11月, 2021年

「暗号資産の顔=大谷翔平」の人気運は変貌⁉

2021-11-18
大リーグの大谷翔平投手が暗号資産(仮想通貨)の取引所の大手FTXと“長期的なパートナーシップ”を結んだ。日本人の一般的な概念として「暗号資産(仮想通貨)」は“危ないモノ”の代表的な存在であり、それを普及させる役割ともいえる“広告塔”としての契約は、心情的にあまり賛同できない人が多いかもしれない。ところが、大谷氏とFTXとはすでに関わりを持っていた。夏に行われたメジャーリーグ「オールスターゲーム」の“ホームラン競争”のスポンサーとしてFTXが巨額の賞金を与えているからだ。大谷氏はホームラン競争でトップとなるか期待されたが、結局、敗れた。日本では「暗号資産」に関してはあまり“良いニュース”が少なく、どうしても“危ないモノ”“ギャンブル通貨”としての観方が広がっている。もし大谷氏は日本に居住していればFTXと“長期契約”は結ばなかったかもしれない。けれども今や彼は“国際人”であり、日本人的な“要素”を残しながらも国際人としての視野が強まっている。契約締結後にFTXの創設者バンクマン・フリード氏は注目すべき次のような言葉で悦んだ。「今後さまざまな慈善活動で協力できることをうれしく思う」もちろんFTXは暗号資産の企業で“慈善団体”ではない。暗号資産の一つであるビットコインの“裁定取引”で巨富を得て、自らの暗号資産取引所を創設して2年半にしかならないフリード氏は“創設者”といっても、まだ29歳の若者なのだ。そんな若さで、しかも2年半という短さで、FTXを世界有数の暗号資産取引所にまで成長させた。その資産価値は3兆円以上で文字通りの“大金持ち”である。当面の彼の目標はFTXのブランド価値を揚げることと、デジタル資産への認識を世界規模で高めていくことにある。けれども、彼の最終目的は“そこ”にあるのではない。彼は自分のお金を“慈善団体に寄付すること”を志向している。これは“世間的な受け”を狙って言っているのではなく、彼の信念でもある。だから彼は“協力できる人物”と見込んで大谷翔平氏と手を結んだのだ。おそらく、彼は日頃の言動から、大谷氏が“金銭”そのものにはそれほど興味がなく、自分の目標とする“高み”にのみ挑んでいこうとするタイプであることを見抜いたのだ。日本では依然として“危ないモノ”としての認識が強い暗号資産だが、果たして大谷翔平&バンクマン・フリードのコンビは、その認識を変えて行くことが出来るだろうか。私は大谷氏の持っている“変動運”の大きさが、そのまま暗号資産にも反映されそうな、そんな気がしてならない。

