11月, 2023年

「クリスマスケーキ」こんなに小さくて高い⁉

2023-11-07
何気なく新聞のチラシて見ていて「クリスマスケーキ」の“予約開始”というのが眼に入った。相変わらず、クリスマスケーキの写真はどれも華やかだ。ただケーキ写真の傍に、その価格は載っていたのだがサイズが記されていなかった。いや、正確に言うと“4号サイズ”とか“6号サイズ”とか、その号数は書いてあるのだが、それが何㎝なのかが記載されていない。おかしいなとよくよく見たら〔注意事項〕という中に“ケーキサイズ”として書かれてある。それによると、4号は12㎝、5号は15㎝、6号は18㎝、7号は21㎝の“直径サイズ”であるらしい。ん⁉……クリスマスケーキだよな……いまって、こんなに小さいのか。しかも、その12㎝のサイズで4700円もする。信じられなかった。しかし、なんど見直しても、そういう価格らしい。考えてみれば、クリスマスケーキに用いるあらゆる原材料が値上げしている。こういう価格になるのはムリもないのかもしれなかった。それは、だから十分に理解できるのだが、それにしても高い。アメリカのケーキ店ではあるまいし、高すぎないか。それに、小さすぎないか。12㎝は、昔なら“一人用のサイズ”だが、たぶん今は“家族用”なのだろう。しかも、限定数量って書いてある。こんなに小さくて、こんなに高いのに、そんなに売れるのか。わたしは大昔を想い出していた。あれはまだ一人暮らしを始めて間もない頃だったと思うが、たまたま12月25日の夕方、わたしは地元のデパートに行った。すると、どういうわけか売れ残ったクリスマスケーキの“大幅値引き”というものをやっていた。そして、店員の人にそのケーキを強く勧められたのだ。わたしはほんとうは“そんなもの”を買う予定で来ていたのではなかったし、元々クリスマスであること自体、忙しくて忘れていたのだが、極端に安くなっていたこともあって、勧められるまま購入してしまった。それは、それこそサイズで言えば7号をはるかに上回る28㎝くらいのサイズだったが、一人暮らしなのに購入してしまったのだ。その時、売っていた方が「もう、今の時間帯だと売れないんですよ、ほんとうに助かりました」と深々頭を下げていた記憶がある。そして、わたしは一挙には食べきれないので半分にして食べた。クリスマスケーキをこんなにたらふく食べられるのは今日しかないと思って上機嫌だった。ところが、それからしばらくたって腹痛が襲ってきたのだ。デパートの中の気温調節はどうなっているのか。とにかく一部、気温が高すぎたか、時間が経ち過ぎていたか、美味しかったのに腐っていた部分があったのだ。そうか、そういう馬鹿な人もいるから今のケーキは小さいのか。

旧統一教会の「献金謝罪会見」は実現するか⁉

2023-11-06
政府による東京地裁へ「旧統一教会の教団解散命令」の発動が行われたことで、その対応が注目されていた旧統一教会側が近く「献金問題に対する謝罪記者会見」を行うらしいとの報道が流れている。実現するか微妙だが、このまま解散に追い込まれるよりも、謝罪会見によって“教団イメージを払拭しよう”とする意味合いが強いのかもしれない。もっとも、日本の支部が“それ”を行ったとしても、信者たちの多くが信じているのは韓国本部の教祖の言葉なので、日本支部の会長が謝罪しても、ほんとうはあまり意味などないのだ。その韓国本部の教祖だが、初代教祖が亡くなって以降、その後を引き継いだ教祖夫人にカリスマ的威光は感じられない。というか、かなり問題のある発言を繰り返しているので、ほんとうは解散してしまった方が今後のためにも良い。この教団はハッキリ言って「日本の献金」があるから成り立っている宗教教団なのだ。大体、宗教教団としての発想が良くない。日本は韓国に対して迷惑をかけたのだから、謝罪し続けなければならない、という発想が最初にある。日本兵のため、韓国女性が犠牲になったのだから、今は日本人女性が韓国人男性に献身すべき時である……という発想がその根本にある。それゆえに「合同結婚式」においては、お見合いを望んだ日本人女性に対して韓国人男性を主として定めるケースが圧倒的に多い。宗教を基盤にしているので、いったん結ばれたものは余程の事情がないと離婚できない。日本男児の方は「韓国」そのものへの“謝罪的意味”を込めての献金を求める。だから、それは一般的宗教のそれよりも多額の献金になる。どうして信者の人たちは、それらを受け入れるのかというと、この教団が用いているテキストが、基本的に“キリスト教の聖書”だからだ。つまり、表面上は“キリスト教の一派”であるかのような“装い”になっている。だから日本人は比較的キリスト教的なものに対して抵抗感が少ないので、その実態がよくわからないまま入信していく人が多いのだ。ただ聖書には「黙示録」があり、そのでは“原罪”として日本人は韓国を“従属化していた罪”が課されると説く。だから、それを逃れるためにも“献金”は沢山しなければならない、という仕組みになっている。もちろん、正式なキリスト教では“旧統一教会の思想”など認めていない。というかキリスト教ではない、という捉え方なのだ。謝罪をするとかしないとかより、宗教団体としての存在そのものに“危うさ”があり過ぎなのだ。

