3月, 2024年

「クールJAPAN」セックスレス7割で疲れてる⁉

2024-03-19
社会学者の山田昌弘著『パラサイト難婚社会』の中で示された調査統計が注目を集めている。20代~60代の男女約1万人を対象に行ったネット調査だ。夫婦間で共通の趣味を持つ夫婦は40%~60%で日本人カップルの場合、その部分で結びつきやすい。また一緒に夕食を共にするのは50%~60%。大体半分くらいのカップルが夕食時間を一緒に過ごす。これらから言えば、共通の趣味を持ち、ほぼ毎日一緒に食事していれば、そのカップルは長続きしやすいようだ。日本人の場合、他の国の方達よりも苦手なのは“会話する”かの部分だ。この調査によれば毎日会話するのは68%、一週間に数回が21%、月に数回以下が8%となっている。会話の少ない人達の場合、生活時間がズレていたりするせいがあるかもしれない。この数字だけでどうこう言えないが、会話が乏しくなっていることは窺われる。愛情を言葉で表現するか…という点に関しては、まったく表現しない人たちが45%だそうだ。会話そのものが乏しいのに、愛情表現だけ“とってつけたように”行うのはおかしい。肝心のセックスに関しては、毎日が1%、週数回が3%、週1回が6%と、まともな感じのカップルは10%以下に過ぎない。逆に言うと、日本人カップルの場合は「普段は無いに等しい」のが“ふつう”だということになる。まったくない、という回答も41%で、月1回以下28%と合わせて、ほぼ70%が“セックスレス”だということになる。ただ、ここで注目すべきは、だから“仲が悪いか”と言うと、必ずしも、そういうふうな数字とは重ならない。早い話が、日本人は疲れていて「嫌いじゃないけど、もうSEXは良い」という人たちが多いのだ。或る意味で日本人カップルは“そういうこと”に対して淡白なのかもしれない。ただ社会学者は、そこに日本人の問題点が潜んでいることを指摘する。わたしは社会学者ではないので、これらが各年代をまんべんなく広く集めていること、数字的にも1万人以上の統計であること、つまり現代の日本人の信じられる統計として受け止めるべきだと思うのだ。だから、今や日本人カップルにとって“セックスレス”など特別な存在ではなく、当たり前のことだというのが実態なのだ。

逞しいのか、怖れを知らないのか、火山噴火街

2024-03-18
アイスランドと言えば、われわれのイメージとしては“寒い北国の半島”だが、どうも“それ”だけではないようで、近年は観光地として首都レイキャビクから南西40キロ地点にあるグリンダビークが観光地として売り出していたらしい。本来は魚師の町だが、昨年あたりからは「火山湖温泉の町」「火山噴火現場へのハイキング」で注目を集めていたらしい。確かに火山は“温泉地”を生み出しやすい。それと海底火山が間近で視られるということで、しかも、その火山のすぐそばまで学者が先導して“連れて行ってくれる”ということで、好奇心の強い欧州人などから熱烈な支持を集めていたという。ところが、3月16日からこのケリド火山が本格的に噴火し始めた。近年では4回目に当たる今回の噴火は、これまでに比べて規模が大きく、その溶岩流が街の防護壁を突き破り、住宅にまで流れ込みだしている。いまのところ、直接被害は3棟だけだが、今後増えていく可能性が高い。住民は既に避難していて、観光客もいっせいに避難し、人的被害はいまのところないようだが、今後、噴火規模が拡大していくと“温泉”とか“噴火ハイキング”とか言っていられない。それにしても、同じような状況になったら、日本では確実に立ち入りが制限されて、天然温泉も、噴火ハイキングも、即刻中止となるだろう。相当な距離の防護壁をつくっていたくらいだから、用心はしていたはずだが、それでも“温泉”や“噴火ハイキング”を数日前まで実行していたあたり、その商魂というか、冒険心というか、すさまじく強い。動画で見ると、その火山噴火の勢いは強く、溶岩流は防護壁などひとたまりもないような印象を受ける。よく、大きな災害が起こっても「生まれ育ったここに留まる」という人たちがいるが、自然災害は“起きやすい場所”“起きにくい場所”が厳然とあるのだから、出来れば被災地は離れて暮らすのが“賢い生き方”というものだ。たとえば能登半島なども今回の地震で、かなり地形が変形隆起してしまった地域とかがある。そういうところは、いつまた何かが起こるとも限らない。まだ十代とかに十代とかであれば、新天地を求めた方が長きにわたって安心して生きられる。大災害は或る程度の期間を置くのが普通なので、50代以降の人はそこに留まっても良いと思うが、若い年齢ならわざわざ“災難を待つ”ような生き方は、わたしなら奨めない。

