8月, 2022年

一流占い師なれる大久保佳代子流「人生指南」

2022-08-17
ときどき作家やタレントなどが新聞や雑誌やラジオ・TVなどで「人生相談」のコーナーを持つ。その中には占い師として大変に参考になる考えや観方を述べる人もいれば、首をかしげるような回答をする人もいる。タレントの大久保佳代子氏が担当している“人生相談”の記事を読んだ。彼女の回答は歯切れがよくて大変に良い。どちらかと言えば十代、二十代前半くらいまでの女性たちからの“相談”に対して自分自身の過去と照らし合わせながら回答している。特に私が気に入ったのは《20代の数年間なんて後からいくらでも回収できる》とか《わたしの場合は良くも悪くも「何とかなるだろう」で突き進んだ》とか《夢にたどりつく道は一つだけではない》とか……頷くところが多かった。いまの若い方達は、総じて慎重である。良くも悪くも“無謀さ”がない。どうしてなのかと言えば「失敗したくないから…」なのだ。どうして、そんなに失敗を怖れるのだろう。大久保氏も語っているが、十代、二十代での“失敗”など、あとからどうにでもなる。それに、何度も失敗を経験していた方が人間としての“奥深さ”と“理解力”が身に付く。若い時に“挫折”や“失敗”を経験していない人は、総じて周りに対しての理解力に乏しい。それに“失敗”は何度もした方が良い。何度も失敗をしていると、多少の障害とか、妨害とか、困難とかがあっても、それで物事を簡単にあきらめてしまう、などと言うことがない。忍耐強く、打たれ強い人間になれる。「失敗は成功の基」というが、実際、失敗をせずに大成した人はいない。失敗をしない人は“そこそこの成功”は出来るが、“大きな成功”は出来ない。大きな成功の陰には“小さな失敗”が隠れているからだ。よく、何度も“同じ失敗”を繰り返す人がいるが、矛盾するようだが、それは愚かだからだ。失敗は何度しても良いのだが、“同じ失敗”は一度だけで卒業すべきなのだ。同じ失敗を繰り返す人は“失敗”から何も学んでいない。この“失敗”から「学んでいるかどうか」こそ、その後の人生の“優劣”を分ける決め手となる。「運」だけで人生が決まるのではない。

熱波と猛暑で「モンブラン」のカタチが崩れ…

2022-08-16
「モンブラン」と言っても洋菓子のモンブランではない。西欧最高峰として標高4800メートルの高さを誇るモンブランの方だ。そのモンブランに関わる人たちの顔色が、いま一つパッとしない。どうしてかというと今年の場合、早くからの熱波と猛暑で山全体の地盤がゆるくなり、山頂部の氷が溶けだしているからだ。したがって“登山ルート”は危険がいっぱいとなって、だれも登頂したがらないのだ。その頂上を目指す人は例年の10分の1以下になっていて、プロなどベテランの登山家以外は“登ることを見送る”自主規制が掛かっている。それはそうだろう。ここは普段であっても、帰ってくることを保障出来ない山なのだ。氷が溶けだしたのでは危なくて仕方がない。実は途中の山小屋までであっても、必ずしも「安全である」とは言い難い。地盤が緩み、氷が溶けだしたことで、山頂付近から“巨大な石の塊”がゴロゴロと落ちてくる。深夜になっても気温が6度に達しているのだから、溶け出すのは当然だった。スイスは街中における名所や観光遺跡などは少ないが、自慢の山々があることでこれまで莫大な観光収入を得てきている。アニメに「アルプスの少女ハイジ」というのがあったが、実際、高原列車からの穏やかな草原や湖などの風景は優美で“絵になる部分”が多い。私のように、普段はそれほど“自然世界”など求めていないものであっても、ああいう場所へ行くと“アルプスの少女”的な女性に惹かれたりする。地球温暖化の影響は皮肉なことに“地球のてっぺん”に近い人々と、逆に北極海の海沿いで地盤の低い街に暮らす人々と、その両方の人たちをじわじわと追い詰めている。考えてみれば、そういう地球上の環境的な変化は今に始まったことではない。「恐竜の時代」から“それ”はあって、我らが生きている「地球号」は我々だけの乗り物ではない。われわれ人類は地球環境の変化や時代に合わせながら、何とか生き延びて来た。古代中国の王朝家に代々伝わった「風水思想」は、自然環境と向き合って学んだ古代の人々の知恵の遺産である。その自然環境に“調和しながら生きる”ことの大切さを説いた“4000年前の人々”の古くて新しいメッセージなのだ。

