1月, 2024年

「残酷な神様」「力の弱っている神様」も居る

2024-01-19
年末年始になると“神様祈願”する人たちが多いが、実は「神様」と一口にいうが、実際には“それぞれに違っている”ということを知らない人たちが多い。もちろん、ここで言うのは“神社系の神様”についてだ。今回の「能登半島地震」で亡くなられた人たちの中には、その30分前に地元の神社に行って初詣を済ませていた人もいる。しかも、いつもの年よりも多い3000円のお賽銭を入れて「今年はお賽銭3000円も入れたから、何か良いことあるわい」と豪快に笑っていたのが、七尾市川尻町の立川康則氏の妻ゆき子さん(56歳)だった。それから30分も経たないうちに最初の地震がやって来たのだ。初詣の後、自宅に戻って、夫の方は玄関先に居て、妻の方は義母と一緒にTVを観ていた時だった。夫の方はすぐ玄関から飛び出したが、妻と母親の方は崩れ落ちてきた屋根の下、居間の中に居るはずだった。声をかけ、すぐ反応があったのは母親の方で、瓦礫から半身が視えていたので、すぐ引きずり出すことに成功した。ところが、妻ゆき子さんの反応がない。近所の人たちと崩れ落ちた屋根をどけて、その下に埋もれていた身体を引き出すまでに1時間ほど掛かった。ただ引き出してもまったく反応はなく、即死したように視えた。母親は動きが遅く、居間の中だったので空間があり、妻の方は飛び出そうと玄関近くまで来たので、屋根や柱の直撃を受けたと思われる。毎年、2日の日に娘や孫たちも集まって“賑やかな正月”を迎える。その前日だったことが、せめてもの“救い”となった。それにしても、どうして神様は奮発して3000円も入れた奥さんの方を助けなかったのだろうか。一緒に行って、少額しか入れなかった夫や義母は助けられた。神様というのは、人間と同じような反応を示すとは限らない。高額を入れたから“良いことを授ける”とは限らないのだ。いや、もしかすると彼女を犠牲にして、その娘や孫たちを助けた可能性もある。さらに、神様にも性格があるから、時に“残酷な神様”というのも居る。イスラムの神様など、犠牲となることを要求するような場合もある。さらに神様の中には“その力が衰えてきている神様”というものも居る。あまり言われていないが、荒廃しきった神社には“力の衰えた神様”しかいない。だから、どんなに由緒正しくても、その力はもはや衰えているので注意が必要だ。特に、烏や野生動物が神社内を牛耳っているような雰囲気のところに既に神様は居ない。居たとしても力が発揮できない。避けた方が良い神社なのだ。

「防災グッズ」は、本当に役立つのだろうか⁉

2024-01-18
今年は元旦に「能登半島地震」が起こったことで、にわかに“防災グッズ”と呼ばれるものに注目が集まっている。わたしは、あまりそういうものに関心がないので、実にさまざまなタイプの“防災グッズ”が存在していること自体に驚く。俗に「備えあれば憂いなし」ともいうが、確かに本当はさまざまなグッズを日頃から身近に置いておく方が良いに決まっている。そうは思うのだが、もう一人のわたしが、それらの購入に否定的なのだ。なぜなら一番の理由は「邪魔になる」からだ。いろいろと揃えるとけっこうがさばる。そんながさばるものを置いておく場所がない。物置や、玄関クロークや、クローゼットの隅や、押し入れの奥などに入れておくのが普通なのだろうが、よほど整理して置いておかないと、いざという時に取り出しにくい。大体、今回の地震だって、放送局のアナウンサーは何故か全員「とりあえず高いところに逃げてください」「なるべく重いものなど持たず逃げてください」と叫んでいた。実際、叫ばれなくても、人間の本能とでもいうか、大揺れの危機になったら「防災グッズはどこだったっけ⁉」などと言っていられない。だいいち、しまっておいたはずの場所が崩れ落ちてきたり、扉が開かなくなったり、重い物の奥にあったりして、なかなか取り出せないと思う。ほんとうの大地震なら、家そのものが崩壊するので、どんな防災グッズなど取り出す以前に“とりあえず身支度して”家を飛び出すだろう。消火器が良い例で、どんな家にも備わってはいるが、実際に火が出てしまったら、それを使おうとはほとんどの人は考えないと思う。まずは我が身優先で、部屋から、家から、飛び出すのが普通だ。大昔、わたしは何が原因だったか忘れたが、部屋の中が熱風で包まれたことがある。ストーブから灯油が溢れたせいだったか、とにかく石油ストーブが真っ赤になって文字通り危機一髪という状態となった。とにかくストーブが消えない。何かが異変を起こして「最強」の状態で燃え続けた。真冬だったが部屋の窓全部を開け放し、とにかく熱風を逃したかった。もしかしたら、壁に燃え移るかもしれないので、壁に水をかけ続けた。そうして約一時間、おそらく漏れていた石油が一応は燃え尽き、ストーブは正常に戻った。全身の力が抜け、へなへなとそこに倒れ込んだ。あの時、あとから考えると消火器を使えば良かったのかもしれないのだ。だが、まったくといって良いほど、それは思い浮かばなかった。もう119番に電話しようか、迷いながら必死に祈り続けていた。祈りが届いたのかどうかわからないが、あとから壁に掛けてあった“マリア像”的な飾り物だけが壁からもげ落ち粉々になっていた。

