2月, 2022年

「スター」を「邪教」と“罵った”習近平の崖⁉

2022-02-16
いまさら述べるまでもなく中国というのは“共産思想”の国である。つまり「国家」が国民の“主義思想”を規制できる国なのだ。したがって「危険」と思えば、いくらでも宗教などを締め出すことが出来る。ただ“完全な共産主義”かというと、そうでもなくて、こと経済に関しては或る程度の“自由”を認めている。そういう風に変わってから、国家としての「中国」は“大いなる発展”を遂げた。いまや世界一の経済大国であるアメリカをも脅かすほどの存在となった。ところが、その中国で最近、なかなか“統制”の利かない分野が出て来ている。「芸能界」だ。正確にいうと“エンターテインメント的要素を含む世界”だ。芸能分野がいちばんだが、アスリートの世界やゲームの世界やインフルエンサーの世界も含まれる。こういった分野で世界的な知名度や財力を持つような人達が次々と誕生している。つまりは“中国のスター”が次々と誕生している。そういう人達の“影響力”が驚くほど強いことに共産党指導部が気付き始めたのだ。そこで現在の中国の国家主席・習近平氏の登場となる。彼には徐々に世界を「中国」と「アメリカ」の“二大強国”の傘下にしたい、という遠大な野望がある。そうさせていくためには、国家統制は欠かすことができない。中国共産党の政治雑誌である『求是』最新号に国家主席自らが寄稿し、その中で彼は“芸能界”のことを「邪教」に例えたのだ。芸能界全体を《邪教のようにスターを追いかけ、ファングループが混乱を起こすなど種々な問題が目立っている》として、それらに対し、今後は法律を整備して強く規制していくと断言した。要するに、いままで緩和してきた“主義思想の緩和”を今後は法律で元に戻していく、と宣言したことになる。現在の「北朝鮮」ほどではないにしても、それに近いくらいの規制は掛けると脅しをかけた。彼が何よりも恐れるのは“中国のアメリカ化”なのだ。このままにしておくと、国民の統制が取れないアメリカのようになっていく…それを怖れているのだ。だが、近年はアメリカ在住の中国人も増えていて、或いは世界の主要都市に暮らす中国人も増えていて、その主義思想は簡単に法律で規制しきれないところに及んでいる。さらに近年は何でも“世界基準”が持ち出される。「中国」だけの“物差し”が通用しない時代に変わりつつある。そして、もっとも怖れるのは、もうすでに中国のインフルエンサーたちの影響力が巷にはびこってしまったことだ。彼・彼女らは“国際感覚”を身に着けている場合も多く、そう簡単には彼・彼女らの口を法律で縛れない。それでも「香港」や「台湾」と同じように“強引に封じ込め”作戦をかけていくのか。何となく、私には習近平氏が“崖っぷち”に立った焦りにも見えるのだが…。

