2月, 2023年
2023-02-16
俳優としても知られるが、脚本家、映画監督としても知られる佐藤二朗氏が、自らの映画監督作品「はるヲうるひと」が海外では“高評価”を受けながらも、国内においては“無反応・低評価”である現状を嘆いている。海外での評価が高く、国内での評価が低いというのは、何も映画だけに限らず、さまざまな分野に存在している。例えば一般の企業でも、海外では名前を知られているのに、日本国内ではほとんど“知る人がいない日本企業”というのが意外なほど多くある。海外との垣根が取り払われつつある現代においては、今後ますます“そうなってしまう分野”が出て来るかもしれない。「人」にしたって、日本国内では“成功・活躍できない”状態が長く続いていた人が、海外に渡ったとたん、その実力が大いに評価され大成功していくケースは稀ではない。この佐藤二朗氏も、わたしには“海外で成功するタイプ”のような気がするのだ。それに、彼自身のホロスコープを観ると、今年の3月~4月にかけ占星学的な観点からは“脚光を浴びる”可能性が暗示されている。トランジットの天王星が出生時の太陽に対してピッタリ重なるからだ。加えてトランジットの冥王星が天王星に120度、天王星が天王星に135度、海王星が海王星に120度、土星が土星に60度、木星が木星に150度と、同一惑星たちが次々と出生時惑星に対してアスペクトを形成していく。このようなケースはほんとうに珍しい。同一惑星同士によるアスペクトには、宿命として授けられた課題をクリアすべき時期としての意味合いが含まれている。したがって動きの遅い惑星同士が作り出すアスペクトを見逃してはならない。それらに加えてトランジットの天王星が出生時の太陽に対し0度一体化している。明らかに佐藤二朗氏本人は気付かなくっても、運命的な何かが動き始めようとしているのだ。それが彼が嘆いている「はるヲうるひと」そのものについてなのか、それとも全く別な作品とか仕事上の話なのかは分からない。とにかく、彼が“嘆いたとき”には、もう目の前に“脚光を浴びる日”の準備が着々と進められているのだ。
2023-02-15
アメリカを代表する新聞であるニューヨーク・タイムズ紙上で12日「この上ないほど過激‼」と評された日本人学舎の発言がある。経済学者としてアメリカの大学で仕事をしている成田悠輔氏がYouTube動画での対談上で語ったことのようだ。彼は日本の高齢者たちに対して「老害以外のなにものでもない」という趣旨の発言をし、加えて「集団自決とか切腹をすれば良い」とまで言い切ったというのだ。しかも、この新聞の影響力は強く、すぐに、それを引用する形で欧州のいくつかの新聞などが取り上げている。私自身は対談内容を視ていないので、どういう話の経緯から“そのような発言”となったのかわからないが、それにしても“過激”というか“傲慢”というか“侮辱”というか、いささか人格を疑いたくなるような差別・禁句の発言と言えるだろう。もしかするとYouTube動画ということで“炎上が目的”だったのかもしれないが、一説によると彼は他のところでも“同様の発言”を繰り返しているといい、もしそれが事実なら“危険思想の持主”とみなされても仕方がないだろう。日本では過去に“切腹”も“集団自決”も存在している。それらは或る種の“過激思想”と結びついていた。したがって、外国人で日本の歴史に詳しい人がそれを聴けば“ブラックジョーク”として笑い流せない。ましてや、今はアメリカ大統領に高齢者が続いている。大統領だけでなく、各国の主要な人物にも高齢者が多い。「長寿国」として、或る意味で「日本」は“世界のお手本”を目指さなければならない立場でもある。成田氏自身が何歳なのか知らないが、やがて、ご自身だって“そういう年齢”へと行きつく。その時に「切腹でもすれば…⁉」と言われたなら、どう応じるのだろう。あまりにも、不注意すぎる発言だったのではないだろうか。近年「Z世代」など“若い人たち”がもてはやされて、高齢者たちに対して“邪魔者扱い”する風潮がめだつ。もちろん現代は、日本など少子国家の場合、高齢者を若者たちが支える“社会の構図”は、どうしても不公平感を与えがちな“世代的な歪み”は潜在的に存在している。それを“皮肉る形での発言”だった可能性はある。けれども、彼は世間的な影響力の強い学者の立場にある。もう少し“優しい眼”で高齢者たちを見ることは出来なかったのだろうか。
