6月, 2022年

50歳「王女」&47歳「ヒーラー」過去世婚約⁉

2022-06-17
ノルウェーの王女であるマッタ・ルイーセ氏は、このほどアメリカの作家でヒーラーのデュレク・ベレット氏と婚約した。ノルウェーの国民は“大悦び”かと思いきや、どうも違っていてデュレク氏の評判はよろしくない。マスコミは「詐欺師」とか「イカサマ師」として彼を紹介している。二人の話がどこまで本当なのかは知らないが、2019年に友人の紹介で初めて出逢ったとき、王女ルイ―セは彼の目前にスタスタと接近し「わたしはあなたのことを覚えている、だれだか知っているわ‼」と夢心地のように訴えた。それに対して「シャーマン・デュレク(ヒーラーとしての名称)」も何ら臆することなく「ぼくもです、そう大昔、お互い知っていたよね」と応じたのだ。もう、こうなれば、王女の方に“前夫との間に3人の子供がいる”など関係がない。あっという間に、この二人は恋に落ちた。そうして、このほど“めでたく婚約”に至ったというわけだ。元々ルイ―セ王女にはスピリチュアルな面があったようで、その種の発言は珍しいものではなかったらしい。一方のシャーマン・デュレクの方も“怪しいヒーラー”として多数の悩めるセレブを顧客として持っているらしい。何しろ、この人物、自らを過去世では古代エジプトの王だったこともあると称し、その時の王妃がルイ―セ王女だというのだ。さらに彼は、自らのルーツとして爬虫類人とアンドロメダ星人との混血種であるとも自称していて、どっちが本当なのかよく解からない。だいたい爬虫類人(恐竜的な人種⁉)とアンドロメダ星人(太陽系外の人種⁉)がルーツという設定も、なんとなくウルトラマンの映画出演者のようで、いま一つ真実味に乏しい。それでも、王女と“話が合う”数少ない相性の人物であることは間違いがない。実は王女の前夫であるアリ・ベーン氏も作家だったのだが、あまりにスピリチュアル的な考えについてゆけず、離婚に至ったとも言われる。しかも、その三年後には“謎の自殺”を遂げている。そういう前夫を持つ王女なので、或る意味“王室側”にとっては、彼女を癒してくれる相手であるなら誰でもOKだったのだ。もっとも、彼女自身はスピリチュアルそのものよりも、彼の“ヒーラーとしての能力”をの方を信じているようで、特に彼が与えることが出来ると自称する“若さ”と“美貌の波動”こそ、何よりも必要な能力であるのに違いない。その成果かどうか知らないが、確かに王女は50歳にしては若々しいのだ。日本でもときどき若さや癒しを求める有名女性が“スピリチュアル系の人物”と結びつく。その後「正式婚約」まで発展するケースは稀だが、その後の“生き方”に強い影響を与えている場合が多い。どの「生き方」を択ぶかは、最終的に本人の選択にある。必要以上に干渉してくる人物はヒーラーであれ、占い師であれ、ろくな人物ではない。

