8月, 2022年
2022-08-19
「パンサーの尾形」と言えば、何事もクソ真面目に情熱を傾け暴走していくことで知られる。「ロンハー」のドッキリ企画で何度でも騙される“なくてはならない人物”というイメージが定着している。その尾形に何んとNHKが“新たな企画”を持ち込んだ。と言っても“ドッキリ”ではなく、れっきとした“教育番組”だ。近年のNHKは“教育番組”を単なる教育番組ではなく、或る種の“バラエティーのような教育番組”にしようと意欲的である。そういった番組の一つが夜11時からの『笑わない数学』だ。数学にまつわるさまざまな発見や理論を、学問的に解説するのではなく、一般の方達でも理解しやすいような角度から解説していく。どちらかというと“文系頭脳用に解いていく数学”とでも言おうか。そのMCとしてパンサーの尾形が大抜擢されたのだ。尾形自身が「ドッキリ企画ではないか」と思ったほどの“釣り合わない指名”だ。けれども、番組制作側としてはそれこそが狙いで、その部分からでも興味を持ってみてもらえば良い、という考えなのだ。そして今のところは、この企画が一応成功している。もちろん尾形氏がまともに数学を語れるはずもなく、最初から最後までカンペ頼りだが、それがもろに判るところが、かえって視聴者には好意的に受け止められているらしい。確かに、深夜枠の中で、数学番組を“まともな形”で制作しても観てもらえる可能性は極めて乏しい。そうであるなら、思い切って“数学に興味ない人達”を対象として“何となく理解できる⁉”風な形で観てもらう方が、適切なのかもしれない。近年の日本は教育においても、世界水準から後れを取り始めている。もちろん、さまざまな理由はあると思うが、その一つには「楽しく、興味深く、学べる」という“教え方”が確立されていないことも影響しているように思われる。子どもたちの多くが、ゲームに熱中するのは、単純に「ゲームが面白く、興味深く、作られている」からだ。興味深ければ、人はそこに引寄せられる。「もしかしたらドッキリではないのか」と視る側もどこかで“ドッキリ”を疑いながら観てしまうなら、大いなる成功と言えるかもしれない。
2022-08-18
杉田水脈氏が「総務大臣政務官」に就任したことで、改めて“多様性”の問題がぶり返している。彼女は就任会見で“それ”を問われて「多様性を否定したことはない」と発言。それに対してネット上では「嘘つき」という言葉が飛び交っている。確かに岸田内閣は「多様性が尊重される社会」を掲げていて、それに対して水田議員の過去の“発言”や“文章”は一見矛盾しているようにも思える。けれども、元々「多様性の尊重」という言葉は“性的な違い”だけを表す言葉ではない。彼女に批判的な意見の人たちの多くは、その部分のみに集中していて、その点がまず、私は怖い。さまざまな見掛け上の違い、考え方の違い、生き方の違い、それらを“受け入れる社会”を作り上げていこうということのはずだ。これを“性的な部分”だけに限定してしまうと、本来の趣旨からは外れてしまう。もし「多様性」というものに、その“考え方”“生き方”を加えて良いのであれば、過去における“水田氏の主張”もまた“一つの考え”“一つの生き方”として、それはそれで尊重されなければならない。そのうえで、それが時代に適ったものであるか、それが“我が国”に適ったものであるか、議論されなければならない。頭から「それはあり得ない」と否定することは、それはそれで“多様性”を認めていないことにつながる危険な考えだ。実は、この部分は「日本国」を考える時に、とても重要な部分で「日本」という国家は単一民族に近く、言語も統一されていて、あらゆる面で地域差も少ない。つまり“外国人の同化”という点から考えると、他の国に比べて“難しい国”のような印象を持つ。外見的なものでも、単一民族に近い日本人の外貌は比較的似ているので、それ以外の人種や民族の“外貌”に対して“違和感”を生じやすい。