SNSの「殺害予告」は“即逮捕する”のが妥当⁉

2021-11-17
近年、有名、無名を問わず、SNS上で“心無い書き込み”をする例が目立つ。政治家、芸能人、アスリートなど、世間に“顔”をさらして生きている人は、その“心無い書き込み”の標的となりやすい。書き込む側は、或る種の“ストレス発散”的な意識もあるのかもしれないが、書き込みが無視されると徐々にその表現はエスカレートしていく。その究極の形が「殺害予告」だ。有名人がSNS上で“予告”を受け取った場合、その対処法は大変難しい。それが冗談なのか、本気なのか、どういう意図なのか、判別しにくいからだ。一応、警察や職場関係に相談する人もいれば、そのまま放置する人もいるだろう。昨日、中日ドラゴンズの福敬登氏が、6000万円で一発サインしたが、その記者会見の席上、自分に対して「おびただしい殺害予告が来る」と悩みを明かしている。これまでにもアスリートやアーティストなどで「殺害予告」を受け取っている人は多い。芸能人の中には、それを警察に相談して、既に“その悪質投稿者”を特定できた人もいる。ただ今回の場合、おびただしい数が来るということで、一人だけなのかにも疑問がある。単なる“中傷”や“誹謗”と違って「殺害」など本人に危害が及ぶ可能性あるものは、あきらかな犯罪行為に当たる。刑法的には「脅迫罪」や「威力業務妨害罪」として誰なのかを特定できれば逮捕できる。仮に、それが“単なるイタズラ目的”とか“ストレス発散目的”だったとしても、実際にその後で“殺された事例”も存在するので、冗談などと言っても通用しない。実際、ここ2~3年間のあいだだけでも、アニメ監督に対しての殺害予告、将棋の若手棋士への殺害予告、芥川賞作家への殺害予告が、それぞれ後になって特定され、逮捕されている。ドラゴンズの福投手の場合、書き込んだ人物を特定して「犯罪者にしたくない」という気持ちが働いているのかもしれない。けれども「おびただしい数が来る」というのは、どう考えても異常で、放っておくべきではない。それとマスコミも、このような事件の場合、その有名人の方は名前を出して報道するが、その後に“逮捕されたという事実”に対しては、ほとんど報道しないか、報道しても片隅に出す程度だ。これでは犯罪の抑止力にならない。もっと、大きく報道して、それが“れっきとした犯罪行為”であり、それを犯せば“それ相応の罪”を受けなければならないことを、もっと社会に浸透させるべきである。

「福男」より「福御籤1番」が御心に適う⁉

2021-11-16
兵庫県の西宮市にある西宮神社と言えば、毎年1月10日に開門と同時に走り出して“本殿迄の一番乗り”を競う「福男選び」で有名である。実際には1番から3番までに到着した人物を、その年の「福男1」~「福男3」と認定して“その年の福を掴む”証としての“認定書”や“御神像”や“各種副賞”などが授けられる。近年はマスコミ取材も多いので“幸運”を得られそうな雰囲気に包まれる。ただ“速さ”を競うので足を滑らせるとか、転倒して怪我をしてしまうケースも多い。午前6時のスタートだが、まだ若干暗いからだ。元々“走る”ことを意図したものではなく「参拝一番乗り」を競う行事だったので、走るために用意された参道ではない。それなのに、どうして百万人もの見物客が集まるのかというと、ここは全国の“えびす信仰”の総本社でもあるからだ。毎年1月9日~11日までの三日間「十日えびす」の祭典が開かれ、その行事の一つとして俗に「福男選び」と呼ばれる“開門神事”が行われる。したがって昔から“商売の神様”として信仰された「えびす様」めがけ商売・事業を行っている人達が全国から集まってくる。ところが昨日、来年1月10日の「福男選び」はコロナの感染予防を踏まえて2年連続で中止することが公表された。どうしても人々の密集を避けられない「福男選び」は慎重を期さなければならない。神事で「感染者が出た」ということになれば、神社そのものの権威にも関わる。ただ私は「福男」そのものの在り方も、考え直してよい時期に来ているような気がする。大きくは報道されなくても、毎年必ず、転倒などで怪我人が出る。真冬の夜に開門を待つ、という在り方も風邪をひきやすい環境と言える。元々が“走る”ことを意図していたなら別だが、そうではない。他の神社のように、開門していなかったから密集する形になったのだ。さらに近年は「福男」は「不幸になる」という都市伝説的なものも一部に流れている。“速さ”だけを競ってしまうと、ほんとうの「福」と言えるのかどうか疑問が生じないでもない。そこで1月10日の午前6時から参拝する人たちに“福選び”用の「特別御籤」を作って、その籤(くじ)の中に「1番」~「3番」の「福御籤」を入れておいて、その当選者を男女関係なく、その年の「福神」が授かった人物とする方式に変えれば、ほんとうの意味で「福」を授けられるのではないだろうか。