「日本円」&「原油先物」が同様に狙われる⁉

2022-06-16
ここに来て異様な事態が世界の金融市場で秘かに始まっている。もちろん、それは過去にもあったし、今後もあるのだが、今回がちょっと違っているのは「日本円」と「原油先物」とが、同じような感覚で“扱われ”始めているという事実だ。世界の金融市場は、毎日、刻々と変化していく。特に、ここに三日は、その変化が激しい。その全体的な変化に眼を奪われ“奇妙な事実”が見逃されがちとなる。なにを言いたいのかというと世界の金融市場で「日本円」と「原油先物」とが、あきらかに“投資マネーの主役”になりつつあるということだ。つい最近まで主役だった「暗号資産(仮想通貨)」は急落し、本物の投機家たちは“既に手を引いた”ことが読み取れる。そして、その次に彼らが狙い始めたのが「原油先物」と「日本円」なのだ。誤解のないように言っておくと、原油先物などは昔からずっと“投機の対象”である。日本円だって“FX”が異様に注目を集めた時代、一時的ではあるが“投機の主役”であった。だから、そういう意味から言えば、今に始まったことではない。けれども、ここに来て、妙に“この二つ”が連動するかのような形で“世界の投機マネー”を呼び込みつつあるよう私には視える。特に「ドル円相場」における日本円は“FX投機家”以外は“投機対象”として注目してこなかった通貨なのだ。それは世界の市場における「日本円」の価値が“大きく変動しにくい”仕組みとなっていたからだ。ところが、ここに来て「日本円」は主役となった。どうして主役となったのかといえば、日銀の政策がアメリカや欧州とは“正反対の立場”を変えていないからだ。アメリカや欧州がインフレ抑制のため“利上げ”に動き出したのに対して、日本だけが同調していない。それは日本社会の経済状況から言って致し方がない。つまり、間違っていると私は思わないが、そんなことにはお構いなく“世界の投機家たち”は「ドル円相場」で“マネーゲーム”を始めているのだ。そうすると、どうなるか、今後は日々「ドル円相場」が大きく動く。つまり「円高」に動いたり「円安」に動いたりする。それも、通常の通貨とは違い、大きく動く。異様なほど大きく動くのが特徴となる。通常、ドル円相場では毎日、ちょっとだけ上下するのが普通なのだ。ところが、それだと“投機マネー”を動かす人達にとっては“うまみ”が乏しい。そこで、毎日激しい“売り買い”を行うようになる。その結果、一日のうちで“1円以上上下する”のが当たり前のように変わっていく。もし、そうなったら、間違いなく“投機マネー”が増えてきていると思った方が良い。こうして日本円は奇妙な形で世界から注目され、まるで原油先物と同じような激しい上下を繰り返しながら、最終的には「大きく円安方向」へと動いていくだろう。

20代男性の7割「恋人いない」現象は社会問題

2022-06-15
私が20代の頃「恋人がいない」というのは“恥ずべきこと”のひとつだった。ましてや「デートの経験がない」といえば、だれもが驚いた。そういう時代だった。いや、それは“私の時代”だけではなく、日本では戦後に入ってから、ずぅーっとそうだったような気がする。もちろん国民性もあって、欧米ではもっと早くから、それが当たり前だった。フランスでは17世紀の頃から、十代半ばくらいから“恋をする”のが当然のように捉えられていた。そして、そのことが“フランスの占い文化”を発展させたともいわれる。実際、フランスの手相書では、恋愛について記された箇所が大部分を占めている。私が「占い師」として“占い喫茶”で鑑定し始めた頃、その当時は近隣に学校が多かったせいもあるが、女子高生、専門学校生、看護学校生、短大生、独身OLが、占いのお客さんの9割近くを占めていた。それらのお客さんの8割は「恋愛・結婚」の相談だった。学生が多かったわけだが、就職や進路の相談などは滅多になかった。圧倒的な比率で「恋愛」や「結婚」について訊いて来た。そういう時代を観てきた私からすると、今の時代はあまりにも寂寞としている。国の調査で20代男性の7割、20代女性の5割が、独身でありながら「恋人はいない」と答えている。そして20代男性の4割が「デートの経験がない」と答えている。それとともに20代男性の54%、同じく20代女性の65%が、将来的な結婚を希望している。これでは少子化が進むのは当たり前だし、“妊娠・出産”の前に“恋愛・結婚”を何とかしなければならない。本来、20代は“恋愛・結婚”が最大の関心事であったはずなのに、現代は“そこ”に関心が向けられていない。どうしてなのだろう。やはり第一には“経済的な理由”があるのだろう。「恋」も「結婚」も、お金がかかる(⁉)。私など“金などない状態”で結婚したが…。いまの人たちには無謀に思えるのだろうか。第二の理由として、いまは“接触の難しい時代”になった。コロナの問題が、それに拍車をかけている。やはり“触れ合い”の中から、ドキドキ感は生まれて来るもので、あらゆる接触が「セクハラ」とされてしまう現代においては、うかつに近づけないという実態があるかもしれない。ただ男女とも十代後半から二十代にかけてが、もっとも“恋愛に適した時期”であることは間違いがない。「結婚」は経済力が安定した後でも良いが、お金などかからない「一緒にいるだけで倖せ」といえるような“恋愛の想い出”は、10代後半から20代でなければ得ることは出来ないのだ。