したがって「男」とか「女」とか言う以前の問題として「日本人」と「外国人」との間に“線を引きがち”である。先天的な障がい者に対してもそうである。もちろん、それは“差別”というよりも“区別”に近い考え方からである。同じような意味合いで「男」と「女」の間に“線を引こうとする”ことが、果たして“差別”にあたるのだろうか。「日本語」と「外国語」との間にも、日本人の多くは“同じようなもの”としての扱いが出来ない。だから、見掛け的に日本人でも、日本語が話せなければ“本能的な差別”をしてしまうケースが出て来る。宗教的なものでもそうで、日本では“一般的な神道”、或いは“一般的な仏教”以外の宗教の場合、その考え方や生き方を公的な場面で“すんなりと受け入れて”もらえないケースが多い。これらすべてを徐々に正していくことこそ岸田政権の掲げる「多様性の尊重」だと思うのだが、もう少し日本人全体が多様性を“違和感なく受け入れる教育”をしていかないと、国際社会から“取り残される”可能性もあることを考える時、ただ単に目立つ議員を責めれば良いような話では荷ような気が、私にはするのだ。
2022-08-17
ときどき作家やタレントなどが新聞や雑誌やラジオ・TVなどで「人生相談」のコーナーを持つ。その中には占い師として大変に参考になる考えや観方を述べる人もいれば、首をかしげるような回答をする人もいる。タレントの大久保佳代子氏が担当している“人生相談”の記事を読んだ。彼女の回答は歯切れがよくて大変に良い。どちらかと言えば十代、二十代前半くらいまでの女性たちからの“相談”に対して自分自身の過去と照らし合わせながら回答している。特に私が気に入ったのは《20代の数年間なんて後からいくらでも回収できる》とか《わたしの場合は良くも悪くも「何とかなるだろう」で突き進んだ》とか《夢にたどりつく道は一つだけではない》とか……頷くところが多かった。いまの若い方達は、総じて慎重である。良くも悪くも“無謀さ”がない。どうしてなのかと言えば「失敗したくないから…」なのだ。どうして、そんなに失敗を怖れるのだろう。大久保氏も語っているが、十代、二十代での“失敗”など、あとからどうにでもなる。それに、何度も失敗を経験していた方が人間としての“奥深さ”と“理解力”が身に付く。若い時に“挫折”や“失敗”を経験していない人は、総じて周りに対しての理解力に乏しい。それに“失敗”は何度もした方が良い。何度も失敗をしていると、多少の障害とか、妨害とか、困難とかがあっても、それで物事を簡単にあきらめてしまう、などと言うことがない。忍耐強く、打たれ強い人間になれる。「失敗は成功の基」というが、実際、失敗をせずに大成した人はいない。失敗をしない人は“そこそこの成功”は出来るが、“大きな成功”は出来ない。大きな成功の陰には“小さな失敗”が隠れているからだ。よく、何度も“同じ失敗”を繰り返す人がいるが、矛盾するようだが、それは愚かだからだ。失敗は何度しても良いのだが、“同じ失敗”は一度だけで卒業すべきなのだ。同じ失敗を繰り返す人は“失敗”から何も学んでいない。この“失敗”から「学んでいるかどうか」こそ、その後の人生の“優劣”を分ける決め手となる。「運」だけで人生が決まるのではない。
2022-08-16
「モンブラン」と言っても洋菓子のモンブランではない。西欧最高峰として標高4800メートルの高さを誇るモンブランの方だ。そのモンブランに関わる人たちの顔色が、いま一つパッとしない。どうしてかというと今年の場合、早くからの熱波と猛暑で山全体の地盤がゆるくなり、山頂部の氷が溶けだしているからだ。したがって“登山ルート”は危険がいっぱいとなって、だれも登頂したがらないのだ。その頂上を目指す人は例年の10分の1以下になっていて、プロなどベテランの登山家以外は“登ることを見送る”自主規制が掛かっている。それはそうだろう。ここは普段であっても、帰ってくることを保障出来ない山なのだ。氷が溶けだしたのでは危なくて仕方がない。