「上タン50人前」食べる客「怒る店長」の攻防

2024-03-17
焼き肉店で3月14日に起こった“珍事件”が波紋を呼んでいる。その焼き肉店では「4千円で食べ放題」を掲げて商売をしていた。その客は“食べ放題”で注文し、特に上タンが気に入って50人前を平らげたそうだ。そうしたら店長から「あなたのように50人前も食べた人はいない」と激怒されたというのだ。その顛末をSNS上に記載して、もし50人前食べられて困るなら“食べ放題”などしなければ良い、と自らの行動の正当性を主張している。これは、どちらにも言い分があるのは解かる。まず客の方だが“食べ放題”を謳うなら、食べ過ぎに文句を言うのはおかしい。確かに、その通りだ。その一方で、店側からすれば一人で50人前も食べられれば、赤字となるのは間違いがない。せめて上タンのような原価の高いものは20人前程度で止めて、他の原価の安いものも平等に食してもらわないと「店を潰す気なのか」と思ってしまう。経営側とすれば、当然の怒りだと思うのだ。つまりは、どちらにも言い分がある。実際、ネット上の意見も真っ二つに分かれている。飲食店の“食べ放題”は店側にとっては赤字覚悟の商戦である。たとえば肉では赤字となっても、その分を“お酒類”などで補えれば、或いは“宣伝費”だと思えば最終的にはプラスに働く、との読みが手伝っているケースが多い。したがって、そこには50人前食べても“有難そうな顔もしない客”は想定外で、最初から計算に含まれていない。実際、もしも同じようなタイプの客が4~5人も集まってしまえば、店の経営は成り立たなくなる。どういう商売でも「損して得取れ商法」で、本来ならそういう金額では無理なのに、客足を掴むためとか、商品の良さを知ってもらうためとか、一定期間、提供するケースは多い。そういう経営側の努力を認めたうえで、ありがたく“その恩恵を受けさせてもらう”という意識がなければ、別に本人にその意図がなくても「店を潰す気か」と思われても致し方ないだろう。なんでも或る程度の常識とマナーを持ちながら、利用・活用させていただく形を取れば、双方にとって“好ましい方式”として笑顔になれるものを……。