「世界同時株安」で“戦争”より“貧困”急増か⁉

2022-06-14
このところ世界の株価が急落し続けている。決してアメリカだけではなく、日本だけでもなく、欧州だけでもなく、文字通り「世界全体」で“人類のマネー”が一気に失われつつあるのだ。もちろん、一番の原因は“インフレ到来”だ。それでなくても、ここ2年ほど世界は“コロナ問題”に振り回され続けていた。経済の活性化が損なわれて、経済活動に世界的な変調が生じた。さらに、それが少し沈静化してきたところで、今度はウクライナ問題が起こった。この紛争が不幸だったことは、その両国とも“エネルギー”や“原材料”を全世界に輸出している地域だったことだ。結局、両国とも“自ら首を絞める”結果になっているが、問題は当事国だけではなくて、その紛争に加担した多くの国が同時に“自らの首を絞める”結果になっていることだ。「戦いたいなら、お好きにどうぞ‼」としていれば、こんなに長引かなかったし、他の国々には大きな影響が及ばなかったのだ。エネルギー価格の上昇も、原材料品の上昇も、当事国同士だけで争わせれば急上昇にはならなかったし、ましてやインフレになどならなかった。だいたい最近は何でも“世界を統一”しすぎる傾向がある。それぞれの国や地域で、それぞれの“有り方”や“考え方”が行われている方が、世界は安定するのだ。「セクハラ」や「パワハラ」を始めとするさまざまなハラスメントや、妙な“平等主義”さらには“多様性への押し付け”と、何でも“統一基準”を作り過ぎなような気がする。これでは芸術作品も、昔のような“面白い作品”が作れなくなってしまう。占いだって、最近の「コンテンツ占い」など、心良い言葉を並べ立てているだけで、もはや「占い」として成り立っていないし、そういうものしかネットが認めなくなったことで、急速に世間の支持が失われつつある。本来、占いというのは個人を対象とするもので「何月生れだから…」などと言う甘い判断が通用していること自体、おかしいのだ。もっと原点に立ち返って「占い」は“過去”をどうこう言うものではなく、“未来”を照らし出すものとして、みんな一緒ではない“個々の未来”の判断方法を教え導くものへと切り替えていかなければならない。

「007」“敵”&“味方”情報戦は「未来図」だった

2022-06-13
私は昔、映画「007シリーズ」が大好きだった。それを視ながらいつも思ったのは、これは“架空の未来物語”なのだろう、ということだった。初期の頃「007=スパイ活劇」ということで、こんなスパイなんか実際にはいないだろうと思った。スパイそのものが第二次世界大戦までのモノのように、私は誤解していた。だから、今の時代に「スパイ」などと言う職業があり得るはずがない、と思っていたのだ。おそらく私だけでなく、あの頃の日本では、多くの人たちがそう思っていたに違いない。それから、もう一つ、私が“違和感”を抱いたのは“西側”と“東側”の対立という「構図」だった。“東西冷戦”という言い方が定着していた時代だったから、一応は理解できるのだが、そんなに“殺し合い”をするほどの対立には思えなかった。それだけ世界は表面上の「平和」を保っているように見えた。実際、ちょっとした紛争はあっても、世界を巻き込むほどの衝突は起こっていなかった。せいぜいベトナム戦争とか、アフガン戦争とか、そういった類のもので、それらは確かに起こったが、“世界を巻き込む”というほどの規模にはならなかったし「世界を二分するような形」にもなっていなかった。何しろ「007」のストーリーでは“正義”と“邪悪”とがハッキリとしていて、邪悪の方は“世界制覇をたくらむ”というのが“お決まり”のパターンだった。それらの構図も、私には“有り得ない未来の構図”のように思えた。「米・英の国」と「ソ連(当時のロシア)」とが、真正面から対立しているようには見えなかったし、しかも、それが“最新IT科学”や“未来兵器”と結びついているようにも思えなかった。とにかく「007」はエンターテイメントの映画としては良く出来ていて、美女たちも出て来るし、音楽なども素晴らしく、ちょっとオシャレな会話も魅力的だった。そういう点で気に入っていたわけだが、現実的なものとして捉えることはなかった。確かに現在の007俳優は外貌的にロシアのプーチン氏に似ている。まあ偶然に過ぎないのだろうが、そういう人物がスパイ役に選ばれてのち007人気が復活したのは皮肉でもあった。現在、あの頃には思いもしなかったことだが、まるで“未来図”でもあったかのように「西側」と「東側」に再び分かれた。いまの「ロシア」は「中国」「北朝鮮」とガッチリ結びつき、さらにいくつかの国とも一体化し、「米国」「英国」「欧州」と見事なまでに「東西冷戦」を引き起こしている。もはや「冷戦」ではなく「経済戦争」が開始されたと言っていい。世界的に人気を誇った「007」だが、文字通り“未来を予告する”映画だったのかもしれない。