「病院の待合室化」が進みそう「SNSの世界」

2023-11-05
近年はだれでも“ネット世界”と無関係ではいられない。良いのか悪いのかわからないが、知らず知らずと「SNSの世界」に引き摺り込まれていっているのが多くの人たちの日常のような気がする。そして最近、気づくのはSNSで自らの健康状態や病状などを発信する人たちが多くなったことである。昔なら黙っていたような自らの疾患を公表している人達が多い。その中には“初めて聴く病名”も多く「こういう病気もあるんだ」と改めて身体や医療について再認識させられるケースも多い。人間、或る程度の年齢になってくれば、多かれ少なかれ身体に関しては何らかの弱点を持つ。或いは“ちょっとした持病”のようなものを持っている。それは有名人であろうと、芸能人であろうと同様なのだ。だから、毎日のように「ちょっと前まで活躍していた人達」が次から次へと、自らの“弱点”や“持病”などを曝け出していく。最近まで多かった“自らの食卓風景”に飽きてきたからかもしれない。この“食卓風景”というのも、有名人から一般人まで、どうしてそんなに載せたいのか知らないが、われもわれもという感じでSNS写真を飾っていた。だれが何を食べようと、ほんとうはどうでも良いことなはずだが、ただ“他人を傷つけることなく”共感を得られやすい方法としては、いちばん見栄えが良くて、簡単だからかもしれない。とにかく誰もが“料理教室のページ”でもあるかのような食卓風景をアップする。そういう一時期があった。それに代わりつつあるのが“自らの病状報告”なのかもしれない。それに、この方が「ニュース」として取り上げられる。ネット上で拡散しやすい。同情心も手伝って、再び人気に火がつく可能性もある。というわけで……なのかどうか知らないが、次から次へと“病状報告”を発信する著名人が多くなった。もちろん、それで単なる応援だけでなく、貴重なアドバイスを与えられるとか、最新療法をを教えてもらうとか、そういったプラス効果も期待できる。ただ適度に増えるのは良いが、あまりに増えすぎると、まるでSNSが“病院の待合室”のように変わって、常に病気に関する“茶飲み話の場”と化していく可能性が出て来そうで、それはそれで問題となっていきそうな……。