夫婦とも「子供運」の良くない「顔になる」⁉

2024-03-16
元卓球選手の福原愛氏が「長男連れ去り事件」の“和解報告”を行った。妻も夫も“二人ずつの弁護士”で挑んだ今回の事件。結局は“双方和解”ということで「メデタシ、メデタシ」……ん⁉ 外野席が騒がしい。「顔が違う」というのだ。会見に臨んだ福原愛氏の「顔が違う」というのだ。そんなこと言われても「顔」の会見ではないし……でも、確かに違うな。外野席の意見は正しい。何が違うのか。これは美容外科医の失敗なんじゃないか。元に戻さなくっちゃ。何しろ、元々は「家庭運の良い顔」だったのに、いまは「家庭運の良くない顔」の典型になってるではないか。どうしよう。そうだ、ロバート秋山氏を呼んでこよう。彼なら、なんとか、ごまかしてくれるかもしれない。いやダメなのか。スケジュールが詰まってる⁉ じゃあ、ミラクルひかるを呼んで来なくっちゃ。まあ、外野席の話は置いといて……わたしはYouTube動画の方で大昔に、まだ“離婚もしていなくて、連れ去りもしていない”そういう時に、今回のようなことが生じる可能性について、語っているのだ。この「早すぎる予告」がほとんどの方達から“無視される”一番の理由かもしれない。はなし飛ぶけど、今回、日銀はマイナス金利解除に踏み切るらしいが、これだって、もう大昔に「日本はインフレに、中国はデフレに…」って書いておいたんだ。でも、その時はまだまだ中国はイケイケの時だし、日本はデフレどん底の時だし、ふつうの方達からすれば「何を言ってるのか」という話なんだ。だからね。予言というのは“進みすぎてる”のは総じて相手にされない。“ちょい手前”くらいだと、みんな乗っかってくれる。それは解かってるんだけど“ちょい手前”なんて、もう、勘の良い人はみんな気付き始めていて、だから「予言」としては意味がない。というか、わたし自身がつまらない。そう結局、わたし自身が独りで楽しめるのは「遠い予言」誰もまだ感じていないようなときに、ちょこんと出しておく……大っぴらじゃなくって、ちょこんと出しておく……わたしの○○○みたいに、ちょこんとが良いんで……こんなことを書くと、わたしも炎上できるだろうか。って、お前バカじゃないの‼ そうじゃなくって、福原氏の話……夫も妻も両方とも、最近「子供運の良くない相」に変って来たんだけど、それって、どういう将来か⁉

「党名変更9回」で「生命力消失」となった党⁉

2024-03-15
世の中には“名前を変える”のが好きな人たちがいる。“姓名学的な観点”から変えたがる人も居るし、そうではなくて“種々の事情”から変えたがる人もいる。どちらにしても、あまり“変えすぎる”のは良いことではない。その姓名に“生命”が吹き込まれる前に何度も変えてしまうと、もはや“その名称”自体に生命が宿らなくなってしまうからだ。日本人の本名の場合は、なかなか手続き上複雑で、簡単には変えられない。ところが本名以外の“名まえ”は、比較的簡単に変えられる。昨日、政党である「みんなでつくる党」が東京地裁から「破産手続き開始」の決定を受けた。現在、この党の代表を務めているのは大津綾香氏で、彼女は「速やかに抗告する」と述べているので、まだ流動的だが、もしかすると認められなくて「党」そのものが消滅してしまう可能性もある。この政党は元々は立花孝志氏が5年前に「NHKから国民を守る党」として設立したもので、紆余曲折あって今日の政党名となった。現在の「みんなでつくる党」が9回目の改名に当たる。これは、だれがどう考えても変えすぎというか、変わり過ぎというか、まともな名前の変化ではない。このようにひんぱんに変えすぎると、結局、その名前は“生命力を失っていく”のだ。お店の名前とか、会社の名前とか、ペンネームとか、源氏名とか、何でもそうであって、ひんぱんに変えて良いものは一つもない。仮に画数的に完璧なものを求めての改名だとしても、そんな数字だけで“徐々に成功していける”と考えること自体に問題がある。「姓名」は「生命」なので、慈しみというものがなければまともに成長していかない。どうも、立花孝志氏というのは、その言動を観ると“慈しみの心”が乏しいようで、いろいろなところで軋轢が多い。こういう方に“日本の将来”をどうして託せるだろう。昨日まで「日本」と呼ばれていた国を、明日からは「日本から脱出する国」とでも呼びそうではないか。過去の歴史とか、伝統とか、人々の歩みとか、そういうものはどうでも良くて、ただただ経済さえ向上すればみんな満足……とでも思いそうではないか。また、この破産手続きの今後がどうなるかわからないが、少なくとも現党首に対して“元仲間”として写真に写っていた頃の“温情”を感じさせない言動は「政治」がどうこう言う以前に「人間」としての品性が問われることのように、わたしには思われる。

