画はというと「スパイダーマン」「コーダ愛のうた」「ハウス・オブ・グッチ」「クライ・マッチョ」「バイオハザード」「ゴーストバスター」などの作品が並ぶ。何となく“知っている名前”“聴いたことがあるタイトル”が多い。それも、そのはず例えばスパイダーマンは最初に登場してから既に60年というから驚く。ゴーダはフランス映画のハリウッド版で、クライ・マッチョはクリント・イーストウッドの監督・主演映画だ。ハウス・オブ・グッチは文字通り“グッチ家”に関する暴露本をレディ・ガガで映画化したもの、バイオハザードは“人気ゲーム”を映画化したもの、ゴーストバスターは80年代のSF作品の再現だ。つまり、完全なるオリジナルというか、目新しい作品は存在しないのだ。これでは日本人が足を運ばなくなったのも当然と言えるかもしれない。もう一つ、地味な作品は別だが、派手なハリウッド映画はいつからか“CGを使いすぎる”ようになってしまった。要するに画面を“加工しすぎる”ようになったのだ。だから、どんなに“恐怖の画面”が出て来ても“作りもの”という印象だけで感動出来ないのだ。これでは“心に残る作品”とはならない。その一方では、ハリウッドらしくない“地味な作品”も多くなった。これは私だけの感想かもしれないが、ハリウッド作品はあまり“地味で日常的な作品”を作ってほしくない。それはTVでやってほしい。或いはアメリカ以外の国でやってほしい。アメリカ人は繊細な感情を表現するのは元々うまくはない。ハリウッド作品はあくまでエンターテインメントに徹してほしいのだが、CGなどの加工に頼らず、スケールの大きさで日本人を魅了してほしいのだ。

大統領連行、軍の「クーデター」国民が支持⁉

2022-01-25
多くの日本人にとって「アフリカ」は“遠いところ”だ。だから“知らない国”も多い。「ブルキナファソ」という国を知っている人は何人いるのだろう。西アフリカに位置するが6か国と国境を接している人口2000万人の“貧しい農業国”だ。一応フランス語が公用語だが、通常は“現地語”が使われている。23日迄カボレ大統領政府が治めていたが、その夜、自宅にいるところを軍兵士に急襲され、現在は兵舎へと連行されたらしい。大統領だけでなく、多数の閣僚も拘束されている。つまり、軍によるクーデターは見事成功した、ということになる。ミャンマーなどと違って、国民の多くがクーデターを支持している。なぜなら、いまのままでは治安が不安定で穏やかに暮らして行けないからだ。国民が“軍のクーデター”を支持するというのは余程のことである。一番の理由は、イスラム過激派に“脅える毎日”から救われたいのだ。何しろアルカイダ系の過激派と、IS(イスラム国)系の過激派との両方から狙われ、昨年だけで2000名もの罪もない国民が犠牲となった。国民が「政府」よりも「軍隊」を頼りたくなるのも当然ではないか。それでも、軍隊は政府に従い我慢していた。ところが過激派のテロは軍兵舎をも急襲するようになって来て、最近も兵士数十名が犠牲となった。もう大統領になど任せておけないと、彼らが決起したのも当然と言える。もっともクーデターには成功したが、それで国民を完全に掌握できるかというと、それはまた話が別だ。何しろ、この国は“まとまり”が悪い。モシ族、プル族、ボボ族など60もの部族が共存している。その言語も、モシ語、ディウラ語、グルマンチェ語など各部族ごとの言語が使われている。宗教だって、各部族で異なり、それらに加えてイスラム教やキリスト教の人達が4割を占める。まあ、周囲を6つの国に取り囲まれているのだから、さまざまな言語や宗教や民族が入り乱れているのはどうしようもない。しかも、アフリカで農業国なのだから経済的に豊かなはずがない。データ的には189ヵ国中の182位という順序だ。したがって、一時的には「軍」がすべてを掌握して国を治めても、長い目で見れば「指導力を持った大統領」の出現が待たれる。本当は日本などで農業研修を受けた人物が、統治能力を発揮すれば良いのだが、5兆円の経済援助と引き換えに「台湾を国家として認めない」約束を取り付けたい中国が、手を差し伸べているという噂もある。う~ん「中国」は、そんなにしてまで……。