2023-02-14
調査会社のインテージが何とも“虚しい”調査結果を報告している。それによると、10代半ばから70代までを対象とした調査で、今年バレンタインデーに「だれにもチョコを渡す予定がない」女性が42%にも上ったというのだ。しかも、渡す予定がある女性でも、家族がその4割を占め、それ以外では「自分用」「義理チョコ」「本命チョコ」が、それぞれ1割であったという。つまり、実際に家族以外の“愛する人”に対して“チョコを贈る女性”は実質1割にも達していないということになる。なんという“さびしい調査結果”であることか。わたしは以前から、最近の「流行歌」に“恋愛を歌った歌”が極端に減って来ていることを憂いていた。それは実質的にも“恋愛そのもの”が失われつつあるような気がするからだ。実際その“色合いが強まっている”証明の数字と言えそうだ。もしかすると誰もが携帯電話を持ち“SNS時代”と変わって、ごく自然な形での恋愛が“しにくくなってきている”のかもしれない。いっそのこと時代を戻して、どうしても必要な人以外は“携帯電話スマホを持たない時代”に逆行させてみてはどうだろう。詐欺などの犯罪でも、携帯やスマホが使われるケースが多くなっている。人は“便利”との交換で、数々の“自由”と“出逢い”を失ってしまったのかもしれない。それにしても、われわれの本能には“愛すること”が備わっていたはずであるのに、それがSNSの普及で“閉じ込められていく”としたなら、なんと残念なことだろう。2000年間以上も続けられてきた人間たちの“偶然の出逢い”や“ひそやかな想い”というものが、携帯電話スマホの普及が“奪っていた”としたなら、もう一度、元に戻ることの方が“便利”よりも重要なことだったのかもしれない。いくら便利になっても、結局、人間は大自然との闘いに勝てないし、国同士の争い事も無くならない。どんなに科学が進歩しても“倖せをつくれる手段”は、そこにない。もしも、あるとするなら“人間の運命の原理”を徹底的に探究して、そこから“倖せの法則”を掴みだすしかない。もちろん、ここで言っているのは「既存の運命学(占術)」ではなく、新たに構築していくべき「新時代の運命学」ともいうべきものだ。何十年、何百年、掛かるかわからないが、探求していくだけの価値はある。ただ、それには“天才的頭脳”を持った世界の精鋭たちが結集しなければならない。既存の運命学に頼っている時代は、もう終わったのだ。
2023-02-13
12日のラジオ番組の中で有吉弘行氏がリスナーからのメールに応える形で「占い」を猛烈に批判したらしい。以前からそうなのだが、彼は占いを「インチキ」だと言い切っている。わたしは、彼の言わんとすることが、わからないわけではない。要するに「占い」というものをダシに「あれを買え‼」とか「こうしなければダメ‼」とか相談者の人生を狂わすような輩が多いので、そういうことをしがちな占い師は信用できない、ということだろう。ただ、それはあくまでも「占い師」の“質”の問題であって「占い」そのものがインチキというのはいささか強引すぎる。前にも書いたことがあるが、だいたいがマスコミが取り上げるような占いには、怪しいものが多い。人生上のアドバイザーとして相談者たちに対して、きちんと向き合って“真摯に対応している占い師”は、頭から決めつけたり、押し付けたり、ましてや“壺を買わせたり”はしない。大体が、そういう行為は“占い師の領域”ではない。したがって有吉氏は、本来、占い師とは言えないような人物を“占い師の代表”と見立てていて、そういう人物が居るから「占いは信用できない」という論法になっている。彼が、どの程度「占い」について知っているのかわからないけれども、少なくとも「占い」全体をインチキと決めつけるのは傲慢ではないだろうか。