日本人「総ひきこもり」時代がやって来るか⁉

2022-06-12
東京の江戸川区が“全世帯”を調査し、その15歳以上の約8000人が「引きこもり状態」にあることを突き止めた。実に“24世帯に1人”の割合だという。このような調査はあまり行われてこなかったように思うので、貴重なデータだと言える。私が一番注目したのは“世代別のデータ”で、それによると“どの世代”もほぼ均等に“ひきこもり”の人たちが存在することだ。より具体的にいえば、“ひきこもり”がもっとも多いのは40代の17%、次が50代の16%、30代の13%で、それ以外はどの世代もだいたい10%前後となっている。つまり傷つきやすい10代だから“ひきこもる”などと言うのはイメージに過ぎない。というか、実際には40代とか50代の“働き盛り”の人たちがもっとも引きこもっている。この事実は、要するに「日本人はひきこもりやすい」ということを表している。年代・世代にはまったく関係がない。しかも、いったんひきこもってしまうと、なかなか“そこ”から抜け出すことが出来ない。私は自分が“引きこもっていた”時代のことを想い出す。私の場合、十代半ばの一年半くらいの期間を引きこもっていた。もっとも、家族は遮断しなかったし、早朝には“誰もいない海辺”に独りで出かけていた。朝日の上る少し前に家を出て、砂丘に座って“日の出”を待つ。海鳥がいつも鳴いていたので、その当時の情景を想い出すと、必ず“海鳥の鳴き声”が一緒についてくる。水平線を見つめて、何を想うというのでもなく、ただじっとしていた。大自然の“荒々しい営み”が妙に好きだった。その中に“溶け込んでいく”ことで救われるような気がした。あれから何十年も経って、こうして“ひきこもり”の時期さえも懐かしい情景に変わった。だから、人生には“そういう時期”があって良いと私は思うのだ。ただ、それが長く続きすぎるのは良くない。“ひきこもり”から社会へと旅立つには、或る種のエネルギーが必要だからだ。そういう状態が長く続きすぎると、その根本的な生命力が失われてしまう。“ひきこもり”を経験することによって、人と人とのつながりがいかに大切であるかに気付き、社会に必要とされていること、身体を使って働くということが、いかに“悦びにつながるか”ということにも気付く。或る意味で「コロナ禍」は“小さなひきこもり”に近い。それを経験したことで、誰もが“普通の日常”の大切さに改めて気づくように、“ひきこもり”は次へのステップに役立つ大切な充電期間と思うべきなのだ。

「元気ですかー」と叫べない“アントキの猪木”

2022-06-11
元々この人は私の記憶が確かなら“役所勤め”の人物だった。その風貌が「アントニオ猪木」に似ているということで2009年にブレイクした「アントキの猪木」だ。大柄で身長も高く、確かに若い頃の猪木氏に“そっくり”だった。けれども、元々“芸人”から出発した人物ではない。謂わばTVなどに担ぎ出され気付いたら「モノマネ芸人」にされてしまっていた、というのが真相だろう。したがって、他の方達のように“それ以外のモノマネ”が出来るほど器用ではない。一時的にはブレイクしたが、外貌の“そっくり”だけで何十年も食べられるはずがない。役所を辞めて、モノマネ芸人になったが、コロナ禍でイベントは軒並み中止となって、今や最盛期の収入の1000分の1となったと報じられている。もっとも、コロナ禍だけが原因であるとも私には思えない。なぜなら彼は元々が“外貌的に似ていた人物”なのだ。特に、若い頃の“ハツラツとした猪木”に似ていたのだ。だからこそ「アントキの猪木」であった。それが、ここに来て本家本物のアントニオ猪木氏の状態が良いとは言えない。一時期の「死ぬか生きるか」の危機は乗り越えたものの“本来の体調”に戻れたわけではない。この人の“売り”であった「元気ですかー‼」と大声で叫べる状態ではない。それなのに容貌が似ている「アントキの猪木」をイベントに読んで「元気ですかー‼」と叫ばせるのは奇妙である。したがって、コロナ禍によって“1000分の1”に収入が減ったというよりも、その外貌そのものが“病気によって大きく変貌した”猪木氏のパロディとしては、あまりにも使いにくい。外貌的に似ていることがブレイクのキッカケになる人物の場合、かつて「オバマ大統領に似ている」ことで人気を得た人物など色々いるが長続きしていることは少ない。その雰囲気や歌い方や物言いが似ている場合は、長続きする傾向がみられる。それは我々の記憶が“外貌”そのものよりも“全体的な雰囲気”の方で記憶しているからだ。そして奇妙にも、成功者に“雰囲気”が似て来ると、いつの間にか“その人物”も成功できる。だから“顔”や“髪型”を真似るより、その“雰囲気”を秘かに真似る努力をした方が、世間的な成功は掴みやすいのだ。