インドの「学校閉鎖」“コロナ”ではなかった⁉

2021-11-15
日本では“コロナの新規患者数”が劇的に減少したが、同じことはインドでも起こっていた。インドは5月のピーク時には毎日40万人もの新規感染者が表われ、4000人もが亡くなっていった。もちろん、インド各地で徹底的なロックダウンが行われ、街は一時的に“廃墟”のように静まった。そのかいあって現在は一日1万人程度の新規感染者数に収まっている。日本でなら“大変な数”だが、インドの場合には“劇的な減少数”なので、ようやく街に“日常が戻った”かに思われていた。ところが、今度は別の問題が浮上しているのだ。インドの映像を観れば誰もが感じるように、元々大気汚染で都市部の空気は淀んでいる。特に首都ニューデリーはひどい。あまりの大気汚染の悪化を受けて、子供たちの健康を守るため13日から一週間の“学校閉鎖”が発表された。もし、このままの状態が続けば“学校閉鎖”だけでなく、再び「ロックダウン」に踏み切らざるを得ないとの観測もある。せっかくコロナの方は収束に向かいつつあるのに、今度は“大気汚染”という「人工的な病」に街が破壊されつつある。これまでにもニューデリーは世界屈指の“汚染都市”として有名だった。特にこれから冬にかけては工場の煤煙、車の排ガス、焼き畑農業の煙など、汚染する材料がそろっている。元々“密集型の都市”であるだけに、都市部を大気汚染から守るのは容易ではない。中国の北京も同様な問題を抱えているが、こちらの方は一足早くスモッグに苦しみ、さまざまな対策を打ち出して必死に“大気汚染”から逃れようと方向転換し始めている。日本では、いち早くそれに気付いて今では“大気汚染”から脱出しつつある。世界的にも“クリーンエネルギー政策”に舵を切り、何とか地球環境を守ろうと必死なのが現状と言えるだろう。私は昔、初めてフィリピンへ行ったとき、現地の方に「景色のきれいなところに連れて行ってあげる」と言われ、海岸沿いに行ったが、その海岸沿いを埋め尽くしているゴミの浮遊物に言葉を失ったことがある。ここ1~2年、私たちは“疫病”と言って良いコロナに翻弄されたが、もしかすると今後訪れる“第二の大気汚染”ともいうべきものを一番恐れなければならないのかもしれない。

「元婚約者」は“ヤバい金融業者”だったのか⁉

2021-11-14
私はこの話に対して最初から疑問を感じている。小室圭氏の母親の“元婚約者”と呼ばれる男性と母親との“金銭問題”だ。小室氏と元婚約者とは弁護士を交えて11月12日に会い「解決金としての400万円を支払う」ことで双方“合意”したと伝わった。ところが、その交渉の経緯を一部写真週刊誌上において“元婚約者”が詳報しているらしい。これまでにも“元婚約者”の主張などは、逐一その週刊誌の記者が「代理人」という形で報道している。今回は、双方とも“合意”したはずなのに、なお“婚約者側の考え”など報道していることに、オウム報道などで知られる江川紹子氏がキレた。小室氏側だけ実名報道するのではなく“元婚約者”も実名報道されるべきだというのだ。もっともな批判で、この問題に関しては常に“元婚約者”は週刊誌記者を“代理人”に立てて来た。そのこと自体、本来、不平等である。小室氏の母親の名前を出すなら、元婚約者である自分の名も出すべきなのだ。自分は誰からも“批判されないような形”にして、自分の側の主張を“雑誌報道”という形で述べるのは、そこに何らかの“虚偽”や“誇張”が含まれていたとしても、世間的には“事実”としてまかり通りやすい。大体、恋愛中や婚約中の男女間において“高額なお金の貸し借り”は極力避けるべきであるし、もし行うのであれば“戻ってこない可能性”も受け入れたうえで行うのが「暗黙のルール」と言って良いだろう。実際、その結果として「貸したお金が返ってこなかった経験の持ち主」は、世の中にごまんといる。決して、元婚約者だけの体験ではない。もちろん、その中には「あきらかな詐欺事件」に匹敵するものもあれば、貸し借りが判然としていないケース、自ら“貢いだケース”などもあって、法律的な判断はなかなかに難しい。したがって、元婚約者は「貸したお金」との認識で、小室氏側は「贈与されたお金」と認識していたとしても、その受け止め方自体は特異なわけではない。今回の場合、双方納得した形で「合意」しているのだから、それ以上、貸した側がどうこう言うのはおかしい。気持ち的には割り切れないのかもしれないが、もう「終わったこと」なのだ。それでも我慢できないなら、もう週刊誌など通さず弁護士をつけて、改めて法廷で争う以外にない。それを行わず、終わった後になっても“何かと因縁をつける”のは、ヤバい人達のする仕事である。そういう人達と同列にならないためにも、もう、新たな旅立ちをした方が良い。