「マリア」「イシス」「慈母観音」を同一視⁉

2022-08-15
エジプトのギザにあるコプト教会で、ミサに出席した人たちが火災に遭い40人以上が亡くなった。エジプトと言えば現在は“イスラムの国”で、国民の9割がイスラム教徒である。いまから15年ほど前、ギザのホテルに泊まった時、夜明け前から聴こえてきたのはコーランだった。もちろん、コーランというのはイスラム教徒の礼拝合唱で、或る種の呪文のようにもわれわれには聴こえる。それが外から流れて来るのだが、拡声器を使ってボリュームを上げているために、どんなに高級なホテル内に居ようと目覚めてしまう。毎日こんなものを聴いていたなら、嫌でも「神は偉大なり」と言いそうになる。だから、国民の9割というのだが、実際には10割なのではないか、と秘かに想っていた。どのモスクも昼間などあふれんばかりに人だかりがあった。けれども、やっぱり、そうではなかったらしい。今回ギザで火災に遭ったのはキリスト教の分派である「コプト教」の教会だったからだ。コプト教というのは日本ではあまり知られていないが、古代エジプト時代から存在した“エジプト式のキリスト教”なのだ。正確に言えば“やや変則的なキリスト教”とでも言おうか。通常のキリスト教では「イエス」を“神の子”として崇めるのだが、コプト教の場合には“その母であるマリア”を何よりも尊ぶ。その点で共通しているのが、日本の長崎に花開いた“隠れキリシタン”である。彼らもキリスト教徒ではあったが信仰していたのは“マリア様”の方だった。そこで彼らは“仏教の慈母観音像”を「聖母マリア像」に見立てて拝んでいた。実はコプト教徒も名称としては“聖母マリア像”だが、ほんとうに拝んでいるのは古代エジプトで“聖母”として信仰を集めていた“ホルスの母イシスの像”だった。古代エジプト人たちから「イシス」を奪うことなど出来るわけがなく、聖マルコは“折衷案”的な意識で「聖母マリア」のキリスト教を布教したのだ。つまり、古代エジプトでも、鎖国時代の日本でも、“聖母”というのはどの民族にも共通して生きていて、だから信仰対象となる。慈母観音は“遠くから見守るだけの観音”だが、より積極的に“民を抱いてくれる聖母”こそ、虐げられた人々の信仰対象となるのだ。

インフレ加速「0円プラン」の時代は終わった

2022-08-14
かつては日本の社会をリードしていた企業のいくつかが、ここに来て窮地に陥っている。その一つが「楽天」という企業グループだ。モバイル契約者の大量流出が止まらないのだ。本来なら、もっと歓迎を受けるはずだった「0円プラン」が腰砕けし、それによって契約していた人達の流出が止まらなくなっている。もちろん「0プラン」なのだから、最初から“赤字覚悟”で開始しているのだが、その“0円後も継続してくれる”ことで何とか経営が成り立つ。ところが、0円が切れると同時に解約が相次ぐのでは採算が成り立たない。その結果、いまや楽天グループ全体での借入総額、つまり借金は2兆5000億円にも達している。もちろん、この数字は楽天が目標としているソフトバンクグループに比べれば、まだまだ少ない。とはいうものの今や完全に“投資会社”と化しているソフトバンクグループとは単純に比較できない。楽天には“大化けするかもしれないユニコーン”はないのだ。そこで、どうするのかというと、楽天を率いる三木谷氏は「楽天銀行」と「楽天証券」の上場を決めた。それによって当面に資金の確保を得ようとしている。もっとも楽天自体の先行きが不透明で、その本家の株価も昨年に比べると半額ほどにまで急落している。市場で「楽天銀行」が高評価を得られるかには疑問符が付く。「0円プラン」というのは、携帯電話だけでなくさまざまな分野で行われてきた手法で、いまとなっては新鮮味がない。というか、いまや“時代遅れ”的な印象さえある。ここ1~2年、世界的にインフレが忍び寄り始めている。日本は昨年まで抑えられていたが、エネルギーや原料費などの高騰に、もはや抑えきれなくなって“一斉値上げ”の様相すら見受けられる。私が、かつてここで予見した通りの展開なのだ。世の中がインフレに向かう時代には「0円プラン」は印象的にもマイナスで“後れを取った”企業イメージとなる。「景気」とは、文字通り“気分”が関係しているので、経済の実態とは必ずしも同一ではない。これからの時代は“他よりも一歩先んじて値上げする企業”の方が、時代をリードする企業として注目を浴びるようになっていくのだ。