「漢字」は中国ではなく、韓国や日本のもの⁉

2024-03-14
韓国人の作家キム・ジンミョン氏が奇妙な新説をYouTube動画で発信し、マスコミなどから注目を浴びている。その新説とは、中国の漢字はもともと殷墟から発掘された「殷字」が元になっているもので、そのあとに続いた王朝「周」や「秦」でもなく、ましてや紀元前202年に出来た「漢王朝」ではありえない。にも拘らず「漢字」と称して漢民族の文字であるかのように伝わっているが、殷民族は漢民族の一部ではなく、むしろ、その故郷は古朝鮮人や古代日本人にも通じる“東夷族”で、現存民族という点から言えば元々は朝鮮人や日本人の文字と言える……と主張している。確かに、漢字のルーツが殷墟文字にあるのは間違いなく、漢族の文字であると決めつけているのは不可思議な話だ。キム氏によれば、漢民族の家はほとんどが南向きだが、殷民族は北東向きで、それはその出身地方を向いているからであるという。確かに、殷王朝における風水思想では墓は子孫たちに向けて建てられる。したがって住居は逆に“先祖たちに向けて建てられる”というのは理解できないことではない。ここで私は奇妙な事実を想い出す。日本ではカメの腹甲を用いる“神事としての占い”が存在していたが、この方式は“殷王朝で行われていた占い”なのだ。奇妙なことに、殷王朝以降の中国の王朝では“カメの腹甲を用いる占い”は存在した形跡がない。もう一つ卑弥呼の時代に日本人は“身分や職種を表す刺青”を入れていたと中国の記録に記されている。ところが、これも殷王朝では“行われていたこと”で、刺青文化を持っていたので、十干を表す文字にも「辛」の文字がある。「辛」は元々刺青を入れるための“針”を表す文字なのだ。殷王朝以降の王朝では刺青を入れる風習が無くなっている。そのような点を考えると、キム氏の言う新説には一理あるとみるべきかもしれないのだ。もっとも、朝鮮には“カメの腹甲占い”も“刺青の風習”も存在していない。そうすると、もしかしたら日本人こそ“東夷族の子孫”である可能性がないとは言えないのだが……。

(佑樹)→表舞台&(将大)→裏舞台の入れ替わり⁉

2024-03-13
よく「運」というものを認めたがらない人たちがいるが、勝負の世界などでは、よりハッキリと“運が作用している”と感じざるを得ないような出来事が日常的に生まれている。かつての甲子園でも、その“運”によって勝利を得た者と、敗戦者となった者とがいた。その時、運を味方につけていたのは斎藤佑樹投手の方だった。だれしも、その実力を認めながらも“勝ち運”から見放されたのは田中将大投手の方だった。けれども、その後の人生には奇妙な変化が現れた。高校球児のままプロ球団に入団した田中投手の方は、野村監督の指導もあって大きく実力を開花させ、最初の年から華々しく活躍した。さらに、その後は大リーグへと渡って、そこでも十分に実力を発揮していた。一方の斎藤佑樹投手の方は、そのまま早稲田大学へと進学し、大学野球の方で活躍した。但し、その活躍の仕方はいま一つ華やかさには欠けていた。そして、その後はプロ球団である日ハムに入って大いに期待されたが、残念ながら“鳴かず飛ばず”という状態が何年も続いた。そしてとうとう大きな記録も実績もなく退団に至った。そのあと、彼は「株式会社 斎藤佑樹」という奇妙な会社の代表となった。昨年あたりから、日本に戻ってきた田中投手には活躍時のオーラがない。その逆に斎藤佑樹氏の方は日テレで今月25日からリニューアルする「news every」の新しいキャスターとして登場することが決っている。もちろんキャスター初挑戦となる。彼がどの程度、ニュース番組で力を発揮できるかは分からない。けれども、通常はもう少しTV番組慣れしてからキャスターに転身するのが普通のような気がする。いわば日テレは賭けに出たのだ。もし、この賭けが成功すれば、斎藤氏はこの番組以外でも次々と活躍の場を広げていきそうな気がする。大体、プロ野球選手としては、ほとんど活躍できなかった人物を主要なキャスターとして使うこと自体、幸運の女神が“来ている”と言えそうだ。もし、この女神が力を貸して、裏舞台から表舞台に彼を押し上げ、そうして、その代わりに、これまで表舞台に出て来た田中将大氏を“裏舞台に引っ込める”準備が整ったとするなら、運命の女神は何んとも不可思議な形で、この二人を結び続けることだろうか。