一年間に「14の生命保険加入」は不幸を呼ぶ

2021-11-13
世の中にはさまざまな“偶然”というものが存在する。けれども、偶然も「たまたま…」とは言えないほど数が多いと信用してもらえない。ハンガリーの東部の村に住むシャンドール・Csに11月7日、長く続いていた裁判の判決が下った。2014年7月30日に起きた駅付近での電車事故による“両脚切断”は、保険金を得ようとした故意の事故であり、訴訟費用72万円の支払いと5年間の懲役刑を言い渡す、との判決が下った。もし、この訴訟が“故意の事故”だと認められなければ、保険会社側の敗訴となって、本人には3億6600万円もの大金が転がり込むはずだった。シャンドールの電車事故が“保険金目的”とされた一番の決め手は、一年間のあいだに14もの生命保険に加入していることだった。状況証拠として、確かにこれは怪しい。けれども本人は「生命保険の方が銀行預金より利息の面で有利だったから変えて行った」と証言している。彼はまじめな技術者で、精力的に仕事をしていた。金に困っていたわけでもなかった。自ら飛び込んだのではなく「路上のガラスに滑って転倒してしまったのだ」と証言している。実は当初、電車の運転士は「歩いていて突然倒れたように見える」と証言していた。ところが後になって「飛び込んできたのだと思う」と証言を変えている。判決では、あとからの証言の方が採用された。確かに一年間に14もの生命保険への加入は一般的におかしい。ただ「預金代わり」として考えるなら、そういう分散方法も有り得ない話ではない。仮に電車に飛び込もうと考えた場合、そのタイミングはなかなかに難しい。死ぬつもりなら簡単だが「両脚切断」のみを求めていたのだとすれば、何度か練習を重ねて、タイミングを見計らいながら、その位置を確かめながら行わないと、死亡してしまう。彼には妻もいて仕事も順調だった。死を覚悟する理由がないのだ。彼の仕事は設備工事の仕事なので、足が不自由では仕事にならない。実際、車いす生活となった彼は、現在法律を勉強していて、自分のような立場に置かれた人たちを将来的に助けたい、との希望を持っている。したがって、この判決は“常識的なもの”ではあるが、真実であるかどうかは、不明のままなのだ。実際、マスコミにも本名は公表していない。もしかすると、14の生命保険会社たちの“常識的主張”は、正しくないかもしれないのだが、それを覆せる“明確な証拠”もない。教訓として、あまりにたくさんの生命保険に加入するのは“疑いの素”だということだ。