「ブーム」で“世に出る”と、その後が辛くなる

2024-01-17
この人の場合に“それ”が当てはまるのかどうか、ほんとうのところは解からない。ただ何かのブームが巻き起こると、それに付随してマスコミから注目を浴びる人たちというのが必ず出て来る。エスパー伊東氏は世の中の“超能力ブーム”に、やや乗り遅れたような形で出てきた人物のように思う。彼の得意技はみずからが持ってきたボストンバッグの中に、その全身を折りたたみながら入れていき、最終的に“顔だけ出ている形”とすることだった。だれもまねのできない芸ということで一世を風靡した。表現が適切かどうかわからないが「宴会芸」としては理想的ともいえる“ユーモラスな芸”だった。ただ、それにプラスアルファする“何か”があれば良かったのだが、それだけだったため、飽きられやすい。時代的にも、バブルが終わって“宴会が自粛される”風潮が目立ってきた。そうすると、だんだん“お声”が掛からなくなる。メインはそれで良いが、もう一つ何か“気の利いた芸”を持っていれば良かったのだが、彼には他に目新しいモノがなかった。その結果TVに出なくなると、需要が乏しくなってしまった。彼が受けたのは、あくまでも“超能力ブーム”や“超人ブーム”が一時期やって来ていたからだった。彼自身は“もっと小さく”を追求していたようだが、移ろいやすい世間は“そのこと”自体の興味は薄れ、多少、より小さくなっても“目新しいこと”とは見てくれなかった。往々にしてブームに乗って、あっという間に“世の中に出た”人たちは、忘れ去られるのも早い。晩年の彼は、関節や骨に異常が出て来てしまったようだ。おそらく年齢的に、若い頃と違って“柔軟性が失われて”来ていたのに、無理に身体を酷使したからに違いなかった。彼は「エスパー」と名乗ってはいたが、超能力者でも何でもなく、単なる努力家だったのだ。特異な“芸”や“能力”で、ある時を境に急に人気沸騰する人たちがいる。そういう人たちの中には、それなりに“生き残っていく”人もいれば、いつの間にか“消えて行く”人もいる。その違いは微妙で、能力的な違いなどではない。或る種「運」というものが作用して「世の中に出た」人たちには、その「運」に翻弄されて消えてしまうか、その「運」に縋って何とか生き延びていくか、二つに一つしかない。そして、その二つを分けるものは、最終的にその人物が“自分を客観視”出来ているかどうかなのだ。