「国家支援型サイバー攻撃」って、何か怖い‼

2022-02-15
私のように、ITとか、AIとか、なんとなく苦手な者にとっては「サイバー攻撃」というのは、電話による“振込詐欺”なんかより、はるかに怖い。「サイバー攻撃」というだけでも怖いのだが、「国家支援型サイバー攻撃」となると、もっと怖い。よくゲームなどで“敵”が突然飛び出してくるが、あんな感じに襲われてしまうような本能的な恐怖にちびってしまう。まあ、でも考えてみれば、国家支援型のサイバー集団が、私のような“金も機密もない虫けら”を襲うはずもなく、もっと大財産を眠らせているような企業とか、大金持ちとかを狙うに違いない。昨日、アメリカの仮想通貨分析企業による調査報告で、北朝鮮は2021年だけで7回の国家支援型サーバー攻撃を行い、その結果、日本円で460億円分に相当する暗号資産(仮想通貨)を盗み取っている、と明らかにされた。これまでにも国連における専門家たちによって、2020年から2021年半ばにかけ58億円分の仮想通貨を、北朝鮮の国家支援型サーバー攻撃によって盗み出されていると報告されていたが、それを裏付けただけでなく、その十倍にも近い金額が“奪われていた”ことを明らかにしたのだった。暗号資産(仮想通貨)に関しては、これまでにも“盗まれやすい”とか、記憶違いなどで“引き出せなくなる”とか、誤って“破棄してしまう”など問題が生じることが指摘されてきた。当たり前の話だが、仮想通貨には“実態”がない。仮想通貨そのものとして普通に流通しているなら良いが、未だに“お金”としてほとんど流通していない。それにもまして、その価値の変動が激しすぎる。急に二倍になったり、三分の一くらいになったりする。これでは、とても市場に暮らしの中で“使われるもの”としては難しいような気がする。もっとも、仮想通貨を“一種のギャンブル”と考えれば、これほど魅力的なものはない。株などよりも変動が激しいからだ。私は、2年ほど前に一度、仮想通貨を購入しようとしたのだが、なぜかエラーとなって購入できなかった。そのあと急騰し「あの時買っていれば…」と悔やんだが、それから半年もたたずに急落してしまった。すると今度は「あの時、買わずに良かった…」と胸をなでおろす。結局、こういうものは世間の人たちが、まだ関心を抱かないうちに購入し、世間的に注目されるようになったら“手放す”というのが「大儲け」のコツなのだが、それを実践できる人は、稀なのかもしれない。

大人になっても「迷子の迷子の子猫ちゃん」⁉

2022-02-14
街を歩いていると、よく見掛けるのが保育園の園児たちの“お散歩行列”だ。保育園の先生が先頭に立ち、子供たちをペンギンやコガモのように先導している。あれは、いつ見ても何となく、ほほえましい。何がどうというのでもないが、3歳くらいまでの子供たちというのは“未成熟な子供”という雰囲気がもろに出ていて、別に保育士でなくても“守ってあげたくなる”から不思議だ。だが、その子供たちだが、ここに来て「置き去りにされてしまう」ケースが多くなってきているのだという。もちろん、意図的なものではなく、保育士の方達が子供たちを公園などに連れて行って遊ばせ、そのあと保育園へと戻る手筈のどこかで“見失ってしまう”事件だ。その多くは、公園などで他の園の子達と一緒に遊んでいて気付かないとか、公園の柵から飛び出てしまって見当たらなくなってしまうとか、帰る途中のどこかで勝手に列を抜け出すとか……とにかく、結果的に“置き去り”という形になってしまう子供たちの案件が年々増えているらしい。東京都のここ4年間の統計では94件に達する。ちょっと多すぎないか。いくら、小さな子供たちが、立ち寄りたくなるような派手な店が多いと言っても、保育士に見つからず逃亡してしまうのは容易ではない。勝手な“抜け出し”ではなく、単純に“迷子となってしまう”ケースも増えてきているらしい。ほとんどの場合は3歳以下の幼児だ。その結果として何人が「ほんとうに見つからなくなった」のか知らないが、これらは東京都への「届け出の義務」がないのだという。したがって秘かに増えても、対策が講じられてこなかったというのが真相のようだ。私は「犬のおまわりさん」という歌を想い出す。子猫は迷子になっても「おうちがどこなのかわからず」「自分の名前も判らない」ニャンニャン鳴いているだけ…という内容の歌だ。単純に「どうぶつの歌」と思っていたが、“置き去りになった幼児”も、ほぼ同様であることに気付いた。さらにもっと進めて考えると、今の“コロナ禍の若い人達”も同様かもしれないのだ。入学したって、周りと親しくなれないし、入社したって、“出社不要”で会社がどこかもわからない。もうニャンニャン拗ねて不登校や出社拒否して“引き篭もる”しかないではないか。犬のおまわりさんも、やってられないよ。