どのような分野にも“悪い輩”はいる。芸能界にだって、さまざまな人物が居ることは、彼自身がいちばん良く知っていることではないか。たとえばゲッターズ飯田氏とか島田秀平氏とか星ひとみ氏は、元々が芸人や芸能人で“芸能プロダクション”に所属している。したがって、もっともインチキをしやすい環境に居る。けれども、例えば私などは“芸能界”から遠く離れた場所に居る。その私は、かつてスポーツ新聞で有吉氏がやがて結婚することになる夏目三久氏との交際・結婚の可能性をすっぱ抜かれたとき「キツネにつままれたような……」という表現で真っ向から否定した。しかし、その報道が出た時、わたしはホロスコープ等を作って「この二人は必ず結婚する」と断言した。それくらい運命的な“つながり”が感じられたのだ。ところが、その翌日になってから、有吉氏は真っ向否定したのだ。まるで、それこそ私が“ウソをついた”かのようであった。けれども、私は確信を持っていた。一日、日を開けて否定したのは、否定せざるを得ない状態となったからに違いなかった。けれども、そのスポーツ紙以外のすべてのマスコミが“否定報道”に廻ったので、有吉氏の言葉が真実となった。しかし、現実はそうではなかった。交際はその後も続いて、結局数年経ってから、二人は結婚したのだ。わたしは「正しいこと」を言い、有吉氏は「ウソをつき通して」いたのだ。
2023-02-12
どうも「東京五輪」以降、オリンピック開催には“前向きな話題”がない。これまで“冬季オリンピック招致”に手をあげていなかったスウェーデンが「招致検討開始」を宣言した。北欧はいうまでもなく冬季のスポーツ競技開催に相応しい環境が整っている。スウェーデンが2030年の開催に対して前向きなら、それを推進した方が良い。「日本」の場合、あまりにも「東京五輪」に関する“黒い関係”が噴出しすぎたので、その記憶が消えない段階で“真っ白い開催”は期待できそうもない。元々最近の五輪機構はクーベルタン男爵の“初期の誓い”を忘れていて“純粋なスポーツの大会”ではなくなっている。巨大なマネーが動き、各国の“政治・経済・主義思想”が暗雲を垂れこめている。個々のアスリートたちに「罪」はないが、巨額マネーに群がる輩が多すぎる。本来であれば、開催国としての芸術や文化や科学をアピールする祭典でもあったが、時代的にもさまざまな思想・信仰・主義が交錯し、今や“見せかけ”のものに変わりつつある。「東京五輪」は予期せぬ“コロナ禍”という災難とも重なって、大会そのものが“自由の象徴”ではなくなった。2030年になれば、もうコロナもウクライナもインフレも収まって“穏やかな世界情勢”に変わっているかもしれないが、招致そのものの前段階で“黒い噂”から完全脱出ができていない以上「札幌」として前向きの検討はしてほしくない。どのみち“黒い噂”が出現するのなら、頭からそういう可能性がある「カジノ地としての誘致」を積極的に進めてもらいたい。札幌がムリなら、小樽とか、苫小牧など、近隣の地域で考えるのが良い。その方が継続的な経済効果も期待できる。いまや「北海道」は世界各国の人々に“魅力的な場所”として広く知られるようになった。「東京」「京都」「大阪」とはまた違った“魅力的な地域”となりつつある。もちろん、冬季オリンピック開催は、それをアピールする絶好の機会ともいえるが、その前段階で「札幌には黒い雪が降り積もっている」と報道される方が、むなしく辛い。最初から“怪しい部分”を備えているカジノの地としてであれば、富裕層としての外国人たちが大挙押し寄せ、夏は避暑地として、冬は“雪まつり”とスキーのメッカとして、日本の経済に寄与するところが大きいのではないだろうか。
2023-02-11