「認知症」でも勤まる「大統領」という要職⁉

2022-08-13
今月9日、アメリカのバイデン大統領は地方のイベントに出席していた。そこにはシューマー上院総務も出席していて、彼が他の出席者と次々握手を交わした。もちろん、最初に大統領と握手し、それから他の出席者たちとだ。ところが、何を勘違いしたのか、或いは忘れてしまったのか、他の出席者たちと握手しだした時、バイデン氏はもう一度“握手の体勢”をとって、手を差し出していたのだ。もちろん、最初に握手しているので、二度目はなかった。だからバイデン氏の手は“奇妙な状態”のままだった。実は現在79歳のバイデン氏には以前から“認知症疑惑”がある。昨年6月のG7サミットの場、彼は相手に不快感を与えるような“失言”や“言い間違い”をしばしば行っていた、とされている。もっとも、これは現代がちょっとした発言でも「パワハラだ」「セクハラだ」「モラハラだ」と騒ぎ立て、公的な言動に対して厳しく“大目に見ない風潮”が作用しているのかもしれない。ロシアのウクライナ侵攻前に行われたインタビューで、プーチン大統領に対して「人殺しだと思うか」という記者の問いかけに対し「そう思う」と返している。このあまりに直接的な反応に対しては、プーチン大統領自身がこの発言のことを問われて「お大事に、彼の健康を願う」と絶妙の“返し”を入れている。こういう“返し”を日本の政治家たちも見習ってほしいものだ。どうも日本の政治家からは“ユーモアを含めた、或いは皮肉を込めた余裕の発言”というものを聴いたためしがない。まあ、それだけ日本人は真面目なのかもしれないが、真面目だけで外交関連の物事は進展しない。もっとも、認知症的言動に関しては、私も人のことを言えるような筋合いはなく、きわめて“危うい”状態にある。とにかく“知っている名称”が出て来ない。若い頃は誰よりも記憶力には自信があったのだが、いまは誰よりも記憶力には自信がない。どうしてそんなことを忘れるのだろうか、というような名称を忘れる。人物の名前、物品の名前、日時の記憶……いちばん想い出せないのは過去の記憶で、体験していること、行っている場所、何度も逢っている人、自分が“書いていた文章”の記憶さえ、真っ白という場合が少なくない。「こんなこと書いたっけ」と思いながら、自分の書いた文章を読み直す。そうして、まるで初めて教えられたかのように「へぇー、そうなんだ」と納得したりする。過去の自分が、もはやどこかに消えている。わたしは誰なんだ⁉