「盛岡市」に続いて「山口市」で……次はどこ⁉

2024-01-16
どうも海外誌(紙)の“格付け”というか“順位”というか、メディアが取り上げる基準というものがよくわからない。ニューヨーク・タイムズと言えばアメリカを代表する報道機関だが、その「2024年に行くべき52カ所」の中の三番目に日本の「山口市」が入って俄然、注目を浴びている。日本人でさえも観光地としての「山口市」というのはあまり馴染みがない。パリなどと並んで“紹介すべき場所”なのか、いささか理解に苦しむ。ところが、実は昨年もニューヨーク・タイムズは「盛岡市」を二番目に持って来ていた……ということを知れば、なんとなく、その選び方に統一性があるような気がしてくる。どう考えたって、盛岡市も観光地として“強力に推す”ようなところには思えない。たぶん、この編集部には“そういう場所の発掘”に興味を持つマニアックな人物がいるに違いない。ただ「山口市」自体は、観光地としてこれまで“低評価過ぎた”きらいはある。世界的なメディアが、こうして取り上げていくことで、日本の“それほど知られていない地域”が世界的に脚光を浴びるのは良いことだ。もっとも事前に何の声掛けもなかったらしく、山口市自体は困惑している部分もある。国宝の五重塔は修復中で今年は見ることが出来ない。「2024年に行くべき……」と言って推薦するなら、その辺、ちゃんと調査してから推薦して欲しい。何しろ外国人に対しての“受け入れ態勢”が万全ではない。湯田温泉はあるが、その宿泊施設は限られている。もっとも、盛岡市を推薦したくらいだから、宿泊施設などは最初から意識していないのだろう。要するに、世界のどのメディアでもまだ“取り上げられていない場所”を紹介することに意義を見出しているに違いない。そうだとすれば、来年は“日本のどこ”が取り上げられるのか、それはなかなかに興味深い。きっと、われわれ日本人も「へえー、そこなの⁉」と思うような場所が入って来るに違いない。日本人は注目していないが、言われてみれば“それなりに見栄えがする場所”であるに違いない。そして、それを探し出している人物は、きっと今年も何度か日本を訪れ観光客の少ない地域をめぐって「ここなら、まだ誰も目を着けていないだろう」と一人悦に入りながら、その観光地で今年2~3泊していくのに違いない。

「太田光氏」はいつから「忖度芸人」になった

2024-01-15
松本人志氏による“性加害問題”が静かな広がりを見せる中「サンデージャポン」でMCを務める太田光氏が“この問題”に対して自らの見解を語った。その内容は、芸人らしさは微塵もなく、ごくありふれた“芸能評論家的な見解”で、何のひねりもなく、どこからも攻撃を受けることのないような“忖度満載”の言葉に終始した。最初に断っておくが、わたしは元々「爆笑問題」の“お笑い”をあまり評価していないが、MCとしての「爆笑問題」には“それなりの評価”を与えている。彼らが“それなりの地位”を勝ち取って、もう長い。だから、だんだん“尖ったところ”が減っていって“人間的に丸くなった”印象は誰もが感じる。そして、それ自体は、人間としては素晴らしいことだが「芸人」という観点から捉えると、少しも素晴らしくはない。彼らは元々“政治風刺”を利かせた漫才(⁉)で人気を得ていったコンビで、かなり激しい“政治批判”をネタとしていた。したがって、最初の頃は“冠番組”を持っても、その会話の中で、いつ太田氏が暴走しないか、視ている方がハラハラとしたものだ。そして、そのことが“売り”となって、いつの間にかいくつもの“冠番組”を持つようになった。けれども、さいきんの太田氏からはその“ハラハラドキドキ”は見ている側から消えている。もう“暴走する太田”は見られない。そのことが、わたしには残念なのだ。もちろん、その方が“安全・安心な爆笑問題”となってMC依頼は継続するだろう。ただなんども言うが、わたしにはちょっと寂しい。大体こういう“社会問題”を扱うような番組に“人気芸人”を組み込むことが必然化していることが、わたしには理解に苦しむ。コメンテーターとして“4~5人枠の一人くらい”に止めておくのが、TVの健全な在り方のように私には思える。その代わり、そこに登場する芸人は“思いっきり破天荒”であって欲しい。ディレクターの指示を待って“TV向けコメント”を話す声優になるのではなくて、あくまでも“芸人らしいハチャメチャ発言”を連発するような人物が良い。そして、世の中も、芸人に対して“常識で批評する”のではなく、芸人枠コメンテーターなら“許す寛容さ”で見守るのが良い。そういう感じに「バラエティー情報番組」が作られれば、もっと大らかで“寛容な社会”が形成されていくのではないだろうか。