政府が“マスクの着用判断”を3月13日から各個人にゆだねることになった。そのこと自体は、大いに悦ばしい。ただ「卒業式をマスク無しにさせてあげたい」という奇妙な理由がいちばんのようだ。3月半ば以降というのは、学校でも役所でも企業でも“4月からの切り替え時”にむけ各種の準備が始まる時期で、離れていく仲間同士で“集まる機会”が多い。つまり、これまでなら“もっとも感染しやすい時期”として、マスク着用にうるさかった時期だ。それなのに、その時期から自由にさせる。まあ、よく解からないが、マスクをしなくても“白い眼で視られない”のは大変に良いことだ。私が思うに、日本人は“他人を気にする”人が多いので、一気にマスクを外す人は少ないのではないかと思う。他の人たちのようすを見て“大多数に従うカタチ”で徐々に外していく。おそらく、そういう感じになっていくはずだ。4月は4月でその初旬は“多くの人が一堂に集結する”機会が多い。だから、そういうことも含めて考えると、4月初旬を過ぎて街中が暖かくなって、花々がいっせいに咲き誇るような時節になれば、自然と南の地域から“桜前線”のような感じで“顔を晒していく”ようになっていくだろう。もっとも、それは同時に花粉が舞い飛ぶ時期とも重なるので、花粉症の人は時期的に多少ズレるかもしれない。結局、ほんとうの意味での「個人の判断」は一か月遅れの4月13日で、花粉症的な人たちは2か月遅れの5月13日が、それまでの仮面を剥ぎ取って“素顔を晒す時期”となるのではないだろうか。花粉症でなくても“花見”とか“ゴールデンウイーク”とか、人が集まりやすく、まだまだ気の抜けない時期が続くので、慎重な人たちは“マスクマン”を継承していくはずなのだ。つまり「日本」にとっての解禁日は5月13日なのかもしれないのだ。そして、この時期になっても、まだ「マスクを外せない人達」に関しては、別な観点で“心配な部分”を持っている。つまり、もう、人前に出るのに、マスクを外し顔を晒してしまうということ自体が「怖くてできない」という人たちが出てくることだ。特に、子供達の中で、そういう子供たちが必ず出てくるような気がする。幼い頃に植え付けられた記憶は、そう簡単には抜けていかない。「人前でマスクを外してはならない」という観念が、こびりつき離れないようになってしまっている可能性はないのか、丁度、プロレスのマスクマンが「絶対に素顔を見られたくない」と本能的に思って顔を隠す……それと同じ児童が必ず出て来るに違いない。
2023-02-10
当たり前の話だが、世の中には“善い事”をする人も沢山いるが“悪い事”をする人も沢山いる。いちばん困るのは“悪い事”をする人たちが、必ずしも“悪い事をしている”ように視えないことである。たとえば今回の「おもてなし会」だ。昔から“悪い奴”には、この種の手法で“悪事”を働く場合が多い。つまり、純粋に無料で“おもてなし”をするのだ。だから、そういうことに慣れていない人は「こんなに“おもてなし”をしてくれるような企業なら少しくらい出資してあげても良いかな…」と考える。社長の立派な経歴、立派な業績、立派な交友関係、多数の賛同者・支持者たち、華やかな豪華客船の舞台……どうして、そこが“詐欺の舞台”だと思うだろうか。そこに登場した芸能人などのショーは偽物ではない。もちろん、そこで振舞われる飲食物は一流ホテルのそれと同様なのだ。そして「毎月、出資金の4%の金利が振り込まれてくるのです」と説明される。実際に振り込まれている“預金口座”の通帳コピーまで見せながらの説明だ。投資金である“出資額”はその人によって異なるが、300万~1000万くらいが多かったようだ。いまのところ3000名くらいの被害者(出資者)がいるという。「投資詐欺」という犯罪は、だまされたと解っても、だから“返金される”という保証はない。なぜなら“投資”と解っての出資であり、投資というものにはリスクが付きまとうことは誰でも知っているはずだからである。今回、逮捕されたFRich Quest社長の森野広太(38歳)は総額200億円以上を集めていたとも言われている。500万円を出資していた女性によると、最初のうちは毎月20万円「振り込まれていた」ということなので、そうすると少なくとも自転車操業以前の業務に関しては「嘘はなかった」ということになってしまう。こういう「最初のうちは記述や言葉通り」の場合に、完全なる“詐欺”として全額返還を求めるのは極めて難しい。そういう点では“振り込め詐欺”のような頭からだます形ではなく、あくまで投資としての“出資金”であったのは間違いがないからだ。20代から30代の“若い出資者たち”が多いという。当然、借金をしての出資金も多い。「おもてなし」という言葉は、どうも犯罪と結びつきやすいよう出来ているのかもしれない。