実は途中の山小屋までであっても、必ずしも「安全である」とは言い難い。地盤が緩み、氷が溶けだしたことで、山頂付近から“巨大な石の塊”がゴロゴロと落ちてくる。深夜になっても気温が6度に達しているのだから、溶け出すのは当然だった。スイスは街中における名所や観光遺跡などは少ないが、自慢の山々があることでこれまで莫大な観光収入を得てきている。アニメに「アルプスの少女ハイジ」というのがあったが、実際、高原列車からの穏やかな草原や湖などの風景は優美で“絵になる部分”が多い。私のように、普段はそれほど“自然世界”など求めていないものであっても、ああいう場所へ行くと“アルプスの少女”的な女性に惹かれたりする。地球温暖化の影響は皮肉なことに“地球のてっぺん”に近い人々と、逆に北極海の海沿いで地盤の低い街に暮らす人々と、その両方の人たちをじわじわと追い詰めている。考えてみれば、そういう地球上の環境的な変化は今に始まったことではない。「恐竜の時代」から“それ”はあって、我らが生きている「地球号」は我々だけの乗り物ではない。われわれ人類は地球環境の変化や時代に合わせながら、何とか生き延びて来た。古代中国の王朝家に代々伝わった「風水思想」は、自然環境と向き合って学んだ古代の人々の知恵の遺産である。その自然環境に“調和しながら生きる”ことの大切さを説いた“4000年前の人々”の古くて新しいメッセージなのだ。
2022-08-15
エジプトのギザにあるコプト教会で、ミサに出席した人たちが火災に遭い40人以上が亡くなった。エジプトと言えば現在は“イスラムの国”で、国民の9割がイスラム教徒である。いまから15年ほど前、ギザのホテルに泊まった時、夜明け前から聴こえてきたのはコーランだった。もちろん、コーランというのはイスラム教徒の礼拝合唱で、或る種の呪文のようにもわれわれには聴こえる。それが外から流れて来るのだが、拡声器を使ってボリュームを上げているために、どんなに高級なホテル内に居ようと目覚めてしまう。毎日こんなものを聴いていたなら、嫌でも「神は偉大なり」と言いそうになる。だから、国民の9割というのだが、実際には10割なのではないか、と秘かに想っていた。どのモスクも昼間などあふれんばかりに人だかりがあった。けれども、やっぱり、そうではなかったらしい。今回ギザで火災に遭ったのはキリスト教の分派である「コプト教」の教会だったからだ。コプト教というのは日本ではあまり知られていないが、古代エジプト時代から存在した“エジプト式のキリスト教”なのだ。正確に言えば“やや変則的なキリスト教”とでも言おうか。通常のキリスト教では「イエス」を“神の子”として崇めるのだが、コプト教の場合には“その母であるマリア”を何よりも尊ぶ。その点で共通しているのが、日本の長崎に花開いた“隠れキリシタン”である。彼らもキリスト教徒ではあったが信仰していたのは“マリア様”の方だった。そこで彼らは“仏教の慈母観音像”を「聖母マリア像」に見立てて拝んでいた。実はコプト教徒も名称としては“聖母マリア像”だが、ほんとうに拝んでいるのは古代エジプトで“聖母”として信仰を集めていた“ホルスの母イシスの像”だった。古代エジプト人たちから「イシス」を奪うことなど出来るわけがなく、聖マルコは“折衷案”的な意識で「聖母マリア」のキリスト教を布教したのだ。つまり、古代エジプトでも、鎖国時代の日本でも、“聖母”というのはどの民族にも共通して生きていて、だから信仰対象となる。慈母観音は“遠くから見守るだけの観音”だが、より積極的に“民を抱いてくれる聖母”こそ、虐げられた人々の信仰対象となるのだ。
2022-08-14