「ゴッホ」か「貞子」か…二人の微妙な変身⁉

2022-02-13
人は変わる。そんなことは誰でも知っている。けれども、想像以上に“大きく変わっていく”人がときどき居る。「占い」の仕事をしていると、そういう“大きく変わっていった”人に出逢うことも多い。そういえば、この人も一時期「占い」を仕事にしそうな雰囲気だった。小林麻耶氏のことだ。ネットニュースによれば自らのSNS上で妹の故・麻央氏に対して「プレゼントを購入した」として写真掲載している。ルイ・ヴィトンの45万円もするバッグだ。美しい花束とか、ケーキや果物とか、可愛らしいアクセサリーとか…なら解かるのだが。ちょっとヴィトンでは“霊界のお出掛け”に使えそうもないし…。ん⁉ もしかして彼女は麻央氏が「貞子」のように“行き来する存在”と思っているのか…。いろいろとあって、疲れているのなら静養された方が良い。もう一人、気になったのはセイン・カミュ氏のニュースだ。事実上、最近は表舞台から姿を消しているが、その変貌ぶりが話題となっているようだ。確かに近影を視ると別人である。現在は障害者のアート活動を支える仕事をメインにしているらしい。元々髭が濃い体質だったようで、そういう意味では髭が加わっただけなのかもしれないが、その姿が「ゴッホに似ている」と話題になっている。確かに、似ていると言われれば似ているようにも視える。最近は男性でも髭を生やすような人が増えて、別人かのような変身を遂げている人が多くなった。日本では大正時代の頃に“髭を生やす男性”が急増していた時代がある。それが昭和に入って急速に減っていった。一時的には“滅多にいない時代”もあった。それが、ここに来て再び流行し始めている。時代というのは判らないもので、現代は100年以上前に“憧れ”を抱くような心理が働きやすいのかもしれない。ところで、人は誰しもが真っすぐの道を進んでいくわけではない。紆余曲折を歩む中で、それぞれの「新たなる倖せ」を見つけ出していく。決して真っすぐだけが人生ではない。時には何年も“寄り道”をすることもある。道端で“居眠り”をしてしまうこともある。それでも「なに」がその人にとって一番かは、本人にも、誰にもわからない。

眼のない「3人の人物」に警備員が「眼」を⁉

2022-02-12
私の暮らしている札幌中央区には地下道が多い。市民ギャラリーにも近い“その長い地下道”では側面部分を利用して「前衛的な美術展」が常時、入れ替えながら展示されている。大体1か月ごとくらいに作品を入れ替えているのだが、前衛的な美術展なので、一般的な観点から言えば“奇妙なもの”が展示されていることも多い。側面はガラス戸の空間領域になっているので、単なる絵画だけでなく立体感のあるものを展示できる。時には、まるで幼児の落書きに近い印象のアートなどもある。そういう展示物の傍を歩きながら、たまにふっとそれらの作品に“手を入れたい衝動”に駆られることがある。“手を入れたい”といっても“盗み出す”という意味ではない。その作品の一部に自分が“書き加えて”、もう少し魅力的な作品に仕上げてやりたい衝動に駆られるのだ。もちろん“前衛的な作品”であるから、一般的にいう「きれい」とか「上手い」とか「完成されたもの」を求めていないことは知っている。それぞれの作品には、作者なりの意図があって“そういう状態”に仕上げてあるのに違いない。けれども、なんとなく前衛作品というのは、抽象美術というのは「もう少し、ここをこうすれば…」的な気持ちを抱かせるから不思議だ。私と同じような意識があったのかどうか、知らない。2月7日に、ロシアのエカテリンブルク美術館に展示してあった抽象的な人物絵画「3人の人物」に対し“眼を入れた疑い”で、その美術館が依頼していた民間警備員が逮捕された。謂わば、本来ならそういう「器物損壊」を防ぐ立場にある警備員が、展示物である抽象絵画の“眼のない人物”の「眼」をボールペンを使って書き入れてしまったのだ。問題の作品はモスクワのトレチャコフ美術館から貸し出されていたもので、1億円以上の保険が掛けられていた。したがって、本来の美術館に戻された12月に発覚し、捜査の結果、警備員の仕業であることが発覚したのだ。既に修復されていて、実質被害額は39万円となったらしい。実は3人の人物なのに、1人だけは“眼が入れられず、眼のないままだった”ことが発覚を早めた。もし、ボールペンではなく、もう少し上手に“3人の眼”を入れていれば、案外そのまま元のところに展示されていたかもしれないのだ。そうすれば「願い」叶って、両眼が開く“ダルマの役割”を果たしたに違いない。