どっちもどっち“ホリエモン”vs.“ひろゆき妻”⁉

2022-08-12
いつも思うのだが、ものの言い方に“配慮”を欠く人は「敵」を作りやすい。その典型ともいえるのが「ホリエモン」こと堀江貴文氏と「ひろゆき」こと西村博之氏だ。この二人は途中まで“意気投合”していたように視えたのだが、双方とも個性が強く、批判する時には“容赦しない”のが特徴なので、いったんぶつかると、もう戻りようがない。ただ今回はちょっとだけ違っていて、実は堀江貴文氏の相手は西村博之氏ではなくて“その妻ーゆか氏”となっている。どういうことかというと、妻のゆか氏が『だんな様はひろゆき』という夫の日常を妻が赤裸々に描く“脱力系4コマ漫画”本を発売し、それに対して堀江氏が「キモイ本」と評したことに始まる。そう評されたことがお気に召さなかったらしく、ひろゆき妻はSNS上で猛然と抗議する。その抗議に対しても、堀江氏は「(いままで)いろんな人たちを小馬鹿にして金稼いで来たんだろ」と容赦がない。この“やり取り”そこだけ切り取ると、堀江氏の方に問題がありそうな気がするが、実は伏線があって、以前、堀江氏がファッションブランドを立ち上げた時に“大いに貶されていた”らしい。つまりは、だから「オアイコでしょ」というのが彼の言い分なのだ。近年、この「ホリエモン」と「ひろゆき」両氏の発言は、さまざまな形でメディアに取り上げられる。言ってみれば双方とも“影響力のある発言”となっている。そうであれば両者とも、もう少し相手や世間に配慮を持った発言をしても良さそうなものなのに、双方ともに“それ”がない。確かに、ひろゆき氏はときどき相手を“小馬鹿にしたような発言”をしているし、堀江氏の方も“相手への配慮はみじんもない”ような言い方をする。つまり、私に言わせれば、双方とも“批評眼の鋭さ”は持っているのだが、少々“人徳に欠ける”のが難点なのだ。まあ、多くの日本人が“ハッキリものを言わなすぎる”ので、それに比べれば、国際人として上等ともいえるのだが……。ただ、同じことを言うのでも“敵を増やさない言い方”というのはあるもので、それはもしかすると、もう少し年齢が行ってから身に付くのかもしれないのだが……。

欧米後退し、20年後は「中国の時代」が来る⁉

2022-08-11
私が最初に中国本土を訪れたのは20年以上前だが、その頃の中国はまだまだ“発展途上国”の印象が強かった。地方都市では、まだ“人民服”を着て歩いている人物をときどき見かけた。正直、今日のような経済的な発展は予測できなかった。皮肉なことだが、発展途上にあった中国が“お手本とした国”は、アメリカと日本であった。だから多数の優秀な留学生がアメリカや日本にやって来ていたのだ。そして“欧米式”の知識や技術だけでなく“暮らし方”や“ビジネスの在り方”まで身に着けていった。そういう人達が牛耳ているのが今の中国社会なのだ。半導体などの科学論文の数が、完全にアメリカよりも中国が上回ったと新聞が伝えている。もはや世界一の“科学大国”が「アメリカ」から「中国」に変わったと認めざるを得ない。この論文数の数が重要なのは、やがてそれに相当するビジネスが展開されていくことが確実だからで、今すぐとはならないが20年後、25年後になれば、間違いなく中国は科学技術の上で、世界をリードする国に変わって行くだろう。つまり、これまでのアメリカが果たしていたような役割を中国が担うのだ。昔、日本では、中国は「日本」や「アメリカ」を真似てばかり、偽造品ばかり、まがい物ばかりじゃないか、と嗤っていた。確かに「世界の製造工場」と言われ、さまざまな分野の製品の“下請け作業”を低賃金で行っていた時代もあった。けれども徐々に時代は変化していった。いまや、その役割を担っているのは中国ではない。その時代的な変化を日本人の何割が気付いていただろうか。いつの間にか“遅れ”を取っていたのは、中国でも台湾でも韓国でもなく、我が日本であった。いまの日本は、若い経営者や起業家が育っていない。新しい特許や技術も生まれていない。どうしてなのかというと、国家戦略として、未来の日本をリードしていく若者を育てようという“経済的な余裕”が無くなってしまっているからだ。そういう分野に“金”を投じれないのだ。占いの分野でも、いまの日本ではハッキリとした方向性を打ち出せている人物がいない。例えば中国では医療分野と占術分野が結び付いて“慢性病”や“遺伝的な持病”を早期に発見するとか、治療法に東洋五行思想を取り入れて、その改善傾向を手相の変化で読み取っていくなど、新しい試みがさまざまな研究者が行っている。必ずしも、国家的な承認を得ているわけではないが、少なくとも日本のような“わけのわからない占い”からは脱出しようという動きが、マスコミも含めて動き出そうとしている……