2023-02-09
人間だれだって実際には“危ない”要素をどこかに持っている人に“惹かれ”しまう部分がある。だから昨日、ビートたけし氏が浅草の東洋館で行われた「ビートたけし杯」後のトークでいま活躍中のTV界の芸人たちに対して「芸人としての危うさがない」「コンプライアンスばかり重視するからテレビなんて面白くもなんともない」という趣旨の発言をしていた。確かにその通りで、コンプライアンス重視のTVは面白くない。芸人とか、お笑いだけでなく、あらゆる分野がそうなっている。ドラマにしても歌謡曲にしてもバラエティーにしても“危うさ”のないものばかりで、要するに“毒”にも“薬”にもならない内容が多い。そういう意味では横山やすし氏や寺山修司氏や江頭2:50氏などは“ギリギリ路線”の常連で、何度も警察に捕まり、かといって“ほんとうの悪い事”をしているわけではなく、そういう意味では「バカ」と「悪ガキ」の中間のような「ほんとうにしょうがない奴だなあ」と酒を酌み交わしたくなるような“危うさ”を持っていた。たとえば寺山修司氏などは“天才詩人”として脚光を浴び、若くして第一線の芸術家となったが、その一方では他家の“屋根裏”に潜り込んでの「覗き」を繰り返し、何度も逮捕されていた。懲りないというか、病気というか、愚かというか、その風貌も合わせて“何とも言えないコミカルさ”があった。もちろん「覗き」は立派な軽犯罪だが、ふつう、大人は危険を冒してまで他人の家に入り込まないし、そんなにまでして“覗きたい”とも思わない。ただ“覗かれて”死ぬ人は居ないので、そういう意味では“可愛い犯罪”ともいえる。江頭2:50氏にしても自らが興奮してしまうと、ところかまわず“露出”してしまう癖があるようで、その罪で何度も捕まった。一度は確かイスラム教の聖地で裸となって大衆たちから“袋叩き”にあった。大衆の前で裸となることは“神に対する冒涜”と考えるのがイスラム教徒なのだ。それをわきまえず裸となったのだから、袋叩きは当然だった。横山やすし氏の場合は極端に神経過敏で頭に血が上りやすく“すぐ喧嘩する”ことで有名だった。誰とでも喧嘩をするので危険極まりない。丁度、鎖のない場所で「猛犬を飼ってはいけません」という貼り紙を出しておきたいような人物だった。とにかく、そういう“危ない人物”が昔は多かった。コンプライアンスということを持ち出していたら、すぐに消えてしまうような人物がたくさんいた。それでも、大らかに“受け入れていた”のが「昭和」という時代だった。人は、なぜか、そういう人物を見て「まだ自分は大丈夫だ」と安心するのだ。
2023-02-08
なんとなく「ハーフの時代が来るのかな」と思った。日仏ハーフの「初代・尾上眞秀」襲名初舞台のニュースが流れていたからだ。女優・寺島しのぶ氏の長男であるが、歌舞伎俳優としての本格デビューを飾る。幼いころから舞台そのものは既に経験済みで和服姿も似合っている。歌舞伎の世界だけでなく、さまざまな日本の“伝統的な世界”において、外国人やハーフの人たちが“その技”や“秘伝”を継承しつつある。どちらかというと、これまでは純潔の外国人が“継承していく形”が多かったが“血統”という点から言えば、或いは“わび・さびの本能”という点から言えば、日本と他国のハーフである方が、身に付きやすいのではないか、という気がしている。大昔、映画で“眠狂四郎シリーズ”を見ていた時、元々は柴田錬三郎氏の小説だが、外国人宣教師とのハーフとして生まれた“剣豪の達人”として眠狂四郎は世間に知れ渡っていく。演じていた市川雷蔵氏は“ハーフ”ではないが、何となく独特な雰囲気を持っていた。自分の出生が“バテレンの血”であることに狂四郎は葛藤する。確かに鎖国中で外国人が居ない国において、ハーフとして“生まれ育つ”ということは煩悶すべきことだったに違いない。