血迷う刀「万死に値する人間」叫ぶ“新選組”⁉

2021-11-12
ときどき政治家には“難しい言葉”を使う人がいる。10日の国会内での記者会見場で「れいわ新撰組」の山本太郎代表は、副総裁である麻生太郎氏に対して「万死に値する人間としか言いようがない」という表現を使って批判した。党内の中での発言でもなく、酒の席での発言でもない。記者会見で述べたということは、それが“公の場”で使われるのにふさわしい表現だと、本人が思っていたからに違いない。ちなみに普段われわれが使っている表現ではないので、まず、その意味からご説明する。これは文字通りに解釈すれば「一万回殺されても仕方のない人物」というような表現である。記者会見であったのに、その表現の奇妙さを誰一人“問い質さなかった”ことが不思議なのだが、なんとなく“そのときの雰囲気”で受け入れてしまったのかもしれない。実は、この表現には“続き”があって、同じ「れいわ新撰組」の大石あきこ議員がツイートで“マイナンバーカードのポイント付与”に関連して「これは万死に値する」と表現している。本来は“人物”に対する表現なので、個別の政策に使うのはおかしいのだが、多分、自分たちの党の代表が“用いた表現”を支持する意味で意図的に使ったのかもしれない。もちろん、やり玉に挙がった麻生太郎氏は日頃から“失言”や“誤解”や“皮肉”の多いことで知られる。永い財務相時代に日本の経済が上向かなかったことは事実としてある。けれども、日本の経済が上向かなかったのは彼一人のせいではない。確かに、あらゆる予算決定の鍵を握っていたかもしれないが“金庫番”としての苦労も多かったはずだ。それに対し名指して「一万回殺されても仕方のない人物」という意味の言葉を浴びせても良いものだろうか。「れいわ新撰組」は当然、幕末の「新選組」にあやかったのだと思うが、本来、新選組は“幕府を守る武装集団”で、そういう意味から言えば“政府側”を守護するのが本来の役割だったのだ。確かに“血気にはやる若者たち”が多く、刀を抜きたがったかもしれないが、現代は“言葉による傷つけ”は許されない時代に入っている。なにしろ「れいわの新選組」なのだ。もう少し、人間としての“尊厳”を尊重するような言葉択びをしないと、せっかくの支持者たちも失うようなことになっていくのではないだろうか。

天上「魂」は帰り「六星占術」も消滅する⁉

2021-11-11
1980年代後半から2000年代半ばにかけ“一世を風靡した”占術家・細木数子氏(83歳)が11月8日に自宅で“呼吸不全”により亡くなられたことが養女である細木かおり氏により明らかにされた。細木数子氏の場合、単なる“占い師”というより“TVタレント”としての側面、及び“事業家”としての側面が強い。近年は自分の事業を全面的に養女である細木かおり氏に継承して引退し、余生を愉しんでいたらしい。彼女によるTVの占い番組は大ヒットし「ズバリ言うわよ」は流行語にさえなった。独自の占法である「六星占術」はさまざまな形で書籍化され、その累計部数は1億部とも言われる。元々17歳にして水商売の世界に身を投じて巨富を築いたが、男に騙され10億円の借金を背負った。その窮地にある時に身に着けたのが運命学(占術)だった。そしてゼロから再出発をし、再び“夜の世界”でいくつもの店を経営し、あっという間に借金を返した。同時に「占い師」としても徐々に名を成し『六星占術』の書籍の中の「大殺界」という言葉が“独り歩き”し始める。日本の場合「天中殺」とか「大殺界」とか“天国から地獄に突き落とす”タイプの占術理論が世間的には注目を集める。真摯な日本人にとっては、占いは“救い”を与えるものではなく“受難”を与えるものとして受け入れられやすい。だから、どちらかと言えば“説教型”“威圧型”の占い師が人気を集めやすい。「六星占術」そのものは四柱推命の“空亡理論”をもとに組み立てたもので、占いそのものとして特に“優秀”なわけではない。ただ日本人は“単純な分類”の占い、“〇〇さんと一緒”式の占いを好む。複雑・本格的な占いは国民性として深く浸透しない。さらに、もう一つ、細木数子氏は“占い師”である前に“銀座のホステス”であり、有名人を手玉に取ることにたけていた。女性タレントはあまり鑑定せず、男性のどちらかと言えば“強面”俳優などを眼力で捻じ伏せながら「地獄に堕ちる」などと平気で言った。当然、敵も作って、訴訟事件なども出て来たが、逆にそれが教祖のようなカリスマ性を高めた。つまり「六星占術」というのは、占術というより、彼女の「カリスマ六星教」という宗教に近かった。だから養女のかおり氏が継承したといっても、それはあくまで“カタチ”だけなのであって、彼女の背後に居る“細木数子”を崇めてのことに過ぎない。あと30年も経てば「六星占術」は闇のかなたに消えていく。別に、かおり氏の占いがどうこうではなく、致し方のないことなのだ。さて、細木数子氏のホロスコープには“時代の寵児”となった人物に対する興味深い示唆がある。2021年11月8日、彼女が亡くなった時、天空上では何が起きていたか。実は彼女のホロスコープではトランジット(移動中)の海王星が出生時の海王星と180度の位置に、同じく天王星が出生時の天王星に0度の位置に、同じく木星が0度の位置に、それぞれ達していた。天空は“時代の寵児”をこのような“偶然”で締めくくらせたのだ。