アメリカは「レコード」が「CD」を逆転した‼

2022-02-11
なかなか興味深い話だ。近年じわじわと“懐かしのレコード盤”が見直され売れ始めている…というニュースは以前から伝わっていた。ところが昨年とうとうアメリカでは、レコード販売がCD販売より“上回る”自体が起こっていたのだ。つまりレコードが4170万枚、CDが4060万枚という驚くべき数字だ。時代は変わった。或る意味では“逆戻り”している。だが、そうとばかりも言えない。10代から20代の若い世代が多く買い求めているからだ。奇妙なことに30代の年齢層はレコードを買わない。その前後の年代がレコードを買っている。もちろん、40代後半~50代半ばの年代では“なつかしさ”が買い求めに来るいちばんの理由だ。自分の“青春”を取り戻せるような感覚がレコードの音楽にはあるらしい。一方、10代~20代の若者たちの場合には“レトロな印象”に新鮮さを感じて…が一番の理由のようだ。それに加えて“音質の良さ”も正統な“音楽好き”には好まれる理由らしい。もっともレコードを聴くためには、それなりの場所や装置が必要でCDほど手軽ではない。途中を飛ばして聴くということも難しい。或る意味ではCDよりも、いろいろと不便なのだ。それでも、デジタルワークで疲れた心を癒すものは、CD曲ではなくレコード曲だというのだ。レコード専門店も続々とオープンしているらしい。私はふと何十年も前の記憶を呼び戻す。その頃、私はまだ20代だったが、将来的にはレコードというものが無くなって、すべては小さなCDに変わっていく…という記事を読んだ。そして、それを友人に告げたのだが、彼は“怪訝な眼”で私を見ていた。「そんなの信じられないよ」という顔だった。私は「いや、必ずそうなる」という言葉をなぜか飲み込んだ。あれから、もう何十年も経つ。そうして実際に一度は“レコード”がこの世から消えたように見えた。けれども、こういう形で、再び“復活する”と誰が予見できただろう。結局、人間というのは「便利になれば良い」というのは“幻想”であったことに気付きつつある。いったん、便利になって、それから“後戻りした”ものも意外なほど多い。もしかしたら「レトロ」と感じるモノや時代こそ、何十年か先の最先端かもしれないのだ。

「女児」を「男児」に変える“イスラム呪術”⁉

2022-02-10
日本にも時折「妖しい呪術」を行う人たちがいる。有り得ないようなことを“実現させる⁉”呪術は、その信仰者にとって魅力的であることは間違いがない。ただ呪術には、ときどき“危険なもの”も含まれている。イスラム社会では「スーフィー」と呼ばれる“神秘主義思想”が伝承されている地域がある。パキスタンは圧倒的にイスラム教徒の多い国の一つだ。その北部のペシャワルの警察が必死で追っているのが、妊婦の額に5㎝の釘を打ち込んだ信仰呪術師だ。もちろん、釘を打ち込まれた妊婦は、医師に釘を抜いてもらった後、忽然と病院から消えた。信仰呪術師に呪術を依頼したのは自分の方だからだ。彼女は額に釘を打ち込まれる時、お腹の中の女児が男児に“変わっていく”なら、多少の痛みには耐えるつもりだった。けれども、5㎝の釘は想像以上に痛かった。耐えられなくなって、自分で釘を抜こうともがいたが、どうしても抜けなかった。だからやむなく病院を訪れたのだ。医師に詰問され、信仰呪術師に“釘を打ち込む呪術”を教えられた…と告白したが、呪術師が罪に問われては大変なので「自分で打ち込んだ」と言い張った。だが、どうみても呪術師が打ち込んだのは明らかだった。5㎝の釘は、幸い脳の手前で止まっていたので助かったが、そうでなければ一大事になっていた。もちろん「呪術だから…」で済む話ではない。妊婦はこれまでに3人の女児を出産している。今度は、どうしても男児が欲しかったのだ。迷信が信じられる世界では“息子の出産”は経済的な繁栄をもたらす。だから、どうしても男児が欲しかったのだ。実際、妊婦は女児が3人もいるせいで、今日までずっと働き詰めだった。呪術師の腕が良いことは密かに有名だった。妊娠初期の段階なら“女児”から“男児”に変えられる…と信仰呪術師は重く肯いた。だから大金をはたいて依頼したのだ。もし呪術師が摑まれば、自分だって罪に問われてしまう。だから、偽名を使い、住所もでたらめだ。釘を抜いてしまったから、もはや女児は女児のままの出産となる。どうにかして、女児を男児に変える方法はないものか、額の痛みなどそっちのけで、病院から逃亡した妊婦は性懲りもなく、いまも“次の方法”を考えている。

