6月, 2022年
2022-06-30
群馬県桐生市を活動の拠点としている“お笑いコンビ・ワンクッション”が、桐生市内の歯科関連製品メーカーである「新見化学工業」敷地内に、社長から無償提供された店舗を使って駄菓子屋「よこまちや」を7月3日にオープンする。コンビの片割れが元々桐生市内の出身で「この街にも駄菓子屋を誕生させたい」という熱意を持っていた。たまたまそれを知った「新見化学工業」の社長が、自分の会社の敷地内であれば無償提供できると申し出た形だ。“お笑いコンビ”が地元の仕事の片手間に開く形となる店なので、常時オープンは出来ないようだが、それでも“夢”としての駄菓子屋誕生が実現する形だ。私は、この話には“良い部分”が三つあると思う。その一つは、社長の配慮で店舗を無償提供されるので、経営的な心配があまりいらないということ。あくまでも地元の活動にこだわっているコンビなので、時間的には何とかやりくりしていけそうであること。地元で会社経営する社長が“一肌脱いだ形”で、それぞれが“自分のできる範囲内”で、子供たちに「夢」を与えようとしていること。元々駄菓子屋は薄利多売型の業態であるから、儲けを出すことは難しいかもしれない。それでも、いまの子供たちに“素朴な駄菓子の愉しみ”を享受させることが出来る。幼い頃から、駄菓子屋の近くで育った私は、母親に毎日、駄菓子を買うための小銭をねだった。そのたび母親は何とも言えないような辛そうな表情を浮かべながら、それでも私に黙って10円玉を差し出したものだ。小学生時代は駄菓子屋が近くというより、隣にあった。いやでも外に出ると、駄菓子屋が眼に入るのだ。駄菓子のお菓子が買いたいのではなく「籤(くじ)」の“アタリ”が欲しくって、毎日、何度もその店に出入りした。そういう記憶を持つ私は、子供たちにとって“特別な場所”となり得る駄菓子屋は、やはり街中に遺しておいた方が良い店の一つであると思う。駄菓子さえもスーパーで買うとか、コンビニで買うとかではつまらない。子ども達が自らの意志で迷いながら“買うもの”を択ぶことに意義があるのだ。多数の選択肢を持ちながら“育つ”ということはとても重要だと私は思う。さまざまな空想力を育むうえでも、駄菓子は役立つ。私が好んだような“当たりクジ”の入った駄菓子を無くさないで欲しい。慎重に選びながら「また今日も外れてしまった……」としょんぼりしていた夕暮れの私に、私はまた出逢いたいのだ。
2022-06-29
私は視ていないが、日本テレビ系列の「上田と女が吠える夜」で、TVの“占い番組”でヤラセが横行していることを、現在フリーアナである中村仁美氏が暴露したことをスポーツ紙が取り上げている。MCをしている上田晋也氏も同調し、事前の膨大な資料から台本を用意していることを伝えられたと言う。その種の番組関係者も「占いを使ったトーク番組が制作の意図で“未来予測”は目的としていない」と事情を打ち明けている。私は以前から、TVの“占い番組”はアンフェアであることをここにも書いてきた。私が出演した過去のTV番組でも、肝心な占いそのもののところではなく、別な部分を切り取って流すようなことを平気で行う。TV制作側が“面白い番組作り”をしたい気持ちがわからないわけではないが、肝心の“占い部分”がきちんと放映されないのでは意味がない。だから、そういう“台本アリの占い”でもOKするようなタレント事務所に所属した占い師しか出演させようとはしない。しかも、占いなのに“過去のこと”しか述べない。事前に膨大な“個人的な資料”を与えられ、過去限定の占いをするなら、正当な占い師など必要がない、ということになる。むしろTVの視聴者に対して、占いそのものが“未来予測”とは違ったものであるかのような印象を与えることになり、そのこと自体、決して良い兆候ではない。占いが、占いとして社会に役立つのは「未来予測」があったればこそなのである。現代の若者たちは「未来」に対してあまりにも怖がり過ぎている。日本の社会的な情勢が、未来を不安にさせている部分もあるが、もっと“未知なる可能性”や“潜在的な素質・能力”というものに気付いてほしい。そのための「占い」なのだ。過去など、どんなに振り返っても始まらない。未来をよりよく変えて行くためにはどうすれば良いのか、それを見つけ出すための“手段”として、或いは逆境を跳ね返すための“秘策”として、占いは存在しているのだ。