「海の神」が“75歳冒険家”の「命」を奪った

2022-01-24
日本にも“太平洋の単独横断”を試みる冒険家は居るが、さすがに75歳で“単独横断”を試みる人はいない。欧州人の場合は「太平洋」が「大西洋」に変わるだけで、実際には“単独横断”へのチャレンジ精神はそれほど大きく違うとは思われない。フランス人男性ジャンジャック・サバン氏(75歳)の場合、おそらく体力に自信があったのだろう。今回の「大西洋単独横断」は三年ぶり二度目の挑戦となった。前回は「樽型カプセル」を使って127日間で見事成功しており、今回は「全長8mの手漕ぎボート」での挑戦だった。2022年1月1日にポルトガル本土の南端から出航した。彼にとっては「老いへの挑戦」という意味もあった。サポートチームもいるのだが、基本的には「単独横断」に意味を見出している彼が、航海そのものに手助けを求めることはなかった。もし何かあれば「救難信号を発信する」というのが彼のやり方だ。ただ海には“魔物”が棲んでいる。或いは「海の神」と言っても良い。予期せぬ強風や波のうねりは“魔物”からの手洗いメッセージかもしれない。単独横断に挑んだ者たちは、誰もが「海の神」にその意気込みと度胸を試される。ポルトガルのアゾレス諸島沖まで来た時、波のうねりは最高潮に達した。19日、ボートの電動部分に故障が生じた。それでも今の時点では「大きな問題はない」とサポートチームに連絡している。ところが20日夜と21日の夜明け、2回“救難信号”が発信された。サポートチームから連絡を受けたポルトガルの沿岸警備艇がアゾレス沖まで来た時、すでにサバン氏のボートは転覆し、その船内からサバン氏を救出したが、すでに手遅れだった。「山」を愛する者は「山の神」に飲み込まれ「海」を愛する者は「海の神」に飲み込まれる。長い人類の歴史の中で、繰り返されてきた事実だ。そういう人は“魔物”としての「神」から愛され、海に引きずり込まれたのだ。「神」なら“引きずり込んだり”しないと思うのは、大間違いである。“魔物”でもある神は、自分を愛するものを「自分のもとに止めたい」と思うのが自然であり、だから多くの人は知らないが、こよなく「山」を愛せば山に消え「海」を愛せば海に消えるのだ。それは“魔物”から、愛された証拠なのだから祝って良い。サポートチームは、彼のために「祝杯」を挙げてやるべきなのだ。

日本では「インフレ」は、一気に急加速する⁉

2022-01-23
アメリカでは12月に消費者物価指数の上昇率が前年比7.0%という数値となった。原油価格の急上昇と半導体不足などが重なってモノの価格が上がり、39年ぶりの「インフレ状態」となっている。バイデン大統領の支持率が低下しているのは、何よりも庶民たちが感じる“物価高”の反映と言って良い。オミクロン株の感染者数も激増し、ようやくピークに達したかにもみえるが、世界情勢は依然として不安定で国際間に緊張感が高まりつつある。まあ、そういう状態だから、大統領の支持率が低迷するのは致し方がない。このアメリカの“物価上昇”が静かな形で世界各国に“広がり”を示しつつある。原油価格は基本的に80ドルくらいまでなら世界経済にとってプラスに働きやすいのだが、それ以上となって来るとさまざまなものの“輸送費”や“原材料価格”に影響を与える。日本のように車が無くても暮らしていける国はまだ良いが、車がなければ生きていけない国に原油価格の上昇は暗い影を落とす。日本の場合、島国で“輸入品がなければ生きられない”ので、必ずしも車を使わなければ大丈夫ではなく、それらは“食料品の値上げ”に結び付く。実際、ここ1~2年で日本の食料品関係では“値上げ”に踏み切っているメーカーが多い。ただ日本は、ほかの国と違って「デフレ」で“物価安の状態”が長く続き、やっと何とかそこから脱却に成功しつつある段階である。ほかの国が多少のインフレとなっても、収入増でそれを補えるのに対し、日本の場合には“それ”が期待出来ない。だから今では“貧困率”が徐々に上昇しつつある。それでも、世界的に「インフレ」が進んでいくと、遠からず「日本」も“それ”に巻き込まれる。現代の経済はそういう風に出来ている。ただ何度も言うように、日本はやっとこさ「デフレ」から抜け出しつつある段階に過ぎない。したがって一部の食料品は仕方がないが、それ以外の分野は極力“値上げ”を押さえようと努力している。その結果、ぎりぎりのところで“値上げを踏みとどまっている”分野の企業が多い。ところが、輸入品が大きく値上げになっていくと、企業努力もこれまでと“値上げに踏み切る製品”が必ず出て来る。いったん、そうなって“同業企業”が値上げに踏み切ると、それに合わせたがるのが日本企業である。つまり、互いに“顔色”を窺いながら商売しているような傾向が強いのが日本企業の特徴なのだ。したがって、同じ分野の製品は次々と“右倣え”をする。こうして、さまざまな分野で“一斉値上げ”のあらしが吹き荒れそうなのが2022年春~2023年春にかけてなのだ。そういう点から言えば経済格差を是正する努力よりも、食料品や生活必需品の上昇を抑える努力、或いは国民の“収入増”を推し進めていく努力こそ今の政権には求められている。