結局「単純・素朴」な方が「映画」は面白い

2023-11-04
人間は齢を取ると、長時間、本を読むということが出来なくなってくる。実用書であればまだ良いのだが、小説などはどうしても途中で読み進むことが難しくなったりする。そこで、映画であればそんなに長時間使わなくても、2時間とか3時間とかで完結している。だから、そういう方面に流れていってしまう。ということで、TVで放映される“昔の映画”を録画して見ることが多くなった。わたしが特に好むのは60年代とか70年代とかの洋画が多い。なぜ、昔の洋画が好いのか、自分でもほんとうのところはよくわからない。ただ、いくつかハッキリしていることがある。その一つはストーリー的に単純なものが多いということだ。登場人物も少ない。そういうものの方が話が入りやすく、すぐ自分を“その物語の中”に投影していける。現代の作品の多くは、ストーリーが複雑で、登場人物も多くて、その物語に入っていくのに時間が掛かる。単純、素朴な概要の方が、人は理解しやすく、その物語の人物に自分を投影していける。たとえば昨日見た映画ではこうだ。大金持ちが、将来の大女優を夢見る“駆け出し女優”に恋をする。そこで、彼は、自分もその舞台に出て、なんとか彼女の気を引こうとする。そのために涙ぐましい努力をする。大金持ちであることは隠したまま、彼女に“認められようとする”彼の姿が何とも可愛らしいのだ。最終的には彼の努力が実って、彼女は彼からのプロポーズを受け入れるのだが……要するに、それだけの話なのだが、視る側は最初の10分で“何となくのストーリー”は把握できてしまうのだが、それでいて妙に「もういいや」とはならない。見続けてしまうものを持っている。最近の映画には「最後までわからない」を“売り”にしているものが多い。けれども、だから、面白いとは限らない。最初から結末など何となく解かっていても、それでもなぜか途中で「もういいや」とならない何かを持っている。それはたぶん、人間としての“誰もが持っているふつうの部分”を主人公たちが持っていて、だから視る者が自分の姿を投影しやすいのだ。結局、ストーリーそのものは極端な話どうでも良くて“その人物”に親近感を覚えるから見続けるということになる。近年の映画には、主人公でありながら“その人物”が何を考え、何を感じているのか、わからないまま展開していくケースが多い。だから、どんなに複雑で奇想天外でも、どこかで納得していない“自分”が置き去りにされたまま「完」を迎える。

クマだけでなく、シカも出て来てコンニチワ⁉

2023-11-03
もう「錦鯉」のブームは終わったはずなのに、秋の深まりでドングリが落ちだしたせいなのか、クマ出没のニュースが絶えない。昨日も、クマに襲われ死亡したとみられる若い男性発見のニュースがあった。前日は、襲われたがナイフで撃退したニュースもあった。これらはいずれも、まだ山道に入っての出来事であるから仕方がない。困るのは、農家の納屋などに入って“居座る”ケースが出て来ていることだ。人と逢うことに慣れだして、人を怖がらなくなっている。向こうは「コンニチワ」かもしれないが、こちらは嫌いじゃないけど遭いたくない心境なのだ。しかも、ただ居座るだけじゃなく冷蔵庫を漁って食い尽くす。食べ散らかす。居座り方の“礼儀”がなっていないではないか。そうかと思うと、札幌では最近、シカが市街地に出没することが多くなった。昔は山道など一部に限られていたのだが、最近は平気で市街地というか地下鉄駅の手前まで出現する。街中で一緒に暮らしたいのだろうか。確か稚内だと思ったが、毎日のように、街中の小さな広場に出て来る数頭のシカたちが居た。まるで、そこだけは“自分たちの居場所”だとでも言うように、同じ小さな広場に来て何時間も過ごす。研究者によると、シカは川伝いに移動するので、札幌などの場合、街中に川が流れているので、そこに出没するのは食い止めるのが難しいようだ。ただシカはクマよりも俊敏で動きが速く捕獲が難しい。クマの場合はエサにつられて檻などにも入りやすいが、シカの場合、飛び跳ねるので麻酔銃なども危険な場合があるらしい。ただ車の数が多い場所でもかまわず出没するシカはぶつかる可能性も高く、実際JRの列車と衝突した事例も多い。クマであれ、シカであれ、もちろん人間に危害を加えないなら活動区域は自由なのだが、市街地に出ることが多くなったら、もはや黙って居られるものではなく捕獲や殺処分も仕方がないと思う。わたしは動物が苦手なので、小さなネコなどでも睨みつけられると怖い。どうして、あんな“怖い眼”を持っているのに「可愛い」などという人がいるのかわからない。犬の眼は多くの場合に優しいが、ネコの眼は間近で観るとものすごく怖いのだ。