2022-06-28
私用でJRの“特急電車”に乗った。前に乗った時にも感じたことなのだが、現在のJR北海道の電車は異様なほど揺れる。特に特急電車はスピードを出している分、その揺れが激しい。この激しい揺れは“車両”のせいなのか、“線路状況”のせいなのか判然としないが、どちらにしろ今時の電車とも思えない。早急に改善していかないと、必ず、やがて事故が起こる。大事故になってからでは遅いのだ。車内アナウンスは「日本語」「英語」「中国語」が必ず連続して流れる。そういう点は“海外からのお客様”を十分に意識した改良点だ。それだからこそ余計に車両の激しい揺れが、時代を逆行させる。揺れの原因が、車両の方なのか、線路の方なのか、判然としないが、古くなりすぎ摩耗して“外れそう”になってギリギリの中で運転し続けているのではないか。これだと、まともに立ってはいられないから、自由席の場合、特に子供や老人など、べつに車両そのものが事故を起こさなくても倒れたりして怪我する可能性がある。特急電車の場合、大きな荷物を抱えているとか、背負っている方も多い。だから余計に事故が起これば“死傷者”が発生しやすい。最近になってからなのか、よく解からないが「指定席」が多くなった。昔は「指定席」というと、それなりに“豪華な座席”という印象だったが、いまは「自由席」とほとんど変わらない。それなのに「指定席」を多くしているので、どうしても「自由席」の方はぎゅうぎゅう詰めとなりやすい。これも事故など起こった時、死傷者など生じる可能性が高い。JR北海道が赤字に苦しんでいることは知っているが、そうであればJR九州などに学んで「豪華列車」を走らせればよい。但し、その場合でも今の車両やレールでは、とても“豪華な気分”になどなれない。あんなに揺れるのでは飲食が難しいし、動いている時に通路を歩くこと自体が容易ではない。JR北海道は札幌駅直結の高層マンション事業に乗り出して何とか“赤字解消”を考えているようだ。そうすると、どうしても、そのマンション自体の価格は多少“上乗せされた金額”となるのではないか。むしろ、所有している土地をどんどん売って、車両やレールの補修経費に充てた方が“大事故”も防げるし、JRによって快適な移動が出来るようになれば、おのずと客足は戻ってくるようにも思うのだが………。
2022-06-26
裁判官というのは、あたりまえの話だが「人間」である。「神」ではない。だから、その裁判官たちの“多数決”によって下される決定もまた“常に正しい”とは限らない。アメリカの最高裁が1973年に認めた「妊娠中絶の権利」を50年も経った今になって「憲法に反する」として“差し戻す”決定を下したのだ。それに対してアメリカ大統領バイデン氏は「悲劇的な間違いだ」と述べ、ニューヨーク州知事は「暗黒時代に逆戻りだ」と述べた。実際、日本人の感覚としては、いまになって何故「人工中絶」を認めないのか、理解に苦しむ。実は、賛成派の人たちの多くは古くからの伝統を重んじる南部の人や「聖書」信仰の強い思想団体に属する人たちが多いようで「この決定によって、何百万人もの命を救うことが出来る」と目を輝かせる。つまり、人工中絶が出来ない環境を作ることで、神によって授けられた“生命”を慈しみ育むことが出来る、と考える人たちなのだ。もちろん現実には“産みたくない妊娠”の人たちが無数にいる。アメリカの場合、低所得者層や有色人種ほど、この傾向が強いと言われる。一時期ほどではないかもしれないが、十代半ばで“不覚にも妊娠する女性たち”も多い。実際、そういう問題から50年前「妊娠中絶の権利」として判決が下ったのだ。