謎の「看板広告」で世界中から「花嫁」来襲⁉

2022-01-22
世界にはさまざまな形の「お見合い」が存在する。特に厳格なイスラム教徒やヒンズー教徒たちが多く暮らす国や地域では、その風習が残っている。パキスタンなどは、その代表的な国の一つだ。ムハンマンド・マリック氏(29歳)は現在、英国のロンドンで暮らしている。本国パキスタンではないのだが、それでも“宗教的意識”はかなり強固なようである。パキスタンのイスラム教徒のほとんどは、友人や知り合いの“結婚式場や披露宴会場”で、未来の花嫁との“出逢い”を求める。それが一般的なのだそうだ。ところが、このところ“コロナ禍”となって「結婚式」や「結婚披露宴」というものが激減してしまった。そうすると彼らには“出逢いの場”というものがなくなってしまう。自分で相手を見つけられない男女には“強制的なお見合い”が待っている。パキスタンでは、それが当たり前なのだ。ロンドンに暮らしているのだから、パキスタンの風習に従わなくても…とわれわれは思うが、厳格なイスラム教徒はそういうものでもないらしい。「婚活アプリ」なども試してはみたらしいが、彼には“合わなかった”ようだ。そこで彼は“思い切った方法”に出る。路上に「看板広告を出す」ことに決めたのだ。どういう看板広告かというと、自分がポーズをとって笑いかけている姿と共に「お見合い結婚からぼくを救って」という文字が入っている看板だ。この巨大な看板を多数作って、車の往来の激しい場所に設置する。何十万円という広告費だ。イスラム教徒の場合、結婚は「デートを重ねて決める」ものではなくて「お互いの直感で決める」もののようだ。つまり、デートなど無しで一気に結婚へと進む。それなら“お見合い”と変わりがないではないかと私などは思うが、それでも多数の女性たちの中から“自分好みの相手”を選択するという違いがある。とにかく、そういうことで彼は“看板広告”に賭けた。すると、どうだろう。マスコミに取り上げられたことで注目が集まり、世界中の女性たちから「結婚の申し込み」が届いているのだという。欧米だけでなく、アフリカやアジアからも応募と問い合わせが来る。もしかすると、日本でも“看板広告”を使えば「世界中から花嫁交付がやって来る」かどうか……責任は持てない。