「山尾」or「菅野」“志桜里”に幸運なのは⁉

2021-11-10
元衆院議員の山尾志桜里氏が「菅野志桜里」に名前を変更した。正確にいうと、変更したというより“正しい名”を世間に公表した、と言った方が良い。元々が菅野志桜里で、結婚して山尾志桜里に変わり、離婚後は“通称名”として山尾志桜里を使い続けてきた、ということのようだ。そういうケースは一般にも多い。仕事の関係とか子供の関係とかから、離婚後も“前の姓”を使い続けている人達だ。もちろん今は離婚しても“婚姻時の姓”を使い続けることは法律的にも可能だ。ところが、離婚して“姓”を“婚姻前の姓”に書類上は戻したのに、諸事情から継続してしまうようなケースが意外なほど多い。例えば山尾氏じゃなかった菅野氏の場合、政治家というのは“名前が重要”で、広く知れ渡っている名前の方が投票されやすい。したがって結婚後や離婚後も“世間的に通りの良い名”を継続するようなことになりがちである。芸能人だってそうだ。どうしても、その名前にイメージが付随している。子供の頃、私は時代劇の映画が好きで、特に中村錦之助が主演する映画は必ず見た。ところが、そのうち「中村錦之助」という俳優はいなくなり「萬屋錦之助」に変わっていた。「名前が変わったんだ」とは理解できたが、どういうわけか、それ以降彼の映画を観たいとは思わなくなった。そうしているうちに、人気絶頂だった中村錦之助は「萬屋錦之助」となって以降、いろいろと問題やトラブルが続くように変わった。これは別に姓名学の“画数”の問題を言っているのではなく、あくまでも“名前が世間に与えるイメージ”として、姓名は「それぞれの生命」を持っていると思うのだ。だから、名前が極端に変わると、本人のイメージが大きく変化していってしまう。例えば「山尾志桜里」と「菅野志桜里」と、どっちが「志桜里」に“合う”かと言われれば「山尾」の姓の方である。それは「山裾を彩る山桜の里」をイメージさせる。それに対して「菅野」の姓は、別に悪いわけではないが「平野志桜里」とか「野村志桜里」とかの方が印象に残りやすい。姓名学的な面から言うと「山尾志桜里」は“人格14格”“総格34格”で「家庭運の良くない姓名」となる。したがって離婚は仕方がなかったのかもしれない。一方「菅野志桜里」の方は“人格18格”“総格46格”でこちらは人格の方は良いが、総格の方は良くない。したがって社会的にはそれほど変わらないが、対人面で言えば戸籍名の方が良い。戸籍名に変えたことによって、新たな交流が生まれるとか、新たな支持者が出現する可能性はある。但し、世間的なイメージは必ずしも良いと言えないので、良い雰囲気の“姓名”の相手と再婚するのが幸運を得る秘訣なのだが…。