かつては日本の社会をリードしていた企業のいくつかが、ここに来て窮地に陥っている。その一つが「楽天」という企業グループだ。モバイル契約者の大量流出が止まらないのだ。本来なら、もっと歓迎を受けるはずだった「0円プラン」が腰砕けし、それによって契約していた人達の流出が止まらなくなっている。もちろん「0プラン」なのだから、最初から“赤字覚悟”で開始しているのだが、その“0円後も継続してくれる”ことで何とか経営が成り立つ。ところが、0円が切れると同時に解約が相次ぐのでは採算が成り立たない。その結果、いまや楽天グループ全体での借入総額、つまり借金は2兆5000億円にも達している。もちろん、この数字は楽天が目標としているソフトバンクグループに比べれば、まだまだ少ない。とはいうものの今や完全に“投資会社”と化しているソフトバンクグループとは単純に比較できない。楽天には“大化けするかもしれないユニコーン”はないのだ。そこで、どうするのかというと、楽天を率いる三木谷氏は「楽天銀行」と「楽天証券」の上場を決めた。それによって当面に資金の確保を得ようとしている。もっとも楽天自体の先行きが不透明で、その本家の株価も昨年に比べると半額ほどにまで急落している。市場で「楽天銀行」が高評価を得られるかには疑問符が付く。「0円プラン」というのは、携帯電話だけでなくさまざまな分野で行われてきた手法で、いまとなっては新鮮味がない。というか、いまや“時代遅れ”的な印象さえある。ここ1~2年、世界的にインフレが忍び寄り始めている。日本は昨年まで抑えられていたが、エネルギーや原料費などの高騰に、もはや抑えきれなくなって“一斉値上げ”の様相すら見受けられる。私が、かつてここで予見した通りの展開なのだ。世の中がインフレに向かう時代には「0円プラン」は印象的にもマイナスで“後れを取った”企業イメージとなる。「景気」とは、文字通り“気分”が関係しているので、経済の実態とは必ずしも同一ではない。これからの時代は“他よりも一歩先んじて値上げする企業”の方が、時代をリードする企業として注目を浴びるようになっていくのだ。
2022-08-13
今月9日、アメリカのバイデン大統領は地方のイベントに出席していた。そこにはシューマー上院総務も出席していて、彼が他の出席者と次々握手を交わした。もちろん、最初に大統領と握手し、それから他の出席者たちとだ。ところが、何を勘違いしたのか、或いは忘れてしまったのか、他の出席者たちと握手しだした時、バイデン氏はもう一度“握手の体勢”をとって、手を差し出していたのだ。もちろん、最初に握手しているので、二度目はなかった。だからバイデン氏の手は“奇妙な状態”のままだった。実は現在79歳のバイデン氏には以前から“認知症疑惑”がある。昨年6月のG7サミットの場、彼は相手に不快感を与えるような“失言”や“言い間違い”をしばしば行っていた、とされている。もっとも、これは現代がちょっとした発言でも「パワハラだ」「セクハラだ」「モラハラだ」と騒ぎ立て、公的な言動に対して厳しく“大目に見ない風潮”が作用しているのかもしれない。ロシアのウクライナ侵攻前に行われたインタビューで、プーチン大統領に対して「人殺しだと思うか」という記者の問いかけに対し「そう思う」と返している。このあまりに直接的な反応に対しては、プーチン大統領自身がこの発言のことを問われて「お大事に、彼の健康を願う」と絶妙の“返し”を入れている。こういう“返し”を日本の政治家たちも見習ってほしいものだ。どうも日本の政治家からは“ユーモアを含めた、或いは皮肉を込めた余裕の発言”というものを聴いたためしがない。まあ、それだけ日本人は真面目なのかもしれないが、真面目だけで外交関連の物事は進展しない。もっとも、認知症的言動に関しては、私も人のことを言えるような筋合いはなく、きわめて“危うい”状態にある。とにかく“知っている名称”が出て来ない。若い頃は誰よりも記憶力には自信があったのだが、いまは誰よりも記憶力には自信がない。どうしてそんなことを忘れるのだろうか、というような名称を忘れる。人物の名前、物品の名前、日時の記憶……いちばん想い出せないのは過去の記憶で、体験していること、行っている場所、何度も逢っている人、自分が“書いていた文章”の記憶さえ、真っ白という場合が少なくない。「こんなこと書いたっけ」と思いながら、自分の書いた文章を読み直す。そうして、まるで初めて教えられたかのように「へぇー、そうなんだ」と納得したりする。過去の自分が、もはやどこかに消えている。わたしは誰なんだ⁉