「台湾」が「日本」と一体化する日が来るか⁉

2024-01-14
別に“勘違い”で言っているわけではない。「台湾」の人々は、どちらかというと「中国本土」よりも「日本国」の方に距離的にも近いし、考え方や暮らし方もやや近い。日頃、用いている漢字も、中国本土とは微妙に異なる。そして、いまだに“日本統治下”にあった頃の建物など、いろいろと遺っている。温泉施設なども、日本統治下の名残だし、親日感情も強い。かなりの長い間、台湾は日本などと同じく“欧米寄り”の政治や思想で暮らしてきた。或る意味では「香港」にも近いが、香港の場合には文字通り距離的に中国本土と近く、外部から圧力がかかると逃れようがない。その点、台湾は実質的な距離感があるので、香港に比べて簡単には吸収されにくい。ただ今回の選挙の結果を受けて、中国本土が“台湾吸収”を諦めるかというと、それは100%ない。時間をかけてでも“本土寄り”に変えていく作戦を取るだろう。ただ「香港」と時とはわけが違うのは、台湾にはアメリカが“睨みを利かせている”点にある。アメリカ本土にとっても、台湾は沖縄に近く、世界における防衛面からも“譲れない場所”であるのだ。もちろん日本にとっても、台湾が「中国」に属するのと「台湾」のままで居られるのとでは、自国防衛の観点からもまったく異なる。しかも、近年、日本と台湾とは“半導体の共存意識”においても近しい関係にある。今後の日本の経済発展を考える上からも「台湾」はいつまでも「台湾」のままであって欲しいというのが、日本政府の捉え方だろう。奇妙なことに、戦前、日本は台湾を統治下に置いていた。言ってみれば、いまの中国と同じようなことを行っていたのだ。一時的には“日本語教育”さえも行っていたのだから、いまの中国と“さして変わらない意識”でいたことは間違いがない。それなのに、現在でも「台湾」の人々は「日本」に対して、或いは日本人に対して嫌っていない。むしろ、他の国よりも友好的である。或る意味では“お世話になった国”のような感覚ですらある。そういう意味では、むしろ中国ではなく「自由の国・日本」と“一体化していく”方が、台湾の人々にとっては抵抗が少ないのではないだろうか。

「ココロ」は“揺れ動く”けど、誰も掴めない⁉

2024-01-13
ときどき“録画してある番組”のタイトルを観ながら、なんで録画したのかわからない時がある。要するに「この番組の何が視たかったのか」想い出せないのだ。何かが視たかったから録画したはずなのだが、それが何だったか、わからない。それで一応、観てみるのだが、それでも録画時の目的は解からない。いまTV番組のことを言ったが、それだけではない。本とか雑誌とかでも、そういうケースがよくある。たまに書棚に入っている本を探している時「どうしてこんな本を買ったのだろう」というような本に出くわす。その時は何かが読みたくて、或いは知りたくて購入したはずなのだが、いまになってみると本来わたしが読むような本ではない。だから書棚に入れておいても意味がない。昨年、引っ越しをした時に、もう読まないし、不必要だと思った本は多数棄てたのだが、不思議と“棄てられず残っている本”というのがある。必要なものでも、書棚に入りきらず捨ててしまった方が多数あったのに、なぜか“読まない本”なのに紛れ込んでいる。ただ、どうしてこの本を購入したのかは謎のままだ。自分が書いた本はどうなのかというと、実は、どうして“こういう本を書いたのか”いまとなっては解からない本というのがある。2月に発売予定となっているわたしの本が“それ”だ。実は、この本の中身は5年ほど前に書いたもので、潜在意識に関する本なのだが、いまになってみると、何故あの時こういう本を書こうとしたのか、判然としないのだ。ちょっとした事情から、すぐには書籍化されず、5年ほど経った今になって書籍化されたのだが、そういうこともあって正直その時の気持ちというのがハッキリと想い出せない。何らかの理由があって“占い以外の本”を書いたに違いないのだ。ただ、その“何らか”が何だったのかが今となっては不明なのだ。そして、わたしは大昔といっても18年くらい前だったような気がするが、バリ島に行ったとき、そこで地元の霊感占い師に占ってもらったことがある。その当時はいろいろな国に行っていたが、行くごと現地の占い師に“観てもらうこと”を楽しみの一つとしていた。その時も、そういう感覚で観てもらったので、特別、何かがあってということではなかったが、相手が何を占って欲しいかと尋ねたので「わたしはどういう本を書けばヒットできますか」と訊いてみた。そうしたら、その霊感師は「あなたは潜在意識の本を書けば有名になれます」と断言した。その時、というかいつでもそうだが、わたしは自分が“占い師”であることを告げてはいない。ただ、その時には“手相の本”を書くか“風水の本”を書くかで迷っていたのだ。ところが“潜在意識の本”と言われて正直戸惑った。そして「当たらないな」と思ったものだ。今になって、あの時の予言が当たって欲しいと、ずうずうしくも願っている。