未成熟「ナイトQUEENグランプリ」の方向性

2021-11-09
昨日、日本水商売協会なるところが主催して「第1回 NIGHT QUEENグランプリ」という“ミスコン”が開催された。全国のクラブ、キャバクラ、ガールズバー、スナックなどに勤務している人たちを対象としたコンテストで、単なる“売り上げ”とか“美しさ”とかだけではない“水商売女性としてのグランプリ”を決めようという趣旨のようである。本当は昨年からスタートする予定だったらしいのだが、コロナ禍によって一年延期したらしい。まあ、初めての時には何でもそうだが、このコンテストでも、その内容に関しては二転三転した節が窺われる。昔の“開催要項”を見ると、11月1日から応募を開始して年を跨ぎ3月8日にファイナリストを集め「グランプリが決定される」というふうになっていた。本物のミスコンに近い内容だった。ところが、実際には11月1日の応募開始なら、地方からだと間に合わなかったのでは……と複雑な気持ちにさせる11月8日“東京でのファイナリスト30人の本大会”という形となった。それでも、ミスコンらしく「ウォーキング審査」「仕事に対するスピーチ」などの審査もあり、その結果として勤めてまだ2年以内の女性たちを対象とした「ルーキークラス」と、2年以上10年未満の「プロフェッショナルクラス」と、業界歴10年以上の女性たちの「レジェンドクラス」で、それぞれグランプリや準グランプリを決定した。そして、最終的には“若くて美しい”ルーキークラス受賞女性たちが“真正面”に立つのではなく、“年季の入った”レジェンドクラス受賞女性たちが“真正面”に立つ形で第1回目を終えた。コンテストの趣旨から言って仕方がないのか。彼女たちを見て「何かが足りない」と誰もが思う。通常グランプリ女性たちに与えられるはずのトロフィーがないのだ。一応グランプリ女性だけにはティアラ(⁉)があるがトロフィーがない。だから受賞したのに、何となく寂しく視える。どうして、そういうことになったのか。もしかすると、トロフィー代を節約したのではないだろうか。忘れるとは考え難いからだ。そして、本来なら来年3月が“ファイナルステージ”だったはずなのに、急きょ変更したのは何故なのか。もしかしたら、コロナが急速に収束して「通常営業」に戻れることが影響したのではないのか。せっかく通常営業に戻れるのに「グランプリどころではない」という女性たちが居たのではないのか。第1回目なので、許されるところはあるが、せっかく“注目される企画”なのに、あまりにも“未成熟”なままスタートしてしまったような気が、私にはする。