2022-08-12
いつも思うのだが、ものの言い方に“配慮”を欠く人は「敵」を作りやすい。その典型ともいえるのが「ホリエモン」こと堀江貴文氏と「ひろゆき」こと西村博之氏だ。この二人は途中まで“意気投合”していたように視えたのだが、双方とも個性が強く、批判する時には“容赦しない”のが特徴なので、いったんぶつかると、もう戻りようがない。ただ今回はちょっとだけ違っていて、実は堀江貴文氏の相手は西村博之氏ではなくて“その妻ーゆか氏”となっている。どういうことかというと、妻のゆか氏が『だんな様はひろゆき』という夫の日常を妻が赤裸々に描く“脱力系4コマ漫画”本を発売し、それに対して堀江氏が「キモイ本」と評したことに始まる。そう評されたことがお気に召さなかったらしく、ひろゆき妻はSNS上で猛然と抗議する。その抗議に対しても、堀江氏は「(いままで)いろんな人たちを小馬鹿にして金稼いで来たんだろ」と容赦がない。この“やり取り”そこだけ切り取ると、堀江氏の方に問題がありそうな気がするが、実は伏線があって、以前、堀江氏がファッションブランドを立ち上げた時に“大いに貶されていた”らしい。つまりは、だから「オアイコでしょ」というのが彼の言い分なのだ。近年、この「ホリエモン」と「ひろゆき」両氏の発言は、さまざまな形でメディアに取り上げられる。言ってみれば双方とも“影響力のある発言”となっている。そうであれば両者とも、もう少し相手や世間に配慮を持った発言をしても良さそうなものなのに、双方ともに“それ”がない。確かに、ひろゆき氏はときどき相手を“小馬鹿にしたような発言”をしているし、堀江氏の方も“相手への配慮はみじんもない”ような言い方をする。つまり、私に言わせれば、双方とも“批評眼の鋭さ”は持っているのだが、少々“人徳に欠ける”のが難点なのだ。まあ、多くの日本人が“ハッキリものを言わなすぎる”ので、それに比べれば、国際人として上等ともいえるのだが……。ただ、同じことを言うのでも“敵を増やさない言い方”というのはあるもので、それはもしかすると、もう少し年齢が行ってから身に付くのかもしれないのだが……。
2022-08-11
私が最初に中国本土を訪れたのは20年以上前だが、その頃の中国はまだまだ“発展途上国”の印象が強かった。地方都市では、まだ“人民服”を着て歩いている人物をときどき見かけた。正直、今日のような経済的な発展は予測できなかった。皮肉なことだが、発展途上にあった中国が“お手本とした国”は、アメリカと日本であった。だから多数の優秀な留学生がアメリカや日本にやって来ていたのだ。そして“欧米式”の知識や技術だけでなく“暮らし方”や“ビジネスの在り方”まで身に着けていった。そういう人達が牛耳ているのが今の中国社会なのだ。半導体などの科学論文の数が、完全にアメリカよりも中国が上回ったと新聞が伝えている。もはや世界一の“科学大国”が「アメリカ」から「中国」に変わったと認めざるを得ない。この論文数の数が重要なのは、やがてそれに相当するビジネスが展開されていくことが確実だからで、今すぐとはならないが20年後、25年後になれば、間違いなく中国は科学技術の上で、世界をリードする国に変わって行くだろう。つまり、これまでのアメリカが果たしていたような役割を中国が担うのだ。昔、日本では、中国は「日本」や「アメリカ」を真似てばかり、偽造品ばかり、まがい物ばかりじゃないか、と嗤っていた。確かに「世界の製造工場」と言われ、さまざまな分野の製品の“下請け作業”を低賃金で行っていた時代もあった。けれども徐々に時代は変化していった。いまや、その役割を担っているのは中国ではない。その時代的な変化を日本人の何割が気付いていただろうか。