進んでるのか後退してるのか「婚活チラシ」⁉

2024-03-12
日本も“少子化”には悩み続けているが、そのもっと上を行くのが「中国」と「韓国」だ。この両国とも、日本よりも最近の出生率は低い。同時に「結婚」の届け者数も確実に減っている。つまり、韓国と中国と日本とでは、それぞれの問題点には違いがあるように思うが、こと“婚姻”と“出産”の減少に関しては、ほぼ共通した状態となっている。そこで“お国柄の違い”がよく表れていると思うのが、中国の婚活方法だ。中国の場合、本人たちよりも、親たちの方が熱心なのがいちばんの興味深い点だ。北京でも広州でも“未婚の子供達”を持つ親が広場(公園)に集まってくる。北京の方は地べたに、広州の方は公園の周囲に「婚活用のチラシ」を持ち寄ってくる。そこに写真はなく文字だけが並んでいる。生まれ年、性別、職業、持ち家の有無、親子同居の有無、相手への条件などが書かれている。公園には、親だけが来ていることもあれば、本人も一緒に来ていることがある。中には既にウエディングドレスを着てアピールする者も居る。とにかく、自らの方の条件と、相手側に対する条件と、それらが互いに一致する相手を求めているようだ。ただ、奇妙に思うのは、日本人なら、それを路上に置くとか、公園周囲に貼り巡らすとか……ふつうはしない。ネット上に書き込むのとはわけが違って、だれに視られるかわからない。それに、路上に直接、婚活チラシを置いてゆくのは、何か“路上販売”を想い出させるところがあって、なんとなく日本人なら気が引ける。或る意味で、なりふり構っていられない、ということなのかもしれないが、確かにこれなら“お見合い機関への登録不要”で手っ取り早い、と言えるかもしれない。ただ、この方法で実際にカップルが成立する可能性は低いようだ。何しろ、お互いに条件がある。特に、女性側は男性に“マイホームを所有している”ことを条件とする人たちが多い。独身でマイホームを所有しているというハードルは高いように思うが、昔から、中国女性はそれを求める人が多い。したがって、地べたに置かれるチラシでも“そういう条件が満たされている”男性なら、たくさんの女性たちが直接逢いたがるようだ。中国の婚姻数は7年連続で低下している。裕福な家庭でやや過保護に育っている子供たちは、よほどの条件でもなければ結婚したがらないのだ。

「書店ない地域」で育つ子供達4割という衝撃⁉

2024-03-11
昔はどんな小さな町でも「本屋さん」はあった。それが、ここ最近は“本屋さんのない町”が珍しくないらしい。書店のない自治体が4割に達している。最近は「本はネットで購入するもの」という認識を持っている若者も多い。ここ十年間で市場から退出した書店が764社に達するという数字もある。そこで経済産業省が、重い腰を上げた。書店を支援するためのプロジェクトチームを発足したというのだ。書店からの聞き取りなどから、対策を練っていくという。「本が売れなくなった」という書店側の声は多いが、そればかりだろうか。わたしは、書店に「買いたい本がない」ことが、いちばんの原因ではないかという気がする。いまの書店のほとんどは“雑誌類”と“大手出版社の本”が中心で“それ以外の本”が置かれていない。だから、本の出版数自体は増えているのに、大手出版社の本のみが置かれている書店が多いから、つまり「買いたい本が置いていない」から、本好きな人が書店から買わなくなっている、というのが実態のような気がするのだ。よほどの大型書店でもない限り、小さな出版社から出された書籍は書棚に並ばない。ほんとうに本好きな人というのは、出版社など関係なく“良い本”“読みたい本”を求めている。ところが、大手出版社が手掛ける本は山積みされていても、小さな出版社から出している“少部数の本”は、よほど探さなければ、置いている書店を見つけられない。だから、或る意味で売れないのは当然なのだ。もちろん、大手出版社の方が圧倒的に“売れる傾向”を持ってはいるだろう。けれどもなんども言うが、そういう本を買う人には意外に“ほんとうに本好きな人”は少ないのだ。「売れている本だから買う」という人が世の中にはたくさんいる。その“売れている本”というのは大手出版社が宣伝費をかけて大量に書店に並べている本だ。本は「取次業者」が出版社と書店の間に入る。その結果、取次業者が“売れると解かっている本”だけ、書店に山積みしていくようなことになる。そういう中で、書店がその“一般的には売れやすい本”だけを扱っていたなら、ほんとうに本好きな人が離れていくのは当然ではないか。ほんとうに本好きな人は独自の嗅覚で“求めている本”を探し当てる。それがネット書店に多ければ、そっちの方が主戦場となっていくのは当然のことではないだろうか。ただネットというのは“立ち読み”が出来ない。実際の感触は書店に行かなければつかめない。だから、ほんとうは書店で見つけたいのだ。そういう“買わなくなった本好きな人”が無数にいることを経済産業省は気付かなければならない。