人生を「2度生きる」時代が、やって来たか⁉

2024-01-12
つい最近、歌手の細川たかし氏が昨年6月に再婚入籍していたことが公表された。そこで、わたしは初めて彼が2018年に初婚の奥様に死別していたことを知った。そういう報道があったのかもしれないが、わたしの記憶には無かった。近年、著名人たちばかりではなく或る程度の高齢になってから、再婚していく人たちが多くなっている。もちろん初婚の場合もあるが、高齢になってから結婚する人には、初婚よりも再婚とか、再々婚とかの形で結婚していく人が多い。むかしは、或る程度の年齢になってしまうと、たとえ同居しても「結婚」という形は取らなかった人たちが多かったように思うが、近年は“正式入籍”をしているケースが多い。その一番の理由は、日本が“長寿化してきている”せいであるように思う。むかしなら余生はだれでも“子供と同居”か“高齢者施設の入居”が一般的だったが、現在は“単身暮らし”を続けてゆくか、又は“再婚に意欲的か”どちらかが多くなってきたような気がする。日本が長寿化していくのは良いことだが、同時に“経済が縮小し始めている”ことが不安材料を掻き立てる。むかしは年金によって“豊かな老後が送れる”と錯覚した時代もあったが、もはや“そういう時代”は過去のものとなった。そうであれば、長寿国の日本で経済や福祉が縮小しがちな日本で、豊かに暮らしていくためには「一つの人生」に「一つの結婚生活」を意識するのではなく、ひとつの人生を「2度生きる」覚悟が必要となってくる。つまり、健康なら定年後も“新たなカタチ”で働き、その代わりとでもいうか一般的な“初婚時代”を死別や離婚で終えても、その後の余生に“新たな仕事”と“新たな相手”を見つけて、生まれ変わったような「第二の人生」の出発を始める。そういう感覚を持つことが自然になってきたような気がする。だからこそ近年は60代や70代になってからの“再婚”や“再々婚”が増えてきているのではないだろうか。考えようによっては、人生を100年という風に捉えなおせば、50歳にして“ようやく折り返し地点”だということになる。そうであるなら、その後の人生に“それまでとは異なる新たな生命”を投じていこうとするのは、現代の生き方として当然のこととなっていくのかもしれない。

「日経平均3万9千円」桜満開の頃に手が届く⁉

2024-01-11
このところ再び「日経平均」に勢いがついてきた。最近の日本株の動きを見て居ると、上下運動を繰り返しながらエネルギーを溜め込み、本格上昇の時には一気に動く。そういう動き方で、ここまで来た。1月10日に日経平均は34441円の“終値”をつけた。1990年の“バブル後最高値”を二日連続で上回ったのだ。このところの傾向から予測すると、日本株は今後、一気に加速する。あれよあれよという間に3万6千円台までは到達するだろう。その辺りで多少上下運動に移るかもしれないが、再び、あまり時間をかけず3万9千円台まで一気に進むだろう…と私は見て居る。多くの識者たちの予想よりも早く“桜満開の頃”が、一つの目安になるような気がする。ただ、そのあとはいったん“小休止”となるかもしれない。日経平均は1989年に38915円の史上最高値を付けた。俗にいう「バブルの象徴」としての史上最高値だった。当時の日本株は日本人しか買っていなかった。外国人が約半分を購入しているいまとは違って、外国人は僅か3%しか購入していなかったのだ。実は、だからあの当時の日本株は一気に上昇したのだ。本来であれば、明らかに「買われすぎ」の状態となっても、日本人は買い続けていた。なぜなら「値上がりし続けたから…」だ。けれども、株価というものは一気に上がれば上がるほど、下がる時にも一気に下がる。底なし沼のように下がっていく。だれも買わなくなるから、売り抜けることが出来ない。そうして誰もが大損をする。今年“新NISA”というものが動き出し、もしも、再び日本人の多くが「日本株」を購入し始めると、再びバブル期のような現象が起こってくる可能性はある。つまり、一気に日経平均が4万円台~5万円台へと突き進んでいく可能性があるのだ。実は、今週から来週にかけては、その“予兆”が出てくる可能性があるから注目しなければならない。先ほども述べたように、現在の日本株は外国人投資家の動向に左右される。日本人ではない。正確に言うと、これまでは……だ。もし、今週から来週にかけ一気に上昇するとマスコミが騒ぎ出す。新NISAの加入も一気に増える。連日“最高値”の報道が続くと、慎重な日本人もようやく腰を上げ始めるのだ。そうして、みんなが始めると「赤信号でも怖くない」とばかりに、これまで株など興味のなかった人までが購入し始めるようになる。ところが、そうなった時がピークで危険信号なのだ。桜満開の頃までは、まだ多くの人が“花見見物状態”で連日の報道を聴きながら、どうしようかと考えている。そうして、その頃までなら間違いなく上昇し続けるので大丈夫なのだ。