空海が造った「獅子8頭の大日如来」が蘇る⁉

2022-02-09
未知の人々から資金を募るクラウドファンディングが静かな拡がりを見せている。香川県高松市の「讃岐国分寺」が行っているのは「弘法大師・空海の定義する大日如来像の再現プロジェクト」に対しての資金調達だ。来年は空海が誕生して1250年目の節目に当たる。それを記念して、四国の“霊場80番札所”でもある讃岐国分寺では「令和の大日如来」を完成させようとしているのだ。十年ほど前から準備を始めていて、現代木彫作家として著名な大森暁生氏に依頼し、実質的には国分寺の大塚純司住職と大森暁生氏の二人が“空海の大日如来”を再現すべく話し合いを重ねながら彫像に取り組んでいる。既に消失しているが、空海が京都の東寺に造った大日如来像には、その座像下に8頭の獅子が置かれて八方位を守護する明王を表し、その光背部分には37体の小さな菩薩像が彩られていた……と伝承されている。つまり一般的に知られる「大日如来像」とはかなり違って、華やかで重厚感のある“絢爛豪華な如来”の姿なのだ。1200年前の空海が“質素な座禅姿の仏様”ではなく、現代にも通じる豪華絢爛な仏様の姿を「大日如来」と定義していた点が興味深い。元々空海は密教の僧であるので、一般的な仏教とは“考え方”が異なる。一般的な仏教では死後世界に“極楽浄土”を求めても、現世においては「物欲を棄てよ」と教えるのだが、密教の教えはそうではない。「極楽浄土を現世に造る」というのが根本的な“密教の考え方”なのだ。謂ってみれば、一般的仏教(顕教)が現世は「修行の場」として放棄してしまうのに対し、密教では密教僧そのものが苦行の末“超能力者”に変身をして、現世における直接的な救済者になろうとする。その代表的な人物が弘法大師・空海だった。その空海に倣って“現世利益”をもたらすべく「令和の大日如来像」を国分寺住職と現代の木彫第一人者が“一体化”して作り上げようとしている。既に九割方出来上がっている“生きているがごとき仏像”は、もしかしたら空海自身も手を貸しながら“魂”が入れられ、来年出来上がるはずの新たな御堂の中に鎮座するとき、日本列島に何をもたらしてくれるのだろうか。