坂口杏里「波乱の人生」第二章の開始となるか

2022-06-10
私のように「運命」という観点から“多くの人”を見ていると、ときどき「この人‼」と称賛したくなるような人が居る。その一人が坂口杏里氏だ。現在は“元タレント”ということになっていて、一応“一般人”の方だ。といっても、木下優樹菜氏と同じように、一般人でありながらも一般人ではない、そういう“枠内の人”と言って良いだろう。その坂口杏里氏が結婚・入籍をされた。お相手は“元女性”で現在は性別適合手術も受け、完全に男性となっている「飲食店店長」であり、同時に「格闘家」とも一部で知られている福島進一氏である。したがって、外貌的にも“男性的”な印象であり、そのコメントでも「すべての意味で(彼女を)守りたい」と述べている。なかなか実の男性でも、この言葉は言えない。そういう意味では元々精神的に“脆い”ところを持っている坂口氏が惹かれていったのは自然なことだったのかもしれない。ただ私には坂口氏が何かしらの話題を提供するたびに、かつて公然と“恋愛関係”を認めていた芸人・小峠英二氏のことを想い出す。その交際期間は短く一年余だったと思われるが、私の勘では双方とも間違いなく惹かれ合っていた。だからこそ小峠氏の方は、その後に恋愛らしい恋愛の噂を聞かない。おそらく今回の報道を知って、いちばん安堵したのは小峠氏のような気がする。そうして私には坂口氏が結婚したことで、なぜか小峠氏が本気で“新たな恋愛”をスタートできそうな気もする。もっとも「幸せになります」と宣言した坂口氏だが、果たして、それが実現できるかは微妙なのだ。実は今年は“寅年”で彼女の生れ日「申」とは“支冲”の関係になる。十干の方は「壬」日の生れで、こちらは女性が結婚する年として多い“同一十干の年”なので相応しいのだが、“支冲”は“すれ違い”や“別居”に至りやすい形で、その点が気になるのだ。結婚された夫の福島進一氏は今回騒がれるまで「妻が元タレントであることを気にしていなかった」という。だから良かったのだ。つまり、坂口氏が注目され過ぎることは“元女性”である夫にとって、プラスではないような気が私にはする。実は夫は、これが初婚ではない。6年ほど前に性別変更後に初婚を済ませている。そして、その時には半年ほどで離婚しているのだ。だから、決して“このようなカタチ”だから長続きするとは言い切れない。母親が心配していた「波乱の人生」とならないためにも、坂口氏は“妻”として“主婦”として「家庭」を大切にして、再び“波乱”に巻込まれぬようにと願ってやまない。