首相も逃亡、脱獄犯4000名&武装集団が占拠⁉

2024-03-10
先月あたりから、街中で警察とギャングが対決し始め、制御不能に陥っているのが世界の中でも最貧国の一つと言われる中米の島国ハイチだ。この国では2021年に大統領が暗殺され、それ以降、国家としてのまともな機能や管轄が難しくなっていて、実質的には制御不能の状態が続いている。今月2日には刑務所を武装集団が襲って、そこに収容されていた4000名が脱獄した。武装集団は9つのギャング団に分かれているとも言われ、襲撃が目的ではなく、現在のアンリ政権の汚職や不正を正して、新たな政権の樹立を目指しているようだ。そのアンリ首相だが、武装集団が街中を襲って占拠したときには、本国を離れていてアフリカのケニアを訪問していた。その後も本国には戻っていない。暗殺される可能性もあるからだ。現在は実質的に武装集団が国を支配しているような状態で、首相に退陣要求を迫っているが、実質的には首相が戻れない雰囲気でもあるため、緊迫した状態が続いていて、住民たちの多くも、一時的に街から逃げ出している者も多いという。ほんとうはアメリカなどが仲介して、現政権からスムーズに新たな政権にバトンタッチ出来れば良いのだが、首相が怖がって戻っていない状況ではどうすることもできない。それに、怖いのは武装集団だけではない。刑務所に収容されていた4000名もの脱獄者たちをどうするか、という問題もある。4000名の中には強盗殺人などの凶悪犯も多数含まれているらしい。武装集団と脱獄犯とが大手を振っている街に戻るのは、アンリ首相でなくても、さすがに怖い。いっそのことどこかに亡命して、次期首相にすべての権限を委ねた方が良いのかもしれない。この国はお隣の「ドミニカ共和国」と接しているが、そのドミニカでは国境線当たりの警備を強化し始めている。何しろ、ギャングと化している武装集団も、もともとのギャングが多数まぎれている脱獄囚たちも、それらから逃げ延びて来る一般市民たちも、すべてが危険ということで簡単には入国させられない。いったいこの後、だれが現在の政情不安を安定させられるのか、いまのところ、答えは見つかっていない。