「もの言わぬ神」は「不可思議現象」で語る⁉

2022-08-10
世の中の“自然現象”には、それなりの理由がある。例えば一週間ほど前から、南米のチリ北部コピアポには突如、地上に“丸い穴”が出現した。そして、この丸い穴は見る見るうちに大きくなり、現在の直径は50メートル以上、その深さは200メートルを超える。一週間ほどで“巨大な穴”と化したのだ。原因は不明だが、その近くには銅山があり、そこでの掘削作業が関係しているとの見方が有力だ。その銅山では万一のことも考え、現在はすべての作業をストップしている。一方、日本では北海道の長万部町を知っているだろうか。おそらく知らない人が多いだろう。函館と札幌の中間付近に存在する“小さな街”だ。その街外れにあるのが飯生神社(いいなり神社)だ。この神社の敷地内から、突如、温泉水が吹き上げ始めた。地上20~30メートルほどの高さに連続して垂直に吹き上げ続けている。奇しくも、この神社は今日から「祭り」が始まる。その開始を告げるかのような温泉水の吹上現象だ。実は、この地域にはもともと温泉が存在したのか「長万部温泉入り口」というバス停もある。ただ今のところ温泉にしては温度が低く、神社の敷地内ということもあって、だれも手出しが出来ない。この辺りは、元々「温泉が出るはずだ」という推測があって、60年ほど前に掘削作業が行われていた。ところが「やっぱり出そうもない」ということで中止のままとなっていた。したがって、遅すぎるかもしれないが、神様はその人達の夢を叶えてあげたという話だ。この地域は位置的に登別温泉や支笏湖温泉にも近く、そういう意味では温泉が噴き出したからと言って、驚くようなことでもない。「神のみぞ知る」自然界のさまざまな現象による“お言葉”は、ここでは“温泉の噴き出し”が「神社祭り」の前日に起こったことで祝福を得たとみるべきかもしれない。もっとも、こういった“神の言葉”は大衆にはスムーズに伝わりにくい。どう捉えて、どう活用するのかは、地元民に任せられている。使い方しだいでは“地域の宣伝や活性化”として大いに期待できる。文字通り、宝を掘り当てるような“温泉掘削”や“鉱石の発掘”だが、何らかの現象を見せることで「もの言わぬ神」は、何かを伝えようとしているのだ。

子供を奪い合う「元夫婦」“所有物化”の危うさ

2022-08-09
最近、この種の“報道”が多くなった。元夫婦が“我が児”を奪い合うような感じのニュース記事のことだ。格闘家の才賀紀左衛門氏とタレントのあびる優氏が、一方は週刊文春誌上で「娘の親権は自分にある」と主張し、もう一方は女性セブン誌上で「逢いたい時だけ逢うなんて都合が良すぎる」と反論している。似たような騒動は、卓球の福原愛氏のところもそうだった。元夫婦が子供のことで衝突するのは互いに“所有物意識”があるからだ。愛情だけの問題なら、実質的にどちらが育てていようが、子供が望むのなら「逢わせてあげよう」と思うのが、本来の姿であるよう私には思われる。才賀氏のところは、離婚後に男性側の才賀氏の方が“子育て”をしているので、より“自分の子”としての意識が強まっているのであろう。たまに逢って“母親面”をされるのが気に入らないのかもしれない。福原愛氏のところも、或る意味では同様で、単身日本に戻った母親とは何となく「逢わせたくない」気持ちが強いのかもしれない。正直、私は最初の妻との間に出来た娘を“置いて出ている”ので、この問題に関しては何も言う資格がない。途中から“子育て”を放棄したので、偉そうなことは言えないのだ。ただ子供というのは、途中から“片親”になった場合、その後その子の“愛情観”や“生き方”に微妙な変化を与えるのは間違いがない。片親で育てていくことでの意識が強すぎると、どうしても“我が児”を自らの「所有物」として意識するようなことになりやすい。それが逆に反発を招くと、子供の制御が利かないものになる。良く作用すれば早くから自立の意識が目覚め、生活力の旺盛な子になる。悪く作用すれば“親の言うことを聴かない子”となって、親にも学校にも反発しやすくなり、みずから“流離の人生”を求めるようになる。或いは“完全引き籠り型”となって、世の中への歩みを止めてしまおうとする。もっとも、どの場合でも共通しているのは“自分の人生”を、親とは切り離して考えるようになることである。社会的な“成功”や“失敗”は、片親であることとは直接なんの関係もない。ましてや「運命」全体で考えるなら、片親で育つことが生きていくうえで“不利”に働くようなことは何一つない。むしろ早くから、自分の力ではどうすることも出来ない「運命」を意識することで、世の中の不条理を悟り、親子の関係性を意識する傾向が見受けられる。