十代半ばの「頂点」は、二十代半ばで「試練」

2022-02-08
スキー女子ジャンプの高梨沙羅選手が「スーツ違反」で失格となり、その後も実力を発揮できないまま競技を終えた。今大会は最初から本来の実力を発揮できていない。彼女が世間の注目を浴びたのは、まだ中学生の15歳の時である。世界のひのき舞台であるW杯で初優勝したからだ。無心にジャンプしていたら、世界の頂点に立ったのだ。あれから、もう十年も経っている。アスリートや芸術家には、彼女と同じように十代半ばから“天才的才能”を発揮する人たちが多い。時には十代前半から活躍する人たちもいる。もちろん多くの場合、幼い頃から“その分野”に打ち込んでいて、いつの間にか“抜きん出ていた人達”だ。「天才」という言葉は、そういう人達に向けられる。彼ら、彼女らの多くは、だから“過保護”ともいえる環境や待遇を与えられる。メンタル面に弱点があるのは、或る意味で当然なのだ。けれども、世間というのは“十代半ば”と“二十代半ば”とでは微妙に、その評価が変わってくる。つまり、好結果や高得点を出して当たり前、出せなければ時にバッシングを浴びる。ここが「天才」の辛いところだ。世間が勝手に「天才」と認めた者は、いつまでも「天才」で居なければならない。あとから駆け上がって来る後輩たちに“追い抜かれてしまう”ことは許されない。それは「努力を怠っている」からとみなされてしまう。十代半ばで、ただ楽しく無心で、なんのプレッシャーも与えられずに競技出来ていた頃とは何かが違う。いつの間にか自分の周りで“巨額の金”が動いていることを、大人になって知る。そうすると、ただ単に“楽しく競技出来ていた”頃とは、あらゆるものが違って見える。思い通りに“動けた身体”が、年齢のせいなのか、気分のせいなのか動かなくなっている。それでも勝つためには、ひたすら練習するしかない。昔は、そんなに練習などしなくても「勝てる」という自信は、今はない。何かが狂い始めていく。食事も喉を通らないから、痩せてしまった。「スーツ違反」となったのは、そのせいなのだ。試練の中で「天才少女」はいつの間にか「天才」も「少女」も、失ってしまっていた……

「春なのに」と歌い「全面運休ですか」と呟く

2022-02-07
今日は2月7日だ。2月4日の「立春」から三日経っている。よく「暦の上では立春ですが…」というような表現が使われる。まるで“24節気”はおかしいとでも言いたげな表現だ。とんでもない。24節気の区分は正しい。「立春」は春の始まりなのだ。われわれはどうしても“季節”を「気温」で感じようとする性質を持っている。けれども、季節は「気温で区切るものだ」などと誰も言っていない。勝手にそう思い込んでいるだけだ。季節は、気温によって区切られた表記ではなく「光の多寡」によって区切られたものなのだ。したがって“光の量”で観てみれば、ちゃんと2月4日の「立春」には“春の開始に相応しい光の量”がもたらされており、しかも、その量は毎年“一定”である。5月5日の「立夏」には“夏の開始に相応しい光の量”となり、8月7日の「立秋」には“秋の開始に相応しい光の量”となり、11月7日の「立冬」には“冬の開始に相応しい光の量”へと変わっていく。つまり、すこぶる科学的で均等な“四季の区分法”なのである。これを、もしも「気温」によって区切ろうとしたなら、毎年“季節が変動していく”ことになってしまう。その年によって「春」が短くなるとか「夏」が長くなるとかするだろう。それでは暮らしの指標にならない。ということで、24節気としては「春なのに」実際の“暮し”の上では、まだまだ春の実感がない。札幌では何十年ぶりといった感じの“大雪”となっている。北海道の中では、札幌は比較的雪の少ない地域かもしれないが、それでも真冬には「雪まつり」が出来るほどの雪が降る。私の育った室蘭など、北国とは思えないほど雪が少なかった。一つには強風によって、降り積もるはずの雪が空中を舞い、札幌のように“しんしんと降り積もる光景”が見られないのだ。やはり、雪は音もなくしんしんと降り積もって、窓から見える景色を“真っ白に変える”のが好い。まるで夜中に“魔法使い”がやって来たように、街全体を白く“包み隠してしまう”のが好い。もっとも、現実にはそうなるとJRなど札幌発着が終日「全面運休」となる。雪に埋もれるのは、図柄としてはなかなかにロマンチックで良いのだが、除雪が追い付かなくて街全体の機能がストップしてしまう。神様はそうやって、われわれに「ロマンチックが好いかい、それとも活気ある街並みが好いかい」と訊ねるのだ。