「金なし男なし定職なし歌だけ」で歌姫誕生

2021-11-08
人間“やぶれかぶれ”の心境に達すると、何でも言える。そういう気持ちで挑んだ結果の歌謡コンクールだったが彼女は選考から漏れた。若い人たちに混じっての応募で何とか自分を印象付けたかった。その結果としての「金なし、男なし、定職なし、私にあるのは歌だけです‼」というプライドをかなぐり捨てた自己アピールだった。それなのに、今回も入賞できなかった。もう歌をあきらめようと思ったその時、今の事務所から連絡が入った。こうして、遅咲きの歌謡界の新人・藤井香愛(ふじいかわい)は29歳の2018年7月「東京ルージュ」でデビューした。十代でデビューする歌手が多い歌謡界としては、29歳のデビューはいかにも遅い。歌以外では特別アピールできる部分もない。そのせいなのか、デビューはしたがヒットはしなかった。ところが昨年、故・千家和也氏が遺した詞をもらって吹き込んだ「その気もないくせに」がじわじわと評価を高めて、スポーツ新聞でも大きく取り上げられた。「歌しかない‼」と嘆いていた新人歌手は、いつの間にか「令和の歌謡歌姫」と呼ばれるまでになっている。「藤井香愛」という名前は本名であるらしい。少し硬いが、ポップス系ではないので“地味に活躍し続ける”には好い名前だ。派手な世界であっても、地味な“硬い印象を与える名”を用いると、売れるまでに時間を要する。けれども、いったん、そこそこ売れてしまえば、その後は持続性があるのが特徴だ。ただ画数的には「家庭運の良くない名」となっているので、極力「男なし」の状態を持続した方が良い。こういう名前で恋愛に走るとか、結婚を求めるとかすると、急に仕事運が不調になったりするものだ。だから、念願の歌手になり「令和の歌姫」とさえ呼ばれるようになりつつあるのだから、しばらくは自分の“歌声だけ抱いて”生きていくのが良い。そうすれば必ず徐々に大成していく。その顔貌も明らかに眼尻の方が上がっていて「負けず嫌いの努力家」であることを表している。眉は一直線の「一の字眉」で、こういう人は対人・社交面に“苦手さ”を感じている場合が多いので、多くの演歌歌手たちのように、接客の部分で人気を集めるのではなく、あくまでも歌唱そのもので人気を出していこうとする方が良い。人間の「運」というのは“器用だから良い”というものでもない。「これしかできない」「これしかない」という人の方が、迷いがなく、よそ見することもなく、迷うこともなく、ひたすら“自分の天職”にしがみつく。そうして、いつの間にか“寄り道”をしていた人たちを追い抜いていくのだ。

“ドラマ共演”をすれば「熱愛」まで発展する⁉

2021-11-07
最近、活躍中の女性三人組「3時のヒロイン」の一人である福田麻貴氏がTV番組の中で、タレントの藤森慎吾氏に“愛の告白”を行って話題となっている。TV企画としての“告白”ではなく、偶然、出演者として“居合わせてのガチ告白”という形となった。藤森氏と言えば、昔はアナウンサーで田中みな実氏と“熱愛”を繰り広げていたことで有名である。一時は“結婚”もうわさされたが、結局、破局した。それからしばらくたって、今度は日本在住のブラジル人女性との“熱愛”が騒がれた。ところが最近になって、その女性とも破局したと報道されている。藤森氏は真剣にプロポーズしたのだが、受け入れてもらえなかったらしい。そういう状況の中での女性側からの“愛の告白”である。藤森氏は反応に困っていたが、十分に受け入れそうな雰囲気はある。最初からTVの中で世間に知られていれば、あとから週刊誌などで騒がれることもない。実は占星学的には、二人には共通のアスペクトがあって、その部分から捉えると大変に興味深い。つまり、二人ともに金星と海王星とが120度を形成する時に生れている。この“金星と海王星の120度”というのは、芸術・芸能の世界、特に“舞台で活躍する”人たちに多く見かける惑星配置なのだ。それだけではない。金星と木星、金星と水星の“共通アスペクト”も見受けられる。つまり「愛の星=金星」に共通した部分が多いのだ。金星と木星のアスペクトは“恋多き人生”となりがちであることを暗示し、金星と水星は学校や職場など“身近な環境”の中で愛が育まれやすい傾向を表している。それらの条件を加味すると、この二人の場合、舞台とか、ドラマとか、映画撮影とかの現場で“愛の物語”などで実際に共演を果たせば、間違いなく“熱愛”まで発展していくだろう。最近の藤森氏は、どちらかと言えば俳優やタレント業が主体となっていて、もはや“芸人”というイメージが薄れつつある。一方の福田氏の方はまだまだ三人組での出演が多く、単独活動は乏しい印象がある。ただ、金星と海王星の120度アスペクトはいずれ女優として羽ばたき出す可能性を秘めている。したがって元々“恋多き二人”の場合、今すぐ付き合ってしまうよりも、本当はもう少し経ってから“偶然のドラマ共演”など生じて、それが本当の意味での“ふたりの熱愛”の始まりになれば“結婚”も視野に入っていくだろう。 « Older Entries Newer Entries »