それでも“異色の剣豪”として「円月殺法」と呼ばれる“独特の刀捌き”を身に着けて成長する。私が言いたいのは、ここなのだ。つまり、ハーフの人たちは、ただ単に“日本の伝統”をそのまま継承するだけではない。それを身につけながらも、もう一つの母国につながる“何らかの技”を取り込んで集大成していくように思えてならないのだ。そういう意味で、わたしは純潔の外国人が“日本の伝統”を身に着けるよりも、日本人とのハーフの子が“日本の伝統的技法”を身に着けていく方が、発展性があるよう思えてならないのだ。尾上眞秀氏自身が「父親の母国のフランスでも歌舞伎を演じたい」と語っている。それは、ただ単に日本の歌舞伎役者がやってきたような“伝統芸”をそのまま異国に投影するのではなく、もしかすると、何らかのプラスアルファを加えた形で、或いは斬新な改良を加えた形で“もう一つの歌舞伎”としての上演になるのではないだろうか。
2023-02-07
日本では“巨大な地震”が発生すると、必ずといって良いほど、その前兆として知られる「地震雲」の写真が投稿される。ただ「地震雲」にはいろいろあって、必ずしも、その特徴が一律ではない。その点で、明確な“科学的予兆現象”としては認可されていない。けれども、必ずといってよいほど“出現している”ことは確かなのだ。昨日、トルコ南東部でマグニチュード7.8の“巨大地震”が起こった。元々トルコはイタリアとかインドネシアとか日本などと並んで“地震の多い地域”として知られる。今回の地震は、その規模が大きかったこともあって、近隣諸国にも災害が及んでいる。特に隣国シリアも甚大な被害を受けた。両国合わせて、その死者は既に2500名以上に及んでいる。現時点での死者数はトルコ国内で1651名、シリア国内で978名となっている。また建物の崩壊がトルコだけで5600棟に及ぶ。その揺れはまだ収まったわけではなく、マグニチュード6以上の余震が、これまで6回以上に及んでいる。しかし、災害救助隊は向かわないわけにはいかない。日本からも先発隊として既に18名が旅立っている。まだ揺れは収まっていなくても、それが外国であっても、旅立つのが災害救助隊なのだ。地震の予兆は、実は先月下旬に囁かれていた。なぜなら、だれも観たことがないような“異様な雲”がトルコ上空に出現したからだ。真っ赤な“巨大な口裂け型の雲”であった。観ようによっては「UFO」のようにも観える。とにかく“不気味な印象”なのだった。だから、だれ言うとなく「巨大地震の前兆なのではないか」という噂が立った。けれども、不安は的中せず、時が流れるかに思えた。その矢先、雲の出た地域とはズレた地域である南東域で巨大地震は発生した。エジプトのカイロでも“揺れ”を感じたというから、そのすさまじさが判る。もちろん“地震”というのは“人類共通の敵”だ。つまり「地球人の敵」なのだ。その「地球人の敵」には、地球人が一丸となって立ち向かわなければならない。欧州連合がではなく、もちろんロシアも中国も北朝鮮も加えた「地球連合」が立ち向かわなければならない。戦争などに使うお金があったら“地震撲滅”“地震撃退”のためにお金と頭脳と時間を使うべきなのだ。あの「口裂け雲」が「UFO」のようにも観えたのは、それを暗示している⁉
2023-02-06
言葉としては「日の丸飛行隊」という言葉は、あまり好きではない。なぜなら太平洋戦争で散っていった“ゼロ戦パイロットたち”を連想させる部分があるからだ。ただ、そういう連想など生じるはずもない若いジャーナリストが、今から51年前の“日本のスキージャンパーたち”に与えられた称号である「日の丸飛行隊」になぞらえて、今回の日本の女子メンバーを「日の丸飛行隊」と称えたのは共感できる。確かに51年前、男子の方ではあるが札幌オリンピックで日本の笠谷「金」金野「銀」青地「銅」のジャンパーたちが表彰台を独占し「日の丸飛行隊」と呼ばれた。実はこれよりも少し遅れるが、日本の各メーカーはその“勢い”のすごさで「日の丸半導体」と呼ばれていた時期がある。今やアメリカや台湾や韓国が世界をリードしている“半導体分野”だが、70年代から80年代後半にかけては「日本」がトップを独走していた。