17世紀の天文学者による「木星・土星の正体」

2022-06-09
オークションというのは通常「絵画」や「美術品」に対して行われるものという認識を持っていたが、実際には「書籍」に対しても行われている。当然のことなのだが、大きな金額で落札されるのは絵画や美術品の方なので、書籍類はそれほど話題には上らないわけだ。ところがイギリスの骨とう品評価イベントで発見された一冊の本が、近々ハンソンズ図書館で行われるオークションに出品されるとして注目を集めている。17世紀にオランダ人物理・天文学者として有名だったクリスティアン・ホイヘンズ著『発見された天体』という本だ。実際には《もしくは惑星における世界の住人、植物、生産物に関する推論》という長い副題がついている。昔から、物理学者や天文学者の書いた本は“小難しい”と決まっている。もちろん、この本もそうではあるし、だから売れなかったと思うのだが、その当時の作家が書いた“宇宙本”ではなくて、科学者が書いた“宇宙本”であるところが興味深い。もちろん、17世紀であるから“七惑星”は知られているが、それ以外の惑星である天王星、海王星、冥王星は出て来ない。望遠鏡は存在しているが、宇宙に対しての捉え方は幼稚で、われわれの太陽系だけが“宇宙のすべて”と考えていた時代の科学者だ。ただ科学の世界で「天動説」から「地動説」に変化していった時代に生まれているので、そういう点では当時における“最先端科学の知識”を身に着けている。そういう人物が著した“推論としての木星。土星説”だと言っていい。そして、この科学者は、同時に熱心な“キリスト教者”でもあったと思われることだ。そういう彼が、いちばん悩んだのは「なぜ神は、地球のほかにも惑星を創造したのか」ということである。彼は、他の惑星たちにも“それぞれの惑星人たちが生息している”と考えていたようだ。それゆえ余計に「なぜ神が地球以外も創造したのか」理解に苦しんだようである。だが、ここで笑うことが出来ないのは、それから300年以上の経った今でも、われわれは「神がなぜ地球を創造したのか」「太陽系以外の宇宙がなぜあるのか、地球以外に宇宙人は居るのか」何一つ解かっていないからだ。

私が懸念・予言した通り「日露漁業協定停止」

2022-06-08
いつも思う。私が懸念・予言したことは、その時には実現しなくても、必ず後になって“その通り”となっていく。だから、占いの相談者に対する予言でも、その時すぐには“その通り”にならなかったりして、しばらく経ってから“それが具体化”していくことなどが多く。私は以前から「日本」が、或る意味では「ウクライナ」と同じように「ロシア」と国境を接している国の一つとして、“北方領土問題”を抱える国として、その国家的な発言には“注意が必要である”と注意してきた。最近の「日本」は、欧米寄りの発言一辺倒で「ロシア」が“敵国”とみなすのも致し方がないような状況にある。もちろん、誤解されたくないので付け加えるが、私は“ロシアの軍事侵攻”が正しいなどとは思っていない。ただ政治・外交というものは「正しい」「正しくない」だけで行うべきものとは考えない。国民の“命と財産”を預かる以上、あらゆることを想定したうえで、言動することが“外交判断”として必要なのだ。そういう意味で、ロシアへの日本からの制裁は慎重でなければならない。今回、ロシアは日本に対して1998年に発効した北方領土周辺海域での漁業協定の履行を停止した。早い話、日本の船による漁業を認めない、ということだ。これには理由があって、日本が協定上で決まっているサハリンの技術支援金を凍結させているからだ。要するに日本側が“ロシアへの制裁”の一つとして署名を引き延ばしている。まあ、だからロシアに「支払わなければ協定を履行しない」と対応されるのは、或る意味では当然なのだ。つまり、日本は“西側の一員”として、カッコよく「制裁を科す」と見得を切ったわけだが、ロシア側は冷静に「それなら協定の履行を停止する」と返したのだ。だから、何もかも“西側らしく”振舞えば良いというものではない。漁業関係者にとって、操業できるかどうかは死活問題なのだから、その辺は慎重に対応すべきなのだ。実はフランスの国際メディアが、ロシアと中国の合同軍事演習を取り上げ、これに北朝鮮が加わった露・中・朝の三国が一体となって軍事攻撃を仕掛けた場合、もっともその被害を受けるのは「日本」となる可能性について言及している。この三国は皆“核保有国”なのだ。もう「日本」は“丸腰”で「憲法九条」などと言って居られる時代ではないのだ。