今後もカリフォルニア州、オレゴン州、ワシントン州などは「人工中絶を認める」ことを強く打ち出していて、そのための各種“補助金増額”を考える予定らしい。そうすれば、一部の州が決めようとしている「人工中絶は最大10年の禁固刑」という重い刑罰を受けなくても済む。奇妙なことに、今回の判決を受け入れる州は、約半数と視られている。つまり、アメリカはもう完全に「二分された社会」なのだ。かつては「自由の国」として世界から羨望されたアメリカだったが、あまりにも多様な民族や人種が混合し、さまざまな思想・主義が野放しにされたことで、もはや「理想」だけが“ひとり歩き”を始めたアメリカになってしまった。
2022-06-25
人間には産まれてから死ぬまで、ずっと同じ街や田舎で生きて死んでいく人もいる。だが、そういう人は少なく、多くの人は産まれた街と、人生の大半を過ごす街と、余生を送る街とは違っているものだ。不思議なことに、太古の昔から、人間の暮らし方には、土着型の生き方をする人と、放浪型の生き方をする人と、前半生と後半生とが異なる異郷型の人と、大きく三種類に分かれるものだ。放浪型は転々とするのが特徴だが、ある時点からピタッと動かなくなることもある。“異郷型の人”は、ある時点から“もう一つの故郷”を持つようになるのが特徴で、その後半生はまるで“土着型”でもあったかのように、その“第二の故郷”に深く根を張るような暮らし方となる。どのタイプが幸福かは一概に言えない。多少、性質とも関係があって、保守的で堅実型の人は“土着型”の生き方が良い。好奇心が強く冒険好きで枠にはめられるのが嫌いな人は“放浪型”の生き方が良い。また自分の過去にトラウマやコンプレックスを持っている人は“異郷型”の生き方が良い。アメリカのノースカロライナ州に暮らす真喜・西尾・フィップス氏は純粋な日本人だが、大学生で19歳の時に短期留学でアメリカに来た。ところが、その短期留学中に現地人男性と“運命の出逢い”を経験する。その後、日本に戻ってからも文通を続けて2年後には単身アメリカへと渡り、アメリカ人男性と結婚して、そのまま現地に住み着いた。そうしてすでに50年近い歳月が流れた。文字通り「アメリカ」は“第二の故郷”となった。アメリカに暮らして、さまざまな職業について、旅行代理店の副社長にもなったが、彼女の夢は「絵を描くこと」そして「本を書くこと」だった。62歳の時に網膜から出血して止まらなくなった。医師から「失明してしまうかもしれない」と言われたとき、“夢”を果たせずに亡くなるのは、嫌だと思った。そうして一冊の本を書き上げた。バイリンガル絵本『とくいなことってなあに?(WHAT DO YOU LOVE TO DO?)』は、自らの育児体験から生まれた。親子で一緒に読んで欲しい本だ。その後も新たな絵本を書き、自らの半生記も本にしようとしている。全ページが英語と日本語と両方の言語で書かれた絵本が誕生したが、“第二の故郷”を得たことで、彼女の人生は変わり、運命も大きく変えた。いつ、どういう形で“大きく動く”かは「運命」を変える一番の決め手なのだ。
2022-06-24
私には以前から、不思議でならないことがある。女性の政治家を“もっと増やすべき”という世界的な風潮である。どうしてなのだろう。もちろん女性目線の政治は絶対に必要だ。だから、女性の政治家がたくさん出現してくることは良いことだ。そのことには異論はない。ただ「世界」と比べて「日本」に女性政治家が少ないからと言って、それを無理やり増やそうとするのは良いことなのだろうか。現在の参院選挙も、女性候補が過去最多となる181人が立候補した。そのこと自体は喜ばしいが、何となく政治など興味がない人にも“数合わせ”的に立候補させている政党がありそうで、その部分に疑問を持つ。確かに「日本」は女性政治家が少ないが、同時に“女性起業家”も少ない。これは社会的な制度というよりも、日本女性の性質や素質や行動力も、多少、関係しているよう私には思われる。そして、それは必ずしも、悪いことではない。