現代には珍しい「破滅型」だが愛された作家

2022-02-06
人間にはさまざまな“生き方”がある。その“生き方”の基になっているのは「先天運」と呼ばれるものだ。いわば先天運が“生き方”を促す…と言ってもいい。その「先天運」として芥川賞作家だった西村賢太氏はかなり“異質の先天運”を与えられていた。年・月・日に「丁・丁・丁」と並ぶ。月支蔵干も「丁」だった。四柱推命では生れ日を「われ」と視るので、年月にも「われ・われ」が続き、悪く言えば“自分中心”、良く言えば“超個性派”の生き方になる。実際、彼は“私小説作家”で、自分の暮しや過去に起こっていた出来事しか描かなかった。物語を“創る作家”ではなく、あくまでも“自分のリアルな暮らし”を剝き出しにする作家だった。そういう小説を「私小説」と呼ぶが、近年は誰もが同じような暮らしぶりをする傾向があるので、純粋な私小説作家は少ない。つまらない小説になってしまうからだ。そういう意味では履歴的にも、破天荒な青年時代を過ごした西村氏には“私小説を書く”資格があった。ただ芥川賞作家だが、文章は必ずしも上手いとは言えなかった。どちらかというと、読みにくい文章とでもいうか、上手さはなかったが逆にそれがリアルな心情を伝えるのには効果的だった。だから彼には早くから固定ファンが居た。けれども“文学的表現”には欠けるから、芥川賞の候補にはなっても、なかなか受賞できなかった。そういう中で唯一、最初から彼を猛烈に支持したのが石原慎太郎氏だった。言ってみれば、石原氏からの支持を得て受賞にこぎつけることが出来たのだ。その恩師ともいうべき石原氏が亡くなってすぐ、また数日前には彼が勝手に“師匠”と慕う作家の藤澤清造氏の命日でもあった。はからずも運気は彼の生れ日「丁」と“干合”する年干「壬」の年、そして今月は「壬」の月、と重なる。運気的に干合すると、人は“自分ではないような自分”となる。“もう一人の自分”といっても良い。干合は“一体化”してしまうので、本来の自分が薄れていってしまうのだ。もちろん、彼自身はそんなことは知らなかったに違いない。もしかしたら、強引な石原氏に「お前も来いよ」と引っ張られただけなのかも……。

みんなリンクを離れれば良い友達同士なのに⁉

2022-02-05
いろいろと問題多き北京オリンピックの開催式が行われた。オリンピックは本来は「スポーツの祭典」だったはずだが、近年は“商売”と“政治”の道具に使用されている部分が、あまりにも多い。今回のオリンピックなどは、まさにその適例で中国の国営中央テレビは“台湾選手団”のことを「台湾」とは呼ばず「中国台北」という名称で呼んだ。そして中国の国内向けには、そのときだけずっと開会式入場を見守る“習近平国家主席の映像”を映し続けた。同じように習近平氏の映像を流し続けたのは「香港」選手団入場でも同じだった。そこまでして国家としての「台湾」や「香港」を認めていないのだった。だから、今回の聖火リレーの最終ランナーが問題となっているウイグル族出身の女子選手だったのも、或る種「中国に差別などはない」というパフォーマンスに視えてしまう。今回、台湾の女子1500mで出場するホアン・ユーテン選手は先日SNS上に練習動画を公開したのだが、それがのちに大問題となった。彼女は「中国」代表のウエアを着用して練習に挑んでいたからだ。その反響はすさまじいもので「もう台湾に戻ってこなくていい」というものまであった。批判を受けて彼女は謝罪したのだが、同時に「何年か前にドイツで一緒にトレーニングした中国代表の友人からプレゼントされたものを、たまたま着用していた」だけであったという趣旨の弁明をした。そして「みんなリンクを離れれば良い友達同士なのに…」と苦悶している。この言葉は非常に微妙で、彼女がもし何の意図も持たずに、たまたま着用してしまっただけであるのか、それとも何らかの意図を持って着用していたのかは、ほんとうのところ解からない。「台湾」の人々は通常われわれ日本人が考える以上に、この“国家問題”に対して大変に過敏である。彼女の場合、純粋に友人からプレゼントされたウエアを着用していただけなのかもしれない。そうだとすれば、彼女の言うことはもっともで“友情の証”を見せただけなのかもしれない。この出来事ひとつをとっても、もはやオリンピックは「参加すること」に意義ある祭典などではなくなってしまったのだ。 « Older Entries Newer Entries »