いつの間にか“遅れ”を取っていたのは、中国でも台湾でも韓国でもなく、我が日本であった。いまの日本は、若い経営者や起業家が育っていない。新しい特許や技術も生まれていない。どうしてなのかというと、国家戦略として、未来の日本をリードしていく若者を育てようという“経済的な余裕”が無くなってしまっているからだ。そういう分野に“金”を投じれないのだ。占いの分野でも、いまの日本ではハッキリとした方向性を打ち出せている人物がいない。例えば中国では医療分野と占術分野が結び付いて“慢性病”や“遺伝的な持病”を早期に発見するとか、治療法に東洋五行思想を取り入れて、その改善傾向を手相の変化で読み取っていくなど、新しい試みがさまざまな研究者が行っている。必ずしも、国家的な承認を得ているわけではないが、少なくとも日本のような“わけのわからない占い”からは脱出しようという動きが、マスコミも含めて動き出そうとしている……
2022-08-10
世の中の“自然現象”には、それなりの理由がある。例えば一週間ほど前から、南米のチリ北部コピアポには突如、地上に“丸い穴”が出現した。そして、この丸い穴は見る見るうちに大きくなり、現在の直径は50メートル以上、その深さは200メートルを超える。一週間ほどで“巨大な穴”と化したのだ。原因は不明だが、その近くには銅山があり、そこでの掘削作業が関係しているとの見方が有力だ。その銅山では万一のことも考え、現在はすべての作業をストップしている。一方、日本では北海道の長万部町を知っているだろうか。おそらく知らない人が多いだろう。函館と札幌の中間付近に存在する“小さな街”だ。その街外れにあるのが飯生神社(いいなり神社)だ。この神社の敷地内から、突如、温泉水が吹き上げ始めた。地上20~30メートルほどの高さに連続して垂直に吹き上げ続けている。奇しくも、この神社は今日から「祭り」が始まる。その開始を告げるかのような温泉水の吹上現象だ。実は、この地域にはもともと温泉が存在したのか「長万部温泉入り口」というバス停もある。ただ今のところ温泉にしては温度が低く、神社の敷地内ということもあって、だれも手出しが出来ない。この辺りは、元々「温泉が出るはずだ」という推測があって、60年ほど前に掘削作業が行われていた。ところが「やっぱり出そうもない」ということで中止のままとなっていた。したがって、遅すぎるかもしれないが、神様はその人達の夢を叶えてあげたという話だ。この地域は位置的に登別温泉や支笏湖温泉にも近く、そういう意味では温泉が噴き出したからと言って、驚くようなことでもない。「神のみぞ知る」自然界のさまざまな現象による“お言葉”は、ここでは“温泉の噴き出し”が「神社祭り」の前日に起こったことで祝福を得たとみるべきかもしれない。もっとも、こういった“神の言葉”は大衆にはスムーズに伝わりにくい。どう捉えて、どう活用するのかは、地元民に任せられている。使い方しだいでは“地域の宣伝や活性化”として大いに期待できる。文字通り、宝を掘り当てるような“温泉掘削”や“鉱石の発掘”だが、何らかの現象を見せることで「もの言わぬ神」は、何かを伝えようとしているのだ。
2022-08-09
最近、この種の“報道”が多くなった。元夫婦が“我が児”を奪い合うような感じのニュース記事のことだ。格闘家の才賀紀左衛門氏とタレントのあびる優氏が、一方は週刊文春誌上で「娘の親権は自分にある」と主張し、もう一方は女性セブン誌上で「逢いたい時だけ逢うなんて都合が良すぎる」と反論している。似たような騒動は、卓球の福原愛氏のところもそうだった。元夫婦が子供のことで衝突するのは互いに“所有物意識”があるからだ。愛情だけの問題なら、実質的にどちらが育てていようが、子供が望むのなら「逢わせてあげよう」と思うのが、本来の姿であるよう私には思われる。才賀氏のところは、離婚後に男性側の才賀氏の方が“子育て”をしているので、より“自分の子”としての意識が強まっているのであろう。