元々男女では肉体が異なり「陰陽の原理」からすれば、政治というのは「陽の世界」の典型なのだ。だから男性の方が比率的に多くなるのは当然のことなのである。女性は“秘書”とか“マネージャー”とか「陰で支える仕事」の方が原理的に合っている。特に、日本女性の場合、細やかな配慮とか、サービスとか、気配りに向いているので、その種の業務に無くてはならない。「政治」のような“表舞台”は、それに相応しい人物が行えばよい。欧米女性などは、どちらかというと“細かな配慮やサービス”には欠ける部分があるので、そういう人は「政治」のような表舞台で活躍すれば良い。要するに、それぞれ“向き”“不向き”があるのだから、ムリに「育成」すべきものではないよう私には思える。京都で、東京以外では初めてとなる「パリテ・アカデミー」が開催される。これは2泊3日の泊まり込みで“政治を目指す女性を育成する”実践講座らしい。5万円の参加費が必要というのだが、元々政治に興味を持つような人は、こういう育成型の講座には参加しないだろう。技術者の養成とは違うのだから、教えられて身に付けるようでは“政治向き”ではない。やはり、自分の中で止むに止まれぬような情熱があって、目的があって“政治世界”に飛び込む。そういう女性こそ、黙っていても活躍できる政治家になっていくのではないだろうか。
2022-06-23
私は「人間の運命」を扱う仕事をしている関係で、どうしても波乱万丈というか、変化に富んだ、或いは起伏に富んだ人生を歩んでいる人に興味を抱く。そういう点で大変に興味深いのがアウン・サン・スー・チーという人物だ。一時的には「ミャンマーにおける民主化のシンボル」とされた女性だが、6月22日、これまでの拘束・収監場から首都ネピドーの刑務所へと移送されたらしい。既に77歳になっていて、汚職防止法違反など15の罪状で立件され、そのうち5件での「有罪」が決まっている。ミャンマーにおける「国民民主連盟」という政治団体のトップにありながら、国軍によってクーデターを起こされ、自宅軟禁となり、すべての権利を剝奪された。つまり、それまで国のトップの地位についていたが、引き摺り下ろされ、罪人となり、過去に「ノーベル平和賞」を得ているが、それも“少数民族の迫害に加担した”疑惑がもたれるなど、いまとなっては“汚れた平和賞”の可能性が指摘される。それでも、未だ大きな影響力を持っているとして、より監視の強固な刑務所への収監となった。とにかく国際的に視ても「正義の使者」なのか「汚れた天使」なのか、その実態がなかなかつかめない。ハッキリしているのは“数奇な運命”を歩んだ女性だ、という点だ。おそらく正規の裁判にかけられ、一応「有罪」となった判決が多いところから、もう刑務所を出ることは出来ないだろう。人間の一生の中で、若い時「正義の使者」だった人物が、途中から権力に溺れて「汚れた天使」と変わっていくケースは稀ではない。特に政治や実業で矢継ぎ早に成果を掲げて言った人物ほど、そういう“魔が差す瞬間”が訪れやすい。そして、いったん“悪魔の誘惑”に従うと、その後は歯止めが利かなくなっていく。だから、あまり若いうちから“大いなる名誉”や“輝かしい地位”や“有り余る財産”を手に入れるのは危険なのだ。よほど自らを“律する”意志の強さを持っていなければ、ちょっとした心の隙間から脆くも崩れていく。
2022-06-22
このところ暗い話題が多いので、ひとつ“明るい見通し”をお届けしよう。“日本の未来”についてだ。その具体的なよりどころとなる「日本株」が、もしかすると再び急騰し始めるかもしれない。なぜなら“日銀”が“ヘッジファンド”に勝ったからだ。と言っても、何が何だかわからないと思うので、解かるように説明していこう。このところ「日本株」は異様に下げていた。半年後、一年後の「経済を中心にした日本の指標」である“日経平均”は、今年の6月上旬まで世界的な“株価の下落”に足並みをそろえながらも、なんとかギリギリ踏ん張っているように見えた。ところが6月上旬から、その歯止めが急に失われたのだ。