生れ変った東出昌大の「自然体」が素晴らしい

2024-01-10
人はときどき人生に躓く。そうして“ゼロからの再出発”を余儀なくされる。そういう中で、人はもがきながら“新たな自分”を発見に行く。発見するまで通常は1年から2年くらいはかかる。時に3年くらいになることもあるが、それ以上かかることは滅多にない。そうして、人は“新たなる自分”を見つけ出し、そこで“ゼロからの再出発”を始める場合が多い。けれども、ほとんどの場合、その数年前までは“そういう自分”を予期していない。生きながらにしての“生れ変り”は、ほとんどの場合“そういう形”で行われる。自ら意図しての場合もあれば、いつの間にか……という形での場合もあれば、仕方がなくの場合もあるが、それが結果的に良かったのか、悪かったのかは誰にも解からない。俳優の東出昌大氏が2022年から関東付近の人里離れた山奥で、古い山小屋を借り、女性三人と半自給自足の生活を行っている。その生活に密着した暮らしぶりがTV番組内で流された。山奥で狩猟生活を行い、薪を使って煮炊きする暮らし方だ。ただ俳優業を辞めたわけではなく、仕事があればそれにも取り組みながら、拠点は山小屋に持つという暮らし方だ。一緒に暮らしている女性たちは24歳から29歳という若い“役者仲間”ともいうべき存在で、東出を慕って自らやってきた後輩女優達ばかりだ。したがって東出氏としても、特別、仙人や猟師を決め込んだわけでもなく、後輩達と一緒に“半自給自足生活”を楽しんでいる風が強い。若い女性たち三人というのが気になるが、彼自身も、その女優たちも、そういうことを気に掛けている風はない。つまり、若く気の合う役者仲間が東出氏を“教祖”のような感じに慕って“都会を離れた山小屋暮し”を楽しんでいる、というのが実態かも知れない。かつて女優の杏氏と結婚し、子供も産まれて平穏な暮らしを営み、役者としても一流へと駆け上ったが、不倫騒動が起こってすべてを失った。そういう中から辿り着いた“誰にも束縛されることのない”人間本来の暮らし方が“こういう形”であったと東出氏は言いたいようだ。もちろん、批判する人はするだろうし、過去のすべてが許されたとも言い難いが、少なくとも“生れ変った”東出氏には自然体で生きているパワーのようなものが感じられrた。