たまに逢って“母親面”をされるのが気に入らないのかもしれない。福原愛氏のところも、或る意味では同様で、単身日本に戻った母親とは何となく「逢わせたくない」気持ちが強いのかもしれない。正直、私は最初の妻との間に出来た娘を“置いて出ている”ので、この問題に関しては何も言う資格がない。途中から“子育て”を放棄したので、偉そうなことは言えないのだ。ただ子供というのは、途中から“片親”になった場合、その後その子の“愛情観”や“生き方”に微妙な変化を与えるのは間違いがない。片親で育てていくことでの意識が強すぎると、どうしても“我が児”を自らの「所有物」として意識するようなことになりやすい。それが逆に反発を招くと、子供の制御が利かないものになる。良く作用すれば早くから自立の意識が目覚め、生活力の旺盛な子になる。悪く作用すれば“親の言うことを聴かない子”となって、親にも学校にも反発しやすくなり、みずから“流離の人生”を求めるようになる。或いは“完全引き籠り型”となって、世の中への歩みを止めてしまおうとする。もっとも、どの場合でも共通しているのは“自分の人生”を、親とは切り離して考えるようになることである。社会的な“成功”や“失敗”は、片親であることとは直接なんの関係もない。ましてや「運命」全体で考えるなら、片親で育つことが生きていくうえで“不利”に働くようなことは何一つない。むしろ早くから、自分の力ではどうすることも出来ない「運命」を意識することで、世の中の不条理を悟り、親子の関係性を意識する傾向が見受けられる。
2022-08-08
最近の日本は映画制作に巨費を投じれない。だから、もちろんバブル期のように「何十億円をかけて制作した映画」などと言うのは存在しなくなった。いま、これを行えるのはアメリカと中国以外にはない。そこで出て来た話が、120億円の製作費を投じたハリウッド映画の『バットガール』が撮影完了し、編集も最終段階まで来ていた段階での“制作・上映中止”というニュースだ。監督や主演俳優にも、何も知らされずに決定され、そして理由すらも明かされずに“幕引き”された。この映画を監督したエル・アルビ&ビラル・ファラーのコンビは、大きな仕事が終わってモロッコに滞在している中で“それ”を知った。「大変にショックを受けています。まだ信じられません」のコメントが、その「寝耳に水」感を表している。もちろん主演のレスリー・グレースにも“それ”は知らされたが、主演俳優らしく、7か月間を共にした撮影スタッフ全員に感謝の言葉を捧げている。内容が極端に悪かったとかとか言うことではない。それなのに理由すら告げられず、半年以上を掛けて、おそらくは数百人のクルーがいたであろう作品はボツとなり“永遠のお蔵入り”となった。その制作に関わった人々には、悔やんでも悔やみ切れないことだろう。映画のような巨費が投じられる芸術は、その作品に投資する出資者が居て初めて成立する。金のかかる芸術は一種の“投資”で元が取れる保証は全くない。日本でも、映画制作によって“借金を抱えた”芸能人は多い。現在は北野武監督作品が「お蔵入りか⁉」と騒がれている。もっとも、日本の最近の映画制作は“数千万円”で済ませることも多いと聞く。そのせいか“地味な作品”が多くなった。日常に密着した“地味な作品”には優秀な出来栄えのものもあるが、総じてドラマとしての華やかなストーリーには欠けていて、大ヒットにはつながらない。それでも“そこそこの収益”になれば、制作する側も、演じる側も“報われる作品”ということになる。今回のように、巨額の製作費をかけ半年以上にわたっての撮影をこなし、編集上でも最終段階まで来ていた作品がボツとなるのは“やりきれない”に違いない。せめてワーナーブラザースは、その理由だけでも監督や主演者に伝える義務があるのではないだろうか。
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