10日余りの短い期間で一気に3000円近くも下げた。アメリカ株が上昇してもお構いなしに下げた。実は、この時、大手ヘッジファンドが「日本株」を徹底的に“売り叩いて”いたのだ。なぜなら、世界に足並みを“揃えて”「日銀」も“金融緩和”から“引き締め”に舵を切ると“先読み”をしていたのだ。もし、日銀が実際に“足並み”を揃えたなら、間違いなく「日本株」は大きく下がる。それを見越して、先に売り叩く、というのがヘッジファンドの手法なのだ。そうやってプレッシャーを掛ければ、日銀が“市場からの無言の圧力”に屈して“引き締めに舵を切る”と視ていたからだ。ところが、日銀は屈しなかった。いまの日本で“緩和継続”は仕方がないのだ。その点に関しては「日銀」は間違っていないのだ。その結果、昨日「日本株」はようやく浮上した。まだまだ懐疑的な投資家も多いので、一気に急騰というところまではゆかなかったが、これからは確実に約3000円低下したのだから、それに近いくらいまでは上昇してくれないと困るのだ。実際、ヘッジファンドは“売り叩きすぎた”せいで、今度は“買い戻す”必要に迫られるはずだ。「ドル円相場」も、私が前にも述べたように激しい動きとなっていて、一時期“呼び戻し”もあったが再び135円を突破し、今日は136円台半ばへと突入している。これも海外投資家から観ると「日本株」が“お買い得”に視える材料なので、本来はもっと上昇すべきなのだ。今年は1981年以来の13.81%という羨ましい限りのボーナスの“伸び率”だそうである。日本企業は、円安によって“大いに潤っている”のが実情なのだ。もっとも、これは大手企業105社のみの集計で、中小企業は除かれている。中小企業は“4%減”というのが実情らしい。だから極端なことを言えば、多くの日本人には「ボーナスアップなんて信じられない」ということになる。つまり日本は残念ながら“勝ち組”と“負け組”に分かれてしまったのだ。但し、大企業が“勝たない”と「日本国」の経済は発展できない。そういう風に出来ている。だから、まずは「日本株」が急騰し、日本の大手企業が大儲けし、それから中小や個人のわれわれが“よじ登って行く”構造なので、とりあえずは「日本株」が上向かなければ……⁉
2022-06-21
あまり“不吉なこと”は予言したくない。だから、石川県能登半島の“大きな地震”が、実は“地震の終わり”ではなくて、より“大きな地震”の予兆である、などとは言いたくない。言いたくないのだが、もしかしたら、そうなってしまうかもしれない。私の占いでは、次に能登半島で大きな地震が起きたら、それは“死者を生じる地震となる”と出ているからだ。だから能登地方における19日、20日の大きな揺れが“終わりの地震”であって欲しいのだ。“終わり”といえば、今日は確か「夏至の日」であるが、それは暦学的には「夏の終わり」であることを意味する。日照時間で言えば一年中で“もっとも日(昼間=陽光)の長い日”で、その後は徐々に“日”が短くなっていく。したがって徐々に“暗く”なるのが早くなっていく。だから、光の量だけで言えば、今日が“真夏”なのだ。ところが、われわれの身体は「光」で夏を感じるのではなく、気温という「熱」で暑さを感じるようになっている。だから、実際の“真夏”は遅れて来るのだ。ただ都合が悪いことに、その「熱」は一定していない。「光」は一定しているのだが「熱」は不安定なのだ。だから、今年は何月何日が“いちばん暑い日”と誰も言えない。おおよそで言えば7月の終わりとか、8月の初めとか、その辺りに暑さのピークが来るのだが、それも、その年によって一定ではない。また地域によって暑さのピークは大いに異なってもいる。「光」には、そういう不安定さがないのだ。毎年、同じころに“もっとも日の長い日”はやってくる。それも全国一律、分け隔てなく“同じ日”にやって来る。まるで神様のように(⁉)平等なのだ。だから、ほんとうはもっと世の民は“祝祭”として祝うべき日のような気もするが、残念ながら誰も祝ってくれない。こうして「夏至」という“もっとも長い日”は静かに後退りする。言ってみれば、静かに季節のバトンを「秋」に渡す。7月~8月に変わって、もっと暑くなっていくのだが、24節気としての暦の中では既に「秋」として表示される。つまり「暦」は、或る意味で季節を先取りしているのだ。そういう暦を利用して、神代の昔から占い師が“まだ見えぬ先”の言葉を紡ぐのは、意外と“風流なもの”に思えてくるから不思議だ。