「芸人の鏡」霜降り明星「粗品」的中全額寄付

2024-01-09
昔から“大博打”をする人間に“悪い奴”はいない。悪い奴は“大博打”ではなく“小博打”を繰り返して“小狡く儲けよう”としているような奴だ。そういう点から言っても“霜降り明星”粗品は、なかなかの“ツワモノ”である。何より良いのは自分の予想を“公言”して博打を打っていること。彼のような有名人になると、その影響力は大きいので、なかなか公言して博打を打てるものではない。彼は常に公言し、そのままを購入し、その成果までYouTube動画で報告している。その勝率は必ずしも良くないが、こういう人にありがちな傾向だが“勝つ時には大勝ち”する。そして6日の中山4Rの3歳新馬戦で3連単を見事に的中させた。不人気の馬ばかりを買って、見事に的中させたのだ。その払戻金額は何んと2400万円という高額金である。ただ彼はこれまでの勝率が良くないので、実は給料を前借するほどの借金を背負っている。通常の会社員なら青ざめてしまうほどの借金を背負っている。本来はTVレギュラーを多数抱える“売れっ子”だから、豪邸を建てても良さそうな稼ぎぶりなのだが、実際には借金だらけで、結婚生活も長く続かなかった。それでもギャンブルは止めない。そうして、ときどき、今回のように“大博打”で勝利する。根っからのギャンブラーなのだ。実は、わたしは以前、彼が「もうギャンブルを止める」と宣言した時、その数日後にわたしのYouTube動画で「ギャンブルは止めない方が良い‼」とアドバイスした記憶がある。もちろん、彼自身はそんなものを見ないだろうし、彼のファンも見て居ないと思うので、わたしのアドバイスが通じたからではないが、いつの間にかギャンブルは再開された。そうして、どんどん借金の額は膨らんでいったのだ。さて、今回、彼のもっとも素晴らしいところは、ギャンブルによる獲得金額の全額2400万円を能登半島地震に寄付したことである。これはなかなかできることではない。たとえば、この獲得収益のなかから1000万円を……というのなら、出来る人が居るかもしれない。けれども全額を……というのは通常の人間に出来ることではない。自らは借金を背負ったままなのだ。こういう「昭和の博打打」のような痛快な人物が“若い芸人”の中から出て来たことが素晴らしい。どこぞの芸人に見せ付けてやるがいい。これこそが“ホンモノの芸人”であり、庶民の味方なのだ。

「低空経済」こそ、今後の主役になっていく⁉

2024-01-08
まず「低空経済」と言って、それが解かる人がどれくらいいるだろう。う~ん、もしかしたら誰も解からないかもしれない。これは最近の中国で使われている表現だ。いちばん勘違いしやすいのは「経済が徐々に低迷していくこと」のような解釈の仕方で、実はわたし自身も、そういう風に思った。だが、それはぜんぜん違った。そういうことではなくて、もっと“文字通りの解釈”で良いのだ。つまり「低空圏を経済が行き交う状態」それが正しい解答だ。どういうことかと言えば、地上から1000メートル以内の文字通り“低空飛行の圏内”において、経済を活性化させる取り組みのことだ。民間における有人航空機、及び無人航空機、或いは飛行物体によって、観光、貨物輸送、旅客飛行、民生用サービス、科学研究や実験教育などの概念すべてを包括した表現が「低空経済」なのだ。何んとも解かったような解からない解説だが、実質的な取り組みとしてはドローンのさまざまな活用、空飛ぶクルマの開発・製造などを急ぎだしたということだ。既にフードデリバリーの世界では21万件以上の受注に“ドローンによる配達”が効果を発揮している。上海や深圳などの都会では既に22本の“ドローン飛行ルート”が開発され、それによってより迅速な配達が可能になった。自動車メーカーによる“空飛ぶクルマ”の開発・製造も急ピッチで進められている。2025年中には大規模製造が本格的に開始される予定らしい。中国という国は、新しいものに眼がないというか、怖れ知らずに次々と新たなものを実用化させていく。或る意味では、もう地上において開発の余地は少ないと見て、新たな開発地点として地上1000メートル以内の経済圏を重視し始めたのかもしれない。食品のデリバリーだけでなく各医療分野においてもドローンの活用は急ピッチで進められている。広い国土を持つ中国にとって「低空経済」の開拓は、今後の重要な課題となって来ているのかもしれない。日本ではまだまだドローンの活躍現場が乏しい。映像撮影などでは威力を発揮しているが、デリバリーの宅配に用いているところがあるとは聞いていない。医薬品の救急輸送などでも同様だ。日本人の慎重さが“空飛ぶクルマ”においても、まだまだ開発段階で、生産・発売ということろまで届きそうもない。事故などを恐れるあまり、完全に日本はスタートダッシュに出遅れている……。 « Older Entries Newer Entries »