「赤ちゃんポスト」&「里親」普及させるべき

2022-06-07
東京の日野市で自宅マンションのクローゼットの中に遺棄した新生児を隠していた23歳の女性が逮捕された。5月に産んですぐ遺棄したようだ。気付いたのは同居している母親で異臭が強まったことによる。判然とはしていないが、状況から察するに、母親は娘の妊娠・出産を知らなかったらしい。新生児を出産してクローゼットに隠した女性は、死体の異臭が強まることを知らなかったような気がする。或いは多少あるかもしれないが、クローゼットの中の小さなスーツケースに入れてしまえば、それほどの異臭にはならないと思ったのかもしれない。とにかく、私は実の母親が娘の妊娠・出産に気付かなかった点が何んとも気になる。つまり、自分の娘が“妊娠する”ということなど考えられなかった、ということだろう。どうしてかと言えば「そういう娘ではないはず…」だったからだ。だからこそ娘の方も、いちばんに知らせるべき母親に知らせていなかったのだろう。それにしても、どうして産むことになったのか。私の予想では、しばらくの間、容疑者自身が妊娠に気付いていなかったからではないのか。気付いた時には、もうどうすることも出来なかったか、早くから、出産したら遺棄することを考えていたか、どちらかだった気がする。つまり最初から、母親に相談できるような相手(新生児の父親)ではなかったような気がする。こういうとき、もし「赤ちゃんポスト」や「里親制度」がもっと普及していて、誰もが簡単に利用できるような形になっていれば、そういう風な発想が浮かぶに違いないのだが、日本の場合、まだまだ“身近なもの”になっていない。だから、自分が育てられない、となったら“遺棄する”という手段しか思い浮かばないことになる。日本の場合「赤ちゃんポスト」は、どういうものか普及しない。それなら「里親制度」だけでも、もう少し簡素化して“普通合な妊娠”をした母親が利用しやすいように変えて行かないと、こういう事件は無くならないだろう。その一方で、妊活で「なかなか上手く妊娠できない」と嘆いている女性も多い。日本の場合、代理母も基本的には難しい。こういう事件を無くし、少子化対策の一環としても、子供を欲している方達に対しても朗報となるような法整備が早く整えられて欲しい。

自撮りで“セーラー服”や“貝殻ビキニ”の写真家

2022-06-06
大坂で個展が開催される写真家・マキエマキ氏は現在56歳だ。自撮りによる“写真展”だが、アマチュアではなくプロの“自撮り写真家”だ。つまり、自分のカラダを“被写体”として、“昭和のエロス”や“場末のエロス”を追求する。決して美人でもなく、素晴らしいプロポーションでもない。まあまあ程度のフツウの容貌だ。元々は商業写真家で、最初から“自撮り熟女型”だったわけではない。彼女の信念は「人の撮らないものを取ること」「きれいなポートレートは撮らないこと」そして「この人、アホちゃうか」と言われるような写真を撮り続けたいのだという。そこが好い。その結果として50代なのに“セーラー服姿”で撮ったり、山の上で“貝殻ビキニ姿”で撮ったりする。なんの躊躇もない点が素晴らしい。人は誰でも“羞恥心”というものを持っている。ましてや女性なら、自らSNSで“自撮り熟女”を発信することには抵抗感を持ちそうなものである。実際、最初のうちは“おかしな男性たち”からの標的とされ、妖しい写真が送られたり、誘いが来たり、ストーカー的メールが届いたりしたそうだ。それでも発信し続けたのは、自らを被写体として“昭和のエロス”や“場末のエロス”を写真家として遺しておきたい気持ちが強かったからだろう。商業写真は“無名”だが、“自撮りエロス”では個展を開き、それなりに名をはせている。もっとも、収入面では無名の商業写真家時代には到達できていないらしい。私は彼女が、このまま年齢が行っても、自分のカラダを被写体としての“自撮り写真家”を続けて、なんとなく懐かしさと昭和30年代から40年代のエロ雑誌やエロ映画の写真を見せられているような、或いは当時の風俗雑誌中に掲載された写真をみせられているような“妙な懐かしさ”と“微笑ましさ”を感じさせてもらいたい。われわれはなぜか、そういうものを“どこか”に忘れてきたような気がする。だから、あまりにもささいなことで「差別」だとか「セクハラ」だとかいうようになったのだ。もっと、男女は“素朴”なままで良いのだ。“素朴”なものには、現代な“美”も“セクシー”さもないが、なんとなく“ほっこり”とする不思議さがある。 « Older Entries Newer Entries »