2022-06-20
滋賀県の甲賀市といえば“忍者の里(⁉)”として知られる。その甲賀市で江戸時代の忍術書「間林清陽」の写本が見つかった。「軍法 間林清陽 巻中」と題された48条からなる秘伝的な写本だ。江戸時代にまとめられた甲賀・伊賀の忍術の集大成「万川集海」全22巻の原本の一つとも言われる。ただ48条とはいうものの簡潔に記されているので、ページ数としては薄い。一般的に「忍術」というと、われわれはどうしてもイメージとして“特殊な忍びの術”を習得した忍者姿を想起する。ところが実際の忍術書を読むと、それほど特殊な“戦術使い”とは言えないような気がしてくる。忍術書に示された忍者には「陽忍」と「陰忍」というのがあって、われわれがイメージする“忍びの者”は「陰忍」の方を指している。陽忍の方は、姿を見せながら“或る種のスパイ活動”と“交渉任務”とを担当するらしい。まあ007のような役割だ。陰忍の方は“姿を見せてはいけない”ので、もっぱら“夜間”に活動する。その際、憶えていなければならないことの一つに「天文占」や「遁甲占」というものがある。簡単にいうと、方角的な吉凶や時刻的な吉凶を踏まえて“見つからないよう”目的を果たさなければならない。人にだけではなく、犬にも見つかってはならない。だから掌に「鬼」の文字を書き“九字”を切る。こういう呪術も習得していなければならない。履物だっ手作りだ。足音が響かぬ“履物づくり”をしなければならない。“忍びの者”には彼らだけが持っている“器具”というものがいろいろとある。現代のスパイが“さまざまなIT器具”を備えているようなものだ。それらは“忍器・登器・水器・開器・火器”と色々とある。忍器というのは身を隠すための器具だ。登器というのは屋根裏などに上るための器具だ。水器というのは川などを渡るための器具だ。開器というのは鍵を開けるための器具だ。火器というのは火を燃やすための器具だ。それぞれの器具はもちろん“自分で手作り”しなければならない。われわれのイメージでは「忍びの者」は恰好良いはずなのだが、どうも実際には地味で忍耐や知恵を必要とする“習得までに時間のかかる職業”であったような気がする。日本の古典的007は、労力の割に評価されることの少ない継承の難しい過酷な職業だったのだ。
2022-06-19
アメリカ旅行中に階段から落ちて腰の骨である「仙骨」を骨折し、そのままアメリカで療養中のモデル益若つばさ氏のインスタグラム上の発言が興味深い。彼女にとっては“初めての大怪我”だったらしく、異国における現在の療養生活が心身とも大いに応えて居るらしい。それでも4日に一度のお風呂にも慣れたとか、寝起きの髪型が“粗品氏”にようだとか、やっと180メートルくらい歩けるようになったとか、念願の外食ラーメンを食べられたとか、しゃがめるというのは素晴らしいことだと知ったとか……さまざまな想いを正直に綴っている。益若氏の場合、十代前半から人気を集めて、あっという間に“時代の寵児”となった。いわゆる“苦労”というものをあまり経験せずに、名声や人気や財力を得てしまった。そういう人達には共通して、或る種の「おごり」が生まれる。必ずしも本人の責任ではないが、どうしても“普通の人達”の“普通の暮らし”をやや軽んじるような部分が生まれがちなのだ。ところが、こういう「予期せぬ出来事」に出遭って、はからずも“不自由な暮らし”を体験する。それによって、今まで気付かなかった「普通であること」の大切さに改めて気付く。