パッと見は「ヒンディー語」だけど「日本語」

2024-03-09
わたしは若い頃、広告デザイン的な仕事をしていた時期があり、いまでもユニークな文字や広告を見ると、一瞬、目が留まる。そういう観点から「すばらしい」と思ったのが、たまたまニュース映像で視た都内(⁉)の“インド食材店”で使われているというPOP文字だ。パッと見だと日本語ではなくヒンディー語のように視える。けれども、よくよく観ると、日本語のひらがなだったり、カタカナだったり、漢字混じりの言葉だったりする。それらを、ものの見事に“ヒンディー語風”のPOP文字として商品の傍に書き添えてあるのだ。こういう文字があると、いかにも、日本でもこれらの食材を用いれば、インド料理を“日本風にアレンジして作れそう”な気持ちが生まれてくる。現在、日本には相当数のインド人の方達が居ると思われるが、その方達にとっては無くてはならない食材店のはずだ。けれども、その方達のためだけであれば、日本語表示は必要がない。おそらく、こういうふうな表示をしているということは、ごく普通の日本人の方達にも、インドの食材を普及したい気持ちがあるからだろう。そうでなければ、ヒンディー語風ひらがなPOP文字は無意味なものとなる。まあ、日頃、日本で暮らしていてヒンディー語を観る機会の乏しい方達にとって、或る種のノスタルジー的な魅力は得られるのかもしれないが……。どの国でも、その国特有の食材というものがある。特にインドの場合、さまざまなスパイスというか、とても日本人では判別できなさそうなものがたくさん売られている。けれども、こうしてPOP文字で何に使うかなど記してあると、一応、立ち止まってみる効用があることだけは間違いがない。とにかく、奇妙なものでスーパーとか、書店とか、お土産屋さんとかで視るPOP文字というものは、不思議とそれを読むものに購買意欲をもたらす。別に買おうと思っていなかったものでも、そのキャッチフレーズに惹かれて、思わず購入してみるということが珍しくはない。インドだけでなく、さまざまな国の食材店が存在しているが、日本人の場合は滅多に入らない。料理研究家でもない限り、覗き見しようとすら、あまり思わない。この店は若い人たちの間でPOP文字によって広く知られていて、店内を除きに来る人達も多いようだ。そういえばインドの占星学も、インドのカレーと同じで恐ろしく複雑怪奇である。日本人のアッサリ占星術とは驚くほど違っている。

「ちょっとした悪事」が「運命の転落」を招く

2024-03-08
人間には誰でも“ちょっとした善意”の気持ちと“ちょっとした悪事”の気持ちが潜んでいる。例えば普段なら見過ごすのに、その日に限って、駅に行く途中で重いバッグを持ち切れないで困っているお婆さんに手を貸して運んであげた……とか、どうして自分でもそんな親切をしたのかわからないけど、なんとなく、その時はしてしまった……というようなことがある。その同じ人物が、或る時には財布を落とした人に「これ、落しましたよ」と伝えようと拾い上げたら、あまりの大金が入っていたことで呆然とし、その間にその人を見失い、ふとした出来心でそのまま自分のモノとしてしまう……というようなことがある。そして、ここからがドラマなのだが、重いバッグを持ってあげた時には、そのあとで“その善行”から表彰状を授けられる。一方、他人が落した財布をそのまま自分のモノとしてしまったときには、そのあと何故か警察から呼ばれて“犯罪者”とされてしまう。運命というのは、そういう“ちょっとした部分”というものが大きく左右している。昨日、大阪府警は、男子大学生から金を奪おうとしてビルの屋上に追い詰め、そこから大学生が転落死した事件で、14歳の女子中学生と15歳の男子中学生を逮捕し、事件当時まだ13歳だった男子中学生を施設送りとした。3人が共謀して男子大学生を追い詰め、ビル屋上から転落死させた、と結論付けたようだ。転落死した22歳の男子学生は3人から逃げようとしたのだが、結果的には屋上から転落死してしまった。14歳の女子中学生は、最初から金目当てでSNSを通じて22歳の大学生と知り合い、そのビル内で待っていた男子学生らが“金を要求する”という手口だったらしい。まるでチンピラと呼ばれる悪い奴らが行うような手口で大学生に金を要求したのだ。大学生は多分、自分にも多少“やましい気持ち”があったせいなのか、その場から逃げようとした。警察に通報すれば良かったのだが、その余裕がなかったのかもしれない。また3人を相手に格闘では勝てないと思ったのかもしれない。もしかすると、3人には余罪があって“手慣れていた”のか、それともたまたま“そういうこと”をしただけで、ちょっとした出来心だったのか。いずれにしても被害者は亡くなり、加害者たち3人は「強盗致死罪」の十字架を背負って、その後の人生を生きなければならない。運命は“ちょっとした出来心”を見逃してはくれないのだ。 « Older Entries Newer Entries »