つまり「日の丸……」には“独占的な強さ”という風な意味合いが込められている。ところが、近年の日本には“そういうもの”がなかった。スポーツの世界でも「柔道」や「レスリング」で“最強”を誇った時代は忘れ去られつつある。そういう意味では本当に久しぶりでもあり、懐かしくもあるのが今回の「日の丸飛行隊」という称号なのだ。女子スキージャンプの伊藤有希氏「金」丸山希氏「銀」高梨沙羅氏「銅」の三人だ。正確に言うと「日の丸飛行隊」の名称は1998年の長野オリンピックでも使われていた。但し、その時には“表彰台の独占”ということはなかった。その“長野大会”は、わたしに“嫌な記憶”を思い起こさせる。実は、その大会が中継されて日本中が固唾をのんでジャンプを見守っていた時、わたしは或る地方局のワイドショーに占い師として生出演をしていた。当時、なぜ私が呼ばれたのか、あまり記憶がないが、ハッキリしているのはそのワイドショーのスタッフ達までもが“長野のジャンプ競技中継”の方に夢中で、自分たちのワイドショーより“そっちの方”のことをあれこれ話して盛り上がっていた。もちろん、わたしは自分の出演したワイドショーを見てくれている人などいるはずもないのは解っていたが、それでも“占い師”として売り出し中の感じだったので、すごく緊張して複雑な心境だった。誰も見てくれないチャンネルで、占い師としての“晴れ舞台”に雑に扱われながら何を占ったのか、何を語ったのか、まったく憶えていない。
2023-02-05
当たり前の話だが「仏壇」というのは存在している住宅もあれば、存在していない住宅もある。どうして存在している住宅があるかといえば“先祖たち”を身近に感じている家族だからだ。もしも、先祖たちを「身近に感じない」なら暮らしていく上では“不必要なもの”ということになる。現代における日本の“住宅事情”を考えると、大型の仏壇はどんどん“不必要なもの”へ後退しそうな気配にある。現代は「ペットたち」の方が“家族”に昇格していて、今や「先祖たち」は“縁の薄い存在”として後退りしていく。わたしは或る事情から、久しぶりに我が家の「仏壇」を買い変えようとしている。もちろん「仏壇」というのは“先祖の部屋”だから、それなりの“大きさと立派さ”を先祖たちは望むに違いない。ただマンションで暮らす場合、通常“仏間”と呼ばれるものはない。だから、俗にいう“上置き型の仏壇”で大きいものが丁度いい。仏壇の“下の部分”はそれこそ暮しには“不必要なもの”で「先祖たち」の部屋にもなり得ない。ところが仏壇店に出向くと「これがあるから見栄えが良いんですよ」などと言われた。だが“先祖たちの部屋”なのだから、蝋燭や線香の詰まった真っ暗な個室は先祖たちだって“不要”と考えるに違いない。もう一つ「宗派による仏壇・仏具の違い」というのが私にはわからない。第一、先祖は“一つの宗教・宗派”と決まっているものだろうか。わたしは父親が生前の時に「禅宗」と言っていたような記憶があるのだが、その父親自身は晩年、兄の影響もあって新興宗教に染まった。それに母方の宗教はぜんぜん違った。要するに“先祖”と言ってもどれを取るかで宗派など異なる。それなのに、これこれの宗派はこれこれの仏壇などと決めつけるのはおかしい。要するに“広義の先祖たち”すべてが悦んでくれるような仏壇が好い。そう思うと、やはり「金仏壇」が華やかで良いのか、それとも落ち着いた黒檀や紫檀の仏壇が良いのか迷ってしまう。最近はマンション向けに「家具調仏壇」とか「モダン仏壇」とかが出てきたが、実際に見てみると、少しもモダンではないし、現代的デザインでもなく、むしろ“寂しい仏壇”という印象を持った。それにモダン仏壇は総じて小さすぎる。小さくて寂しい感じなのに価格は高い。あれでは先祖たちは悦ばないだろう。やっぱり「金仏壇」か「紫檀仏壇」のどちらかにしよう。広くて華やかで飾り物がたくさんついている部屋で毎日、供え物を受けて、楽しく過ごしてもらうのが良いに違いない。
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