普通に動いたり、普通に外に出たり、行きたいところへ出掛けられたり、自分で洋服を着替えられたり、風呂に毎日入れたり、食べたいものが食べられたり……そういう「普通の暮らし方」が、いかに“幸せなことであるか”に気付く。多くの人は、さまざまな人生上の出来事によって、そういうことを“ひとから学ぶ”のではなく、自分自身の“体験の中で学ぶ”ように出来ている。それこそ、神がその人に与えた“学びの部屋”としての一時期であるかのようだ。そして、そういう部分が誰にでも組み込まれているから、人は或る意味では「平等かもしれない」と思うのだ。こうして、益若氏も“神からの試練”かもしれない体験を得た。今後の彼女は、おそらく、これまでとはいろいろな意味で違ってくるに違いない。仕事そのものも違ってくるかもしれないし、同じ仕事をするにしても、心からの感謝を持って仕事に挑めるに違いない。そうなることによって、今度は別な形で再び“時代の寵児”として、輝かしい脚光を浴びる日がやって来るかも知れないのだ。
2022-06-18
昨日、東京の赤坂にある「文教堂書店」が閉店となった。赤坂では、この一年間の間に3軒の書店が無くなったことになる。赤坂だけではない。近年、書店が続々と廃業に追い込まれているのだ。一つには、わざわざ書店まで出向かなくても、目的の書籍が手に入る時代となったせいもある。アマゾン等のネット書店が広く普及したからだ。また書籍そのものを“購入して所有する”ということ自体を好まない人たちもいる。部屋が狭くて、置き場所に困るからだ。読むのはパソコンやスマホの画面で良い、という若い人達だ。確かに漫画や雑誌などであれば、最初から“読み捨て”の意識があるなら、その方が便利で早い。昔は本箱に“書籍を並べる”ことが、或る種ステータスだった時代もある。けれども、いまは本箱そのものの需要が少ない。本箱(扉の付いた書棚)はスペースを取る。薄い書棚にして、文庫本だけを購入するようにすれば、仮に書籍を購入しても狭い面積で済む。とにかく“書籍が財産”の時代は終わったのだ。そうは認識していても、やはり私は“紙書籍”が好い。本そのものの持っている“雰囲気”というか、“存在感”というか、私と一緒に“生き抜いてきた証”のようなボロボロになった本が好い。それは何回も何回も読んだ証拠だからだ。もっとも、最近は齢のせいもあって、何回も同じ本を読まなくなった。時間的なものも含めて読めなくなった。だからボロボロの本など古書以外は無くなってしまった。もしかすると、だから時々古書を買い求めたくなったりするのだろうか。ところで、衰退する“書籍販売”業界だが、私は“売れるモノ優先”の現在の在り方が、ほんとうの読書好きの人たちから敬遠され始めていることも、原因の一因としてあると思う。ほとんどの書店が“同じ方式”で売っている。つまり“売れる本”中心の販売戦略だ。どの書店に入っても、まず、眼に着くのは“ベストセラー書籍”だ。或いは大手出版社が“強力に押している書籍”、或いは各種事情からその販売店が“売りたがっている書籍”だ。そして、それ以外の書籍は、基本的に“平積み”はされない。平積みされないどころか、書棚にさえ並ばない。“押し”の書籍は何十冊も並べられているのに、弱小出版社の書籍はほとんどの場合、書棚にも並ばず、返品される。だから一般の方の眼に触れることなく、出版社に戻って来るのだ。そういう感じなので、自分が読みたいと思っている書籍があっても、普通の書店では“書棚にない”というケースが少なくない。これでは書店に向かう意味がない。確かに、書籍販売店として“売れる本”を優先にするのは解かるが、そういう書店ばかりだと、潰し合いになる。だから、そういう「ベストセラー店」と、コアなファンを抱える「専門書籍店」と、完全に分けてしまえば良いのだ。そうすればスペース的にも余裕が出て来て、専門的知識を持った書店員を置くことも出来る。そういう風に、分けていかないと、遠からず「どっちつかずの書店」は無くなっていく。
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