「射幸心」煽れないパチンコ業界に未来無し⁉

2023-11-02
いまから40年ほど前、わたしは毎日のように通った場所がある。パチンコホールだ。あの頃、わたしはいろいろな意味で人生を投げ出していた。「音を立てて崩れる」という表現があるが、文字通りそういう感じの毎日だった。その年、ほんとうは出版されるはずだった著書が出版社の事情から発売中止になった。2か月に一冊ずつ“運命学シリーズ”という形で出版していくという契約書を交わして、わたしはそれまで勤めていた会社を辞めたのだ。辞めなければ、とても“2か月に一冊ずつ”という出版社側の要望に応えられない。だから辞めたのだ。或る意味では当然のことだった。ところが何故か詳しい理由は説明されず「校正段階」にまで来ていた出版は中止となり、わたしは裸で投げ出された格好となった。一応、弁護士事務所を訪れて訴訟を検討したが「費用の方が高くつく可能性が高い」と言われた。引き下がる以外になかった。仕方がないので、すべてを忘れたくてパチンコホールに通った。そこで私は、時間つぶし的に打ち続けたのだが、だいたい3勝1敗くらいの成績になる。そんなに大勝ちできるわけではないが、負けることも少なかった。だから、まあまあ暮らしていく分くらいの収入にはなる、という感じだった。そういう状態が5~6か月も続いた。そうしていた時、昔の同僚とばったりホール内で出会った。彼は「自分も仕事を探していて、いま新たな会社で仕事を決めてきたばかりだ」と笑った。そして急に「もし、なんだったら、この仕事を代わりにやるかい」と訊いてきた。その仕事を始めるのに必要な機械のパンプレットを差し出した。「だって、池田君が決めてきた会社だろう」「いや、引き受けたんだけど、まだ迷っていたんだ、俺は良いから、この仕事譲るよ」「そんなこと言ったって…」「俺の方から会社の方に上手く説明しておくから大丈夫だよ」そう言うと、彼はパンフレットや会社の名刺など手渡して、あっけにとられるわたしを置いて店を出て行った。結局、わたしはその会社に入って一年ほど勤めた。さて、パチンコホール大手の「ガイア」が10月30日に民事再生法の適用を申請した。負債総額はグループ全体で1600億円という大型倒産だ。今年に入って25件目の倒産であるらしい。昔のような大勝できる機種が規制され、もはや魅力の薄れたパチンコ業界にファンが戻ることは期待しにくい。いまでも数年に一度くらいは店に入るが、完全に様変わりし、なかなか当たらない。大当たりが出てもすぐ止まってしまう。規制が厳しくなって射幸心を煽れなくなったパチンコ業界には、かつてのファンはもう戻らないだろう。

2023年11月の運勢

2023-11-01

「151円突破」年末までに「1ドル155円」も⁉

2023-11-01
円安が止まらない。一つの節目として注目されていた「151円」も、日銀の金利上昇1%超容認で一気に突破した。この突破には大きな意味がある。つまり、世界の金融市場で日銀も、日本の政府も「円安は容認した」という暗黙の“了解手形”が生まれたということである。したがって、今後は少なくともしばらくは日本政府が介入して“円安に歯止めをかける”というシナリオは無くなった。だから黙っていても円安は継続するし、それに対して「日本」からアクションを起こすことはできない。前にも書いたが、輸出企業の多い日本の企業全体にとって、徐々に徐々に進行していく円安はプラスの作用が大きい。だからこそ大企業の税収入が大幅に伸びているのだ。もちろん、その一方で国内の輸入型の産業世界にとって、これ以上の円安は“受け入れがたい”状態にある。結局、値上げせざるを得ないのだが、それを世間が受け入れてくれるかは微妙な段階に差し掛かっている。ただ、欧米など視てもインフレは世界的な傾向で、むしろこれまでは日本だけが“価格を据え置いて来た”ようなところがある。したがって、輸入型企業も価格転嫁していく以外にない。そうすると、そのしわ寄せが一般庶民に跳ね返ってくるのだが、世界の潮流からみて、デフレからインフレに上手い具合に転換していけそうな状態なのだから、あとは日本国民全体の引き上げとでもいうか、収入アップを期待するしかないのだ。もっとも、昔は“中流の暮し”が8割以上を占めていた日本の社会も、今や徐々に“格差”が開いて、そのこと自体は何とかしなければならないが、それは“福祉の充実”を計って補っていくしかない。世界の潮流に逆らえば、日本という国家の経済は浮上できなくなってしまうからだ。そういうわけで、日銀も、日本政府も「円安」を容認した。もちろん、今後の世界情勢の在り方いかんで、急激に「円高」方向に動き出すこともないとは言えないが、とりあえずというか、現状からみて、まだまだ「円安」の下値余地はある。もしかしたら年末くらいには「1ドル=155円」くらいまで円安が進んでいるかもしれない。ただし、アメリカの政治経済の状況によっては、年明け後くらいから一気に今度は「円高」方向に向きを変えるかもしれない。その時の方が日本経済にとっては要注意なのだ。  Newer Entries »