理由を明かされず「120億円の映画」が非公開

2022-08-08
最近の日本は映画制作に巨費を投じれない。だから、もちろんバブル期のように「何十億円をかけて制作した映画」などと言うのは存在しなくなった。いま、これを行えるのはアメリカと中国以外にはない。そこで出て来た話が、120億円の製作費を投じたハリウッド映画の『バットガール』が撮影完了し、編集も最終段階まで来ていた段階での“制作・上映中止”というニュースだ。監督や主演俳優にも、何も知らされずに決定され、そして理由すらも明かされずに“幕引き”された。この映画を監督したエル・アルビ&ビラル・ファラーのコンビは、大きな仕事が終わってモロッコに滞在している中で“それ”を知った。「大変にショックを受けています。まだ信じられません」のコメントが、その「寝耳に水」感を表している。もちろん主演のレスリー・グレースにも“それ”は知らされたが、主演俳優らしく、7か月間を共にした撮影スタッフ全員に感謝の言葉を捧げている。内容が極端に悪かったとかとか言うことではない。それなのに理由すら告げられず、半年以上を掛けて、おそらくは数百人のクルーがいたであろう作品はボツとなり“永遠のお蔵入り”となった。その制作に関わった人々には、悔やんでも悔やみ切れないことだろう。映画のような巨費が投じられる芸術は、その作品に投資する出資者が居て初めて成立する。金のかかる芸術は一種の“投資”で元が取れる保証は全くない。日本でも、映画制作によって“借金を抱えた”芸能人は多い。現在は北野武監督作品が「お蔵入りか⁉」と騒がれている。もっとも、日本の最近の映画制作は“数千万円”で済ませることも多いと聞く。そのせいか“地味な作品”が多くなった。日常に密着した“地味な作品”には優秀な出来栄えのものもあるが、総じてドラマとしての華やかなストーリーには欠けていて、大ヒットにはつながらない。それでも“そこそこの収益”になれば、制作する側も、演じる側も“報われる作品”ということになる。今回のように、巨額の製作費をかけ半年以上にわたっての撮影をこなし、編集上でも最終段階まで来ていた作品がボツとなるのは“やりきれない”に違いない。せめてワーナーブラザースは、その理由だけでも監督や主演者に伝える義務があるのではないだろうか。