「崖っぷち」に追い込まれた「日本人投資家」

2022-01-21
誰もが“平穏”に暮らしたい。わが「日本」は、年末近くに“コロナ感染者数”が急激に減って、ようやく“平穏な暮らし”が戻って来るのではないか…と誰もが期待した。ところが1月に入って事態は一変した。別に岸田総理が12月半ば“首相公邸”に引っ越したせいだとは言わないが、やはり“不吉な前兆”というものは、見逃してはならないようである。そして前にも記したが、この1月5日「小寒」を過ぎてからの“年の初めの出来事”が「日本」の今年一年の運気や現象に大きく関係する。一年の区切りは「立春」よりも「小寒」にある。そういう風な観点から改めて見直すと、どうも今年の先行きには“不安”がよぎる。おそらく、こういう何の占いも用いていない“予測”は、多くの人たちにとって“信用できないもの”だとは思うが、実際、私も“信じたくない”し「立春」になってから切り替わってほしいのだが、これまでの“経験則”から言うと、1月を“前年”に含めてしまうには、あまりにも“釈然としない”過去の歴史事象が多い。そこで、もっとも“先行きが危ぶまれる”のは「日本株」の状況である。昨日こそ反発したが、今年に入って「日本株」は大きく下落している。実は日本には相当数の個人投資家が居るが、その多くはマスコミに登場するような何億とか何十億とか“動かせる”剛腕の投資家ではなくて、何十万とか、何百万とか、何千万という程度の金額を“動かしている”投資家たちだ。確かテレビ東京の調査では、普通の個人投資家たちの平均的な所有額というのは600万円~700万円を扱っている人達だという。ここで話すのは、そういう“少額の個人投資家”たちの話だ。彼らの多くは“人気ある銘柄”“動きの大きい銘柄”“将来性が見込まれる銘柄”を購入している。ところが、今年に入って“その手の銘柄”が軒並み急落しているのだ。どの分野の銘柄も足並みをそろえたように下落している。これは金利上昇が強まっている「アメリカ」の影響を受けているからだ。日本の株なのだが、国内事情よりは海外事情に合わせて動く。特に“人気株”や“成長株”はそういう動き方をする。一つには、そういう株は日本人よりも外国人投資家の比率が高いからだ。もちろん「日本株」の先行きは「日本経済」の先行きを“予見”する形で動く。だから、購入していない人達に無関係ではない。ここ数年、世界に比べて「日本株」の上昇率が乏しい。それを見越して「アメリカ株」に切り替えた人たちも多い。ところが現在は、その「ダウ」や「ナスダック」も急降下している。つまり昨年後半から“切り替えた人達”は「こんなはずではなかった」という状況に追い込まれている。日本の場合、特に良くないのが「マザース市場」の株で、一時期の半額から三分の一にまで低下しているものが大多数だ。このまま“追い込まれていく”のか、日本の場合、株価を上げる努力を政府が行わないと、投資家だけでなく「日本列島」そのものが沈んでいく。

兄弟が刃物「戦国時代」か「オスマン帝国」か

2022-01-20
このところ刃物による殺傷事件が続いている。今回の場合、その舞台は長野県松本市だ。お世辞にも立派とは言えない「工藤家」は、“兄弟げんかの多い家”として近所に知れ渡っていたらしい。その工藤家で、またしても兄弟げんかが始まった。“兄弟げんか”といっても、子供ではない。兄の勉は66歳であり、弟の功は58歳である。その二人が、いつもにもまして激しい喧嘩となったらしい。どういうわけか、この二人の場合、すぐに凶器を持ち出す。手当たり次第に持ち出す。今回の場合は、それが両方とも“刃物”となった。したがって誰も仲裁が出来ない。110番通報する以外にない。やって来た警官たちが、双方を捕まえる。お互いの頭や顔が血だらけになっていた。頭や顔なので、血だらけではあるが、双方とも命に別状はない。まるで互いに剣を抜き合って覇権を争い合った戦国武将の兄弟のようである。日本の戦国時代劇などでは、そういう場面が描かれることがある。或いは現在BSで放映されている「オスマン帝国外伝」などでも、兄弟同士が覇権を争って“傷つけ合う”場面が描かれることがある。もっとも、それらは過去の“歴史時代絵巻”であって、現代の姿ではない。われわれは刀を差して暮らしているのではない。双方が刃物を持ち出すというのは、ドラマや漫画なら“さま”にもなるが、現代の暮しとしてだと「怖い兄弟」と言われるか「愚かな兄弟」と言われるかしかない。どっちにしても、60代や50代の大人が行う“喧嘩の作法”ではない。もっとも、“喧嘩殺法”を得意とするプロレスの試合などではときどき行われたりする。そういう時には、双方とも手加減をしながら刃物を持ち出し、流血を浴びながら闘う。もしかして、この兄弟も、そういう感じで周りから喝采を浴びたかったのか。この兄弟の名前だが「勉」と「功」である。双方とも「力」という文字が、部首として加わっている。そして、この文字は「刀」という文字や「刃」という文字に似ている。また「功」という文字は「切」という文字に形状が似ている。兄弟とはいっても、もう60代や50代の大人が同居していれば、ぶつかり合うようなことが生じやすい。事情は知らないが、離れて暮らせば、少なくとも“切り合いの喧嘩”が行われることにはならないだろう。 « Older Entries