百戦錬磨の猪木も「病魔」に対しては苦戦中⁉

2022-08-07
70年代から80年代にかけて、或る意味で日本をリードしていた人物の一人が「アントニオ猪木」だった。その猪木氏が病魔と“闘う”ようになって何年もになる。一時的には極端に痩せ細って別人のようになり、だれもがもうダメか……と思ったものだが、そこから立ち上がっていくのが“燃える闘魂”らしい部分だ。昨日、久しぶりTVにビデオ出演したらしい。痩せ衰えていた時期に比べれば、一応元気だが「病魔」との闘いは続いている。彼が“もう死にそうな時”に、私は「運気的にはまだ死期ではない」と断言した。正直、内心では「もうダメだろう」と思っていた。だから「運気的には…」と付けておいた。まあ“気休め”のようなものである。ところが“死神”のような姿から実際に猪木氏は蘇えった。そういう時、私は改めて“人間の星”を感じる。やはり“星の力”には、人間は勝てない。この場合なら、星の力があれば、人間は死なないのだ。ただ“世界中の強豪”と戦ってきた猪木氏も、どう出て来るかわからない「病魔」との闘いは難しいらしく、未だに苦戦し続けている。それでもプロレスラーに短命な人が多い事実から考えると、この人は長命である。観相学的にいうと、この人は法令線がクッキリと長い。一時期に比べれば“薄れてしまった”が、本来の法令線は大変クッキリとして長かった。法令線は一名「寿帯」とも言って、寿命の長さにも関係がある。より厳密に言えば、その人の“仕事寿命”と関係が深い。つまり、齢を取っても第一線で働き続けなければならない人は、本質的に長くクッキリ刻まれることになっている。そういう点から言うと、猪木氏が自らの「カッコ悪さもさらけ出して生きていくのが、今の自分の役割……仕事である」というふうに悟っているのがたいへんに良い。寿帯を活かす意味で大変に良いのだ。つまり、猪木氏自身が“現在の姿”を曝け出すことが“いまの自分の職務である”と意識している限り、寿帯は彼を死なせない。これは一般の方でも同様なので、法令線がクッキリ長い方は、基本的に“自分の役割”“自分の使命”“自分の職務”を果たし続けている限り、そう簡単には死なないのだ。法令線のクッキリと長くない方、法令線そのものが存在していない方、こういう方は大きな病気に掛かるとあっさりと死ぬ。特に、これまで健康であまり病気をしてこなかったような方の場合、予期せぬ形から大きな病気に掛かると、これまでの健康がウソのようにあっさりと死んでいく……。

技術は一級品でも白馬が泣いていた贋作の森⁉

2022-08-06
世の中には「超一流の技術者」がたくさんいる。けれども、その多くの方々は“無名”である。特に著名な芸術作品と呼ばれるものの“精巧な複製品”を作ることは、よほどの“腕(技術)”がなければ出来ない。但し、芸術作品の複製品は許可がなければ基本的に“制作”も“販売”も出来ない。「著作権法」と呼ばれる法律が、許可なく複製することを禁じているからだ。昨日、この著作権法に問われた裁判が東京地裁で行われ、被告の版画工房経営・北畑雅史に対して判決が下され、懲役2年、執行猶予3年、罰金100万円という判決が出された。つまり、被告人は有名な東山魁夷氏の「白馬の森」など5作品の贋作(偽物の複製品)を画商に頼まれて制作した。元々被告は版画工房を経営しているくらいだから、贋作が禁じられていることは百も承知のはずだった。ただ元画商から、その“腕(技術)”を見込まれ依頼されて、断る勇気を持たずに制作してしまったのではないか、と私は推察する。優れた技術者は、往々にしてその“腕”を見込まれて作品を依頼されると、断れないことが多い。なぜなら画商という“目利きのプロ”が自分の技術を高く評価している証だからだ。「白馬の森」という作品は東山魁夷氏の作品の中でも、特に幻想的で美しい。画家や版画家なら、だれでもが「こういう作品を遺したい」と思うような作品なのだ。また芸術を愛する人達なら、自分が夢のある家を建てたなら、落ち着く部屋の壁に「ぜひ飾っておきたい」と思うような作品なのだ。つまり、作品の芸術的な良し悪しとは別に、無条件に視る者に“ロマンと安らぎ”を与える不思議な作品なのだ。もしかすると、贋作者は“違法な依頼”なのではないか、と疑いながらも、その一方で純粋にこういう作品を模写する悦びを味わっていたのではないか。相当長期間にわたって行っていたらしいので、つまり、多くの購入者は“疑うことなく購入している”ので、ただ単に技術が優れていただけでなく、ホンモノだけが持つ“趣き”さえも表していた部分があったのかもしれない。ただ描かれた白馬に潜む“或る種の哀しさ”だけが、贋作であることを物語っていた……。 « Older Entries